今回は、日本初の本格的な政党内閣と呼ばれている原内閣について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
原内閣ってそもそも何?
原内閣は、1918年9月、原敬を内閣総理大臣として成立した内閣です。
日本初の本格的な政党内閣として発足しました。
しかし、これは見方を変えれば「危険な政策であっても、政党が認めれば反対を受けることなく実施可能である」ということです。
政府の中には「政党内閣は危険だから、議会の意見など無視して、内閣主導で政治を進めるべき!」という思想(超然主義)を持つ者も多くいました。
原内閣が成立する前までの日本の内閣では、政党内閣派VS超然主義派の争いが続き、それを反映する形で国務大臣には、政党員とそうでない人物が入り乱れる形で選ばれていました。
この流れを大きく変えたのが、原敬です。立憲政友会の代表だった原敬は、国務大臣の多くを立憲政友会の党員とすることで、国政をスムーズに行える政党政治を実現したのです。
・・・と、概要をお話ししたところで、原内閣について詳しくみていくことにするよ!
原内閣が誕生した時代背景・理由
まずは、原内閣が誕生するまでの政治の流れを確認しておきます。
話は、原内閣が誕生する5年前、1913年までさかのぼります。
第三次桂太郎内閣
1913年2月、ガチガチの超然主義者だった桂太郎による第三次桂太郎内閣が、議会を無視する政治に憤慨した国民や政党による大規模な抗議活動(第一次憲政擁護運動)によって解散に追い込まれました。(大正政変)
国民は、選挙で選ばれた政党政治家による政治を強く強く望んでいました。そして当時は、立憲政友会が議会(衆議院)の過半数(209議席/381議席)を占める第一勢力でした。つまり、国民は、立憲政友会を中心とした政党政治に強い期待を持っていたわけです。
しかし、政党内内閣が実現することはありませんでした。なぜなら、政府の重鎮中の重鎮、元老の山縣有朋が政党内閣を危険視していたからです。
※元老:天皇を補佐(輔弼)する側近的存在。
当時は、元老の推薦がなければ内閣総理大臣になれない暗黙のルールがあったため、山縣有朋が反対し続ける限り、政党内閣が誕生することはあり得ない情勢だったのです。
山本権兵衛内閣
次に内閣総理大臣になったのが、政党と一定の距離を置き、かつ、国民からの評判も良かった海軍の山本権兵衛という人物でした。
しかし、山本権兵衛内閣は、1914年4月、シーメンス事件と呼ばれる汚職事件をきっかけに総辞職することに。
第二次大隈重信内閣
次に白羽の矢がたったのが、政治から離れていた大隈重信です。
大隈重信は、過去に日本初の政党内閣(隈板内閣)を成立させた実績を持ち、国民からも強い人気を得ていました。つまり、汚職事件の後の激しい世論を沈めるには、大隈重信はうってつけの人物だったわけです。
政治基盤を持っていない大隈重信は、昔に自ら立ち上げた憲政本党の人脈を通じて立憲同志会に協力を求め、第二次大隈内閣を成立させました。
大隈重信は自らの人気を利用し、1915年の選挙では立憲政友会を上回る議席をゲットし、立憲政友会に勝利します。
・・・が、その矢先、内務大臣の選挙賄賂が発覚。再び世論や政府内からの批判が高まり、総辞職に追い込まれました。
寺内正毅内閣
1916年10月、次は陸軍出身の寺内正毅が内閣総理大臣に就任。
寺内正毅内閣は、第三次桂内閣に続くガチガチの超然主義内閣でした・・・が、今回は政党から強い批判を受けることはありませんでした。なぜなら、1913年当時と比べて各政党の勢力が拮抗していたからです。
最大議席を持っていた憲政会こそ寺内内閣を批判しましたが、議席数を減らしていた立憲政友会・立憲国民党は表向きは批判しつつも、裏で寺内内閣と連携し、次の選挙での勝利を目指したのです。
※憲政会:1916年10月に立憲同志会と2つの小政党が合体してできた新政党
1917年の選挙で、立憲政友会は再び第一政党に復帰。立憲政友会の代表だった原敬は、表向きは寺内内閣との連携を続け、勢力を保ったまま超然主義内閣を切り崩すチャンスをうかがいます。
そして、そのチャンスは早くも1918年にやってきます。シベリア出兵を一因とする米騒動が全国各地で勃発したのです。
米騒動は、全国の国民が政府や富裕層への不満を大爆発させた未曾有の大騒動となり、この責任を取る形で寺内内閣は解散に追い込まれてしまいました。
民意を無視する超然主義を採った寺内内閣は、世間から強い批判を受けていましたが、寺内正毅はこれを弾圧によって黙らせようとしていました。
この強権的なやり方に我慢を強いられていた民衆たちの不満が、米騒動を機に大爆発する結果となったのです。
日本初の本格的な政党内閣、原内閣の成立
前代未聞の大騒動となった米騒動は、政府に大きな衝撃を与えます。前年(1917年)には、民衆の大暴動でロシアで革命が起こり、ロシア帝国が滅びたという事実があるからです。
民衆の暴動がこのまま続いたら、ロシアみたいに日本でも革命が起こって、国が滅びてしまうのでは・・・
人気のある人物を内閣総理大臣にしたり(山本・第二次大隈内閣)、弾圧で無理やり不満を抑え込んだり(寺内内閣)という、小手先のやり方では国民の不満を抑えるのはもはや不可能・・・と悟った元老たちは、ついに政党内閣を認める決断を下します。
こうして1918年9月、寺内内閣が自然崩壊すると、当時第一政党だった立憲政友会の代表である原敬が内閣総理大臣に就任。
原内閣は、陸軍・海軍・外務大臣の除くすべての国務大臣を立憲政友会の党員で占める日本初の本格的な政党内閣として発足します。
悲願だった政党内閣の誕生に、多くの国民が喜び、原敬は熱狂的な人気を得ることとなりました。
そして、原敬が平民の身分だったことが、人気にさらに拍車をかけます。
原敬が内閣総理大臣になるまで、日本の歴代の総理大臣はすべて華族と呼ばれる特権身分の出身でした。
平民の身分で内閣総理大臣になった原敬は、民意を政治に反映させることを強く望んでいた国民たちにとって、まさに救世主に見える存在だったのです。
原敬は、国民から平民宰相という呼び名で広く親しまれ、多くの人たちが原敬の政治に大きな期待を寄せました。
※宰相は、内閣総理大臣の別の言い方。
原内閣の政策・出来事
原内閣の誕生によって、政府は、国民の不満を収めるという当初の目的を達成することができました。
しかし、政党内閣というのは、冒頭でお話ししたように政治の手綱を議会に委ねる危険な賭けでもありました。
国民も政府も注目していた原内閣の政治がいったいどのようなものだったのか、教科書に掲載されている主要な政策を3つほど紹介しておきます。
外交戦略の見直し(強硬外交→国際協調路線へ)
原敬は、日本が国際的に孤立するのを防ぐため、他国との協調を無視した強硬的な中国支配政策(二十一箇条の要求や西原借款など)にブレーキをかけました。
特に日本の中国支配を嫌っていたアメリカとの関係改善に努め、外交方針の見直しの結果、日本は1920年1月に国際連盟の常任理事国に選ばれています。
1921年11月に開かれた東アジアの問題を議論するための会議(ワシントン会議)では、日本は強引に支配しようとしていた満州の権益を、交渉の末、アメリカなどに認めさせることに成功しています。
ワシントン会議が始まった時、すでに原敬は、ある事件で命を落としていました。しかし、アメリカ・イギリス・フランスなどと水面下で続けていた交渉や、協調外交路線への変更によって、原敬はワシントン会議による満州権益の保持に至るまでの、確固たる道筋を示しました。
選挙権を少しだけ拡大
原敬が総理大臣になった時、国民が一番期待していたのが普通選挙の導入でした。
当時の選挙権は、10円以上を納税する25歳の男子に限られ、人口比で国民のわずか2.2%に限られていました。民意を政治に反映させるには、選挙権の制限を撤廃した選挙(普通選挙)の実現が必要不可欠だったのです。
1919年になると、原内閣への期待から全国各地で、国政への民意反映を求める運動(大正デモクラシー)が激しくなり、普通選挙を求める声も高まります。
そんな中、原敬は、選挙法の改正案を議会へ提出します・・・が、その内容は国民の期待を大きく裏切るものでした。
10円以上の納税義務を3円以上に緩和する。
おまけに選挙の仕組みを小選挙区制に変更する!
・・・以上!!
は?
それだけだと、選挙権を持つ人が人口比で約2.2%から約5.5%になっただけだぞ。
普通選挙なんて程遠いじゃねーか!!
平民宰相なら俺たちの悲願を達成してくれると思ったのに、それじゃあ政党内閣と言ってもただの政府の犬じゃないか!!!!
私も普通選挙は必要だと思う。だが、今は時期尚早だ。
いきなり普通選挙を実施すれば、過激思想(社会主義など)が政府内に入り込む危険がある。選挙権は、政治の混乱を避けるためにも少しずつ緩和していくべきだ。
この時に原敬が力を注いだのは選挙権の緩和ではなく、実は次に紹介する小選挙区制の実施の方でした。
小選挙区制の導入
なぜ原敬が小選挙区制の導入に力を注いだのかというと、小選挙区制が立憲政友会が議席を獲得する上で、有利な制度だったからです。
当時の選挙は、大選挙区制という制度が採用されていました。1つの大きな選挙区から複数人の議員を選ぶ仕組みです。
下図のようなA〜D地域をまとめた大きな1つの選挙区を想定します。赤・青・緑・黄は、各政党が持つ各地域の勢力図を示しています。(円の大きさは勢力の強さを示す)
ここから4人の議員を選ぼうとすると、その中から投票数の多い4人を選ぶことになります。すると、円の大きい順に赤・青・緑・黄の政党1人ずつが当選することになります。
※この図は、細かい仕組みをすっ飛ばして簡略化したもの。実際の選挙はもっと複雑な要因が絡み合います。
一方の小選挙区制は、選挙区を小さくして、それぞれの選挙区から一番投票数の多い1人を選ぶ仕組みです。上の勢力図に小選挙区制を当てはめると次のようになります↓
選挙区を4つの地域に分けた結果、4人全てが赤の政党となります。
赤色の勢力が青・緑・黄と大きく違うのは、どの地域でも安定した勢力基盤(円の大きさ)を持っているという点です。
つまり、各地に安定した勢力基盤を持つ政党の場合、大選挙区制よりも小選挙区制の方が有利なのです。
そして、この赤色の政党に相当するのが、原敬率いる立憲政友会でした。
当時の立憲政友会の地方出身議員は、民意反映!というような政治思想よりも、自らが当選した見返りとして地方にもたらされる利益(鉄道敷設や治水事業など)を主張する傾向にあったため、地域に根付いた強固な勢力基盤を築き上げていたのです。
※地元の人から見れば、思想うんぬん言う人よりも、シンプルに地元にお金を持ってきてくれる人の方が嬉しいわけです。(現代の選挙でも、「〇〇議員が当選したら、地元に駅ができた」みたいな話がありますよね)
1919年時点での立憲政友会の議席数は、165議席/381議席。法案可決に必要な過半数をわずかに満たしていない。
小選挙区制を導入することで、選挙を有利に戦い、次こそは立憲政友会のみで議席の過半数を手に入れるのだ・・・!
1920年の選挙では、原敬の思惑通り、立憲政友会は278議席/464議席を獲得し、法律可決に必要な議席の過半数を手に入れました。
※1920年の選挙から、議席数が381議席→464議席に増えました。
こうして原内閣は、自力で法案を可決できる磐石な政治体制を築くことに成功します。
この選挙の勝利によって、やっと政党内閣として本格的に国政を行うことができる。混乱した国政をなんとしても安定に導くのだ・・・!
原敬暗殺事件
しかし、原内閣の勢いは続きません。
1920年には大戦景気のバブルが崩壊し、戦後恐慌が日本を襲いました。
原敬は、財閥を中心とした資本家たちへの救済策をすぐさま講じ、戦後恐慌は1921年には収まりましたが、その代償として国民からの信頼を大きく失うことになります。
大戦景気では、急激なインフレーションが起きて物価が上がり、多くの国民が苦しんでいたのに、何もしてくれなかった。喜んでいたのは、インフレで価値が上がる多くの資本を持っている金持ちばかりだ。
それなのに、戦後恐慌でいざ金持ちが困ると、政府はすぐにこれに手を差し伸べた。
平民宰相とは名ばかりで、原敬は国民のことなど何も考えていないんだ・・・
さらに1921年1月、立憲政友会で汚職事件が発覚すると、いよいよ国民の不満が爆発し始めます。期待が大きかった分、国民の憤激には凄まじいものがありました。
そんな中、事件は起こります。1921年11月4日、東京駅にいた原敬が、中岡艮一という人物に右胸を刺され、命を落としたのです。享年65歳でした。
中岡艮の一刺しは、国民の期待を裏切り財界や政府と関係を深めていた原敬への憤怒の一撃だったのです・・・。
原敬は、国民から批判を受ける一方、政府の重鎮たちからは高い評価を受けていました。
政党内閣を結成したにも関わらず、政府を攻撃したり過激な政策を行うことはせず、政府と国民の意を上手く汲んで、大正政変以来不安定だった国政をうまく軌道に乗せることに成功していたからです。
その評判は、政党内閣嫌いで有名だった山縣有朋でさえ、原敬のことを高く評価するほどでした。
原敬亡き後
原敬という指導者を失った立憲政友会は、時代に内部分裂するようになり、築き上げた勢力は次第に縮小していきます。
原敬の後継者には大蔵大臣だった高橋是清が就任しましたが、内部分裂を食い止めることができず、1922年6月、約半年で総辞職してしまいます。
その後も立憲政友会の混乱は続き、1924年1月には一部議員が政友本党に分裂。原敬の死によって、政治が大きく動く中、1925年になると、原敬が実現できなかった普通選挙がようやく実現することになります。
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