今回は、1917年〜1918年にかけて行われた西原借款について、わかりやすく丁寧に解説するよ。
西原借款とは
西原借款とは、日本が中華民国にお金を貸し付けた出来事のことを言います。
「借款」とは国同士のお金の貸し借りのこと。
「西原」と言うのは、借款について中華民国と直接交渉に当たった西原亀三と言う人物の名前に由来します。
「西原亀三によって行われた中華民国との借款」、これを略して西原借款と言います。
なるほど。西原借款の意味はわかったけど、中華民国にお金を貸したことって教科書に載るほど重要な出来事だったの・・・?
こんな疑問があるかもしれません。
西原借款は簡単に言ってしまうと、
1915年に行われた二十一か条の要求に続く、「中華民国を支配しようぜ作戦」の第2段!
という位置付けで、当時の日中関係を知る上で西原借款はとても大事なイベントなのです。
中華民国の歴史
西原借款について話を進めるには、当時の中華民国の社会情勢を知っておく必要があります。
と言うわけで、少し横道にそれますが、中華民国の歴史についておさらいしておきます。
- 1911年辛亥革命
清王朝に不満を持つ人々が反乱(革命)を起こし、中華民国を建国。革命の中心人物だった孫文が臨時的に中華民国のトップ(臨時大総統)に立つ。
- 1912年清王朝滅びる
清王朝で革命軍の鎮圧を担当していた袁世凱が、革命軍に寝返る。清王朝は、軍事力を失い、滅亡へ。
孫文は、袁世凱の支援の見返りとして、袁世凱に臨時大総統の座を譲る。
- 1913年袁世凱、革命軍を倒す
一時的に妥協していた袁世凱と革命軍が再び対立し、革命軍が敗北。
袁世凱は、「臨時」ではない政党な中華民国の大総統になる。
- 1915年袁世凱、帝政(王政)を敷く
日本が二十一か条の要求を行ったのもこの年。
- 1916年袁世凱、大批判を受けて帝政を廃止。その後間もなく、袁世凱が亡くなる。
袁世凱が亡くなりリーダーを失った軍部は、派閥(軍閥)争いを始め、安徽派と直隷派に分裂。
そして、中華民国の政権は、安徽派の代表だった段祺瑞が引き継ぐことに。
- 1917年西原借款←この記事はここ
段祺瑞は、国家の財政難や直隷派に対抗するため、資金調達に頭を抱える。
日本は、そんな段祺瑞政権に大規模な資金援助(西原借款)を行うことで、軍事力と金のダブルパワーで中華民国をを裏から操り、支配を強めようと考えた。
西原借款が行われた背景(日本の場合)
日本が中華民国の支配を強めようとした背景には、1916年に寺内正毅を内閣総理大臣とする寺内内閣が成立したことが深く関与しています。
寺内正毅は、韓国併合(1910年)で日本の植民地になっていた朝鮮を統治する責任者だった経験もあり、アジア大陸への進出に強い興味を持っていたのです。
そこで寺内は、段祺瑞政権に資金援助することで、中華民国の国政に強い影響力を持とうと考えました。
1915年に、日本は中華民国に対して、武力を背景に二十一か条の要求を行った。
しかし、武力のみの支配ではまだまだ足りない。次は金(経済)の力で中華民国を日本の影響下に置いてしまおう!!
1916年、寺内正毅は側近の西原亀三を中華民国に送り込み、段祺瑞政権との間でさっそく秘密裏の交渉が始まりました。
西原借款が行われた背景(中華民国の場合)
一方の段祺瑞政権も、資金不足を解消するため日本に接近するようになり、1917年1月には、さっそく最初の借款が行われます。
「日本政府が中華民国にお金を貸し付けた!」となると、列強国から批判を受けかねないので、西原借款は「あくまで西原亀三が個人的に行ったもの」という形で進められました。
個人の行動なら、列強国から何を言われようと「いやいや、日本政府は関係ないから!西原個人に言ってくれ!」と、たとえ屁理屈であったとしても誤魔化すことができますからね。
こんな事情があるので、貸し付けたお金は、国が直接用意したお金ではなく、西原亀三が銀行などから集めたお金が使われました。(もちろん、背後では政府のお金が動いていたり、政府の支援がありました)
1917年という年は、実は中華民国にとって激動の一年となりました。
段祺瑞政権は、ドイツ・直隷派・革命軍と多方面に敵を持ち、軍事力の増強が喫緊の課題となりました。(ただし、第一次世界大戦への参戦は控えめでした)
こうなると、段祺瑞としても軍資金として更なる資金を欲するようになります。1917年末〜1918年になると、西原借款は膨大な額となり、中華民国は日本の言うことに簡単に逆らえなくなっていきます。
西原借款は、列強国から批判を受けないよう、表向きは「中華民国のインフラ整備のため」という形で中華民国に貸し付けられました。
しかし、上述したように段祺瑞政権が望んでいたのは軍事力増強です。西原借款のほとんどが、実際には軍事費に充てられました。
さて、ここまでは日本の計画どおりです。
次は日本のミッションは、西原借款で借金漬けとした中華民国を裏から操ることです。・・・が、先にネタバレしてしまうと、この次のミッションは1920年には失敗してしまうことになります。
【悲報】日本、中華民国に借金を踏み倒される
日本の「段祺瑞政権を借金漬けにして裏で操る作戦」成功のカギは、段祺瑞政権が直隷派・革命軍に勝利して政権を継続できるかどうか・・・にかかっています。
つまり、段祺瑞政権が対立する直隷派や革命軍に倒されてしまうと、日本の作戦は成就しないわけです。
ところが、1920年になると安徽派は直隷派などに敗北を喫してしまいます。この敗北で段祺瑞は失脚することとなり、日本にとって最悪の事態が起こってしまいました。
政権交代が行われた中華民国は、「段祺瑞のやったことなど知らん!」と言わんばかりに西原借款を踏み倒してしまいました。つまり、日本は貸したお金を回収することができなくなってしまったわけです。(いわゆる不良債権ってやつですね)
結局、日本は巨額の資金を浪費したわりに、それに見合う利益を得ることができず、西原借款は失敗に終わってしまったのです。
西原借款そのものは、1918年に寺内内閣が解散したことでそれ以降行われなくなりました。しかし、巨額のお金を無駄にしてしまったことについては、西原借款が終わった後も、国内で根強い批判が残り続けることになります。
おまけに、21か条の要求をした頃から高まっていた中華民国の反日感情が、西原借款によってますます激しくなり、日中関係はますます冷え込んでしまうのでした。(この不満は、1919年に起こる五四運動で爆発することになります)
西原借款は、(西原借款が軍事費に充てられたため)中華民国の内乱を増長し、さらには中華民国の民主化を目指す革命を妨げるものとされ、中華民国の人々からすこぶる評判が悪かったのです。
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