今回は、1927年〜1928年にかけて起こった山東出兵という出来事について、わかりやすく丁寧に解説していくよ
山東出兵とは
山東出兵とは、中国で北伐と呼ばれる内乱が起こっている最中に、中国在住の日本人を内乱から守るため、山東半島に軍隊を派遣した出来事を言います。
山東出兵の表向きの理由は、中国在中の日本人保護でしたが、本当の目的は日本が権益を持っている満州を守るためでした。
満州には日本に協力的な張作霖という人物がいたので、この張作霖が北伐で敗れてしまわないよう、軍を送り込んで支援する目的が裏にあったのです。
山東出兵は、3回に渡って行われました。
この記事では第一次・第二次・第三次に分けて山東出兵について紹介したいと思います。
山東出兵が行われた時代背景
話は、1911年の辛亥革命までさかのぼります。
1911年、孫文が辛亥革命を起こします。この革命によって清王朝は滅び、孫文は三民主義を掲げ、新たに中華民国を建国します。
しかし、中華民国の建国後すぐに、孫文が国内の政治争いに敗北。中国の実権は、清国でもともと軍隊を指揮していた袁世凱が握ることになります。
※ここから先は、中華民国のことを中国と表記します!
袁世凱は、政府を北京に置き、その軍事力を背景に独裁政治を敷きましたが、1916年に逝去。袁世凱が亡くなると、その後継者をめぐって北京政府内は多くの軍閥に分かれ、内紛が始まってしまいます。
各派閥がもともと軍隊だったこともあり、内紛は激しさを増し、この影響は日本にも波及します。
日本は、二十一箇条の要求によって、満州や山東半島に多くの利権(鉄道やいろんな経済的特権など)を持つことを中国の新政府に認めさせた。
しかし、新政府が内紛で揉めて、政権交代でも起これば、『旧政権のやったことなど知らん!』と言わんばかりに日本との約束が白紙にされてしまうかもしれない・・・。
そうならないために、北京政府で強い力を持っている軍閥を支援して、その見返りとして満州・山東半島での日本の権益を維持するよう要求しよう!
こうして日本は1917年に、安徽派と呼ばれる軍閥に資金援助をすることを決定。(西原借款)
1920年に安徽派が派閥争いに敗れると、日本は方針転換し、次第に満州に勢力を持つ奉天派と呼ばれる軍閥を支援するようになります。
※日本政府(特に陸軍)は、奉天派を裏で操って、間接的に満州を支配しようと考えていました。
しかし、その奉天派も存亡の危機に立たされることになります。1926年、中国南部の広東省で活動していた中国国民党が、北京政府を倒すため軍事行動を始めたのです。(北伐)
当時、北京政府は奉天派が牛耳っており、奉天派は北上してくる中国国民党の軍隊(国民革命軍と言います。)と戦いを繰り返すようになります。
日本が山東出兵を行なったのは、ちょうど北京政府と国民革命軍が争っている時期になります。
山東出兵が行われた理由
北伐が起こった当初、そもそも日本は積極的に出兵するつもりはありませんでした。
武力による露骨な内政干渉は、中国の反日感情を高めてしまったり、1922年に結んだ九カ国条約違反となり、諸外国からの信頼を失って国際的に日本が孤立してしまうリスクがありました。
内心に出兵したいという考えがありつつも、リスクがあまりにも大きすぎるので、出兵するという話にならなかったのです。
ところが1927年3月、中国の南京で大事件が起こります。国民革命軍の兵士が、南京に住む外国人たちを襲撃し始めたのです。この襲撃で多くの外国人が命を落とし、女性たちは辱めを受けました。
この事件(南京事件)に、アメリカ・イギリスがブチギレます。
直接の内政干渉はしたくないが、アメリカ国民が殺されたとなれば、私も容赦はしない。
中国に住むアメリカ国民を守るため、軍隊を中国に送り込んでやる。
アメリカに激しく同意。
中国は少し調子に乗りすぎているようだ。
ってか、南京で日本人も殺されてるんだよね?
日本も一緒に軍隊を送り込んで、中国を脅すの手伝ってよ!!
という流れになり、日本は出兵する絶好の口実を得ることになります。アメリカ・イギリスと一緒なら、国際的に孤立してしまうこともないし、日本に対する反日感情も分散されることになります。
1927年5月末、日本政府は、アメリカなどと同様、『自国民の保護』を理由に中国への出兵を決定。
出兵先には、日本人が多く住み、かつ、日本が権益を多く持っている山東半島が選ばれました。
幣原外交と田中義一内閣
南京で事件が起こった1927年3月当時、実は日本政府は山東出兵に反対の立場を採っていました。
協調外交を重要視していた幣原喜重郎外務大臣が反対していたからです。
中国の内政に露骨な干渉すべきではない。
例えイギリスやアメリカが誘ってきたとしても、出兵などはもってのほかだ!
幣原喜重郎は、1910年代に行われた二十一箇条の要求やシベリア出兵のような露骨な強行外交をやめて、1920年代からは他国との協調を基軸とする外交へと方針転換をした人物です。
※この協調外交は日本史上では、幣原外交と呼ばれています。
しかし、幣原喜重郎は、「日本は軟弱すぎだろ!!」と国内外から強い批判を受けました。
国内に目を転じれば、ちょうど1927年3月というのは国内で金融恐慌が起こって、銀行が大パニックになっている時期でした。当時内閣総理大臣だった憲政会の若槻禮次郎は、金融恐慌への対応策を講じようとしますが、幣原外務大臣の方針に反対する枢密院がこれを妨害。
対応策を講ずることのできなかった若槻内閣は、万策尽きて1927年4月20日に解散してしまいます。
解散に伴い、幣原外務大臣も解任となり、内閣総理大臣には立憲政友会の田中義一が任命されました。(憲政会→立憲政友会へ政権交代が起きたということ!)
田中義一は、これまでの幣原外交を軟弱だと批判し、一転して山東出兵に積極的な姿勢を示します。
日本国内の動きをまとめると・・・
金融恐慌への対応策は、山東出兵をめぐる政治争いに利用されることになり、その結果、山東出兵に否定的だった若槻内閣が解散。政権交代の末に、山東出兵に賛成である田中内閣が発足した・・・という流れです。
山東出兵をめぐっては、国内でも複雑な政治駆け引きがあったんだね・・・
第一次山東出兵
5月末に山東出兵が決まると、満州にいた陸軍兵たちが山東半島に送り込まれ、6月には現地待機を命じられました。
その後、政府内で山東出兵の方針が検討され、大きく次の2点の事項が決まりました。
日本の権益が奪われる場合は出兵も辞さない
満州を中国から分離させて日本の支配下に置く
もちろん、日本が想定していた敵は、北伐を続ける国民革命軍です。すでにお話ししたように、日本は、権益を守るためにも、北京政府が北伐によって崩壊することを良く思っていませんでした。
さらに田中義一は、権益を守ることのみならず、満州を中国から独立させることまで考えていました。
満州を独立させる方法には、ざっくりと2つの案がありました。
案1:満州に勢力を持つ奉天派の張作霖を裏で操って、日本の支配下に入るよう仕向ける
案2:張作霖を消して、日本の言いなりになる人物を擁立して独立国家にする
田中義一が採用したのは案1です。
しかし、後述するように、案2を支持する関東軍(満州周辺に配置された陸軍)が、政府の意向を無視した独断行動をするようになり、山東出兵完了後、張作霖は消されることになります・・・。
こうして方針が決まりましたが、山東半島に送り込まれた日本兵が活躍することはありませんでした。
なぜかというと、北京政府が有利に戦いを進めたため、出兵に必要な大義名分「自国民を守る!」という展開にならなかったからです。
それどころか、中国国民党は揉めに揉めて中国共産党との協力関係(第一次国共合作)を解消。(国共分裂)
その後は、共産党との関係をめぐる内紛が起こってしまい、戦争どころではなくなってしまいました。
統率を失った中国国民党は、8月に北伐の中止を宣言すると、日本政府も山東半島に送り込んだ兵士の撤退を決定しました。
こうして、第一次山東出兵は、よく言えば平和的、悪く言えば不発に終わってしまいます。
第二次・第三次山東出兵
グダグダになった中国国民党は、党のトップである蒋介石が「共産党はぶっ潰す!」という明確な方針を打ち立てることで、再び統率を取り戻し、1928年4月には北伐が再開されます。
そして、これに合わせて、日本も第二次の山東出兵を行いました。
日本軍は、山東省の省都である済南に約6、000の兵を送りこみ、北伐の様子をうかがいます。
再起した北伐軍は強く、拠点としていた南京から北京めがけて、破竹の勢いで北上を続けます。
そして1928年5月1日、南京と北京の中間に位置する済南が北伐軍によって陥落してしまいました。済南が陥落すると、ついに日本軍が動きます。
南京・北京・済南の位置関係は下の地図で確認してみてください↓↓
5月2日、北伐軍は、日本軍に済南から撤退するよう指示しますが、日本軍はこれを無視。
翌日の3日には、日本軍と北伐軍の間でトラブルが起こり、日本兵が中国兵を射殺する事件が起こります。(済南事件)
日本は、この事件を「北伐軍が済南に住む日本人に暴行し、これを防ぐために日本兵が発砲したもの」として、済南にいる北伐軍に対抗するため、増援派遣(第三次山東出兵)を決定します。
※これはあくまで、日本の言い分です。中国側は「日本軍から仕掛けてきた!」と言っており、事件の真相ははっきりとわかっていません。
5月10日〜11日にかけて、日本軍は済南への攻撃を始め、済南を占領下に置いてしまいます。
わずか2日で省都を占領できたのは、北伐軍が日本との戦いを嫌ったからです。そもそも、北伐軍が倒すべきは北京政府です。無理して日本と戦う必要は全くないわけです。
北伐軍は、済南を無視してさらに北上を進め、敵の本丸である北京政府を目指します。
その後は北伐軍の攻勢が続き、6月には北京を占領。北京政府は、北伐軍によって倒されることとなりました。
そして、北京政府が崩壊すると、日本政府は満州支配の方針を大きく変更する必要性に迫られることになります。
張作霖爆殺事件
5月下旬、北京政府の敗北が濃厚になると、日本政府は、北京政府のボスになっていた張作霖に対して、抵抗を諦めて満州へ撤退するよう説得します。
最後まで抵抗した末に満州へ敗走してしまうと、張作霖を追撃する北伐軍が満州にまでやってきてしまうからです。日本は、抵抗の意思を見せないまま早期に張作霖に撤退してもらうことで、満州が内紛に巻き込まれることを避けようと考えたのです。
そして、張作霖を説得した上で、田中義一は北京を制圧した中国国民党のトップ蒋介石と交渉を進め、「蒋介石は満州に侵攻しない」という話をまとめ上げました。
蒋介石との交渉がうまくいったことで、結果的に、日本は満州での権益を維持することに成功したわけです。
このまま「山東出兵の結果は微妙だったけど、終わってみれば一件落着・・・」というオチになるはずでしたが、ここで大事件が起こります。
撤退中だった張作霖が、関東軍の独断によって爆殺されてしまったのです。(張作霖爆殺事件)
先ほど、満州を支配する2つの案を紹介しましたが、関東軍は「張作霖を消して、もっと日本の言いなりになる人物に満州を支配させるべき!」と考えていました。
張作霖爆殺事件によって、田中義一の努力は全てパー。満州内部でも反日感情が高まるようになり、日本の満州支配は次第に難しくなってしまいます。
山東出兵が日本に与えた影響
終わってみれば山東出兵は、日本にとっては特に外交面で、最悪の結果に終わりました。
中国での反日感情の高まり
三回にわたる山東出兵は、中国人からすれば、中国を支配しようとする日本の露骨な内政干渉です。
この日本の態度に、多くの中国人が反日感情を抱くようになりました。この反日感情は、済南事件での中国人射殺によってさらに高まることになります。
おまけに、張作霖を爆殺したことで、満州でも反日感情がより一層高まる結果となり、この反日感情は後に日本の満州支配の大きな障壁となっていきます。
列強からの信用を失う
日本は、1922年に「中国の領土を奪うのはやめような。」という九カ国条約を結んでいました。
その日本が、済南事件で北伐軍と戦ったり、張作霖を爆殺してしまったことで、列強国は日本に強い不信感を持つことになりました。
山東出兵の後、日本では陸軍の発言力が増すようになり、行動がさらにエスカレート。1931年には満州の独立を目指した満州事変が起こります。
さらに1933年、満州のあり方をめぐって国際連盟と対立した日本は、国際連盟を脱退。その後は国際社会から孤立するようになり、日本は戦争による植民地拡大に活路を見出すことになります。(これは太平洋戦争の敗北によって失敗に終わります)
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