今回は、1925年5月30日に上海で起きたデモ活動『五・三〇運動』について、わかりやすく丁寧に解説していくよ。
五・三〇運動とは?
五・三〇運動とは、1925年5月30日に上海で起こった大規模なデモ活動のことを言います。
1925年2月、日本人が経営する紡績工場の労働者たちがデモを起こしました。このデモを発端として、デモ活動が各地に拡大。
5月30日には、上海で多数の死傷者を出す大規模なデモが起こりました。(五・三〇運動)
五・三〇運動の背後には、
労働者を奴隷のように扱う列強国
労働者を味方に革命を起こそうとする中国共産党
の存在があり、その実情は実は少々複雑です。
この記事では、複雑な当時の事情をできる限りわかりやすく説明していくよ。
五・三〇運動が起こった当時の時代背景
当時の中国(中華民国)の政治情勢は、一言で言ってカオスでした。
まとめると『軍閥と中国国民党が争っている中国に、列強国やソ連が入り込んでやりたい放題やっている(しかも軍閥そのものも内紛で揉めている)』という感じです。
1924年、上の4勢力のうち、2の中国国民党と4の中国共産党が協力関係を結びます。この協力関係のことを第一次国共合作と言います。
両者は、根本的な思想こそ違うものの、『民衆たちに呼びかけて力を結集し、腐敗した中国を変えたい!』という点では一致していたのです。
孫文は国共合作における新政策として、連ソ・容共・扶助工農を掲げます。
第一次国共合作によって孫文の支援を得た中国共産党は、勢いを増し、各地で共産主義を広める運動を展開するようになります。
そして、その中国共産党が活動拠点として重要視していた場所こそが、五・三〇運動の舞台となる上海でした。
上海は中国最大の都市であり、資本家と労働者の貧富の差が特に顕著な地域です。共産党は、貧富の差が激しい地域で、不満を持つ労働者を奮起させることによって、共産主義革命を実行しようと考えていたのです。
このような状況の中、五・三〇運動の発端ともなる事件が、1925年2月、日本人が経営する工場で起こりました。
在華紡と五・三〇運動
事件が起こったのは、内外綿株式会社という会社の紡績工場。
※紡績:絹や麻などから織物に必要な糸を作ること
内外綿株式会社は、有名な在華紡の1つでした。
在華紡の進出によって上海には在華紡の工場が立ち並ぶようになり、この在華紡の持っていた工場が、五・三〇運動の舞台となります。
五、三〇運動が起こるまでの経過
1925年1月初旬、内外綿株式会社の工員十数名が不正を働いたとして解雇されました。そして、これに同情した他の工員がこれに強い不満を持ち、日本人職員への暴行事件が起こります。
すると工場長は、不正を働いた工員だけでなく、全ての男性工員の解雇をすることを決定。この決定にブチギレた工員たちが、ストライキを起こしました。
ストライキは、他の工場にも次々と波及し、2月11日には全工場の労働者1万5千人がストライキに加わり、工場の操業が停止。
さらに2月13日には別の在華紡である日華紡織、2月15日には豊田紡織にもストライキが広がり、工場の操業が次々とストップしていきました。ストライキが起こります。
2月下旬、在華紡と工員たちとの労使交渉の末に工員側の怒りが収まり、ストライキは静まりました。
このストライキをきっかけに、各紡績工場に労働組合が発足し、その労働組合は中国共産党の支援を受けることになりました。
中国共産党は、ロシア革命に続く第二の共産主義革命を起こすべく、着実に力を付け始めていたのです。
五・三〇運動が起こった理由
5月1日、中国では数多く存在する労働組合を束ねる全国組織「中華全国総工会」が結成されます。(もちろん、背後には中国共産党の支援があります。)
これを機に、労働組合と資本家との対立がますます激化。そして、争いの舞台となったのは、またもや内外綿株式会社でした。
労働組合が賃金引き上げなどを求めると、5月8日にストライキを起こし、またもや工場の操業が停止。
5月14日には行動がさらに過激化。他の工場の労働者たちも集まり工場の機械をぶち壊すラダイト運動(機械打ちこわし運動)が起こりました。こうなってしまうと、もはやストライキというよりも暴動に近いかもしれません。
日本人社員が暴動の鎮圧するため発砲すると、工員7名が負傷。翌日に1名が死亡しました。
この死亡事件によって世間の反日感情が高まると、労働運動はさらに激しくなり、5月29日には上海だけではなく青島にまで労働運動が拡大します。(青島でも労働者側で多数の者が死傷しました)
そして、1925年5月30日、上海で労働者を結集した大規模なデモが決行されました。五・三〇運動です。
五・三〇運動の様子
デモ当日(5月30日)の朝、抗議活動の中心になっていた学生たちが租界の警察に連行されてしまいます。
この学生の釈放を訴え、午後になると数千人〜1万人のデモが発生。租界を持っていた日本やイギリスは、このデモを力で鎮圧し、デモ参加者の多くが死傷し、逮捕された者もいました。
租界を巻き込んだこの事件は、労働者たちに『列強国憎し!』という感情を爆発させる導火線となり、6月1日には、中国共産党の主導の下で労働者は一致団結し、上海全体でのゼネラルストライキ(ゼネスト)を試みました。
中国(中華民国)は私たちの国だ!
列強国が我が物顔で、中国人労働者を苦しめるなんて絶対におかしい!
私たちの要求を受け入れるまで、列強国の人々が経営する企業たちを絶対に許さない!!
ゼネストの参加者は
- 日本人工場39ヵ所 6万3000人
- 英国人工場26ヵ所 3 万6000人
- 工部局 8ヶ所 3600人
- その他外国系工場 35ヶ所 2万7000人
- 中国人工場11カ所 2万6000人
にまで膨れ上がり、前代未聞も超特大ゼネストが上海にて行われました。約15万人規模の市の市民全員が仕事をボイコットしたと考えると、その規模の大きさがわかります・・・。
※数字は6月13日時点のもので、次の論文を引用しています。
出典和光大学リポジトリ「5.30事件と上海在留日本資本の対応:上海日本商業会議所を中心に」
反日感情の高まりから、工場に関係ない日本人への略奪や子供への乱暴も頻発に起こるようになりました。
この特大規模のゼネストは、北京や香港といった別の大都市にも広まり、中国全土を巻き込んだ歴史に残るゼネストとなりました。(だから五・三〇運動は教科書にも載っているのです)
五・三〇運動の終わり
ストライキは、確かに労働者の声を雇用主(資本家)に届けるには非常に効果的です。工場がストップして一番困るのは、利益を失う雇用主ですからね。
しかし、ストライキというのは諸刃の剣でもあります。なぜかというと、ストライキをしている間、労働者は賃金を得ることができないからです。
ゼネスト参加者の中に、生活に困窮するものが増えていくると、早くも6月半ばには、両者は解決の道を探り始めます。
6月から両者の交渉が始まり、8月には資本家サイド(列強国サイド)が以下の要求を受け入れることで、五・三〇運動は終結しました。
・死傷者への慰謝料の支払い
・発砲職員の自発的処分
賃金アップの要求が拒否されるなど、労働者側の意見が全て通ったわけではありません。
それでも中国の国民たちは1919年の五・四運動に引き続き、自分たちの声を社会に反映することに成功したのです。
五.三〇運動の後
民衆の力で列強に打撃を与えた五・三〇運動は、民衆の力で軍閥を倒そうとしていた中国国民党に大きな自信を与えることになります。
中国国民党は1925年7月、広州に国民政府を樹立し、中国共産党とともに軍閥を倒すための本格的な行動を開始します。
一方の中国共産党は、五・三〇運動を通じて世間に非常に強い影響力を持つようになりました。
中国共産党が強くなりすぎると、協力関係にあった中国国民党の中には、『これ以上中国共産党と組んでいたら、逆にこっちが飲み込まれてしまうのでは?』と中国共産党を警戒する声も高まり、第一次国共合作は次第に不安定になっていきます。
そして1926年、中国共産党を警戒していた蒋介石が中国国民党のトップに立つと、1927年に第一次国共合作は崩壊してしまいます。
五・三〇運動を通じて民衆の力を確信した中国国民党と中国共産党は、それぞれ別の道を歩むこととなり、1949年に中国共産党が中華人民共和国(今の中国)を建国するまで、中国は激動の時代を迎えることになります。
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