今回は、1938年に制定された国家総動員法について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
国家総動員法とは
国家総動員法とは、日中戦争(1937年)の勝利に向けて国力を総動員するため、1938年に制定された法律です。
国家総動員法がどんな法律だったかというと、必要があれば議会の承認を得ずに、戦争のための物資徴収・労働力動員を強制的に実施できる法律でした。
強制的に物資・労働力を集めることを可能にする国家総動員法は、言い換えれば「民間企業や国民の自由よりも国家を優先する法律」ということもできて、当時流行っていた国家社会主義の思想を具現化した法律と言うことができます。
国家総動員法が制定された時代背景
国家の力を総動員しようとする法律案は、実は1920年代の頃から存在していました。
第一次世界大戦がヨーロッパ諸国の総力戦だったことを受けて、『次に戦争が起これば日本も総力戦を覚悟しなければならないだろう』という強い危機感が日本政府にあったんだ。
1927年、政府は国家総動員の準備を進めるため、資源局という部署を創設します。
資源局では、国力の総動員を想定した調査や研究、必要な法令の準備・立案に向けた準備が行われ、その集大成として完成したのが国家総動員法でした。
国家総動員法が制定されるまで
国家総動員法が制定されるきっかけになったのは、1937年に起きた日中戦争でした。
1937年8月に第二次上海事変が起こって戦線が少しずつ拡大していくと、政府は戦争遂行のため、さまざまな政策を打ち出していきます。
・資源局の権限を拡大させた企画院の創設
・巨額の軍事予算の確保
・国民精神総動員運動の開始
などなど。
あれ?国家総動員法の話が入っていないわよ?
実は、当初は国家総動員法を制定する話はなかったんだ。
なぜかというと、日本政府は「中国に一撃ダメージを与えてやれば、満州事変の時(1931年)みたいに中国はすぐに降参して日本に有利な条件で停戦交渉ができるだろう」と考えていたから、国を挙げての総力戦は想定していなかったんだ。
ところが、政府の予想に反して、日中戦争は総力を挙げた持久戦へと突入してしまいます。
1937年9月、中国では国民政府と共産党が日本に対抗するため共闘することを宣言し(第二次国共合作)、10月には中国は首都を南京から守備力の高い重慶へ移すことを決めて、日本と徹底抗戦する姿勢を示しました。
一方の日本も攻勢を崩しません。1937年11月には上海を攻略し、12月には南京への侵攻を開始します。
裏では和平工作(トラウトマン和平工作)が行われるも、12月には失敗に終わり、平和的な解決の道も閉ざされてしまいました。
和平交渉に失敗すると1938年1月、日本政府も方針を転換。
「国民政府を対手とせず」と声明を発表し、中国が降伏するまで徹底的に戦うことを宣言します。(第一次近衛声明)
「対手せず」ってどーゆー意味なのかしら?
政府は、「対手せず」を「否定し、これを抹殺する」という意味だと説明していました。
そして、第一次近衛声明とほぼ同じ同時に国家総動員法を制定することが決まり、4月に国家総動員法が完成しました。(公布されました。)
中国との全面戦争に勝つためには、国力を総動員するためのルール作りが必要であり、そのルールを決めるためにも国家総動員法が必要になったのです。
ここまでの話をまとめると、国家総動員法の案は昔から存在していて、資源局という部署(1937年10月からは企画院)が準備を進めていたんだけど、日中戦争が全面戦争になったことがトリガーとなり、いよいよ国家総動員法が制定されることになったんだ。
国家総動員法の内容
国家総動員法の内容は、実際に法律を読んでみるのが手っ取り早いので、法律の原文を少しだけ紹介していきたいと思います!
まず第1条に「国家総動員」とは何か?が説明されています。
※法律の原文は、国家総動員法(昭和13年法律第55号)(全文口語訳)を参考にしています。(以下同じ)
国家総動員法はここまで説明してきたとおり、国内の物・人を国家の統制下に置いて、戦争のために国力を総動員するのが目的の法律です。
第2条以降は、統制の対象が掲載されています。一部抜粋して実際の法律内容を見てみましょう。
戦争のために必要な労働力を強制動員するためのルールだよ。
戦争のために必要な物資の統制をするためのルールだよ。
国民の士気を低下させないために言論統制を行うためのルールだよ
ここで押さえておきたい重要なポイントは、黄色のマーカーを引いた「勅令によって」の部分です。
勅令とは「天皇による直接の命令」という意味です。つまり、国家総動員法に書かれた内容は実行するには、天皇からの命令があればOKであって、帝国議会での民主的なプロセスを踏む必要がないってことになります。
大日本帝国憲法では、法律を制定する際に帝国議会の意見を聞くことが定められています。
そのため、物資の徴収・労働力の動員を強制するルールを法律に詳しく定めてしまうと、議会の意見を聞くのに時間がかかるし、議会で法案が反対されてしまうことだってあります。
・・・そこで!ルールを直接法律に書くのではなく、法律では「勅令で命令してOK!」ってことだけ書いておいて、後で議会の制約を受けずに自由にルールを定めれるようにしたわけです。
国家総動員法で定めているのは、あくまで勅令によって命令できる項目だけです。だから、国家総動員法自体に細かいルールは書かれていないんだ。
憲法のルールをぶち壊しかねない裏技的な法律内容には、議会でも賛否両論あったけど、最終的に議会も賛成してしまったんだ(※)。
※国家総動員法そのものは法律なので、制定には議会の賛成が必要です。
国家総動員法は、1938年1月に法案の議論が始まり、4月には法案が完成。5月から法律が適用となりました。
国民徴用令、価格統制令、七・七禁令
国家総動員法が制定された後、実際にいくつかの勅令が出されました。
そのうち教科書に載っている有名な勅令は次の3つです。
・国民徴用令
・価格等統制令
・七・七禁令
それぞれ簡単に紹介しておくね!
国民徴用令
国民徴用令は、戦時下に必要な労働力を強制動員することを定めた勅令です。
1939年7月に制定されました。
価格等統制令
価格等統制令は、物資不足による物価の急騰を防ぐため、商品価格を政府が無理やり固定するために出された勅令です。
1939年10月に制定されました。
日中戦争で物資が窮乏する中、ヨーロッパでは1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発。
すると、ヨーロッパ諸国は自国のことで精一杯となり、ヨーロッパから日本への輸出が激減。
ヨーロッパからの輸入品が品薄になると、物価高騰に拍車をかけることになりました。
例えば、品薄で一本1,000円と高騰したボールペンを、政府が『一本100円で売らないと罰金な!』と強制的に価格をコントロールすることで、物価高騰に苦しむ人々を助けようとしたんだ。(ただし、細かい話はここではしないけど、価格等統制令はうまく機能しませんでした・・・)
七・七禁令
1940年に入ると、価格統制のみならず、戦争に無関係な贅沢品そのものの製造・販売を禁止する七・七禁令なるものが出されました。
※七・七禁令の正式名称は、奢侈品等製造販売制限規則って言うめっちゃ長い名称なんだけど、世間では規則が適用になった1940年7月7日にちなんで七・七禁令と呼ばれていました。
七・七禁令とほぼ同時に『贅沢は敵だ!』というスローガンが掲げられ、人々の生活はさらなる統制下に置かれることになったんだ。
ここまでの話を時系列でまとめるとこんな感じです。
- 1939年7月国民徴用令
- 1939年10月価格等統制令
- 1940年7月七・七禁令
- 1941年切符制・配給制が始まる
国家総動員法によって日本では膨大な数の勅令が作られました。今回紹介した勅令は、その膨大な勅令の中のほんの一部に過ぎないんだ。
国家総動員法の終わり
国家総動員法に基づく大量の勅令によって、日本は戦争への道を突き進むことになります。
・・・が、1945年に日本が戦争に敗北すると、1946年には国家総動員法は廃止されてしまいます。
ただ、膨大な数の勅令を、すぐに全廃することはできず、1950年頃まで残り続けた勅令もあったよ。
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