今回は、太平洋戦争の終盤、1945年2月に起きた硫黄島の戦いについて、わかりやすく丁寧に解説するよ!
硫黄島の戦いとは
硫黄島の戦いとは、日本本土を攻撃する準備として硫黄島へ侵攻してきたアメリカと、その硫黄島を死守しようとした日本による戦いです。
戦いが起きたのは、太平洋戦争も終盤の1945年2月。
戦いはアメリカが勝利しましたが、日本軍の抵抗は凄まじく、アメリカ軍も予想を遥かに上回る甚大な被害を受けました、
硫黄島はこの戦いによって、太平洋戦争でも屈指の大激戦地として歴史に名を刻むことになります。
硫黄島の戦いが起きた時代背景
硫黄島の戦いが起きるきっかけになったのは、1944年6月〜7月にかけて起きたサイパン島の戦いです。
サイパン島は当時、日本の統治下にありましたが、アメリカ軍に攻め込まれ1944年7月にサイパンは陥落しました。
アメリカは、サイパン島を制圧すると日本を攻撃するため、マリアナ諸島(サイパン島とその周辺の島々)に航空基地を建設し始めました。
このサイパン陥落は、その後の太平洋戦争の戦局に大きな影響を与えることになります。
・・・というのも、マリアナ諸島と日本本土の距離なら、アメリカの最新爆撃機B-29が補給なしで簡単に日本本土に攻撃を仕掛けることが可能だったからです。
実際、それまで散発的だった日本本土への空襲が、1944年7月以降は本格化し、日本は甚大な被害を受けることになります。
サイパンが陥落してしまった以上は、日本本土への攻撃は避けられぬ。
なんとかして日本本土を防衛せねば・・・!
サイパンが陥落した後、想定されるアメリカの侵攻ルートは大きく2つありました。
ルートその1:フィリピン・台湾→沖縄と南から日本へ侵攻するルート
ルートその2:マリアナ諸島→小笠原諸島→本州と東から侵攻するルート
そのためサイパンが陥落すると、沖縄と小笠原諸島ではアメリカ軍の上陸を想定して守備の強化が図られるようになります。
小笠原諸島の防衛拠点、硫黄島
硫黄島は小笠原諸島の南方にあり、ちょうど東京とサイパンの中間地点に位置していました。
※硫黄島は島全体が活火山の火山島であり、島の至るところから硫黄の匂いがする火山ガスが噴出していることから、硫黄島と名付けられました。
硫黄島は火山島でありながらも飛行場が建設可能な平地があったことから、小笠原諸島防衛の重要拠点となっていました。
サイパン陥落後、硫黄島ではアメリカとの戦いに備えた準備が始まります。
栗林中将による硫黄島死守作戦
小笠原諸島の防衛部隊を指揮したのは、陸軍中将の栗林忠道という人物。
これまで日本は、アメリカの侵攻に対して、上陸してくるアメリカ軍に対して集中砲火を浴びせて上陸を阻止する戦法(水際作戦)を採用していました、
・・・が、アメリカの圧倒的な火力の前に水際作戦はことごとく失敗。水際作戦の失敗で多くの兵を失うことで、その後の陸上戦で力を発揮できず、そのまま敗戦してしまうケースが増えました。
そこで栗林中将は、硫黄島の防衛に水際作戦は採用せず、別の戦法を用いることにしました。
戦力を失いすぎた日本には、もはやアメリカの上陸を止める術はない。
それならば、水際作戦で兵を消耗するよりも、いっそのことアメリカ軍を硫黄島内部に誘き寄せて、真正面からは戦わずゲリラ戦のみに注力し、持久戦に持ち込むべきだ。
こうして硫黄島ではゲリラ戦に特化した陣地の設営作業が始まります。
爆撃にも耐えられる地下陣地の建設
敵の死角へのトーチカ設置・・・などなど
※トーチカ:コンクリートで囲まれた射撃・砲撃拠点のこと
栗林中将の作戦は、島の最南端にある摺鉢山と元山の地下陣地を築き、アメリカをこの2つの陣地の間に誘いこんで挟み撃ちにする・・・というものでした。
さらに栗林中将は、兵たちに『敢闘の誓』なる文書を配布して、これまでの戦いで頻繁に行われていた玉砕覚悟の特攻攻撃(バンザイ突撃)を禁止します。
我らは敵10人を倒すまでは死んではならないこと
我らは最後の1人となってもゲリラ戦を継続し、敵を苦しめ続けること
持久戦に持ち込むには、兵の消耗をできる限り減らす必要がありました。
なので、敵に被害を与えられない玉砕覚悟の自爆特攻は、作戦遂行に支障をきたすものであり、禁止されることになったんだ。
また、栗林中将は、司令官でありながら一兵卒と同じ食事をとり、現場を回って兵たちに細かな指示やコミュニケーションを図っていたため、兵たちからの信頼も厚いものがありました。
こうした栗林中将の人柄は、硫黄島の戦いでの兵の統率をスムーズにし、統率の取れた日本軍の攻撃はアメリカ軍を大いに苦しめることになります。
硫黄島の戦い、始まる
一方のアメリカは、サイパン島の戦いの後、フィリピンと硫黄島の2方面作戦を決定します。
1944年10月、アメリカはフィリピンのレイテ島への攻撃を開始し、海戦にて日本に快勝(レイテ沖海戦)
レイテ沖海戦によって、日本の海軍戦力は壊滅。日本は制海権を完全に失いました。
また、レイテ沖海戦は、戦闘機を自爆覚悟でアメリカ戦艦にぶつける神風特別攻撃隊による攻撃が初めて行われた戦いでもありました。
もし日本が、硫黄島からサイパン島へ自爆攻撃を開始すれば、こちらの損害も甚大なものになる。
そうなる前に、なんとしても硫黄島を壊滅させなければ・・・!
1944年12月、アメリカは硫黄島の基地を徹底的に破壊するため空爆を開始。
空爆は74日間にもおよび、世界史上でも類を見ないほどの大空爆でした。その威力は、硫黄島のもともとの地形を変えてしまうほどの凄まじいものでした。
さらに1945年2月16日、アメリカの戦艦が硫黄島を包囲し、硫黄島への砲撃が始まります。
翌日(17日)には、アメリカは海岸線に機雷などが仕掛けられていないか調べるため、小型船を硫黄島に接近させました。
ここまでは計画どおりだ。
このままアメリカ軍を上陸させて、摺鉢山と元山から挟撃する。
作戦実行までは不用意に攻撃をしてはならぬ。攻撃をすれば、こちらの位置を知られることになり、挟撃する前に陣地が破壊されてしまうかもしれないからな。
・・・ところが、摺鉢山の砲撃部隊の一部は、この接近をアメリカの主力軍の上陸であると勘違いし、砲撃を行ってしまいます。
敵は摺鉢山にいる!弾が飛んできた場所を徹底的に破壊せよ!
案の定、アメリカは摺鉢山への重点爆撃を開始。
この爆撃で摺鉢山の山頂は元の形を失い、多くの砲台やトーチカが破壊されてしまいました。
19日、爆撃を終えたアメリカ軍はいよいよ硫黄島への上陸を開始。第一陣として、約9,000人が硫黄島へ上陸します。
日本軍の反撃はほとんどなく、上陸は順調に進みました。
全然手応えがない。
上陸しても、これまでの攻撃で日本兵なんていないんじゃねーか?
なんて楽勝な作戦なんだ!
アメリカ軍はおおむね上陸を完了したな。
今なら海岸に兵が密集しており、効率よく敵を殲滅できる。
ここから反撃に転じるぞ!!
攻撃開始ー!!
2月19日午前10時、日本軍は海岸に上陸し終えたアメリカ兵に対して一斉射撃を開始。
日本の反撃はないと油断していたアメリカ軍は、大ダメージを受け、海岸にはアメリカ兵の死体があちこちに散乱します。
はっ?
なんで74日間も空爆して、山の形が変わるほどの爆撃も加えたのに、こんなに反撃してくるんだ・・・?
日本は陣地を地下に築いていたから、地上がメチャクチャになっても、それほどの被害を受けていなかったんだ。
摺鉢山、陥落
大損害を受けながらも硫黄島へ上陸したアメリカ軍は、2月20日、摺鉢山へ進軍します。
日本軍は、地下陣地を利用したゲリラ的反撃を試みますが、アメリカの火炎放射戦車に歯が立血ません。
地下陣地につながる穴には徹底的に火炎放射が浴びせられ、23日には摺鉢山は制圧されてしまいます。
歩兵が1つ1つ穴を確認して攻撃する作戦は、アメリカ軍にも大きな犠牲を伴いました。
アメリカ軍は摺鉢山を制圧すると、勝利の証として山頂に星条旗(アメリカの国旗)を掲げました。
勝利の証として掲げられた星条旗は、硫黄島で戦う兵士たちの士気を大いに高めます。
元山攻防戦
摺鉢山の陥落は、栗林中将の計画を大きく狂わせました。
わずか4日で摺鉢山が陥落しただと!
これでは挟撃作戦が実行できない。それどころか、元山でアメリカと真っ向から戦うハメになる。
真っ向勝負では劣勢の我々に勝ち目はない・・・!
2月17日に摺鉢山の砲台やトーチカを破壊されてしまったことが、ここにきて致命的な大打撃になったんだ。
・・・この戦いにはもう勝ち目はないだろう。
援軍は見込めるはずもなく、我々には制海権も制空権もない。
もはや、精魂尽き果てるまでゲリラ戦を戦い抜き、死ぬまでアメリカ軍を苦しめ続けるしかほかない!
栗林中将は、挟み撃ち作戦を諦めて、元山での徹底的なゲリラ戦に計画をシフトします。
敵が攻撃してきたら地下陣地に逃げる。敵の攻撃が収まれば、地下陣地から飛び出して奇襲を仕掛け、また逃げる・・・というヒットアンドアウェイ戦法でアメリカ軍を徹底的に苦しめました。
さらに、絶妙な位置に配置された砲台やトーチカまでもがアメリカ軍に襲いかかります。
敵は追い詰められているはずなのに、足止めされて全然前に進めない。
計画的なゲリラ攻撃に緻密に計算された守備陣形、敵の司令官は只者じゃないぞ・・・。
日本はアメリカに最大限の抵抗を試みますが、援軍が見込めない以上、やはり勝ち目はありません。
2月27日、栗林中将のもとに大本営からこんな電報が送られてきます。
日本本土の防御を固めるには4月までの時間を要する。今後の作戦の成功は、硫黄島がどれだけ持ち堪えられるかに懸かっている!
時間稼ぎのために、我々に硫黄島で散ってくれ・・・ということか。
良いだろう。我々の命をかけた究極の持久戦をアメリカ軍に見せてやる。
しかし、抵抗を続けていた日本軍もついに限界を迎えます。
蓄えていた飲水が枯渇し、もはや戦闘継続が不可能となったのです。
もはやここまでか。
あとは玉砕して散りゆくのみ・・・。
3月16日、栗林中将は、大本営に対して玉砕攻撃に入ることを電報で報告。
硫黄島の戦いはいよいよ最終局面を迎えます。
硫黄島の戦い、終結
3月17日、栗林中将は、各部隊へ最後の指令を下します。
アメリカ軍はすでに硫黄島の大半を占領しており、緊張が緩んでいましたが、栗林中将はその隙を逃しません。
3月25日の夜、日本軍は最後の総攻撃を開始。
約400人の部隊がアメリカ軍の野営地に総攻撃を仕掛け、玉砕していきました。
玉砕攻撃と言っても、単に敵に突っ込むのではなく、栗林中将は最後の最後まで兵を統率し、計画を練り、最後の最後までアメリカ軍を苦しめました。
日本の玉砕攻撃(バンザイ突撃)は、当初こそアメリカ軍に恐れられたものの、次第に『突撃してくてくれた方が効率的に敵を倒せる』と思われるようになり、むしろバンザイ突撃を望む者まで現れていました。
しかし、栗林中将の緻密に練られた玉砕攻撃は、アメリカ軍が望んでいたような玉砕ではなく、アメリカ軍に約170名の死傷者を出しました。
・・・こうして、硫黄島の壮絶な戦いは幕を閉じることになります。
硫黄島の損害は、
【日本】
戦死者 約18,000人(ほぼ全滅)
【アメリカ】
戦死者:約7,000人
負傷者:約20,000人
アメリカ優勢だった太平洋戦争の終盤戦において、アメリカの死傷者数が日本を上回るのは珍しく、栗林中将らの抵抗が凄まじかったことを物語っています。
制海権・制空権を失い、
援軍も見込めない孤島で、
戦力的にも圧倒的不利という絶望的な状況のなか、
これほどの戦火を挙げた栗林中将は、日本はもちろんアメリカからも高い評価を受けることになります。
栗林忠道中将はアメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった。
栗林は太平洋戦線で敵対したなかで最も侮りがたい存在であった。
硫黄島の戦いの後、
アメリカにとって硫黄島は、サイパンに次ぐ日本空襲の拠点となりました・・・が、思っていたよりも拠点を有効活用することができず、『甚大な被害を受けてまで硫黄島を占領する必要はなかったんじゃないか?』と否定的な評価もあります。
硫黄島の戦いは、日本本土で行われた初めての戦いでもありました。この戦いでアメリカ軍は、日本軍の粘り強く苛烈な抵抗を目の当たりにし、今後の戦いに不吉な予感を感じるようになります。
こんな小さい硫黄島の攻略でさえ、甚大な被害を受けたんだ。
日本が早く降伏してくれないと、これからの戦いでは信じられないほどの犠牲者が出るぞ・・・
1945年3月、硫黄島の戦いが終わったのとほぼ同じ頃、アメリカ軍は沖縄への攻撃を開始。(沖縄戦)
沖縄戦もまた、硫黄島の戦いと同じく、想像を絶する大激戦となりアメリカ軍は大損害を受けました。
硫黄島の戦い・沖縄戦での大損害を見たアメリカは、被害を最小限に抑えて戦争を終わらせるため、ついに原爆投下を決断します。
硫黄島の戦いが終わってからアメリカでは戦争への批判が高まっていて、そんな世論も原爆投下を後押ししました。
そして1945年8月、太平洋戦争は、原爆投下→日本降伏という形で日本の敗北で終わることになるのです。
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