今回は、第一次世界大戦の後(1915年)に日本が中国(中華民国)に突きつけた二十一か条の要求について、わかりやすく丁寧に解説していくよ。
二十一か条の要求とは?
二十一か条の要求とは、第一次世界大戦の戦乱に乗じて、日本が中華民国に要求した21項目からなる要求のことです。
その要求は無理難題ばかりで、中華民国はこれに強く反発しました。
第一次世界大戦は、三国協商(イギリス・フランス・ロシア)VS三国同盟(ドイツ・イタリア・オーストリア)を中心とした戦争。1914年に起こりました。
日本は、日露戦争の少し前(1902年)にイギリスと日英同盟を結んでいたので、三国協商の味方として第一次世界大戦に参戦することになりました。
・・・とはいえ、わざわざヨーロッパに赴いて戦争をしたわけではありません。日本がターゲットにしたのはドイツが占領していた中華民国の山東半島にある青島という場所。
青島は膠州港という良港を持ち、日本や朝鮮にも地理的に近い要所です。
日本は、日英同盟をきっかけに第一次世界大戦に参戦し、中華民国にあるドイツの占領地を武力によって奪おうとしたわけです。
二十一か条の要求までの経過
参戦の最初のきっかけは、イギリスからの支援要請でした。
アジア方面で、イギリス船が膠州湾を拠点としているドイツ軍艦に攻撃されているんだ。
こっちはヨーロッパで手一杯だし、日英同盟も結んでいるわけだから、少し支援してくれないか?
この支援要請を受けて、日本はこう答えます。
了解。
支援なんて言わずに、ドイツから膠州湾を奪ってやるよ!!
この日本の方針に、イギリス・ドイツ・中華民国は大きな衝撃を受けます。
イギリス「支援してほしいとは言ったけど、それはやりすぎ。日本が強くなることは望んでいない。」
ドイツ「ヨーロッパ方面の戦争で手一杯なんだから、日本はしゃしゃり出てくんな!」
中華民国「そもそも膠州湾って中華民国の領地なんだけど、勝手なことするのやめてくれない?」
日本を警戒したドイツは、占領地を一時的に中華民国へ返還することを検討します。もともと中華民国は第一次世界大戦に対して中立の立場だったので、ドイツが占領をやめてしまえば、日本が膠州湾を攻撃する大義名分が失われるからです。
しかし、大義名分を失うことを恐れた日本は、ドイツが自主的に占領地を返還しようとしていることを無視して、ドイツに対して次のように宣戦布告します。
ドイツは、中華民国の領地を占領する悪いやつだ。だから日本は、その占領地をドイツから奪った後、中華民国に返還しようと思っている。
ドイツは、占領地を日本に渡すのだ。もし渡さないようなら、日本は実力行使でその占領地を奪うことになる。
ドイツが日本の要求を拒否すると、両者は戦争に突入。結果は日本の勝利に終わります。
こうして、青島を含む山東半島は、日本の占領下に置かれます。しかし、日本は、当初言っていた「ドイツの占領地を中華民国に返す」という部分を無視し、占領を続けました。
当然、中華民国はこれに猛抗議します。
中華民国「おい日本!話が全然違うじゃねーか!!ふざけんな!!!!」
・・・実は、これこそが日本の策略。日本は、山東半島を軍事的に占領することで、中華民国を脅した状態で話を外交交渉に持ち込み、中華民国に対して無理難題を要求しようと考えたのです。
ここで登場した「無理難題の要求」というのが二十一か条の要求になります。
二十一か条の要求の内容
当時、日本は中華民国と1つの外交問題を抱えていました。
それは、満州にある旅順・大連、そして満鉄(南満州鉄道)を含む一部の鉄道の租借期限が1923年に迫っていることでした。
日本は、この租借期限の延長を考えていました。ただ、1912年に清が滅びて中華民国が樹立したり、列強国が邪魔してくることも懸念されたりと、そのタイミングがなかなかありません。
今回の山東半島占領は、租借期限を延長する千載一遇の大チャンスです。日本は、中華民国への要求に租借期限延長を盛り込み、政府内で要求案を制作していきます。
しかし、いざ要求案の制作にとりかかってみると、政府内からは租借期限以外にもさまざまな要求が殺到しました。これら多くの要求は、軍部や経済界などの複雑な利権が絡んでいます。
外交交渉を担当していた外務大臣の加藤高明は、関係者の利害関係を調整しきれず、気づいてみれば、中華民国への要求は21か条にも膨れ上がってしまいました。
その内容がこちらになります。
内容を全部覚える必要はありません。大事なのは、日本が重要視していた租借権の話が書かれている箇所(下の項目で言う5番)です。
【第1号:山東省について】
1.ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること
2.山東省内やその沿岸島嶼を他国に譲与・貸与しないこと
3.芝罘または竜口と膠州湾から済南に至る鉄道(膠済鉄道)を連絡する鉄道の敷設権を日本に許すこと
4.山東省の港湾都市を外国人の居住・貿易のために新しく開放すること
【第2号:南満州及び東部内蒙古について】
5.重要旅順・大連(関東州)の租借期限、満鉄・安奉鉄道の権益期限を99年に延長すること(旅順・大連は1997年まで、満鉄・安奉鉄道は2004年まで)
6.日本人に対し、各種商工業上の建物の建設、耕作に必要な土地の貸借・所有権を与えること
7.日本人が南満州・東部内蒙古において自由に居住・往来したり、各種商工業などの業務に従事することを許すこと
8.日本人に対し、指定する鉱山の採掘権を与えること
9.他国人に鉄道敷設権を与えるとき、鉄道敷設のために他国から資金援助を受けるとき、また諸1税を担保として借款を受けるときは日本政府の同意を得ること
10.政治・財政・軍事に関する顧問教官を必要とする場合は日本政府に協議すること
11.吉長鉄道の管理・経営を99年間日本に委任すること
【第3号 漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中華民国最大の製鉄会社)について】
12.漢冶萍公司を日中合弁化すること。また、中国政府は日本政府の同意なく同公司の権利・財産などを処分しないようにすること。
13.漢冶萍公司に属する諸鉱山付近の鉱山について、同公司の承諾なくして他者に採掘を許可しないこと。また、同公司に直接的・間接的に影響が及ぶおそれのある措置を執る場合は、まず同公司の同意を得ること
【第4号 中国の領土保全について】
14.沿岸の港湾・島嶼を外国に譲与・貸与しないこと
【第5号 中国政府の顧問として日本人を雇用すること、その他】15.中国政府に政治顧問、経済顧問、軍事顧問として有力な日本人を雇用すること
出典:wikipedia対華21カ条要求
16.中国内地の日本の病院・寺院・学校に対して、その土地所有権を認めること
17.これまでは日中間で警察事故が発生することが多く、不快な論争を醸したことも少なくなかったため、必要性のある地方の警察を日中合同とするか、またはその地方の中国警察に多数の日本人を雇用することとし、中国警察機関の刷新確立を図ること[11]
18.一定の数量(中国政府所有の半数)以上の兵器の供給を日本より行い、あるいは中国国内に日中合弁の兵器廠を設立し、日本より技師・材料の供給を仰ぐこと
19.武昌と九江を連絡する鉄道、および南昌・杭州間、南昌・潮州間の鉄道敷設権を日本に与えること
20.福建省における鉄道・鉱山・港湾の設備(造船所を含む)に関して、建設に外国資本を必要とする場合はまず日本に協議すること
21.中国において日本人の布教権を認めること
加藤高明外務大臣の「みんなの要求をとりあえずぜんぶ中華民国に伝えてみた!」的なやり方は、国内外から批判を受けました。
元老の山縣有朋は「訳のわからぬ無用の箇条まで羅列して請求したるは大失策」とこれを批判したと言われています。
特に批判を浴びたのは、第5号(項目15〜21)の部分。後述しますが、最終的に第5号は、内外からの批判受けて削除されることになります。
二十一か条の要求の交渉経過
1915年1月、日本は中華民国の代表だった袁世凱に対して、上記の21項目に渡る要求を突きつけました。
袁世凱は回答を先延ばしにし、列強国との外交交渉に走ります。列強国は、日本が強くなることを望んでいなかったので、列強国を通じて日本に圧力をかけてもらうと考えたのです。(日清戦争時の三国干渉のように・・・!)
ところが、列強国は第一次世界大戦でそれどころではありません。結局、第5号(項目15〜21)が削除されただけで、1915年5月9日、袁世凱は日本の要求を受け入れてしまいました。
第5号の内容は、中華民国の政治の中枢や、警察、軍事などに日本が深く介入するものであり、実質的に中華民国を日本の属国にしようとする意図が見え隠れしていました。
あまりに露骨な内容に、第5号だけは列強国から強い批判を受け、撤回が決まったのです。
袁世凱が要求を受け入れた後、日本と中華民国は要求を反映させた条約などを結び、二十一か条の要求は、一部の要求(第5号)を除いて現実のものなりました。
悪化する日中関係
二十一か条の要求に見られる日本の強引なやり口に、中華民国では反日感情が高まります。
「この屈辱を忘れてはならない」という想いから中華民国では、袁世凱が要求を受け入れた5月9日を、国恥記念日」と定めました。
要求を受け入れざるをえなかった袁世凱は、要求を受け入れた後も反発を続けます。1915年6月には、さっそく懲弁国賊条例という条例を出しています。(条例名は覚える必要はありません)
これは、「私的に外国人に土地を貸した者は、有無を言わさず死刑」という内容を盛り込んだ条例で、先ほど紹介した二十一か条の要求のうち、主に項目6番の内容を無力化するものでした。
「死んでもいいなら日本に土地を貸してもいいよ^^」って言われて土地を貸す人なんてそうそういませんよね。
こうして、二十一か条の要求が終わった後も、日本と中華民国の駆け引きは続き、両者の対立は1919年に起こった五四運動、さらには1931年に起こる満州事変の遠因となっていきます。
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