今回は、1922年に結ばれたワシントン海軍軍縮条約について、わかりやすく丁寧に解説してしていくよ。
ワシントン海軍軍縮条約とは
ワシントン海軍軍縮条約は、「今のまま世界各国が競って軍艦を建造し続けると、莫大なお金がかかってみんな不幸になるから、強国同士で話し合って海軍力に制限を設けたいよね!」という目的で結ばれた条約です。
ここで言う「強国」とは、第一世界大戦で戦勝国に名を連ねた列強国を言い、条約は以下の5カ国によって結ばれることになります。
この五カ国のうち、熾烈な軍艦建造競争を繰り広げていたのは、アメリカ・イギリス・日本の3カ国。特にイギリスは、当時、世界最強の海軍国として君臨していた国です。
なので、ワシントン海軍軍縮条約の焦点は自然と「アメリカ・イギリス・日本の海軍力をどう制限するか?」という点に絞られていきます。
軍艦建造をめぐる競争
アメリカ・イギリス・日本の軍艦建造競争が激化したきっかけは、1914年に起こった第一次世界大戦でした。
軍艦建造をめぐる競争そのものは、昔から行われていました。
第一次世界大戦がきっかけで競争が始まったのではなく、第一次世界大戦がきっかけで競争が「激化」したという点に注意が必要です。
アメリカの海軍事情
1914年、ドイツ軍艦による脅威に晒されたアメリカは、海軍力の強化について検討を開始。1916年には、本格的な軍艦建造計画を立てました。
俺、イギリスを抜いて世界最強の海軍国家になろうと思うんだ。
このアメリカの計画に警戒心を抱いたのが、日本とイギリスです。
イギリスの海軍事情
イギリスも、アメリカに対抗するために軍艦の建造計画を立てました。
しかし、イギリスの経済は第一世界大戦の影響によってボロボロに。そんな状況の中、軍艦の建造を進めることにイギリスは強いためらいを持っていました。
アメリカに「世界最強の海軍国家」の座を明け渡すわけにはいかない!!
イギリスもアメリカに対抗して軍艦の建造を急ピッチで進めるべきだ!!
一方で、イギリスにはこんな本音もありました。
とは言ったものの、経済がボロボロすぎて、正直軍艦なんて建造している場合じゃないんだけどね・・・(涙)
軍事と経済の両天秤の中で、イギリスは難しい立場に立たされます。
日本の海軍事情
日本は日露戦争が終わった後、アメリカを仮想敵国として地道に海軍力の増強を続けてきました。
そして、1916年のアメリカの計画を知ると、日本も軍艦建造のピッチを加速。1920年には「八八艦隊」なるプランが完成しました。
日本で八八艦隊プランの検討が進められていた1916年〜1919年という時代は、ちょうど日本が第一次世界大戦の特需で大儲けしていた時代です。(大戦景気)
八八艦隊プランは、好景気に支えられて政府のお財布(歳出)の紐も緩みがちだった頃に作られた計画だったため、計画の内容も膨れ上がり、国家財政を揺るがしかねないほどの超弩級プロジェクトになってしまいました。
・・・が、戦争が1918年に終結すると特需は終了。
しかし、日本の多くの会社は特需の終焉を読むことができませんでした。1920年には、借金をして(融資を受けて)設備投資をしたり商品を作りすぎたりしたため、負債や売れない商品の在庫を抱えて、経営が悪化する会社が増加し始めます。
借金をして生産設備を増強したのに、物が全く売れないんだが。
商品が売れないと借金の返済もできないし、マジで経営が詰みそう・・・。
日本は、特需の反動で一転して不景気(戦後恐慌)へと突入したわけです。
こうなると好景気の時代に立案された八八艦隊プランは、完全に「絵に描いた餅」状態です。日本はイギリスと似て、苦しい立場に立たされます。
アメリカ・イギリスに対抗したいのは山々だけど、不景気の中、軍艦の建造を続けたら国家財政が破綻しちまうよ・・・。
まとめると、イギリスと日本は、アメリカに対抗するため、「国家財政が破綻するかもしれない・・・」という爆弾を抱えたまま、軍艦建造競争という名のチキンレースに参加する羽目になってしまったのです。
1921年、イギリス・日本の状況を見抜いていたアメリカが「競争に終わりが見えないから、いっそのこと強国の軍艦の保有量を制限しちまおうぜ」と提案。
ふふふ・・・、イギリス・日本が苦しんでいる今なら、俺(アメリカ)が優位に立って交渉を進めることができるぞ。
こうした事情で結ばれたのが、ワシントン海軍軍縮条約でした。
ワシントン海軍軍縮条約が結ばれるまで
1921年11月、アメリカ主導により主要国の要人たちがワシントンに集まり、太平洋・アジアの平和について話し合うワシントン会議が開かれます。
ワシントン会議のテーマは大きく3つありました。
会議の中で、アメリカは海軍の軍縮案を提案します。
私(アメリカ)には建造中の軍艦を率先して廃棄する用意がある。
こう述べた上で、さらにこう続けます。
私は、アメリカ・イギリス・日本の主力軍艦保有の比率を10:10:6にすることを提案する。
そして、各国が今建造中の軍艦も建造を中止して廃棄すべきだ!
このアメリカの提案は、文面だけ見ればイギリス・日本が納得できるものではありません。
アメリカがイギリスと並ぶことで、イギリスは世界最強の海軍国家という地位を放棄しなければならないし、日本はイギリス・アメリカより格下であることを公式に受け入れなければいけません。
・・・が、日本もイギリスもアメリカの提案に反対することはありませんでした。
日本もイギリスも「軍艦建造で国家財政の破綻リスクを負うぐらいなら、アメリカに譲歩した方がマシ!」と考えたからです。(まさにアメリカの計画どおりです!)
加藤友三郎の外交術
ただし、日本は軍縮そのものは賛成したものの、主力軍艦の保有比率がアメリカ・イギリスの6割という点については異論を唱え、7割の案を提示します。
日本は島国だ。イギリス・アメリカの6割の軍艦では、国防に支障が生じる。だから6割の案は、日本としては受け入れられない。
せめて、イギリス・アメリカの7割の軍艦を持っていないと国を守れない。
しかし、イギリス・アメリカはこの日本の案を断固拒否。一歩も譲りません。
一方で視点を日本に向けて見ると、日本海軍がアメリカの提示する6割案を強く拒絶していました。
日本の代表として会議に参加していた海軍大臣の加藤友三郎は、両者板挟みの中で難しい舵取りを強いられることになります。
最終的に、加藤友三郎は6割の案で話を進めることを決断。海軍大臣として反対する海軍の部下たちを説得・抑制しながら、6割の案で交渉をまとめあげました。
しかし、無条件で6割の案を受け入れてしまっては、日本のメンツが立ちません。
そこで日本は6割の条件を飲む代わりに、次の2つの条件をアメリカ・イギリスに突きつけます。
わかった。6割案を受け入れてくれるのならば、日本の提案も受け入れることにしよう。
アメリカ・イギリスがこの日本の要求を受け入れたことで、いよいよワシントン海軍軍縮条約が結ばれることとなります。
実は加藤友三郎は、冒頭で紹介した「八八艦隊」の推進者でした。
これまで軍拡の計画を立てていた人が、なぜワシントン会議で軍縮の決断をしたかというと、加藤友三郎が政治的なバランス感覚に非常に長けた人物だったからです。
海軍大臣という立場でありながら、海軍の意見だけを尊重することなく、柔軟な視点で国益を考えることができたのです。
当時の心中を、加藤友三郎は次のように書き残しています。
国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。……仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に……結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。
wikipedia「加藤友三郎」
ワシントン海軍軍縮会議の内容
イギリス・アメリカ・日本を中心とした外交駆け引きの結果、ワシントン海軍軍縮条約は主に以下に掲げる内容でまとまりました。
※アメリカ:イギリス:日本の軍艦保有比率はこれまで10:10:6と表記していましたが、条約では約分をして5:5:3と表記されました。(もちろん、どちらも同じ意味です)
※主力軍艦の保有比率は、軍艦の数ではなく、軍艦の重さ(基準排水量)の比率が使われました。
当時、日本は二十一箇条の要求やシベリア出兵などの強引なアジア支配政策によって国際的に強い非難を浴びていました。そんな中、列強国と足並みを揃えてワシントン海軍軍縮条約に応じたことで、日本は世界の非難をかわしつつ、国際的な日本の孤立化を防ぐことに成功します。
八八艦隊プランの推進者でありながら軍縮に応じて協調外交を重んじた加藤友三郎は、諸外国から高い評価を受けました。ちなみに、加藤友三郎は1922年に内閣総理大臣にもなっています。
全権代表として会議に臨んだ加藤を、各国の記者などはその痩身から「ロウソク」と呼んで侮っていたが、当時の海軍の代表的な人物であり「八八艦隊計画」の推進者でもあった彼が、米国発案の「五五三艦隊案」を骨子とする軍備縮小にむしろ積極的に賛成したことが「好戦国日本」の悪印象を一時的ながら払拭し、彼は一転して「危機の世界を明るく照らす偉大なロウソク」「アドミラル・ステイツマン(一流の政治センスをもった提督)」と称揚されたという。
wikipedia「加藤友三郎」
この時に加藤友三郎らが掲げた他国との協調外交は、後に外務大臣となる幣原喜重郎の外交に引き継がれることになります。
※実は幣原喜重郎も、加藤友三郎とともにワシントン海軍軍縮条約の交渉の場に参加していました。
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