今回は、1936年に起きた二・二六事件について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
二・二六事件とは
二・二六事件とは、クーデターを企んだ陸軍の皇道派と呼ばれる勢力が、首相官邸や警視庁を襲って要人たちを次々と殺害していったクーデター未遂事件です。
1936年の2月26日に起きた事件なので、二・二六事件と呼ばれています。
二・二六事件は、軍部が日本の政治を支配するきっかけになったとても重要な事件です。
この記事を読んで、時代背景や内容をバッチリ理解してしまいましょう!
二・二六事件が起きた理由・時代背景
二・二六事件が起きた背景には、陸軍内部の派閥争いがあります。
1930年代前半、陸軍内では『問題だらけの国家を改革して日本を良くしよう!』という大きな動きがありました。
しかし、その改革の方法をめぐって陸軍内では意見が2つに割れてしまいます。
こうしてできたのが皇道派・統制派と呼ばれる派閥です。
皇道派と統制派は自らの意見をとおすため、陸軍の主要ポストをめぐって熾烈な争いを繰り広げます。
この争いに勝利したのは、統制派でした。1935年7月、主要ポストを統制派が独占したことで勝敗が決したのです。
主導権を握った統制派は、不穏な動きを見せる皇道派を一掃するため、皇道派の多く所属している師団を満州へ派遣することに決めました。
皇道派は、武力による実力行使(クーデター)で改革を断行しようとしていたから、満州に異動させてしまえば無力になる・・・と統制派は考えたんだよ。
満州への派遣日が1936年3月1日に決まると、皇道派はこう考えます。
こうなったら、満州に飛ばされる前にクーデターを起こしてやらぁ!!!
そして実際に起こしたクーデター未遂事件が、ニ・二六事件です。
皇道派と統制派については、以下の記事で詳しく解説しているので、ここまで読んでわからない点があったら、合わせて読んでみてくださいね。
ニ・二六事件の計画
計画は青年将校の主導によって行われ、決行日は1936年2月26日に決まります。
皇道派は、もともと「今の日本がダメなのは、政府の重鎮たちが天皇を唆しているからだ!」と考えていました。
そこで皇道派は、天皇を唆す君側の奸を排除することを決定します。
※君側の奸:君主の側で君主を思うままに動かして操り、悪政を行わせるような臣下のこと
2月21日、皇道派は君側の奸の中から殺害ターゲットを決定。標的には次のような人たちがリストアップされました。
侍従長:天皇の身の回りの世話をする側近
内大臣:宮内を統括する天皇の側近
大蔵大臣:今でいう財務大臣。国家予算を動かす重要なポジション
教育総監:陸軍の軍人育成を統括するポジション。陸軍内の人事権も持つ重要なポスト
教育総監の渡辺錠太郎は立場的に統制派に近かったので、君側の奸というよりも皇道派VS統制派のターゲットにされてしまったんだ。
計画はこうです↓
- 君側の奸を天皇周辺から排除した後、陸軍省や首相官邸などを占拠。
- その後、宮内に突入し、日本の現状と青年将校たちの想いを天皇に直訴。
- その上で、皇道派のボス的存在である真崎甚三郎をトップとして軍事政権を発足させる
・・・というのが皇道派の作戦でした。
作戦を考えた青年将校たちは、自分たちが政権を担うことは考えませんでした。
後のことは真崎甚三郎に託し、自分たちは極刑に処されることも覚悟の背水の陣でクーデターに臨んだのです。
皇道派の青年将校は、約1400名の部下を引き連れて決起。部下たちの多くは、反乱計画のことを知らされず、正式な軍事命令と誤認したまま出兵することになります。
二・二六事件〜雪中の惨状〜
2月26日午前5時頃、ついに作戦が決行されました。
その日は、東京にしては珍しく雪の積もった朝でした。
当初のターゲットのうち、殺害に成功したのは3人。
内大臣の斎藤実
大蔵大臣の高橋是清
教育総監の渡辺錠太郎
残り(岡田・鈴木・牧野)の抹殺には失敗してしまいました。
それぞれ襲撃が済んだ後、皇道派は官邸や陸軍省、新聞社などを占領。
ターゲットを全て抹消できなかったものの、国家中枢を奪うことに成功しました。
昭和天皇、ブチギレる
一方、宮内では報告を受けた昭和天皇が、事件について大激怒。
武官長に「早く事件を終息せしめよ!」と、怒りを露わにしながら命じます。
※武官長:天皇の軍事命令を軍部に伝える伝達役のこと
朝9時頃、陸軍大臣だった川島義之は昭和天皇に青年将校たちの想いを伝え、なんとか事態を平和的に収めようとするも、昭和天皇は「すみやかに事件を鎮圧せよ」と川島を一蹴。
当時、天皇は『君臨すれども統治せず』のスタンスを貫いていたので、二・二六事件も「政府の要人を消してしまえば、天皇は軍部の言うことに従うだろう」との大前提で計画が練られていました。
ところが、昭和天皇は要人たちが襲撃を受けたことを知ると、自らリーダーシップを発揮して事件の鎮圧にあたりました。
これはクーデター首謀者たちとっては大きな誤算です。この誤算は、二・二六事件の結末を大きく左右することになります。
二・二六事件の経過
昭和天皇は二・二六事件にブチギレて鎮圧を命じたものの、軍の関係者の中には皇道派に同情する者も多くいて、皇道派を処罰せずに平和的な解決を目指す動きがありました。
2月27日朝、川島陸軍大臣らが改めて皇道派の気持ちを知ってもらおうと天皇へ謁見しますが、昭和天皇の怒りは収まりません・・・。
昭和天皇「私が信頼する老臣たちをことごとく倒すのは、真綿で私の首を締めるようなものだ。」
昭和天皇「もし事態が進展しないのなら、私自ら近衛兵を率いて鎮圧に当たろう」
さらに27日の13時ころ、身を隠していた岡田首相が救出。まだ内閣が倒れていないことが判明します。
皇道派は、岡田首相と勘違いしてその秘書官を殺害していたんだ。
岡田首相が生きていたことで、「政府の要人がいなくなれば、天皇は陸軍に従うしかないだろう」という思惑が完全に外れることになりました。(そもそも、天皇が自分の意思で事件鎮圧に動いた時点で予想外だっただろうけど・・・)
翌28日、天皇からの命令(奉勅命令)が出されます。
命令は次のような内容でした。
軍の司令官たちは、官邸などを占領している青年将校たちを直ちに、元の所属部隊に戻させよ
陸軍の中には、皇道派の青年将校たちに同情的な者も多くいましたが、天皇直々の命令とあっては、これに逆らうことはできません。
皇道派が、大臣を殺害したり強硬な手段を採った背景には、「軍部は天皇直属の組織だから内閣のことなんか無視してOK!」という統帥権干犯の考え方がありました。
これは逆に捉えると「軍部にとって天皇の命令は絶対」ということ裏返しでもあるのです。
奉勅命令を受けてクーデター首謀者は、降伏する者・抗議する者・自害する者などに分かれ、もはやクーデター計画は完全に瓦解してしまいます。
29日には、抗議する首謀者たちに対して討伐命令が下され、29日午前8時半ころには、攻撃開始の命令が出ます。こうしてクーデターは、完全に鎮圧されることになりました。
二・二六事件の大きな誤算は、青年将校たちに同情するかと思っていた昭和天皇が、事件について激怒したことでした。
明治時代以降、『君臨すれども統治せず』を貫いていた天皇が、陸軍の意見に従わずに反対の意思を表明することまでは予想できなかったんだ。
二・二六事件が日本の政治に与えた影響
昭和天皇のブチギレ案件ということもあって、事件の処分はとても重いものでした。
多くの青年将校に死刑判決が下り、皇道派の思想の元となった『日本改造法案大綱』の著者である北一輝など民間人にも死刑判決を受けた者がいました。
皇道派が、日本改造法案大綱をバイブルとしていただけで、北一輝は事件には関与していませんでした。
つまり、完全にとばっちりでした・・・。
処分を受けなかった人たちも、陸軍人事で左遷させられるなど、二・二六事件の結果、陸軍内の皇道派が一掃されることになりました。
・・・さて、皇道派が消えて一番喜ぶのは誰だと思いますか?
そうです。統制派の人たちです。
統制派から見れば、もともと一掃しようとしていた皇道派が、二・二六事件で勝手に自滅してくれたわけですから、完全に漁夫の利を得た形です。
陸軍を支配することに成功した統制派は、派閥争いを終わらせたことで、ようやく軍事政権樹立に専念できるようになります。
しかも、二・二六事件を受けて、政権運営の自信を失った岡田首相が内閣を解散してしまいます。
この解散は「軍部が合法的に政府を支配して軍事政権を築く」ことを目指していた統制派にとっては、千載一遇の大チャンスとなります。
次の首相に外務大臣だった広田弘毅が選ばれると、陸軍は統制派の思想に反対する大臣を任命しないよう圧力をかけ、政治への介入を強めていきます。
その後も広田内閣は陸軍の圧力に屈する形で、軍部大臣現役武官制の復活や日独防共協定の締結など、軍の要求を次々と受け入れていきました。
こうして政府は、次第に軍部の操り人形となり、軍部主導による政治が行われるようになっていったのです。
このやり方は、まさに統制派が目指していたやり方そのものです。
二・二六事件以降、軍部は裏から政府を支配するようになり、日本はついに本格的な軍国主義へと突き進むことになります。
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