

今回は、1940年に結成された大政翼賛会について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
大政翼賛会とは?
大政翼賛会を3行でまとめると…
①ドイツのナチ党を参考に、政府と国民を一致団結させるために作られた組織
②近衛文麿が中心となって1940年10月12日に結成
③しかし憲法違反を指摘され、政治活動ができない組織になってしまった
大政翼賛会は、終わりの見えない日中戦争に勝利するため、「ドイツのナチ党みたいに国民と政府が一致団結できる組織を作ろうぜ!!」というアイデアによって1940年に生まれた組織です。

「大政翼賛会」って名前はよく聞くけど、具体的には何をした組織なの?

一言でいうと、政府の命令や思想を国民の隅々まで届ける「伝達機関」になった組織だよ。最初はナチ党みたいな一党独裁を目指したんだけど、いろいろあって政治活動ができなくなっちゃったんだ。
当時、ヨーロッパではドイツの快進撃が続いていました。
1939年にドイツによるポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まると、ドイツは連戦連勝の破竹の勢いで、次々と敵の領地を奪い取っていきます。
このドイツの快進撃が日本にも知れ渡ると、日本国内ではこんな声が挙がるようになりました。

日本も、ドイツの真似(ナチ党による一党独裁政治)をすれば、日中戦争に勝てるのでは・・・?
これを実現しようとしたのが大政翼賛会です。
ヨーロッパで快進撃を続けていたドイツでは、ナチ党のヒトラーによる独裁政治が行われていました。
ヒトラーは、強力なカリスマ性とリーダーシップで国民と政府(ナチ党)の一致団結を訴え、ドイツを「国家のためなら国民の自由が失われてもしょうがないよね!」と考える全体主義の国に変貌させてしまいました。
※全体主義とは、国家の利益を最優先にして、個人の自由を制限する考え方のことです。今でいう「一人ひとりの自由より、国全体のまとまりを重視しよう」という思想のことだよ。
そして、全体主義によって国力を戦争に全力投入できるようになったドイツがめちゃくちゃ強かったため、日本もこれを参考にしようと考えたのです。
新体制運動〜大政翼賛会が生まれるまで〜
このアイデアを実現させようと動いたのが、近衛文麿という人物でした。

近衛文麿は、1937年に首相を務めていました(第一次近衛内閣)が、日中戦争への対応に行き詰まり、1939年1月に内閣を総辞職。
総辞職後、1940年6月に枢密院議長になった近衛は、ドイツのナチ党を参考にした日本の新しい政治のあり方を模索し始めます。

枢密院っていうのは、天皇の相談役のような組織のこと。その議長になったってことは、政界でかなり重要なポジションにいたってことだね。
1940年6月、近衛は新しい政治体制を作ることを新聞記者たちの前で発表します。この一連の活動のことを新体制運動と言います。
すると、近衛の新体制運動に賛同する人たちが続々と現れ、新体制運動は一気に加速することになりました。
大政翼賛会の目的は?軍部・政党・国民それぞれの思惑
多くの人たちが新体制運動に賛同した背景には、閉塞していた日本の政治事情があります。
当時の事情を、軍部・政党・国民の3つの視点から確認しておきます。
■軍部(主に陸軍)の思惑
当時、日本政府は日中戦争を終わらせるための和平工作(汪兆銘工作)を模索していましたが、陸軍がこれに反対していました。
※汪兆銘工作:中国の政治家・汪兆銘を日本側に引き込んで、中国と和平交渉を進めようとした工作のこと。簡単に言えば「敵の有力者を味方にして戦争を終わらせよう」という作戦です。
陸軍は日中戦争が終わることを望んでおらず、中国を背後から支援しているイギリス・アメリカにも戦争を仕掛け、これに勝利すれば日本は大東亜(東アジア・東南アジア)の覇者になれる・・・と考えていたのです。
そして、強大な敵(イギリス・アメリカ)と戦うために国民の自由を制限できるナチ党のような全体主義は、陸軍にとってとても魅力的な政治体制に映りました。
■政党の思惑
1930年代に入ると政府では軍部の発言力が増して、政党は存在感を失ってしまいました。
1920年代に続いていた政党政治(憲政の常道)は、1932年5月に起きた五・一五事件で終わりを迎え、その後、日本の政治には軍部の意向が色濃く反映されるようになりました。
近衛の新体制運動は、存在感が空気になっていた政党にとって一発逆転の大チャンスでした。

政党にとっては、「これから近衛が作る新しい組織の中枢に入り込めれば、一挙に発言力を取り戻せる!」って考えたわけなんだ。
※ただし、一党独裁政治は民主主義に反する思想だったため、これに反対する政治家も一定数いました。
■国民の期待
国民は、力を失った政党に失望し、現状を変えてくれる強力な勢力の出現を期待していました。
そこで現れたのが、近衛による新体制運動だったのです。

国民としては「今の政治がダメだから、新しい体制に変われば少しはマシになるだろう」って気持ちだったのかしら?

まさにそのとおり。国家総動員法(戦争のために国のあらゆる資源を政府が自由に使えるようにした法律)の制定以降、国民生活はどんどん苦しくなっていたからね。「何かが変われば今よりマシになるはず」って期待が広がったんだよ。
■近衛文麿の計画
一方、当事者である近衛は、新体制運動の目的をこう考えていました。
- STEP1ナチ党の日本版みたいな組織(大政翼賛会)を立ち上げて、政府と国民の一致団結を図る
- STEP2国民の強力な支持を背景に政治の主導権を握り、軍部(陸軍)の暴走を食い止める
- STEP3全体主義により国力を総動員し、日中戦争を終わらせる
ここで抑えておきたいのは、軍部・政党・国民の多くが新体制運動に賛同したけど、近衛文麿の考え方には100%賛同はしていないってところです。
陸軍は、日中戦争を継続するために一党独裁体制に賛同したけど、
近衛は陸軍の力を抑制して日中戦争を終わらせようと考えていました。
勢いを失っていた政党は、一党独裁体制を利用して勢力復活を目論んだけど、
近衛はナチ党の独裁体制を参考にしていたので、政党に政治の主導権を渡すつもりはありませんでした。
日中戦争の重い負担に苦しむ国民は政治革新には賛同したけど、
近衛の掲げる全体主義はその国民の自由を制限するものでした。

この意見の微妙な食い違いは、この後の大政翼賛会の結成に大きな影響を与えることになるよ。
第二次近衛内閣と大政翼賛会の結成
1940年7月、近衛に新体制運動を進めてもらいたい陸軍は、近衛を次の首相にするため、軍部大臣現役武官制を利用して陸軍大臣の就任をボイコットし、米内内閣を総辞職に追い込みます。
※軍部大臣現役武官制:陸軍大臣・海軍大臣には現役の軍人しかなれないというルールのこと。陸軍が「大臣を出さないぞ!」と拒否すれば内閣が成立できないため、陸軍が政治を思いどおりに動かすための強力な武器になりました。
米内内閣の総辞職後、近衛文麿が首相になることが決まりました。
こうして、1940年7月22日、第二次近衛内閣が成立します。

権力者に返り咲いた近衛文麿は、早速新しい組織の結成にとりかかります。
■大政翼賛会の名前の意味
組織の名前は大政翼賛会に決まりました。
「大政」は「天皇陛下による政治」、「翼賛」は「天皇をお助けする」という意味です。
つまり、「大政翼賛会」は「天皇陛下による政治をお助けする会」という意味になります。
■大政翼賛会の組織図
大政翼賛会は、国民の一致団結を目的としているため、その組織も当然、全国規模の巨大なものでした。
大政翼賛会のトップ(総裁)には首相(つまり近衛文麿!)が就任し、そこに上から順に総裁→道府県支部→市町村支部→町内会・部落会→隣組という組織が連なります。


この仕組みは上意下達(じょういかたつ)って呼ばれていて、上からの命令が一番下の国民まで一方通行で伝わる仕組みのこと。今でいう「トップダウン」ってやつだね。
10軒前後の世帯を一組として構成された集まりのこと。大政翼賛会の末端機関であると同時に、政府の指示や命令、思想を直接国民に伝える重要な機関でもありました。
ちなみに、今も存在している町内会は、大政翼賛会の隣組がルーツだと言われています。

■大政翼賛会の位置付け〜政党ではない?〜
大政翼賛会は、政府・議会・軍部から独立した新しい組織とすることが決まりました。

あれ、大政翼賛会って政党じゃないの?議会に属してないとおかしくない?

大政翼賛会は、ナチ党のような一党独裁を参考にしていたので、「何かを決めるときに議会による議論は不要!」と考えたんだよ。だけど、この考え方は実質的に議会を廃止することを意味していて、あとあと大きな問題になるんだ・・・。
さらに、大政翼賛会の結成日は、近衛の誕生日である10月12日と決まります。

【悲報】大政翼賛会、方針が定まらない
名前や組織図、結成日などはサクッと決まりましたが、いざ具体的な政策・方針を決めようとすると、作業は難航します。
なぜなら、先ほど説明したように大政翼賛会に参加しようとする人たちの利害がバラバラすぎて、統一した方針が作れなかったからです。
・日本を全体主義国家にしてアメリカ・イギリスへの戦争を望む陸軍
・大政翼賛会を通じて国政を動かす主導権を握りたい政党
・日中戦争の泥沼化で閉塞した雰囲気をぶち壊してほしい国民
他にも海軍、官僚、右翼団体、経済界など、いろんな人たちがいろんな意見を言いまくって、方針作りは困難を極めます。
ただ、この事態は十分予想できたことであって、本来なら大政翼賛会のトップである近衛文麿がリーダーシップを発揮して、意見を1つにまとめなければなりません。
・・・が、近衛は八方美人なところがあり、ヒトラーのような強力なリーダーシップに欠けていました。
結局、方針が定まらないまま10月12日を迎え、近衛は発会式でこんな感じのことを言います。

大政翼賛会の方針は大政翼賛・臣道実践の2つに尽きる。これ以外の方針や宣言は不要であり、国民は誰もがそれぞれの立場で誠実に役割を果たすのみである!

「臣道実践」っていうのは「臣下(国民)として天皇にお仕えする道を実行しよう」って意味だよ。つまり「天皇のために頑張ろう!」っていう精神論で、具体的な方針は何も示されなかったんだ。側近の中には、この発言を聞いて近衛に失望する者もいたよ。
【さらに悲報】大政翼賛会、政治活動ができなくなる
大政翼賛会の方針が定まらずグダグダ状態になると、次第に大政翼賛会に反対する人たちの批判の声が強くなっていきます。
さらに1940年11月に入ると、いろんな意見に揉みくちゃにされた近衛は新体制運動への意欲を失い始めます。
その後、大政翼賛会は「議会の役割を奪う大政翼賛会は憲法違反だ!」と批判を受けることになり、1941年1月に開かれた第76回帝国議会(今でいう国会のこと)で厳しく追及された結果、近衛自身も憲法上の問題があることを事実上認めました。
大日本帝国憲法(今の日本国憲法ができる前に使われていた憲法)には、第5条で「天皇は帝国議会の協賛をもって立法権を行う」と書かれています。
その議会を無力化して、別ルートで法律を作ろうとする大政翼賛会は憲法に反するんじゃないか?・・・という疑惑が浮上したのです。
さらに言えば、大日本帝国憲法は天皇が最高権力者であることを前提とした憲法です。それなのに、憲法に書かれていない大政翼賛会に強大な権力を任せるという行為は、かつて天皇に代わって政治を支配した幕府の存在を彷彿させるものでもありました。
こうして、1941年2月、憲法違反を指摘された大政翼賛会は、政治活動を禁止されることになりました。
最終的には公事結社と呼ばれる「政治に関係のない公共の利益を目的とする組織」に分類される結果となったのです。

政治活動ができないなら、最初の「軍部の暴走を抑える」っていう目的は達成できないんじゃ・・・?

そのとおり。当初は「国民と政府の一致団結による一党独裁体制で軍部を抑える!」という目的だったのに、終わってみれば「国民と政府の一致団結を目指すけど、政治には関与できない」というなんとも中途半端な組織になってしまったんだ・・・。
政治活動に関与できない以上、戦争を望む軍部を抑えるという当初の目的は失敗に終わり、日本の政治はこれまでどおり軍部主導によって行われることになります。
大政翼賛会のその後
グダグダに終わった大政翼賛会の結成ですが、実は先ほど図で紹介した組織だけはしっかりと作られました。
政府は、軍部の意向を受けて、公事結社になった大政翼賛会の組織を、政府の命令・思想を国民の隅々にまで伝える伝達機関として利用することにしました。
政府の命令・思想は、この組織を通じて一番末端の隣組まで伝わり、隣組から国民一人一人へと伝わっていくことになります。

近衛文麿は大政翼賛会を通じて軍部の政治介入を抑えようとしたんだけど、終わってみれば、大政翼賛会は命令・思想を全国民に伝える伝達機関として軍部に利用され、軍部主導の政治をより一層強固にしてしまう結果になったんだ・・・。
■政党の消滅
各政党は、「これからの日本の政治は、大政翼賛会による一党制になる!」と考えてすでに党を解散していました。
・・・が、大政翼賛会は政治活動を禁止され党として存続できなくなったため、日本から政党が消滅してしまいました。
つまり、全ての議員が政党に所属しない無所属議員になったということです。身の拠り所を失った議員は、大政翼賛会の賛成派と反対派に分かれ、各々新しい歩みを始めることになります。
■傘下組織と上意下達の仕組み
大政翼賛会が結成されると、多くの団体が馳せ参じて大政翼賛会の傘下に入りました。

これらの団体は、大政翼賛会の伝達機能をサポートし、時には伝達内容を直接実行することもありました。

このような傘下団体との連携を図ることで、大政翼賛会は伝達機能の大幅パワーアップに成功し、「国のため、戦争に勝つため、国民は多くを我慢し国のために尽くせ!」という全体主義的な国民統治をするために欠かせない重要な役割を担うようになっていったのです。
■翼賛選挙と翼賛政治会
1942年4月には、大政翼賛会の推薦を受けた候補者が圧倒的に有利になる選挙が行われました。これを翼賛選挙と言います。


大政翼賛会は政治活動できないのに、選挙で候補者を推薦できたの?

建前上は政治活動ができないはずだったんだけど、戦時体制が進む中でなし崩し的に政治色が強まっていったんだよ。翼賛選挙では推薦候補が約8割もの議席を獲得したんだ。
さらに翼賛選挙後の1942年5月には、大政翼賛会の議会部門として翼賛政治会が結成されます。翼賛政治会は議会内で活動する組織で、大政翼賛会とは別の団体ですが、実質的には大政翼賛会と一体となって機能しました。
■大政翼賛会の解散
1941年に太平洋戦争が始まって戦争が激化すると、命令伝達の役割を持つ大政翼賛会はますます重要な役割を果たすようになります。
しかし戦局が悪化すると、1945年3月に国民義勇隊への改組方針が決定され、1945年6月13日に大政翼賛会は正式に解散。国民義勇隊へと発展的に解消されました。
※国民義勇隊:本土決戦に備えて、国民を直接戦闘や軍事作業に動員するために作られた組織。大政翼賛会が「命令を伝える組織」だったのに対し、国民義勇隊は「国民を直接戦わせる組織」でした。
大政翼賛会の年表
- 1937年近衛文麿が首相に就任(第一次近衛内閣)
- 1939年1月第一次近衛内閣が総辞職
- 1940年6月近衛が新体制運動を声明
- 1940年7月第二次近衛内閣が成立
- 1940年10月12日大政翼賛会が結成される
- 1941年1月帝国議会で憲法違反が追及される
- 1941年2月公事結社と認定、政治活動が禁止される
- 1942年4月翼賛選挙が行われる
- 1942年5月翼賛政治会が結成される
- 1945年6月13日大政翼賛会が解散(国民義勇隊へ)
テストに出るポイント・覚え方
よくある質問
大政翼賛会は政党ではありません。当初は一党独裁を目指しましたが、1941年2月に「公事結社」と認定され、政治活動が禁止されました。政治に関係のない公共の利益を目的とする組織、という位置付けです。
大政翼賛会は政治活動が禁止された「国民の伝達組織」で、翼賛政治会は1942年に議会内で活動するために結成された別の団体です。翼賛政治会は議会で法案を通すための政治組織で、大政翼賛会とは別組織ですが、実質的には一体となって機能しました。
1945年6月13日に解散しました。戦局の悪化に伴い、大政翼賛会は国民義勇隊へ発展的に解消されました。
主な原因は3つあります。①参加者の思惑がバラバラで方針がまとまらなかった、②近衛文麿にヒトラーほどのリーダーシップがなかった、③議会を無視する組織は大日本帝国憲法に違反すると判断された、の3点です。
まとめ

以上、大政翼賛会についてのまとめでした!近衛文麿の思惑が外れて、結局は軍部に利用されてしまった・・・っていうのがこの話の一番大事なポイントだよ。下の記事で関連する内容もあわせて読んでみてください!
コトバンク「大政翼賛会」(日本大百科全書・世界大百科事典)
コトバンク「新体制運動」
国立国会図書館「史料にみる日本の近代 大政翼賛会」
Wikipedia日本語版「大政翼賛会」「近衛文麿」「五・一五事件」
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