今回は、1940年に結成された大政翼賛会について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
大政翼賛会とは?
大政翼賛会は、終わりの見えない日中戦争に勝利するため、「ドイツのナチ党みたいに国民と政府が一致団結できる組織を作ろうぜ!!」というアイデアによって1940年に生まれた組織です。
当時、ヨーロッパではドイツの快進撃が続いていました。
1939年にドイツによるポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まると、ドイツは連戦連勝の破竹の勢いで、次々と敵の領地を奪い取って行きます。
このドイツの快進撃が日本にも知れ渡ると、日本国内ではこんな声が挙がるようになりました。
日本も、ドイツの真似(ナチ党による一党独裁政治)をすれば、日中戦争に勝てるんじゃね?
これを実現しようとしたのが大政翼賛会です。
新体制運動
このアイデアを現実させようと動いたのが、近衛文麿という人物でした。
近衛文麿は、1937年に首相を務めていました(第一次近衛内閣)が、日中戦争への対応に行き詰まり、1939年1月に内閣を解散。
解散後は、枢密院のトップになりますが、その間、近衛文麿はドイツのナチ党を参考にした日本の新しい政治のあり方を模索し始め、1940年に入るとアイデアを実現すべく行動を開始しました。
この時の近衛による一連の活動のことを日本史用語で新体制運動と言って、その新体制運動の結果生まれたのが大政翼賛会でした。
大政翼賛会が結成された背景
1940年6月、近衛は新体制運動をスタートすることを新聞記者たちの前で発表。
すると、近衛の新体制運動に賛同する人たちが続々と現れ、新体制運動は一気に加速することになりました。
多くの人たちが新体制運動に賛同した背景には、閉塞していた日本の政治事情があります。
当時の事情を、軍部・政党・国民の3つの視点から確認しておきます。
軍部(主に陸軍)の事情
当時、日本政府は日中戦争を終わらせるための和平工作(汪兆銘工作)を模索していましたが、陸軍がこれに反対していました。
陸軍は日中戦争が終わることを望んでおらず、中国を背後から支援しているイギリス・アメリカにも戦争を仕掛け、これに勝利すれば日本は大東亜(東アジア・東南アジア)の覇者になれる・・・と考えていたのです。
そして、強大な敵(イギリス・アメリカ)と戦うために国民の自由を制限できるナチ党のような全体主義は、陸軍にとってとても魅力的な政治体制に映りました。
政党の事情
1930年代に入ると政府では軍部の発言力が増して、政党は存在感を失ってしまいました。
1920年代に続いていた政党政治(憲政の常道)は、1931年5月に起きた五・十五事件で終わりを迎え、その後、日本の政治には軍部の意向が色濃く反映されるようになりました。
近衛の新体制運動は、存在感が空気になっていた政党が一発逆転の大チャンスでした。
これから近衛が結成するであろう政党の中枢に入り込むことができれば、一挙にして政党の発言力を回復させることができるのでは!?
※ただし、一党独裁政治は民主主義に反する思想だったため、これに反対する政治家も一定数いました。
国民の事情
国民は、力を失った政党に失望し、現状を変えてくれる強力な勢力の出現を期待していました。
そこで現れたのが、近衛による新体制運動だったのです。
日中戦争が始まってから、どんどん生活が苦しくなっていく・・・。
国民の声を政治に反映してくれるはずだった政党は、力を失っていて頼りにならないし、新体制運動が始まれば、今よりは政治が良くなって私たちの生活も良くなるかも・・・?
『現状が最悪だから、新体制運動で政治が変われば今よりはマシになるだろう!』って感じの考え方が国民の間に広まり、新体制運動は国民からも支持を受けることになりました。
近衛文麿の考え
一方、当事者である近衛は、新体制運動の目的をこう考えていました↓
- STEP1ナチ党の日本版みたいな党(大政翼賛会)を立ち上げて政府と国民の一致団結を図る。
- STEP2大政翼賛会は、国民の強力な支持を背景に、新党は政治の主導権を握り、軍部(陸軍)の暴走を食い止める。
- STEP3大政翼賛会は全体主義により国力を総動員し、日中戦争を終わらせる。
ここで抑えておきたいのは、軍部・政党・国民の多くが新体制運動に賛同したけど、近衛文麿の考え方には100%賛同はしていないってところです。
陸軍は、日中戦争を継続するために一党独裁体制に賛同したけど、
近衛は陸軍の力を抑制して日中戦争を終わらせようと考えていました。
勢いを失っていた政党は、一党独裁体制を利用して勢力復活を目論んだけど、
しかし、全体主義実現のためナチ党の独裁体制を参考にしていた近衛は、政党に政治の主導権を渡すつもりはありませんでした。
日中戦争の重い負担に苦しむ国民は政治革新には賛同したけど、
近衛の掲げる全体主義はその国民の自由を制限するものでした。
この意見の微妙な食い違いは、この後の大政翼賛会の結成に大きな影響を与えることになるよ。
第二次近衛内閣の結成
1940年7月、近衛に新体制運動を進めてもらいたい陸軍は、近衛を次の首相にするため、軍部大臣現役武官制を利用して陸軍大臣の就任をボイコットし、米内内閣を解散に追い込みます。
米内内閣解散後、重鎮たちの間で次期首相の人選について話し合われて、近衛文麿が首相になることが決まりました。
こうして、1940年7月13日、第二次近衛内閣が成立します。
権力者に返り咲いた近衛文麿は、早速新党の結成にとりかかります。
大政翼賛会の結成
新しく立ち上げる政党の方針は、以下のように決まりました。
党の名前は大政翼賛会!
政党の名前は大政翼賛会に決まります。
『大政』は「天皇陛下による政治」、『翼賛』は「天皇の助ける」という意味なので、
『大政翼賛会』っていうのは「天皇陛下による政治をお助けする会」という意味になります。
大政翼賛会の組織
大政翼賛会は、国民の一致団結を目的としているため、その組織も当然、全国規模の巨大なものでした。
大政翼賛会のトップ(総裁)には首相(つまり近衛文麿!)が就任し、
そこに、上から順に総裁→道府県支部→市町村支部→町内会・部落会→隣組という部局が連なります。
図にするとこんなイメージです。
ちなみに、今も存在している町内会は、大政翼賛会がルーツだと言われているよ。
大政翼賛会の位置付け
大政翼賛会は、政府・議会・軍部から独立した新しい組織とすることが決まりました。
あれ、大政翼賛会って政党だから、議会に属してないといけないのでは・・・?
大政翼賛会は、ナチ党のような一党独裁を参考にしていたので、「何かを決めるときに議会による議論は不要!」と考えたんだよ。
・・・ただ、この考え方は実質的に議会を廃止することを意味していて、中には「いやいや、それは憲法違反だろ!」と批判の声もありました。(この点は後述します。)
さらに、大政翼賛会の結成日は、近衛の誕生日である10月12日と決まります。
【悲報】大政翼賛会、方針が定まらない
党名や組織図、結成日などサクッと決まりましたが、いざ具体的な政策・方針を決めようとすると、作業は難航します。
なぜなら、先ほど説明したように大政翼賛会に参加しようとする人たちの利害がバラバラすぎて、統一した方針が作れなかったからです。
・日本を全体主義国家にしてアメリカ・イギリスへの戦争を望む陸軍
・大政翼賛会を通じて国政を動かす主導権を握りたい政党
・日中戦争の泥沼化で閉塞した雰囲気をぶち壊してほしい国民
他にも海軍、官僚、右翼団体、経済界など、いろんな人たちがいろんな意見を言いまくって、方針作りは困難を極めます。
ただ、この事態は十分予想できたことであって、本来なら大政翼賛会のトップである近衛文麿がリーダーシップを発揮して、意見を1つにまとめなければなりません。
・・・が、近衛は八方美人なところがあり、ヒトラーのような強力なリーダーシップに欠けていました。
結局、方針が定まらないまま10月12日の迎え、近衛は発会式でこんな感じのことを言います。
大政翼賛会の方針は大政翼賛・臣道実践の2つに尽きる。これ以外の方針や宣言は不要であり、国民は誰もがそれぞれの立場で誠実に役割を果たすのみである!
それっぽいことを言っていますが、要するにリーダーシップを発揮して意見を1つにまとめるのを諦めた・・・ってことです。
大政翼賛会に期待をしていた近衛の側近の中には、この発言を聞いて近衛に失望する者もいました。
【さらに悲報】大政翼賛会、政治活動ができなくなる
大政翼賛会の方針が定まらずグダグダ状態になると、次第に大政翼賛会に反対する人たちの批判の声が強くなっていきます。
さらに1940年11月に入ると、いろんな意見に揉みくちゃにされた近衛は新体制運動への意欲を失い始めます。
その後、大政翼賛会は「議会の役割を奪う大政翼賛会は憲法違反!」と炎上することになり、1941年1月に開かれた帝国議会でついに『大政翼賛会は憲法違反!』という公式見解が示されました。
憲法違反を言い渡された大政翼賛会は、権力を行使しうる行為(政治活動)を禁止させられることになり、最終的には公事結社と呼ばれる「政治に関係のない公共の利益を目的とする組織」に分類される結果となりました。
当初は、「国民と政府が一致団結した一党独裁体制を敷くことで、軍部の暴走を抑えることのできる強固な政治体制を築いて、日中戦争に勝利しよう!」という目的で結成された大政翼賛会ですが、
終わってみれば、「国民と政府の一致団結を目指すけど、政治には関与できない」というなんとも中途半端な組織になってしまったわけです。
政治活動に関与できない以上、戦争を望む軍部を抑えるという当初の目的は失敗に終わり、日本の政治はこれまでどおり軍部主導によって行われることになります。
大政翼賛会のその後
グダグダに終わった大政翼賛会の結成ですが、実は先ほど図で紹介した組織だけはしっかりと作られました。
政府は、軍部の意向を受けて、「政治に関係のない公共の利益を目的とする組織」になった大政翼賛会の組織を、政府の命令・思想を国民の隅々にまで伝える伝達機関として利用することにしました。
政府の命令・思想は、この組織を通じて一番末端の隣組まで伝わり、隣組から国民一人一人へと伝わっていくことになります。
1940年以降、戦争が激化して国力を総動員する必要が生じると、命令伝達の役割を持つ大政翼賛会は重要な役割を果たすようになります。
近衛文麿は、大政翼賛会を通じて軍部の政治介入を抑えようとしたんだけど、終わってみれば、大政翼賛会は命令・思想を全国民に伝える伝達機関として軍部に利用され、軍部主導の政治をより一層強固にしてしまう結果になったんだ・・・。
消滅する政党
各政党たちは、「これからの日本の政治は、大政翼賛会による一党制になる・・・!!」と考えてすでに党を解散していました。・・・が、大政翼賛会は政治活動を禁止され党として存続できなくなったため、日本から政党が消滅してしまいました。
つまり、全ての議員が政党に所属しない無所属議員になったということです。
身の拠り所を失った議員は、ザックリと大政翼賛会の賛成派と反対派に分かれ、新しい歩みを始めることになります。
大政翼賛会の傘下組織
大政翼賛会が結成されると、多くの団体が馳せ参じて大政翼賛会の傘下に入りました。
これらの団体は、大政翼賛会の伝達機能をサポートし、時には伝達内容を直接実行することもありました。。
このような傘下団体との連携を図ることで、大政翼賛会は伝達機能の大幅パワーアップに成功し、「国のため、戦争に勝つため、国民は多くを我慢し国のために尽くせ!」という全体主義的な国民統治をするために欠かせない重要な役割を担うようになっていったのです。
コメント
めちゃくちゃわかりやすかったです✨
一点集中の権力作りって難しいですよね