今回は、後鳥羽上皇が創り出した上皇直属軍である西面の武士(さいめんのぶし)についてお話をしてみようと思います。
学校の教科書なんかでは「西面の武士は、後鳥羽上皇が用意した対幕府用軍隊ですよ」って話で終わりなんですが、その辺の話をもうちょっと掘り下げて紹介してみます。
西面の武士と北面の武士の違い
平安時代末期、僧兵による強訴に対抗するため上皇の護衛隊として北面の武士が登場しました。
西面の武士はこの北面の武士と何が違うのでしょうか・・・?
北面の武士の目的は、強訴への対応や上皇が外出する場合の護衛がメイン。どんな人が採用されるのかというと、上皇と個人的に仲の良い人物や縁のある人たち。武勇にも優れている必要はありますがそこまでの高い水準は求められず、貴族身分の者も多くいました。容姿などで選ばれることもあって上皇の男色相手が選ばれることもあったりします・・・(汗。
一方の西面の武士の目的は、建前上は北面の武士と同じです。しかし、西面の武士に選ばれる人たちは北面の武士とは対照的で、生粋の武士たちばかり。
つまり、西面の武士は「上皇の護衛隊」と言い理由を隠れ蓑にして、ガチの軍隊編成を目論んだものだったわけです。
軍隊を持つ以上、敵がいるわけですが、後鳥羽上皇の敵とは誰だったのか?
それが実は、鎌倉幕府なんです。
後鳥羽上皇はなぜ西面武士を創設したのか
さて、話の流れ的に次に疑問に思うのは、「後鳥羽上皇はなぜ鎌倉幕府を倒そうとしたのか?」ですよね!
この理由は、様々考えられるのですがおそらく一番大きいのは金の問題です。
当時の上皇って実は日本最大の荘園領主でした。そこから得られる財源をお寺建てたり、生活したり、やりたいことをやってたわけです。
鎌倉幕府が成立すると、上皇の所有する荘園に大きく2つの変化が起こります。
- 鎌倉幕府によって任命された地頭が税を徴収するにようになった。上皇が地頭に何か物申そうとしても、鎌倉幕府経由でなければ認められず、しかも、意見のほとんどは幕府に認められなかった。
- 武士の躍進によって相対的に上皇の権威・権力が低下したことで、荘園を寄進してくれる人が減った。
1の地頭に関しては、上皇の所領であるはずなのに上皇の思い通りにならないという上皇の苦悩が簡単に想像できます。地頭の設置は、源頼朝が朝廷権力を奪うために行った政策の1つで、じわりじわりと朝廷を追い込んでいきました。
上皇の持つ荘園の多くは寄進地形荘園と呼ばれる荘園です。漢字ばかりで長ったらしいですが、以下の流れが寄進地形荘園。
地主A「ハァ・・・、なんかいろんなところから『文句言わずに税金多めに払えや』だの『土地をよこせ。無理ならば戦争だ』とか言われて、全然安心して暮らせないんだが。」
地主B「俺もAみたいに大変だったんだけどよ。なんか上皇に土地を渡したら、毎月金払う代わりに土地を守ってくれるようになったぜ。マジおすすめだから、いっそのこと上皇に土地全部渡しちゃえば?」
地主A「いやいや、土地渡したら俺生活できないからw」
地主B「それが、そうでもないんよ。土地を渡すって言っても書面上の名義を貸すだけで、日々の生活は何も変わらんのさ!上皇は財源が欲しいわけで、住んでいる人を追い出したりとかそんなことするわけないから安心しておk」
地主A「マジか・・・。それならちょっと上皇にお願いしてくる!!」
こんな感じで誰かに対して土地を預けるのが寄進地形荘園。
これも武士の影響力が増すと、おそらく「今は上皇よりも有力御家人とかに寄進した方が土地を安全そうじゃね?」って思う人が増えたのでしょう。上皇に土地を寄進する者はめっきり減ってしまいました。
この辺りの財政事情が後鳥羽上皇が西面の武士を創設して、鎌倉幕府をぶっ倒そうとした理由になったようです。
西面の武士が1206年にはその存在が確認されているので、おそらく1200年代前半に創設されたものだと思われ、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に敵意を露わにしたのもこの頃でしょう。
後鳥羽上皇は1221年に、実際に倒幕のために挙兵するわけですが、実は1200年代から既に頭の中に鎌倉幕府をぶっ倒す構想を練っていたのでした。
後鳥羽上皇と西面の武士
新しい軍事力を手に入れた後鳥羽上皇ですが、実はかなり武勇に長けた男で自分で刀剣を打つのが趣味という生粋の武人でもあります。
上に挙げた荘園に関する問題も冷静に考えれば、「いやいやwいきなり倒幕とかじゃなくて、ちゃんと話し合ったり交渉した方がいいんじゃないの?」って思ったりもします。実際に朝廷にいる多くの貴族はそう思ってました。
ところが血気盛んでイケイケな後鳥羽上皇はそうは思わず、「邪魔なものはぶっ潰す」と言わんばかりに西面の武士を編成し、虎視眈々と倒幕の機会を伺います。
さらに後鳥羽上皇は、西面の武士だけにとどまらず、近侍する人々にまで刀や槍の稽古をしていたと言います。本気度がハンパないです。
西面の武士と承久の乱
最後に、西面の武士が創設されてから承久の乱が起こるまでの話をハイライトで追ってみます。
承久の乱の大きなきっかけになったのは、1219年に三代目将軍の源実朝が暗殺された事件。
この鎌倉幕府内のイザコザを見て、後鳥羽上皇は遂に行動を開始します。
まず1つとして、鎌倉幕府からの「皇族の者を1人関東に連れてきてくれ。将軍にするから」という要望を断固拒否します。
鎌倉幕府は軍を派遣して朝廷を威圧までしますが、後鳥羽上皇は自分の意思を曲げません。これまでなんだかんだ保たれていた朝廷と幕府の関係はこの事件をきっかけに決定的に悪化します。
ちなみに、朝廷に皇族を拒否された後、その代わりに実際に将軍になったのが藤原将軍の藤原頼経です。
上の話が1219年の6月の話。同年7月には、遂に西面の武士の軍隊としての大仕事がやってきます
それが源頼茂(みなもとのよりもち)誅殺事件。(おそらく歴史的には超マイナー事件)
表向きは、源頼茂が将軍の座を奪う隠謀を企んだとして誅殺された事件です。この事件にはどうも裏があるようで、実際のところは源頼茂が後鳥羽上皇が鎌倉幕府を呪詛していることを知ってしまったため、その口封じに殺害したのではないか?という説があります。
まぁ、なにはともあれ、西面の武士の力で政敵?を排除した初めての出来事でした
そして遂に1221年、承久の乱が起こります。仕掛けたのは後鳥羽上皇。
・・・
が、後鳥羽上皇自慢の西面の武士は圧倒的強さの鎌倉軍の前に完膚なきまでに叩き潰され、上皇軍はあっけなく敗北。
承久の乱の後、後鳥羽上皇が島流しにあったのを機に西面の武士は消滅してしまいます。
西面の武士まとめ
こんな感じでなんとも出番の少ない西面の武士。ですが、朝廷の最高権力者である上皇が自らの軍隊を持とうとした点は、かなり革新的でした。
日本って不思議な国で、国のトップが軍事力を持ったことってほとんどないんですよ。それこそ、奈良時代と明治時代以降ぐらいなんじゃないかな?
平安時代は軍事は武士に丸投げだったし、
鎌倉時代は鎌倉幕府のやりたい放題だし、
室町時代は武家の足利氏が朝廷の権威を借りて軍隊持たずに頑張ったけど、みんなが暴れて戦国時代に突入しちゃったし、
江戸時代は、徳川がやりたい放題だし・・・。
そんな中、直属軍を持とうと考えた後鳥羽上皇はやはり異質です。そして、そんな後鳥羽上皇による倒幕運動の象徴こそが西面の武士だったのです。
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