

今回は金ヶ崎の戦い(退き口)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!信長・秀吉・光秀・家康が一度に揃った、奇跡の修羅場だったんだ。
金ヶ崎の戦いと聞くと、多くの人が「豊臣秀吉が殿(しんがり)を務めて大活躍した戦い」というイメージを持っているのではないでしょうか。
しかし実は、この戦場には信長・秀吉・明智光秀・徳川家康の四人全員がいました。のちに天下人となる者、そして本能寺で信長を討つ者が、同じ修羅場を共に潜り抜けていた——。金ヶ崎の退き口は、まさに「天下人の卵」たちが運命の分岐点に立った奇跡の瞬間だったのです。
金ヶ崎の戦いとは?
- 元亀元年(1570年)、織田信長が越前の朝倉氏を攻めた戦い
- 盟友・浅井長政が突如裏切り、信長軍は挟撃の危機に陥った
- 豊臣秀吉・明智光秀が殿(しんがり)を務め、信長は朽木越えで脱出した
金ヶ崎の退き口(かねがさきののきぐち)とは、元亀元年(1570年)に越前国(現在の福井県敦賀市)で起きた合戦の撤退劇のことです。
織田信長が朝倉義景を討伐するために越前へ進軍したところ、味方だと信じていた浅井長政が突如裏切り。前に朝倉軍、後ろに浅井軍という挟撃(はさみうち)の危機に追い込まれた信長が、命からがら京都へ逃げ帰った——というのがこの戦いの大まかな流れです。
「退き口」とは、軍が撤退するときの出口・ルートのことを指します。この撤退があまりにも劇的だったため、「金ヶ崎の退き口」という呼び名で語り継がれてきました。

「退き口」っていうのは、今でいえば「撤退ルート」のこと。そして撤退のときに最後尾で敵を食い止める部隊のことを「殿」って言うんだ。最も危険な役割だから、まさに命がけの任務だよ!
背景:なぜ信長は朝倉を攻めたのか
金ヶ崎の戦いが起きた背景を理解するには、織田信長と朝倉氏の関係、そして浅井長政との婚姻同盟を押さえる必要があります。

■信長と朝倉氏の関係
永禄11年(1568年)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を果たし、義昭を第15代将軍に就任させました。
信長は上洛後、将軍の権威を利用して各地の大名に上洛(京へ出向くこと)を命じます。しかし越前の朝倉義景は、この要請を何度も無視しました。
朝倉氏はもともと越前で100年以上続く名門大名です。信長のような「成り上がり者」に命じられる筋合いはない——そんなプライドもあったとされています。

でも、なんで信長はわざわざ朝倉を攻めたの?無視されたから怒った、ってだけ?

それもあるけど、一番の理由は「将軍の命令を無視する大名を放っておくと、他の大名まで言うことを聞かなくなる」からだよ。信長が天下を治めるためには、見せしめとして朝倉を討つ必要があったんだ。いわば「なめられたら終わり」っていう戦国時代の厳しいルールだね。
こうして元亀元年(1570年)4月、信長は足利義昭の名目も活用しながら、朝倉義景を討伐するため越前へ兵を進めることを決断しました。
■浅井長政と信長の同盟——妹・お市の方の婚姻
ここで重要になるのが、信長と浅井長政との関係です。
信長は永禄10年(1567年)ごろ、近江国(現在の滋賀県)の大名・浅井長政に妹のお市の方を嫁がせました。これは婚姻による政治的な同盟であり、信長にとって浅井は「義理の弟」にあたる最も信頼する味方でした。
しかし、浅井家には長年にわたる朝倉家との同盟関係がありました。浅井家は祖父の浅井亮政の代から朝倉家の支援を受けており、いわば「先祖代々の恩がある」間柄です。

実は、信長が浅井長政と同盟を結ぶときに「朝倉とは戦わない」という約束があったとも言われているんだ。だから信長が朝倉攻めを始めたとき、浅井長政は「その約束を破ったのか…!」と怒ったのかもしれないね。
■朝倉攻めの開始(元亀元年4月)
元亀元年(1570年)4月20日、信長は約3万の大軍を率いて越前へ向けて出陣しました。
まず攻略したのが、越前の入り口にあたる天筒山城(金ヶ崎城の支城)と金ヶ崎城です。天筒山城は激しい戦いの末に陥落し、続く金ヶ崎城も朝倉方の城将が降伏して開城しました。
ここまでは信長の快進撃でした。このまま一気に朝倉義景の本拠地・一乗谷を攻め落とすつもりだったのです。


天筒山城も金ヶ崎城も落ちた。このまま一乗谷を攻め落とし、朝倉を滅ぼす。背後の浅井は義弟だ、何も心配はいらぬ。
しかし、この信長の自信は間もなく打ち砕かれることになります。
戦いの経過
■金ヶ崎城の攻略——電撃的な快進撃
元亀元年(1570年)4月25日ごろ、信長軍は天筒山城を力攻めで一日で陥落させました。この城は金ヶ崎城の支城にあたる朝倉方の前線基地であり、かなりの激戦だったと伝わっています。
翌日には金ヶ崎城に進軍。金ヶ崎城の城将・朝倉景恒は信長軍の勢いに抗しきれず降伏し、城を明け渡しました。

わずか数日で越前の入口を制圧した信長軍。このまま朝倉義景の本拠地・一乗谷(現在の福井市)に向けて進軍するのは時間の問題に思えました。

ここまでは「信長の圧勝」って感じだね。でもこの直後に、戦国史に残るとんでもない急展開が起きるんだ…!
■浅井裏切りの急報——信長最大のピンチ
快進撃を続けていた信長のもとに、衝撃的な知らせが届きます。
「浅井長政が、朝倉方に味方した」——。
これは信長にとって、まさに青天の霹靂でした。浅井長政は信長の妹・お市の方を妻に迎えた義弟であり、信長がもっとも信頼していた盟友です。まさか裏切るとは夢にも思っていなかったのです。

長政がまさか…!あの男だけは絶対に裏切らぬと思うていたが…!
浅井長政の離反は、信長軍にとって致命的でした。なぜなら、浅井の領地は信長の背後にあたるからです。前方には朝倉軍、後方には浅井軍——完全な挟撃の形になり、このまま戦えば全滅する危険がありました。
■挟撃の危機と朽木越えの決断
信長は状況を即座に判断し、撤退を決断しました。しかし、来た道を引き返すことはできません。なぜなら、浅井軍がその道を塞いでいるからです。
そこで信長が選んだのが、琵琶湖の西側を通る山道——いわゆる朽木越え(くつきごえ)のルートでした。

朽木越えって、どういうルートなの?

敦賀(越前)から若狭を経由して、琵琶湖の西側の山道を通って京都に帰るルートのことだよ。普通の街道じゃなくて、山間の険しい道だったんだ。この地域を治めていた豪族・朽木元綱が信長を通してくれたから、なんとか逃げることができたんだよ!
朽木元綱は当初、朝倉方に味方するか信長方に味方するか迷っていたとされます。しかし、信長に同行していた松永久秀が朽木元綱を説得し、信長の通行を許可させたという話が伝わっています。
こうして信長は、わずかな供回りとともに山道を駆け抜け、4月30日には京都に帰還しました。出陣からわずか10日足らずでの撤退——信長にとって、生涯最大級のピンチからの脱出劇でした。
浅井長政の裏切り

金ヶ崎の戦いを語る上で、最大の謎といえるのが「なぜ浅井長政は信長を裏切ったのか」という問題です。

浅井長政は信長の妹・お市の方を妻に迎え、信長にとっては義弟(妹の夫)にあたる存在でした。信長が上洛を果たせたのも、浅井家の協力があったからこそです。
ではなぜ、長政は信長を裏切ったのでしょうか。最も有力な理由は、浅井家と朝倉家の間にあった「先祖代々の同盟関係」です。
浅井家は祖父・浅井亮政の代から朝倉家の援助を受けており、長政の父・浅井久政も朝倉との関係を重視していました。信長との同盟を結ぶにあたって、長政は「朝倉とは戦わない」という条件を信長に求めたとされています。

信長って、なんで浅井を信用してたの?約束を破ったって自覚はなかったのかな?

これは諸説あるんだけど、信長は「朝倉攻めは将軍の命令だから約束とは別」と考えていた可能性があるんだ。一方で長政にとっては「理由が何であれ、朝倉を攻めたなら約束違反」だったのかもしれないね。この認識のズレが悲劇を生んだとも言えるよ。

朝倉は先祖代々の恩人だ。義兄上(信長)とは固い盟約を結んだが…「朝倉を攻めない」という約束を破ったのは信長のほうだ。この裏切りだけは見過ごすことができぬ。
長政の決断は、武家社会における「義理」と「利害」のはざまで下されたものでした。信長との同盟を続ければ浅井家は安泰だったかもしれません。しかし、先祖代々の恩義ある朝倉家を見捨てることは、当時の武将にとって「人として許されない」行為でもあったのです。
また、長政自身の判断ではなく、父・久政をはじめとする家臣団の圧力が大きかったとする見方もあります。長政個人は信長との同盟を続けたかったが、「朝倉を裏切るなど許さぬ」という家中の声に抗えなかった——というのも一つの説です。
■この裏切りが生んだもの:姉川・本能寺への連鎖
浅井長政の裏切りは、単なる一回の戦いにとどまりませんでした。この出来事がきっかけとなり、信長を取り巻く情勢は大きく変わっていきます。
金ヶ崎から約2か月後の元亀元年(1570年)6月、信長は体制を立て直して浅井・朝倉連合軍と姉川の戦いで激突します。この戦いでは徳川家康の援軍もあり、信長軍が勝利しました。
しかし浅井・朝倉は完全には滅びず、本願寺や武田信玄らと連携して「信長包囲網」を形成。信長は四方八方から敵に囲まれる苦しい戦いを続けることになります。
最終的に信長が浅井・朝倉両氏を滅ぼしたのは、天正元年(1573年)のこと。そしてその約9年後、信長自身も本能寺の変で命を落とすことになります。

この金ヶ崎で生まれた信長vs浅井・朝倉の対立は、やがて「信長包囲網」へと発展していくんだ。ある意味、本能寺への長い導火線がここで点火されたとも言えるよ。
秀吉の殿軍(しんがり)—退き口のドラマ

金ヶ崎の戦いがこれほどまでに語り継がれてきた最大の理由は、やはり「殿(しんがり)」のドラマにあります。
殿とは、軍が撤退するとき最後尾に残って敵の追撃を食い止める部隊のことです。敵に最も近い位置で戦い続けなければならないため、生きて帰れる保証がない、まさに命がけの任務でした。
この決死の殿を引き受けたのが、当時はまだ「木下藤吉郎」と名乗っていた若き日の豊臣秀吉だったとされています。


殿(しんがり)は、この木下藤吉郎にお任せくだされ!

わしはここで死ぬかもしれん…。でもここで手柄を立てれば、わしの名が天下に響くぞ…!
秀吉はこのとき、まだ信長家臣団の中では低い身分の武将でした。しかし、この極限の任務を引き受け、見事に信長を逃がしたことで、信長からの信頼を一気に勝ち取ったとされています。
■殿は秀吉か光秀か?——史料による諸説
ただし、「殿を務めたのは秀吉」という話は、実は後世に作られた物語の影響が強いとも言われています。
信長の家臣・太田牛一が記した一次史料『信長公記』には、金ヶ崎での撤退に関する詳しい記述はあるものの、殿の名前は明確に書かれていません。
一方、江戸時代に書かれた『太閤記』や『武功夜話』などの軍記物では、秀吉が殿を務めたと華々しく描かれています。しかし、これらは秀吉の功績を讃えるために書かれた書物であり、事実をそのまま伝えているかは疑問が残ります。
📝 「殿(しんがり)は誰か?」諸説まとめ
・秀吉説:『太閤記』『武功夜話』など江戸時代の軍記物に記載。最も有名だが、後世の創作要素が指摘される
・光秀説:『明智軍記』などに記載。光秀が殿を務めたという伝承も残る
・複数人説:秀吉・光秀・池田勝正ら複数の武将が分担して殿を務めた可能性。近年はこの見方が有力

「殿は秀吉一人の大活躍」というのは、どちらかというと物語の世界のイメージが強いんだ。実際には複数の武将が協力して殿を務めた可能性が高い、というのが近年の有力な見方だよ。でも、秀吉が重要な役割を果たしたこと自体は間違いないと思うよ!
いずれにせよ、この金ヶ崎での決死の殿が秀吉の名を天下に押し上げるきっかけになったことは確かです。のちに天下人となる秀吉の出世物語は、ここから始まったと言ってもよいでしょう。

次のセクションでは、この戦いに関するもう一つの有名な逸話——お市の方の「小豆袋」の話が史実なのか伝説なのかを見ていくよ!さらに大河ドラマとの比較もやっていくから、楽しみにしていてね!
金ヶ崎の戦いをもっと深く知りたい人へ
お市の小豆袋—史実か伝説か
金ヶ崎の戦いにまつわるエピソードで、もっとも有名なものの一つが「お市の方の小豆袋」の逸話です。
伝承によれば、信長が越前で朝倉攻めを続けている最中、妹のお市の方は夫・浅井長政のもとにいました。お市は夫が信長を裏切ろうとしていることを知り、兄を救うために両端を紐で縛った小豆の袋を信長の陣に送ったとされています。
両端を縛った袋は「袋のネズミ」——つまり「逃げ道がない(挟み撃ちにされる)」という暗号だったのです。信長はこの暗号を見て危機を察知し、撤退を決断した——というのがこの逸話のあらすじです。

小豆袋の話ってすごくドラマチックだけど、これって本当にあった話なの?

実はこの話、同時代の一次史料には出てこないんだ。後世に作られた伝説である可能性がかなり高いと言われているよ。でも、とっても有名な逸話だから知っておくことは大切だよ!
お市の方の小豆袋の逸話は、信長の家臣・太田牛一が書いた一次史料『信長公記』には一切記載がありません。この話が登場するのは、江戸時代に書かれた『浅井三代記』などの軍記物からです。
『浅井三代記』は浅井家の歴史を物語風にまとめた書物であり、事実そのものを記録したものとは言い切れません。「お市が兄を救うために密かに暗号を送った」というストーリーは、後世の人が「こうだったら面白い」と脚色した可能性が高いとされています。
とはいえ、お市の方が信長と長政の間で複雑な立場にいたことは事実です。兄と夫の板挟みという状況が、こうしたドラマチックな逸話を生んだのかもしれません。

テストでは「小豆袋」が出題されることもあるけど、「有名な伝承(=創作の可能性が高い話)」として覚えておくのがポイントだね。大河ドラマではほぼ毎回このシーンが描かれるから、ドラマファンにとっても押さえておきたい話だよ!
史実とドラマの違い
金ヶ崎の戦いは、NHK大河ドラマでも何度も描かれてきた人気のシーンです。ただし、ドラマは「主人公の視点」で物語を描くため、同じ戦いでも作品ごとに全く違った描き方がされています。
ここでは「麒麟がくる」(2020年)、「どうする家康」(2023年)の2作品と史実を比較します。2026年放送中の「豊臣兄弟!」については、2026年4月現在まだ金ヶ崎の回が放送されていないため、今後の放送で注目したいポイントをご紹介します。
■「麒麟がくる」の金ヶ崎
「麒麟がくる」は明智光秀を主人公とした大河ドラマです。金ヶ崎のシーンでは、光秀が殿の中心として描かれ、撤退戦で獅子奮迅の活躍を見せました。
史実では、光秀が殿を務めたという記録は『明智軍記』など後世の軍記物に見られるものの、一次史料での裏付けは乏しいとされています。ただし、光秀が殿に関わった可能性を完全に否定する史料もないため、「ありえなくはない」演出と言えます。
■「どうする家康」の金ヶ崎
「どうする家康」は徳川家康を主人公とした大河ドラマです。このドラマでは、家康が信長に十分な情報を与えられないまま越前に取り残され、命の危険にさらされる姿が描かれました。
史実でも家康は信長の同盟者として朝倉攻めに参加しており、撤退時に最前線に近い位置にいた可能性があります。ドラマでは「信長に振り回される家康」という構図が強調されましたが、実際には家康自身も信長との連携で朝倉攻めに積極的に加わっていたと考えられています。

じゃあ家康は本当に「置いてきぼり」にされたの?

「置いてきぼり」かどうかは正直わからないんだ。ただ、信長が撤退を決めたとき、家康への連絡が遅れたか不十分だった可能性はある。少なくとも家康がかなり危ない目に遭ったのは確かだと言われているよ。
■「豊臣兄弟!」の金ヶ崎(2026年4月現在・放送前)
2026年放送中の「豊臣兄弟!」は、豊臣秀長を主人公に据えた大河ドラマです。2026年4月現在、金ヶ崎の回はまだ放送されていません。
ただし、主人公が秀長である点から、今後の放送では「兄・秀吉が殿を務める場面を弟・秀長の視点で見届ける」という演出が期待されます。秀吉の殿軍は「諸説あり」な史実の余白が大きい場面のため、ドラマとしての独自解釈がどう描かれるか注目です。放送後にこの記事を更新する予定です。
| 比較項目 | 麒麟がくる(2020) | どうする家康(2023) | 豊臣兄弟!(2026) |
|---|---|---|---|
| 主人公 | 明智光秀 | 徳川家康 | 豊臣秀長 |
| 殿の描写 | 光秀が中心 | 殿の描写は控えめ | 放送前・未確認 |
| お市の小豆袋 | 描かれる | 描かれる | 放送前・未確認 |
| 信長との関係 | 信長への忠誠と葛藤 | 信長に振り回される同盟者 | 放送前・未確認 |
| 史実との乖離度 | 中(光秀の殿は諸説あり) | 中(家康の危機は確か) | 放送後に更新予定 |

大河ドラマは「誰の視点で描くか」によって、同じ金ヶ崎の戦いでもまったく別の物語になるんだ。ドラマを楽しんだ後に「じゃあ史実はどうだったのかな?」と調べてみると、歴史がもっと面白くなるよ!
よくある質問
元亀元年(1570年)4月に越前国(現在の福井県敦賀市)で起きた合戦です。織田信長が朝倉義景を討伐するために越前へ進軍したところ、同盟者だった浅井長政に裏切られ、挟撃の危機に陥って撤退を余儀なくされた事件です。
浅井家と朝倉家には祖父の代から続く長年の同盟関係がありました。信長と婚姻同盟を結ぶ際に「朝倉とは戦わない」という約束があったとされ、信長が朝倉攻めを強行したことで、長政は先祖代々の義理を優先して信長に背いたと考えられています。父・浅井久政ら家臣団の圧力も大きかったという説もあります。
諸説あります。最も有名な「秀吉が殿を務めた」という話は、江戸時代の『太閤記』など後世の軍記物に基づいています。光秀が殿を務めたという記録は『明智軍記』に見られます。近年では、秀吉・光秀・池田勝正など複数の武将が分担して殿を務めた可能性が有力視されています。
同時代の一次史料『信長公記』には記載がなく、江戸時代以降に成立した『浅井三代記』などの軍記物に登場する逸話です。後世の創作・伝承である可能性が高いとされていますが、お市の方が兄と夫の板挟みという複雑な立場にいたこと自体は史実です。
信長は体制を立て直し、同年6月に浅井・朝倉連合軍と姉川の戦いで激突して勝利しました。しかし浅井・朝倉は滅びず、本願寺や武田信玄と連携して「信長包囲網」を形成。最終的に信長が浅井・朝倉両氏を滅ぼすのは天正元年(1573年)のことです。金ヶ崎の戦いは「信長包囲網」形成の起点となった歴史的転換点です。
朽木越え(くつきごえ)とは、信長が金ヶ崎から京都に撤退する際に通った山道のルートです。敦賀から若狭を経由し、琵琶湖の西側の山間部を抜けて京都へ帰還しました。この地域の豪族・朽木元綱が信長の通行を許可したことで、無事に脱出することができました。松永久秀が朽木元綱を説得したという逸話も伝わっています。
まとめ:金ヶ崎の戦いが歴史を変えた

以上、金ヶ崎の戦い(退き口)のまとめでした!信長・秀吉・光秀・家康の四人が同じ修羅場にいた、まさに「天下人の卵」たちの試練の瞬間だったんだ。下の関連記事で秀吉や本能寺の変の記事もあわせて読んでみてね!
- 1567年頃信長、妹のお市の方を浅井長政に嫁がせ同盟
- 1568年信長、足利義昭を奉じて上洛
- 1570年4月信長、朝倉義景討伐のため越前へ出陣
- 1570年4月25日頃天筒山城・金ヶ崎城を攻略
- 1570年4月下旬浅井長政の裏切り発覚。信長、撤退を決断
- 1570年4月30日信長、朽木越えで京都に帰還
- 1570年6月姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を撃破
- 1573年浅井氏・朝倉氏が滅亡
Wikipedia日本語版「金ヶ崎の戦い」(https://ja.wikipedia.org/wiki/金ヶ崎の戦い)(2026年4月確認)
コトバンク「金ヶ崎の戦い」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年4月確認)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
太田牛一『信長公記』(一次史料:金ヶ崎撤退の経緯を記録)
戦国ヒストリー「金ヶ崎の退き口(1570年)」https://sengoku-his.com/481(2026年4月確認)
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