法然とは?生涯や思想を簡単にわかりやすく紹介【天才が努力したら新宗教が生まれたお話】

今回は、浄土宗の開祖で有名な法然(ほうねん)について紹介します。

 

 

法然が開いた浄土宗がどんな宗教だったかというと、ざっくりと「ひたすらに『南無阿弥陀仏(なむあみだぶむ)』と唱えれば、難しい仏教の教えや厳しい修行をしなくても、苦しみのない極楽浄土へ行けるんだぜ!」という非常にシンプルな教えです。

 

 

現代の我々ではピンときませんが、実はこの考え、当時の仏教界では仏教のあり方を根底から覆す革命的な考え方でした。

 

 

「ひたすら念仏を唱えれば、極楽浄土へ行ける。」

 

 

一見、シンプルに見える法然の考え方ですが、法然の生涯を追っていくとシンプル故に実に奥の深い思想であることがわかってきます。というわけで、以下の3点を中心に法然の生涯について紹介しようと思います。

なぜ、一見シンプルに見える念仏の教えが革命的な思想なのか?
そんな革命的思想を広げた法然は一体何を考えていた?
出る杭は打たれるは日本の文化。法然の苦難の道。
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法然、幼い頃に父を失う

法然は1133年、今でいう岡山県あたりで生まれました。

 

 

父は、その地域の治安維持を任されていたお役人で漆間時国(うるまときくに)と言いました。

 

 

当時の日本は、律令(りつりょう。今でいう法律)が機能しなくなり、地方は権力者とのコネと武力がものをいう弱肉強食の時代でした。

 

 

そんな治外法権の時代、漆間時国は家を夜襲され、幼い法然を残したまま命を落とします。1141年、法然が9歳の時でした。

 

 

犯人は明石定明(あかし さだあき)という人物で、荘園の管理をしていた人物。当時は税金を徴収する地方官僚とそれに反発する荘園領主の間の対立が激化した時代でもありました。法然にとっては父を失った悲しき事件ですが、当時ではよくある事件の1つに過ぎません。今の日本がどれだけ平和かを考えさせられます。

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法然の出家

一家の大黒柱を失った法然は、当時9歳。父の時国は死ぬ間際、法然にこう言い残したと言われています。

 

 

「私を襲った敵を恨んではいけない。もしお前が敵を恨むようなことがあれば、将来また敵の子孫がお前を恨むというように、憎しみの連鎖が生まれるだろう。お前は早くそのような世俗の世界を離れて出家しなさい。」

 

 

主人を失い将来に悲嘆した法然の母は、法然を親戚のお寺に預けることを決心します。これは母との子の別れを意味しており、母にとっては苦渋の決断だったはずです。

 

 

さて、親戚に預けられ実の父母と別れた法然ですが、秀才だったらしく「法然は天才だ!こんな田舎よりも比叡山に行って修行すべき!!」という親戚の配慮によって1145年、故郷を離れ比叡山に向かうことになります。当時法然はまだ13才。

 

 

1147年、その比叡山で法然は出家。こうして法然は本格的に僧侶としての道を歩み始めることになります。

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法然と腐敗する比叡山

1147年といえば、僧兵の強訴が激しくなり、僧侶が政治に深く介入し始めた時代でした。

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特に延暦寺と興福寺の強訴は有名で、両寺院は所領を始めとした既得権益を守るため、ありとあらゆる手段を使って天皇や上皇に圧力をかけ、自分たちの有利になるよう政治を動かそうとします。

 

 

こうして寺院が政治活動に専念するようになると、比叡山にはあられくれ者の僧兵たちがはびこり、修行や勉学に励む者も少なくなります。天台宗を信仰する寺院としては比叡山は完全に腐敗していたのです。

 

 

1183年には天台座主だった明雲が木曾義仲に討ち取られる事件も起こっており、これは比叡山の世俗化・腐敗化の象徴的な出来事と言えます。

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「ここにこのまま居ても、仏教の真の教えを学ぶことなどできない」と考えた法然は、1150年、叡空(えいくう)を師として延暦寺のやや北側に位置する黒谷という場所で厳しい修行と勉学に明け暮れました。

 

 

叡空は、天台宗と共に浄土信仰についても詳しい師匠でした。叡空の存在は法然が浄土信仰と向き合うきっかけにもなります。

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法然と末法思想

仏教とは簡単に言ってしまえば、「いかにして苦しみだらけのこの世界から救われるのか?(苦しみのない浄土の世界に行けるのか?)」を考える宗教です。

 

 

法然は難解な経典を大量に熟読し、厳しい修行にも耐え抜きます。その努力と持ち前の才によって周囲から「智慧第一の法然房」と呼ばれるほど絶大な評価を得ていた法然ですが、当の本人に納得した様子は全くありません。

 

 

 

法然「めっちゃ修行して、大量の本を読んだけど未だに救われる方法はわからないままだ。周りは色々私のことを言うし、師匠らも貴重なお話をしてくれるんだけど、なんか違うんだよなぁ」

 

 

法然がいた比叡山は天台宗という宗派の拠点でした。天台宗は、法華経という経典を大事にしており、その法華経の中心となっていたのはお釈迦様の教えです。

 

 

その比叡山にある本を読み尽くし、修行を実践し続けていても全く答えを見出せない法然は、次第に天台宗ではなく阿弥陀様の信仰に傾倒するようになります。

 

 

日本では1050年ごろから「お釈迦様の教えが正しく伝わらなくなりみんなが悟りを開けなくなる(苦しみのない浄土へ行く方法を知ることができなくなる)時代が到来する!!」という末法思想が流行り始めます。

 

 

そして末法思想の到来に多くの人たちが恐怖し、絶望に打ちひしがれていました。末法思想については以下の記事でも紹介しています。

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そんな「末法思想到来でお釈迦さまの教えはオワコンなんじゃね?」って頃に人気を集め始めていたのが阿弥陀様への信仰だったのです。

 

 

ちなみに阿弥陀様信仰っていうのは、ザックリ言うと「お釈迦様の教えを実践し自分の力で浄土へ行くのは超難しいから、人々を救う力を持っている阿弥陀様に救ってもらえるように頑張ろうぜ!!」っていう信仰です。

 

 

この阿弥陀様の救いの力にあやかろうとすることを仏教用語で「他力本願」って言います。

 

 

今でこそ他力本願って「他人に丸投げしてあとはよろしく〜」的な意味で使われますが、本来の意味は全く違います。

 

 

阿弥陀様に救ってもらうにしても、何もしない者を阿弥陀様は救ってくれません。私たちは、阿弥陀様に救ってもらえるよう努力しなければならないんです。そして阿弥陀様に救ってもらえるよう何かに励むことを本来、他力本願と言うのです。(豆知識)

 

阿弥陀様信仰については以下の記事をどうぞ!

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そして、「阿弥陀様に救ってもらえるには何をすべきか?」というのを書いたのが「往生要集(おうじょうようしゅう)」という本でした。985年、天台宗の僧であった源信(げんしん)という僧によって書かれた著書で、世間一般では地獄絵図が書かれている本として有名です。

 

 

 

実は、法然の師である叡空は往生要集についてとても詳しい人物であり、法然は往生要集の話を師から多く聞き、おそらく何度も往生要集を読み返したことでしょう。

 

 

 

 

そして往生要集を熟読した法然は「阿弥陀様に救ってもらう方法とは、念仏以外にはないのではないか?」と考えるようになります。というのも、往生要集に引用されている善導(ぜんどう)という中国の僧侶の「念仏を唱え続ければ、10人いれば10人が往生でき、100人いれば100人が往生できる」という一文に強い関心を持ったからです。

 

 

往生要集自体は、阿弥陀様を信仰するには「阿弥陀様のことを心の中で考えること」が重要だと言っており、念仏を声に出して唱えることを熱く語っているような本ではありません。それに、心の中で念仏する以外にも様々な実践が必要と書かれており、法然の言う「とにかく声に出して念仏唱えればいいんだな!」ってことも書かれていません。

 

 

法然の発想は、往生要集からヒントを得た法然オリジナルの思想のものでした。そしてその思想は、膨大な著書を読み込み、一心不乱に厳しい修行を耐え抜いた法然だからこそ発想しうる思想でした。

 

 

法然に限らず、天才のひらめきっていうのは努力に裏打ちされた下地があって初めて生まれるものです。これは学業の世界でもスポーツの世界でも同じこと。法然もそんな天才かつ努力家の一人だったのでした。

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法然と浄土宗の始まり

しかし、法然は迷っていました。というのも、「とにかく念仏を声に出して唱えればOK」という称名念仏の教えは、これまでの日本の仏教を全否定するものだったからです。

 

 

法然の思想に基づけば、これまで行われていた密教的な修行や教理の習得は必要ありません。つまり、今いる多くの僧たちの存在を真っ向から否定することになるわけで、多くの敵を生む可能性を秘めていた危険な発想だったんです。

 

 

しかも、当時の日本では仏教は国政と深く関与しており、下手をすれば朝廷を敵に回しかねません。と言うか、晩年の法然は本当に朝廷から弾圧され、讃岐に流されています。

 

 

考え方の違いから次第に師匠の叡空とも対立するようになった法然は、1175年遂に比叡山を降りることを決意します。というのも、法然は往生要集に引用されていた善導の一文が気になって気になってしょうがなくて、善導の本がどこかにないか探しに行こうと考えていたのです。

 

 

比叡山を降りた後、法然は「念仏を唱えまくったらなんか不思議な霊験があった!」という円照(えんしょう)と出会い、自らの考えが間違っていないことを確信。

 

 

そして、念願の善導の本も宇治で発見。本を読み込んだ法然はここでも自分の考えが正しかったことを改めて確信し、遂に浄土宗開宗に至ります。

 

 

1175年当時、法然は43才。出家してから25年間の厳しい修行とストイックなまでの思索の末に浄土宗が生まれたのです。

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腐敗する浄土宗

法然の「阿弥陀様を『南無阿弥陀仏』とひたすら念仏を唱えるだけで、極楽浄土へ行ける」という思想は、「仏教とは厳しい修行や勉学を行い、厳しい戒律を守ることである」という従来の仏教を根本から覆す革命的な思想です。

 

 

そして、法然の思想は非常にシンプルであり、それゆえに爆発的に世間に広まることになります。また、源平合戦による人々の不安な気持ちも浄土宗が流行する1つの原因となりました。

 

 

平家物語で南都を焼討してしまった平重衡が法然の説法を聞いて帰依したという話や、一ノ谷の戦いで平敦盛を討ったことを悔いた熊谷直実が法然に帰依したとか、そんな話が登場するのは社会情勢が不安定化する中、浄土宗が人気を集めていたことを如実に物語っています。

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しかし、その教理のシンプルさは爆発的な布教のきっかけとなった一方、浄土宗が腐敗化する一因にもなってしまいました。

 

 

「南無阿弥陀仏って唱えれば、それ以外何をしてもいいんだろ。じゃああんな厳しい戒律なんてもう守らねーわww」って感じで念仏を唱えれば、何をしても良い的な発想をする人が増えてしまったんです。

 

 

先ほど紹介した「他力本願」の意味が本来の意味とかけ離れてしまったのには、この辺の事情もあるんじゃないかと個人的には思っている。

 

 

この浄土宗の乱れは、旧仏教勢力(興福寺や延暦寺)に付け入る隙を与えてしまいます。

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弾圧される法然

延暦寺や興福寺は、浄土宗を拡大解釈する輩を見つけては、「浄土宗は仏教を乱す悪しき輩だ!」と朝廷に直訴を始めたのです。

 

 

1204年には延暦寺が、そして1205年には興福寺が直訴を行います。その内容は、ザックリと次のようなものでした。

 

浄土宗を理由に戒律を見下したり、お釈迦様を悪く言う者がいること
無理やり改宗させたり、無知な人々を次々と教化していること

 

 

しかし、法然には延暦寺らと戦う意欲はありませんでした。

 

 

1204年の延暦寺による弾圧の際には、弟子たちを集め不埒な行いをしないことを誓う7ヶ条の内容にサインまでさせています。

 

 

これは「七個条制戒」と呼ばれ、法然自身、予想外の浄土宗の広がりに対応しきれていない様子が伺えます。そして法然自身、戒律を正しく守ることで有名だったのはなんとも皮肉なお話です。

 

 

浄土宗は、民衆ばかりではなく、朝廷貴族たちにも広く普及していたこともあり、この時の興福寺や延暦寺の直訴はうやむやのまま終わることになります。(ただし、浄土宗を破門になった弟子もいた)

 

 

しかし1206年、法然の弟子が後鳥羽上皇の女房と密通するという事件が起こります。これには流石の法然も無力でした。後鳥羽上皇の逆鱗に触れた法然は弟子もろとも処罰され、4名が死刑、法然と7名の弟子が流罪となります。(ちなみにこの事件は法然を嫌う何者かの捏造事件説もある)

 

 

 

法然は僧としての身分も剥奪され、藤井元彦という俗名に強制変更させられてしまいました。そして、この時流罪となった弟子の一人に、後に浄土真宗の開祖となる親鸞(しんらん)の姿もありました。

 

 

法然は讃岐国へ流されており、今でいう香川県には法然にまつわる逸話や史跡が多く残っています。その後1210年ごろ、法然は流刑を許され再び京に戻ります。1212年、80歳で他界しました。法然は民衆から貴族、武士まで広い人々に慕われ、とても包容力のある人物でした。

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法然の生涯まとめ

以上、法然の生涯をハイライトで紹介してみました。

 

 

法然は大乗仏教の基本理念である「どんな人でも浄土の世界へ行くことができる」という教えを忠実なまでに信じ、考え抜き、血の滲む努力をし、真摯に仏教に向き合い続けてきました。

 

 

そんな努力の人である法然はこんな言葉も残しています。

一丈の堀を越えんと思わん人は、一丈五尺を越えんと励むべし。

 

(現代語訳)

一丈(約3m)の塀を越えようと思うなら、1.5倍の高さを越えようと目指さなければ成功はありえない

 

 

法然が言うと妙にリアルです。

 

 

数学や自然科学の世界では、「真理とは美しくシンプルなものである」って考える人が実は結構多いです。数式の美で言えば、オイラーの公式とかアインシュタインが相対性理論の中で導いたE=MC2なんかは真理を映す美しい公式として有名です。

 

 

そして私は法然の生涯・教理を知るにつれ、これと似たようなことを思いました。浄土宗の教えってとってもシンプルなんですよ。私の家は浄土宗とは無縁の家なんですが、そのシンプルさ故に浄土宗の教えって実は仏教の真理に近いところにあるのではないか?なんてふと思ってしまいました。

 

 

弟子の親鸞が波乱万丈すぎる人生を送っていて、法然はどうも地味な存在になってしまいますが、日本の宗教界に大革命を起こした凄い人物です。

 

 

おそらく、民衆や女性でも信仰できる体系的に整理された宗派っていうのは浄土宗が日本初なんじゃないかと思います。ちなみに、断片的な民衆信仰は行基や空也によって行われていました。

 

 

法然は、自らの教えについて「選択本願念仏集」という本をまとめています。この本では、「なぜ念仏を唱えるだけで人々は救われるのか?」というのを様々な経典を根拠に説明を行なっています。シンプルに見える教理ですが、実はその裏には様々な経典の記載がベースになっており、その理論は以外にも理路整然とされていることに驚きます。

 

 

この複雑な理論をシンプルな教理にまとめ上げるあたりが、やってることが天才数学家たちと本質的には同じなんですよね。シンプルゆえに美しく真実である・・・というのは仏教も自然科学の世界も共通なのかもしれません。

 

 

ちなみに選択本願念仏集を読むと法然が思索の人であり妥協を許さぬ人間であったことがよーくわかります。素人にはなかなか難解な本ですが、興味のある方はぜひ読んでみてはいかがでしょうか!



仏教入門
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