

今回は、1570年に起きた姉川の戦いについて、原因・登場人物・結果・地図まで、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
「姉川の戦いは織田信長が楽勝した戦い」——そう思っていませんか?
実は、この戦いの前半、浅井長政の軍は信長の本陣近くまで迫り、信長は窮地に追い込まれていました。信長が逆転できたのは、盟友・徳川家康のとっさの判断があったからなのです。
この記事では、姉川の戦いがなぜ起こり、どう展開し、どんな結果をもたらしたのかを、地図付きでわかりやすく解説していきます。
姉川の戦いとは?わかりやすく3行でまとめると
- 1570年(元亀元年)、織田信長・徳川家康 vs 浅井長政・朝倉義景が近江国・姉川で激突した戦い
- 浅井長政が信長との同盟を破り、盟友・朝倉義景を選んだことが開戦のきっかけ
- 信長・家康連合軍が勝利したが、浅井・朝倉は滅亡せず、信長包囲網として抵抗を続けた
姉川の戦いは、1570年(元亀元年)6月28日(旧暦。ユリウス暦換算では7月30日)に、近江国(現在の滋賀県)を流れる姉川の河原で起きた合戦です。
戦ったのは、織田信長・徳川家康の連合軍と、浅井長政・朝倉義景の連合軍。つまり、4人の有力武将がぶつかり合った大規模な合戦だったのです。
この戦いは、かつて同盟関係にあった信長と浅井長政が敵味方に分かれたことが最大の特徴です。なぜ2人の関係は壊れてしまったのか?次のセクションで詳しく見ていきましょう。
姉川の戦いはなぜ起こったのか?原因をわかりやすく解説
姉川の戦いの原因を理解するには、「信長の上洛」「朝倉義景の拒否」「浅井長政の裏切り」という3つの出来事を押さえておく必要があります。
■ 朝倉義景の上洛拒否と信長の怒り
1568年、信長は足利義昭を奉じて京都に上洛し、義昭を室町幕府の将軍に就任させました。
信長は各地の大名に「上洛して将軍に従え」と命じましたが、越前(現在の福井県)の大名・朝倉義景はこれを拒否しました。

なぜ信長ごときの命令に従わねばならぬ。越前は朝倉の領地じゃ!
信長は激怒し、1570年4月、朝倉攻めを決行します。3万の大軍を率いて越前に攻め込みました。
ところが、ここで信長にとって予想外の事態が起きます。
■ 浅井長政の苦渋の選択:義理の兄か、盟友か
信長にとって、近江国の大名・浅井長政は重要な同盟相手でした。信長は自分の妹・お市の方を長政に嫁がせ、姻戚関係を結んでいたのです。
しかし、浅井家には朝倉家との先代からの盟約がありました。浅井長政の父・浅井久政の時代から、浅井と朝倉は「朝倉を攻めるときは事前に相談する」という約束を結んでいたとされています。
信長は朝倉を攻める際、この約束を無視しました。これに対し、浅井長政は苦悩の末、ある決断を下します。

信長の妹・お市を嫁にもらっておきながら…。しかし、朝倉を見捨てることは武士の義に反する。義を守って戦うのだ。
長政は信長を裏切り、朝倉側につくことを決意します。信長が越前で朝倉軍と戦っている最中、浅井軍が背後から攻撃を仕掛けたのです。
■ 金ヶ崎の退き口:信長、命からがらの撤退
前方に朝倉軍、後方に浅井軍——信長は挟み撃ちの危機に陥りました。
このとき信長がとった行動は、全速力での撤退でした。これが有名な「金ヶ崎の退き口」(金ヶ崎の退き口)です。
金ヶ崎の退き口(1570年4月):越前で朝倉軍を攻めていた信長が、浅井長政の裏切りを知って急いで京都へ撤退した出来事。木下秀吉(のちの豊臣秀吉)が殿を務め、信長は命からがら逃げ延びたとされる。(※徳川家康もしんがりを務めたとする説があるが、一次史料への記載はなく諸説あり)

浅井長政はなぜ信長を裏切ったの?信長の妹と結婚してたのに?

浅井家と朝倉家は、長政の父の代から「一緒に戦おう」と約束を結んでいた仲だったんだ。信長がその約束を無視して朝倉を攻めたから、長政は「義理を守るために信長と敵対する」という選択をしたんだよ。信長の妹・お市を嫁にもらっていたから、長政にとってはものすごく苦しい決断だったはずだね…。
京都に戻った信長は態勢を立て直し、浅井・朝倉との決戦に備えます。そして1570年6月、ついに両軍は近江国・姉川で激突することになるのです。

姉川の戦いの登場人物:誰と誰が戦ったのか?
姉川の戦いは、大きく分けると以下の2つの陣営がぶつかった合戦です。
織田信長・徳川家康 連合軍(兵力:約3万・織田2万5000+徳川5000)
浅井長政・朝倉義景 連合軍(兵力:約2万1000・浅井5000〜6000+朝倉1万5000)
※兵力は諸説あり、正確な数字は史料によって異なります。
ここでは、この戦いに関わった主要な4人の武将を紹介していきます。
■ 織田信長:天下統一を目指す革命児

尾張(現在の愛知県西部)出身の戦国大名。桶狭間の戦いで今川義元を破って以来、破竹の勢いで勢力を拡大し、1568年には足利義昭を将軍に据えて京都を掌握しました。
浅井長政とは妹・お市の方の婚姻を通じて同盟関係にありましたが、長政の裏切りに激怒。姉川での決戦に臨みました。

浅井め、裏切りおったか!金ヶ崎の恥は必ず返す。姉川で決着をつけてやるわ!
■ 徳川家康:信長の盟友として参戦

三河(現在の愛知県東部)の大名で、信長とは清須同盟を結んだ同盟相手です。姉川の戦いでは約5000の兵を率いて参戦し、この戦いの勝敗を決定づける活躍をしました。

家康は後に江戸幕府を開く人物だけど、この時点ではまだ信長の同盟者として協力する立場だったんだ。でも姉川の戦いでの活躍は、のちの天下人としての片鱗を見せているよ!
■ 浅井長政:義を選んだ近江の猛将

近江国(現在の滋賀県)北部を支配した大名。信長の妹・お市の方を妻に迎え、信長とは義兄弟の関係でした。
しかし、朝倉家との先代からの盟約を重んじ、信長と敵対する道を選びます。姉川の戦いでは浅井軍の先頭に立ち、信長の本陣近くまで迫る猛攻を見せました。
■ 朝倉義景:上洛拒否が招いた戦端

越前国(現在の福井県)を支配した大名。朝倉氏は戦国大名の中でも名門として知られていましたが、義景は信長の上洛命令を拒否し、信長との対立を深めました。
姉川の戦いでは約8000の兵を派遣して浅井軍を支援しましたが、義景本人は越前に留まり、一門の朝倉景健に指揮を任せたとされています。

兵力は信長・家康のほうが多かったの?

数の上では信長・家康側が多かったと言われているよ。でも、浅井軍の突撃力は凄まじくて、前半は数の優位を完全にひっくり返されてしまったんだ。数が多ければ必ず勝てるわけじゃないのが合戦の怖いところだね!

姉川の戦いの場所はどこ?地図でわかりやすく解説
姉川の戦いが行われたのは、近江国・姉川の河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)です。
姉川は琵琶湖に注ぐ川の1つで、戦国時代には浅井氏の本拠地・小谷城のすぐ南を流れていました。
信長軍は姉川の南側に布陣し、浅井・朝倉軍は北側に布陣。両軍は川を挟んで向かい合う形で対峙しました。

現在の滋賀県長浜市野村町には「姉川古戦場跡」の石碑が建っていて、実際に訪れることもできるよ。姉川は今も静かに流れていて、ここで大規模な合戦があったとは想像しにくいほど穏やかな場所なんだ。
信長は浅井軍の本拠・小谷城を直接攻めるのではなく、姉川沿いに布陣して浅井・朝倉軍を野戦に引き出す作戦を選びました。家康の軍勢は信長の東側(右翼)に配置されました。
姉川の戦いの経過をわかりやすく解説
では、1570年6月28日(旧暦)の姉川の戦いが、どのように展開したのかを見ていきましょう。
■ 開戦直前:各軍の布陣と緊張
姉川を挟んで、南側に織田・徳川連合軍、北側に浅井・朝倉連合軍が布陣しました。
布陣は以下の通りです。
南側(信長・家康側):西に織田軍約2万5000 / 東に徳川軍約5000
北側(浅井・朝倉側):西に浅井軍約5000〜6000 / 東に朝倉軍約1万5000
つまり、西側では織田軍 vs 浅井軍、東側では徳川軍 vs 朝倉軍が向かい合う形になりました。

■ 前半戦:浅井軍が信長軍を圧倒
早朝、浅井軍が姉川を渡って猛攻を開始しました。浅井長政自ら先頭に立ち、織田軍に突撃をかけたのです。
浅井軍の勢いは凄まじく、織田軍は次々と押し崩されていきました。後世の軍記物(『浅井三代記』など)によると、浅井軍の先鋒・磯野員昌が織田軍の陣を11段まで突き破り、信長の本陣のすぐ手前まで迫ったとも伝えられています。(※この「11段説」は後世の軍記物に基づく伝承で、『信長公記』などの同時代一次史料には記載がありません)
前半の形勢:浅井先鋒が織田軍を11段まで押し込んだとも伝えられている(後世の軍記物による伝承)!
信長は自身も戦場の中で戦ったとされ、まさに窮地に立たされていました。
■ 逆転:家康の奇策で形勢が一変
しかし、東側では状況が違いました。徳川家康の軍勢は朝倉軍と互角以上に戦い、朝倉軍を押し返し始めていたのです。

朝倉軍を押し返した!今のうちに浅井軍の側面を突くぞ…!ここが勝負の分かれ目だ!
朝倉軍を破った家康は、すかさず浅井軍の横(側面)から攻撃を仕掛けました。正面から織田軍と戦っていた浅井軍は、突然の横からの攻撃に対応しきれず、一気に形勢が逆転します。
また、織田軍の中からも稲葉一鉄(稲葉良通)らの部隊が反撃を開始し、浅井・朝倉軍は総崩れとなりました。

つまり、姉川の戦いの勝因は家康の判断力にあったんだ。自分の正面の敵(朝倉軍)を素早く片付けて、味方のピンチを救いに向かった。このとっさの判断がなければ、信長は負けていたかもしれないよ。
姉川の戦いの結果・勝者はどちら?
姉川の戦いは、織田信長・徳川家康連合軍の勝利に終わりました。
勝者:織田信長・徳川家康 連合軍/敗者:浅井長政・朝倉義景 連合軍
敗れた浅井・朝倉軍は姉川の北岸へ撤退し、浅井長政は本拠地の小谷城に、朝倉軍は越前へと退きました。
戦いによる死者は、浅井・朝倉側が約1100人、織田・徳川側が約800人とも伝えられていますが、正確な数字は史料によって異なります。

信長が勝ったのに、なぜ浅井・朝倉はそのまま滅亡しなかったの?

いい質問だね!姉川の戦いは野戦(屋外での戦い)だったから、負けた側は城に逃げ込むことができたんだ。浅井長政は小谷城に、朝倉軍は越前に撤退してそのまま籠城した。城を落とすにはまた別の戦いが必要だったから、すぐには滅亡しなかったんだよ。
こうして姉川の戦いそのものは信長の勝利に終わりましたが、浅井・朝倉との戦いは終わりませんでした。むしろ、この後に形成される「信長包囲網」によって、信長はさらに厳しい状況に追い込まれていくことになるのです。

姉川では勝ったが、まだ安心はできん。浅井も朝倉も城に逃げおったわ…。徳川の働きがなければ危なかった。
姉川の戦いのしんがり(殿軍):撤退を支えた武将たち
姉川の戦いで敗れた浅井・朝倉軍は撤退を余儀なくされました。このとき重要な役割を果たしたのが、殿軍と呼ばれる部隊です。
しんがり(殿軍)とは?
撤退する軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ役割のこと。追いかけてくる敵と正面から戦わなければならないため、最も危険な任務とされました。そのため、腕に覚えのある勇将が選ばれるのが通例でした。
浅井・朝倉軍が敗走するなか、信長・家康の軍は追撃を仕掛けました。このときしんがりを務めて味方の退却を助けたのが、浅井方の武将たちです。
浅井軍では、遠藤直経らが奮戦し、信長軍の追撃を食い止めようとしました。遠藤直経は信長の陣に肉薄したとも伝えられるほどの猛者でしたが、この戦いで討ち死にしたとされています。
また、朝倉側では真柄直隆という豪傑が有名です。真柄直隆は身長7尺(約210cm)ともいわれる大男で、大太刀を振るう怪力の持ち主として知られていました。敗戦が濃厚になると味方を逃がすべく単騎で奮戦しましたが、この戦いで討ち取られました。(※使用した大太刀の寸法は「五尺三寸(約161cm)」説、「七尺三寸(約221cm)」説など諸説あり)

しんがりって、そんなに大変な役割なの?

めちゃくちゃ大変だよ!味方は逃げていくのに、自分たちは追いかけてくる敵と戦い続けなきゃいけないんだ。しんがりを務めた武将は「命を張って味方を守った英雄」として語り継がれることが多いよ。姉川の戦いでも、しんがりを務めた武将たちの奮戦があったからこそ、浅井・朝倉の主力は本拠地まで退却できたんだね。
ちなみに、しんがりが有名な戦いといえば、姉川の戦いの直前に起きた「金ヶ崎の退き口」があります。このとき信長軍のしんがりを務めたのが豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)だったと伝えられています。
信長包囲網と姉川の戦いのその後
姉川の戦いは信長の勝利に終わりましたが、これで平和が訪れたわけではありません。むしろ、姉川の戦い後に信長はさらに厳しい状況に追い込まれていくことになります。
■ 信長包囲網:姉川の戦いの後に形成
姉川の戦いに敗れた浅井・朝倉は滅亡せず、さらに信長に対抗する勢力が次々と合流しました。これが「信長包囲網」と呼ばれる動きです。
信長包囲網の主なメンバー
浅井長政(近江)/朝倉義景(越前)
石山本願寺・顕如(大坂)/三好三人衆(畿内)
武田信玄(甲斐・参加表明)/足利義昭(室町幕府将軍・黒幕)
足利義昭(室町幕府第15代将軍)は、信長に擁立されて将軍になったにもかかわらず、信長の専横に反発して各地の大名に信長打倒を呼びかけました。これにより、東西南北から信長を圧迫する包囲網が完成したのです。


信長包囲網は、「姉川で負けた浅井・朝倉だけが信長に抵抗していた」というイメージとは全然違うんだ。本願寺も武田信玄も加わって、信長はまさに四面楚歌の状態だったんだよ。特に武田信玄の上洛は信長にとって最大の脅威だったんだ。
■ その後:浅井・朝倉の滅亡と比叡山焼き討ち
信長は包囲網に対して、各個撃破の戦略で対抗しました。その過程で起きた主な出来事を見ていきましょう。
まず、1570年9月には石山合戦が始まり、石山本願寺の顕如が信長に対して挙兵しました。本願寺との戦いは、なんと10年以上も続くことになります。
さらに、1571年には信長が比叡山延暦寺の焼き討ちを断行しました。延暦寺は浅井・朝倉に味方していたため、信長は容赦なく攻撃を加え、寺院を焼き払ったのです。この出来事は信長の残虐さを象徴するエピソードとして有名です。
そして1573年、ついに信長は浅井長政と朝倉義景を相次いで滅ぼしました。朝倉義景は一門の裏切りにあい自害、浅井長政も小谷城を攻め落とされ自害しました。姉川の戦いから約3年後のことです。

浅井長政の妻・お市の方はどうなったの?

お市の方は3人の娘(茶々・初・江)とともに小谷城を脱出して、信長のもとに戻ったんだ。この3人の娘は「浅井三姉妹」として、それぞれ波乱万丈の人生を送ることになるよ。特に茶々(淀殿)は豊臣秀吉の側室になったことで有名だね。
テストに出るポイント:姉川の戦い
ここでは、定期テストや入試で出やすい姉川の戦いのポイントを整理しておきましょう。

姉川の戦いは「信長の天下統一への道のりの途中で起きた戦い」という位置づけで出題されることが多いよ。桶狭間の戦い(1560年)→ 金ヶ崎の退き口(1570年)→ 姉川の戦い(1570年)→ 比叡山焼き討ち(1571年)→ 長篠の戦い(1575年)→ 本能寺の変(1582年)という流れを押さえておこう!
姉川の戦いについてよくある質問
1570年(元亀元年)、近江国の姉川(現在の滋賀県長浜市付近)で起きた合戦です。織田信長・徳川家康の連合軍と、浅井長政・朝倉義景の連合軍が激突しました。結果は織田・徳川連合軍の勝利に終わりましたが、浅井・朝倉はすぐには滅亡せず、その後も信長に抵抗を続けました。
信長が朝倉義景を攻めるために越前へ侵攻した際、同盟関係にあったはずの浅井長政が朝倉への義理を選んで信長を裏切りました。信長は命からがら撤退(金ヶ崎の退き口)した後、改めて浅井・朝倉と決着をつけるために姉川で対峙しました。
織田信長・徳川家康連合軍が勝利しました。前半は浅井軍が信長軍を圧倒していましたが、徳川家康が朝倉軍を破った後に浅井軍の側面を突いたことで形勢が逆転しました。ただし、浅井・朝倉は本城に撤退して存続したため、この戦いだけでは滅亡に至りませんでした。
近江国(現在の滋賀県長浜市野村町付近)を流れる姉川の河原で行われました。現在も「姉川古戦場跡」として記念碑が建てられており、実際に訪れることができます。
しんがり(殿軍)とは、軍が撤退する際に最後尾で敵の追撃を食い止める役割のことです。最も危険な任務とされ、勇将に任されました。姉川の戦いでは、浅井方の遠藤直経や朝倉方の真柄直隆らがしんがりとして奮戦しました。
足利義昭が中心となって信長打倒を呼びかけ、浅井長政・朝倉義景・石山本願寺(顕如)・三好三人衆・武田信玄らが連携して信長を包囲しようとした動きのことです。姉川の戦いの後に本格的に形成され、信長は四方を敵に囲まれる厳しい状況に追い込まれました。
浅井氏は先代(浅井久政)の時代から朝倉氏と強い同盟関係にありました。信長が朝倉義景を攻撃した際、浅井長政は「信長の義兄弟」としての立場よりも「朝倉との先代からの盟約」を優先し、朝倉側について信長を挟み撃ちにしました。義理を重んじた選択と言われています。
まとめ:姉川の戦いのポイント
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1560年桶狭間の戦い:信長が今川義元を破り天下へ名乗りを上げる
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1567年信長と浅井長政が同盟。お市の方が嫁ぐ
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1568年信長、足利義昭を奉じて上洛。朝倉義景は上洛を拒否
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1570年4月金ヶ崎の退き口:浅井長政の裏切りで信長が撤退
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1570年6月28日姉川の戦い:信長・家康連合軍が浅井・朝倉連合軍を破る
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1570年〜信長包囲網の形成:浅井・朝倉・本願寺・武田らが信長を包囲
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1571年比叡山焼き討ち:信長が延暦寺を焼き討ちにする
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1573年朝倉義景・浅井長政が相次いで滅亡

以上、姉川の戦いのまとめでした!「信長が楽勝した」のではなく、実は浅井軍の猛攻に追い詰められ、家康の機転でギリギリ逆転できた戦いだったんだね。下の記事で信長の生涯や浅井長政、金ヶ崎の退き口についてもあわせて読んでみてください!
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📅 最終確認:2026年4月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「姉川の戦い」(2026年4月確認)
コトバンク「姉川の戦い」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「信長包囲網」(2026年4月確認)
Wikipedia日本語版「真柄直隆」(2026年4月確認)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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