

今回は、江戸時代に利根川の流れを東へ移した大工事と、印旛沼・手賀沼の干拓の歴史を、わかりやすく解説していくよ!2026年9月の北印旛沼の堤防決壊については、千葉県の発表をもとに別の章でまとめているよ。
YouTube解説もしています。読むのが面倒な人は動画がオススメです◎
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版社『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
千葉県北部の印旛沼は、昔から自然のままそこにある沼のように見えるかもしれません。
しかし実は、この沼と利根川の関係は、江戸時代の利根川東遷という大工事で大きく変わりました。利根川の流れが東へ移されたあと、利根川の大水が沼へ流れこむようになったのです。
この記事では、その利根川東遷から、江戸時代の2人の老中による干拓・掘割の挑戦、洪水とともに生きた人びとの声、戦後の干拓の完成までを時系列でたどります。
あわせて、2026年9月に起きた北印旛沼の堤防決壊についても、公的な発表の範囲で整理します。決壊のニュースについて知りたい方は、目次の「2026年9月、北印旛沼の堤防決壊」から読み進めることもできます。
なお、この記事で紹介する江戸時代以来の工事が、今回の決壊の原因だと確認されたわけではありません。歴史の話と今回の災害は、分けて読んでいただければと思います。
利根川東遷とは?
- 利根川東遷とは、江戸湾(いまの東京湾)に注いでいた利根川の流れを、東へ移して銚子から太平洋へ出るようにした江戸時代初めの大工事のこと
- 工事は1594年に始まり、伊奈忠次と伊奈家の人びとに受け継がれて1654年に一応の完成をみた
- ねらいは江戸を大水から守る・新田を開く・舟で物を運ぶ道をつくることだったと考えられる一方、利根川の大水が印旛沼・手賀沼へ流れこむようにもなった
いまの利根川は、関東平野を南東へ流れ、千葉県の銚子で太平洋に注ぐ大河です。川に水を集める土地の広さ(流域面積)は日本最大で、「坂東太郎」という別名でも知られています。

ところが、江戸時代より前の利根川は、太平洋ではなく江戸の町の前に広がる江戸湾、いまの東京湾へ注いでいました。いまの利根川の下流にあたる所には、常陸川という別の小さな川が流れていたのです。
1590年、江戸に入ったのが、のちに江戸幕府を開く徳川家康です。家康は、検地や治水、新田開発に腕をふるった家臣の伊奈忠次に、関東の川の工事をまかせました。
伊奈忠次がついた役職は、関東の徳川家の領地を治めるもので、のちに関東郡代とよばれるようになります。工事は1594年に始まり、忠次のあとも伊奈家の人びとに受け継がれて、1654年まで60年にわたって続きました。
■赤堀川で利根川を東へつなぐ
1621年、周りより高い台地を切り開いて、利根川と東の常陸川とをつなぐ水路が掘られ始めました。これが赤堀川です。
1654年、赤堀川の工事によって、利根川の水は赤堀川を通って常陸川へ流れこむようになります。こうして利根川は、はじめて銚子から太平洋へ出るようになりました。

ただし、このときの赤堀川は幅がせまく、利根川の水はまだ十分には東へ流れませんでした。川幅が大きく広げられたのは、江戸時代後半の1809年のことです。
あわせて、利根川から分かれて江戸へ向かう流れとして、江戸川も整えられました。利根川と江戸川の分かれ道になったのが関宿(いまの千葉県野田市)です。

テスト前なんだけど、「東遷」ってどういう意味? 字だけ見てもピンとこないんだよね。

「東遷」は「東へ移す」という意味だよ。「遷」は、都を移す「遷都」の「遷」と同じ字なんだ。
つまり利根川東遷は、「江戸湾に向かっていた利根川を、東の銚子のほうへ移した工事」ってこと。まず地図で「海に出る場所が江戸湾から銚子に変わった」とイメージできればバッチリだよ!
■なぜ川の流れを変えたのか
では、なぜこれほど大がかりな工事をしたのでしょうか。国や自治体の資料をみると、ねらいは主に3つあったと考えられています。
1つ目は、江戸を利根川の大水から守ることです。昔の利根川は江戸の東の低い土地を通って海へ出ていたため、大水が出れば江戸のあたりまで水が来るおそれがありました。
2つ目は、川の周りの低い土地を田に変える新田開発です。3つ目は、船で人や物を運ぶ舟運の道をつくることでした。
東遷のあとは、東北の物資を船で銚子から利根川をさかのぼり、関宿から江戸川に入って江戸まで運べるようになります。それまでの房総半島の沖をまわる海の道は、危険をともなうものでした。
川沿いには、船が荷物や人を積み下ろしする河岸がいくつも生まれ、関東や東北の各地と江戸が船の道で結ばれていきます。

河岸は、今でいう「川の港」や「物流センター」みたいな場所だね。道路やトラックがない時代、重い米や産物をたくさん運ぶには、船がいちばん頼りになったんだ。
💡 目的には諸説あります:国土交通省の資料などは「江戸を水害から守る」ことを目的の1つに挙げていますが、研究者の中には、江戸を中心とする水運の道をつくることこそが第一の目的だったとみる人もいます。どれか1つに言い切らず、「いくつかのねらいが重なっていた」と理解しておくのが安全です。
ところが、利根川東遷には別の結果もありました。東へ向かった利根川の大水は、今度は下流の千葉県北部の低い土地へ流れていくことになったのです。
江戸時代の印旛沼が水害を受けやすかった理由
東遷のあと、利根川が運んできた土砂が下流にたまっていきました。その影響を大きく受けたのが、いまの千葉県北部にある印旛沼と手賀沼です。

印旛沼は、長門川という川で利根川とつながっていました。そのため、利根川があふれるたびに、その水が沼へ逆に流れこみ、周りの田が水につかるようになります。

言いかえると、印旛沼は利根川からあふれた水をいったん受け止める遊水地の役割を果たしていたのです。

遊水地は、今でいう「調整池」みたいなものだよ。大雨のときに川の水をいったん逃がして、下流があふれないようにする場所なんだ。ただ、その「逃がし先」の周りに住む人たちは、そのたびに田や家が水につかる大きな負担を背負うことになったんだ。
■低い土地と、海までの遠さ
印旛沼が水につかりやすかった理由は、ほかにもあります。沼は海面からの高さが1mほどの低い土地にあり、沼の水が海へ出るには、利根川を約60〜70kmも下って銚子まで流れなければなりませんでした。
そのうえ、大雨のときには沼に流れこむ川の水がふえ、そこへ利根川の水も逆に流れこんできます。印旛沼は、上流と下流の両方から大水を受けるつくりだったのです。
利根川からの水は、前ぶれもなく突然やってきました。沼の近くで雨が降っていなくても押し寄せ、遠く日光のあたりに降った大雨がもとになることもあったと、地元では語られてきました。
しかも、流れこんだ水は利根川の水かさが下がるまで引きません。沼の周りが20〜30日も水につかったままになることがあったといいます。
■堤防が切れた跡「押堀」
大水で堤防が切れると、流れこむ水の勢いで地面がえぐられ、池が残りました。これを押堀といいます。
印旛沼の近くでは、1704年の洪水や明治時代の洪水などで、いくつもの押堀ができました。多くはのちに埋め立てられましたが、池をよけて直した堤防の跡が、いまも何か所も折れ曲がった道として残っています。

ちょっと気になったんだけど、印旛沼って、東遷の前は水害に強い沼だったの?

いい質問だね。沼がいつ今のような形になったのかは、資料によって見方が分かれているんだ。東遷の前から入り江が陸に取り残されて沼になっていた、という説明もあれば、東遷のあとに沼ができたとする辞典もあるよ。
はっきり言えるのは、「東遷のあと、利根川の大水が沼へ流れこむようになった」ということ。低くて水はけが悪いという弱点に、利根川の水が加わったことで、印旛沼の周りは大水と長く付き合うことになったんだ。
こうした沼を「干して田に変えてしまえばいい」と考えたのが、江戸時代中ごろの老中でした。次の章では、その最初の大きな挑戦を見ていきます。
田沼意次の印旛沼・手賀沼干拓
江戸幕府で政治を動かした老中の田沼意次は、田畑から納めさせる年貢だけに頼らず、商人の力を使って幕府の収入を増やそうとした人物です。
田沼は、いまの北海道にあたる蝦夷地の開発も計画していました。印旛沼・手賀沼の干拓は、そうした大がかりな事業の1つです。
干拓とは、沼や海を堤防で囲み、中の水を外へ出して陸地にすることをいいます。干拓でできた田からは、新しく年貢を取ることができます。

でも、なんでわざわざ沼を田んぼにしようとしたの? ほかにも土地はありそうなのに。

田沼には、年貢だけに頼らずに幕府の収入を増やしたい、という考えがあったんだ。沼を干して新しい田ができれば、そこから年貢が入るよね。
しかも印旛沼は、利根川の水が流れこんでたびたびあふれる沼だった。水を抜く水路ができれば、大水を防ぐことにもつながる。さらにその水路を船で使えれば、物を運ぶ道にもなる。1つの工事で3つの得を狙った、欲ばりな計画だったんだよ。
■工事の内容と、商人のお金
計画は、沼の西の端の平戸村(いまの八千代市)から検見川村(いまの千葉市)まで、長さ約17kmの掘割を掘り、沼の水を江戸湾へ落とすものでした。

ねらいは、新田開発・治水・水運の3つです。
工事は幕府が進め、お金は大坂や江戸の商人たちが出しました。工事が成功したら、できた新田の8割を出資した商人が受け取るという約束だったとされています。
工事は1780年代に進められました。始まった年については資料によって書き方が分かれています。
■噴火と大水、そして将軍の死
そのころ、天候の悪い年が続き、全国で天明の飢饉が始まっていました。その原因には、天候不順のほか、1783年の浅間山の大噴火もあげられています。

噴火で出た火山灰などが利根川に流れこみ、川底が高くなりました。川底が上がると、同じ雨でも川の水はあふれやすくなり、各地の水害を大きくする原因になります。印旛沼の工事も、噴火の被害でいったん止まったとされています。
1786年、工事は計画の3分の2ほどまで進んでいました。そこへ関東一円に降った大雨で利根川が大きくあふれ、工事中の掘割は壊されてしまいます。
同じ年、田沼を信頼して重く用いていた10代将軍徳川家治が亡くなりました。それをきっかけに印旛沼の工事は中止され、田沼も老中を辞めさせられます。
手賀沼の干拓も、洪水と田沼の失脚によって途中で止まりました。こうして田沼の干拓は、完成しないまま終わったのです。
もし田沼がこのときの胸の内を語ったとしたら、こんな言葉になったかもしれません。

新田ができれば年貢が増える。水を抜けば大水も防げる。水路ができれば船も通る。幕府にとっても、金を出す商人にとっても、悪くない話のはずだったのだが…。
天の大水に掘割を壊され、上様まで亡くなられては、もはやどうにもならぬ。
田沼の工事が止まってから半世紀あまり。印旛沼の掘割は、まったく別のねらいで、もう一度掘られることになります。
天保の掘割普請と水野忠邦
1841年、老中の水野忠邦は、幕府の立て直しに乗り出しました。これが天保の改革です。
改革の背景には、天保の飢饉で村が荒れ、百姓一揆が各地で相次いだことがありました。さらに、日本の近くの海には外国の船が来るようになっていました。
田沼の工事が止まった1786年から57年後の1843年、この天保の改革のなかで、印旛沼の掘割工事がふたたび始まります。

■工事の目的の変化(新田開発から物資輸送・国防へ)
このとき幕府には、ある心配がありました。もし外国の軍艦が江戸湾の入口をふさいだら、海の道が断たれ、江戸へ物が届かなくなるかもしれない、という心配です。
そこで考えられたのが、銚子から利根川と印旛沼を通り、いまの千葉市の検見川から江戸湾の内側へ抜ける水の道でした。外国の船に江戸湾の入口をふさがれても、東北や関東の物資を江戸へ運べるようにする。そんなねらいがあったと考えられています。

そのため水野の工事は、田沼のときとくらべて、新田をつくることよりも、物資を運ぶことと利根川の水を逃がすことに重点がありました。洪水を防ぐことも、目的の1つとして残っていたのです。
水野の立場に立ってみると、田沼の工事との違いはこう言い表せるかもしれません。

今度の掘割は、田をつくるためだけのものではない。外国の船に江戸湾をふさがれても、物資を江戸へ運べる道を確保するためだ。
■大名に割り当てられた難工事
工事は、5つの藩に割り当てられました。幕府の大工事で大名に人手や費用を負担させるしくみを、御手伝普請といいます。
📝 御手伝普請とは:江戸幕府が行う大規模な土木工事で、大名が領地の石高(米の取れ高)に応じて人足・資材・費用を負担した制度です。天保の掘割では5つの藩が工事を分担しました。
工事を受け持った5つの藩は、ふくらむ費用に苦しんだといわれます。現場には、かたい台地を切り開く所や、やわらかくて崩れやすい地盤の所があり、難しい工事でした。
それでも工事は短い期間でかなりの所まで掘り進められましたが、難しい場所は残りました。
■水野の失脚と工事の中止
同じ1843年、水野は、江戸と大坂の周りの土地を幕府のものにしようとする命令を出しました。これが上知令です。
領地を取り替えさせられる大名や旗本は強く反対し、年貢が重くなることなどをおそれた村や町の人びとも反対しました。幕府の中でも意見が分かれ、上知令は同じ年のうちに取り消されます。
その数日後、水野は老中を辞めさせられました。掘割の工事は幕府が直接引き継ぎましたが、翌1844年に中止されます。

田沼と水野って、2人とも印旛沼の工事を進めて、2人とも途中で失脚してるのね。偶然なの?

たしかに似ているよね。2度とも、工事を進めた老中が辞めさせられて、工事は完成しないまま止まったんだ。
ただ、失脚の理由は工事そのものじゃないよ。田沼は将軍・家治の死がきっかけで、水野は上知令への反対がきっかけ。それに田沼のときは、大水で掘割が壊されたことも重なっていたんだ。
大きな工事は何年もかかるから、進めていた人が政治の舞台から降りると続かなかった。そういう意味では、2人とも「時間」に負けたのかもしれないね。
こうして江戸時代の2度の挑戦は、どちらも完成しませんでした。そのあいだも、沼の周りの人びとは大水とともに暮らし続けていました。
水につかった暮らし ― 語り継がれた印旛沼の洪水
印旛沼の周りでは、大水のたびに人びとの暮らしが止まりました。その様子は、地元の古老の話や、小学校がまとめた聞き書きに残されています。
ここでは、明治から昭和の初めにかけての洪水について語り継がれてきた声を、伝えられている範囲で紹介します。
📚 この章の出典:いんばぬま情報広場『印旛沼物語』第4章「印旛沼の洪水」をもとに構成しています。同章は、本埜第二小学校が古老の話をまとめた文集『本埜の昔と今の話集』(1984年)や、地元の古老の話を伝える資料を引いて、洪水の様子を紹介しています。ここでは原典そのものではなく、『印旛沼物語』の記述を要約して紹介しています。
■明治の水害と田んぼ(佐倉市馬渡)
印旛沼から鹿島川を10kmほどさかのぼった佐倉市馬渡付近の古老は、明治時代のことをこう語っていたと伝えられています。このあたりの田は水害で毎年のように収穫がなくなり、地主は田を耕してくれる人を探すのに苦労した、というのです。
近くの四街道市物井には、水害で収穫がなかったために年貢を減らしたり免除したりしてもらった「水損引」の古文書が、数多く残っているとされます。印旛沼の大水は、沼のすぐそばだけでなく、上流のかなり広い範囲に及んでいました。
■1898年の洪水と水塚(栄町布鎌)
栄町布鎌では、1898年8月の洪水で堤防が切れ、大洪水になったと伝えられています。
古老の話では、人びとは水塚に逃げて暮らしました。水塚とは、土を高く盛った上に蔵などを建てた、大水のときの住まいを兼ねた倉庫のことです。いまも印西市本埜や栄町布鎌などに残っているとされています。
避難のあいだは飲み水がなく、泥水をこして沸かして飲んだこと、青物がないのでスイカの種をまき、伸びた葉を汁に入れて食べたことが語られています。洪水は、それほど長く続いたのです。
■1938年・1941年の洪水(旧本埜村)
旧本埜村(いまの印西市)の本埜第二小学校が1984年にまとめた聞き書きには、1938年の洪水のことが記されています。

そこには、水かさが増して逃げるしかなかったこと、子どもを小学校まで舟で迎えに行ったこと、天井裏まで水につかったこと、飲み水がなくて困ったことなどが書き残されているといいます。
1941年の洪水でも、民家が1.8mの深さまで水につかった地区があったとされています。この話集には、腰まで水につかりながら稲刈りをした苦しさも、詳しく書き残されているそうです。
■祭りの日の泥水(佐倉市臼井)
佐倉市臼井の古老は、洪水でいちばん困ったのは飲み水だったと語っています。井戸の水が汚れてしまい、飲めなくなったのです。
1938年の洪水のときは、村じゅうで祭りの芝居を見物していたところへ、突然泥水が押し寄せてきたといいます。沼の近くでは大雨が降っていないのに、突然水につかる。それが恐ろしかった、と伝えられています。

雨が降っていない日に、突然水が押し寄せてくる。こうした証言を読むと、印旛沼の周りの人たちが、どれほど長いあいだ大水と向き合ってきたのかが伝わってくるね。
1938年と1941年の水害は、沼の周りの人びとが干拓による水害対策を強く求めるきっかけの1つになったとされています。次の章では、明治以降の工事と、戦後の干拓の完成を見ていきます。
近代・戦後の完成 ― 百年を超えて引き継がれた工事
天保の工事が止まったあとも、「江戸湾の入口をふさがれたら」という幕府の心配は消えませんでした。1853年にペリーが来航したときにも、印旛沼の掘割工事をもう一度始めるかどうかが話し合われたといわれます。
しかし工事が再び始まることはなく、江戸時代は終わりを迎えます。印旛沼は、「あばれ沼」とよばれるほど大水をくり返す沼のまま、明治の世を迎えることになりました。
■明治・大正の治水と印旛沼
明治に入っても、利根川の下流では2〜3年に1度ほどの割合で水害が起きていたといわれます。そのなかで、1896年に大きな洪水が起こりました。
この洪水をきっかけに、国は1900年、利根川を直接管理して大がかりな治水工事を始めます。一方、印旛沼の干拓も明治に入って計画されましたが、手はつけられないままでした。
当時の沼の「損」と「得」を示す記録があります。1913年に発行された『印旛郡誌』には、1896年から1910年までの15年間の平均が載っていると、『印旛沼物語』は紹介しています。
それによると、船の行き来や漁などで沼がもたらす利益は年に約7万円(72,514円)。これに対して、洪水による被害は年に約24万円(242,096円)にのぼりました。損が得の3倍以上もあったことになります。
1922年には、利根川と印旛沼を結ぶ長門川の入口に印旛水門が完成しました。これによって、利根川の水が沼へ逆に流れこむのを防げるようになったとされています。
それでも、沼の周りの大水はなくなりませんでした。利根川の水かさが高いあいだは、沼の水を利根川へ出すことができず、沼の周りに水がたまってしまったからです。前の章で紹介した1938年と1941年の水害も、この水門ができたあとのことでした。
■戦後の干拓と印旛沼開発事業
1938年と1941年の水害のあと、沼の周りの人びとは、干拓によって大水を防ぐ工事を強く求めるようになります。そして戦争が終わった直後の深刻な食糧難のなかで、1946年、国の事業として印旛沼と手賀沼の干拓が始まりました。
やがて東京湾沿いに工場が増えると、工場で使う水がたくさん求められるようになります。工事は、田をつくるだけでなく、沼に水をためて工場や町へ送るところまで広がりました。
こうして干拓の事業は「印旛沼開発事業」と名前を改め、国の水資源開発公団(いまの水資源機構)に引き継がれます。そして1969年3月、印旛沼開発事業は竣工式を迎え、工事は完成しました。
この工事で、沼の真ん中が干拓されて田になり、印旛沼は北印旛沼と西印旛沼の2つに分かれました。2つの沼は、印旛捷水路という水路でつながっています。
干拓の前の印旛沼は、アルファベットのWのような形をしていました。その形は大きく変わり、沼の広さも、もとの3分の2弱になったとされています。

田んぼをつくるための工事だったのに、途中から工場の水の話になるのね。いまの印旛沼は、何に使われているの?

戦後すぐは、とにかく食べ物が足りなかったから「田をつくる」が最優先だったんだ。でも工業が伸びてくると、今度は「水そのもの」が大事な資源になったんだよ。
いまの印旛沼は、京葉臨海工業地帯の工業用水や、町の水道の水、干拓地の田んぼの水のもとになっているよ。「干して田にする沼」から「水をためて使う沼」へ、役割が変わったってイメージだね。
■江戸の掘割は花見川へ
戦後の工事では、沼の水を東京湾へ流す水路も整えられました。その東京湾側の川が花見川です。

この水路は正式には印旛沼放水路といい、八千代市の大和田にある排水機場より上流を新川、下流を花見川とよんでいます。花見川は、千葉市の検見川のあたりで東京湾に注ぎます。
沼の水は、長門川の側の排水機場から利根川へ、大和田の排水機場から花見川を通って東京湾へと、ポンプでくみ出されます。大水のときに、利根川の側にも東京湾の側にも沼の水を出せるしくみができたのです。

ここで思い出したいのが、田沼と水野が掘りかけた水の道です。どちらも、沼の西の端の平戸村から検見川村の海岸までを水路で結ぶ計画でした。その道すじは、いまの新川と花見川に重なっています。
花見川には「掘割川」という別の名もあります。江戸時代にこの道すじで3度も水路が掘られようとしたことから、そうよばれるようになったとされています。田沼と水野のほかに、享保の改革が進められていた享保年間(1716〜1736年)にも、一度試みがあったのです。
天保の掘割が始まった1843年から数えると、印旛沼開発事業が完成した1969年は126年後にあたります。江戸時代には完成しなかった水の道が、長い時をへて形を変えて受け継がれたといえるでしょう。

ちょっと整理させて。結局、印旛沼の工事が完成したのっていつなの? 田沼のとき? 水野のとき?

どちらでもないよ。江戸時代の田沼と水野の工事は、2回とも途中で止まったんだ。印旛沼の干拓が完成するのは戦後で、1946年に始まった国の事業が、1969年の印旛沼開発事業の完成で形になったんだよ。
ただ、「完成」は計画された工事が終わったという意味。どんな大雨でも水があふれなくなった、という意味ではないから、そこは分けて考えておこうね。
2026年9月、北印旛沼の堤防決壊
⚠️ 確認時点の注記:この節の内容は、2026年9月25日0時35分に確認した千葉県の発表(2026年9月23日付・同日21時30分更新)と国土交通省関東地方整備局の発表(2026年9月23日付・9月24日付)に基づいています。状況は変わっている可能性があります。最新の情報は、県や国、お住まいの市町の発表でご確認ください。
2026年9月22日、台風25号による豪雨で、千葉県が管理する北印旛沼(印旛沼のうち北側の部分)の堤防が決壊しました。ここでは、県と国が発表した内容に限って整理します。
- いつ・どこで:2026年9月22日、台風25号による豪雨により、北印旛沼の堤防(成田市船形干拓)が約100mにわたって決壊し、北印旛沼に流れこむ農業排水路の堤防の一部も決壊した
- 被害:北印旛沼と長門川の周辺で浸水被害が発生。県の発表時点で「大規模な浸水被害が発生しています」とされている。その後、長門川(印旛郡栄町酒直)の堤防の一部でも決壊が確認された
- 対応:千葉県の要請を受け、国土交通省関東地方整備局がTEC-FORCE(緊急災害対策派遣隊)を派遣。決壊した堤防の緊急復旧を技術的に支援している。9月24日には、船形干拓の決壊箇所(約100m)で9月25日から緊急復旧工事に着手し、現地対策本部を置くと発表された
国土交通省の発表によると、台風25号は大型で強い勢力で伊豆諸島や関東甲信地方に近づき、伊豆諸島や千葉県を中心に記録的な大雨となりました。千葉県内の河川では氾濫も起きています。
県の発表では、9月22日の豪雨で、北印旛沼の堤防が約100m、沼に流れこむ農業排水路の堤防の一部が決壊しました。決壊した場所は、成田市船形干拓と成田市下方の付近です。
その後、印旛沼からあふれた水の影響で、北印旛沼と利根川を結ぶ長門川でも、栄町酒直付近の堤防の一部で決壊が確認されました。県は、国に緊急復旧の支援を要請し、9月23日に国土交通省からTEC-FORCEの派遣が決まりました。さらに国土交通省は9月24日、成田市船形干拓の決壊箇所で、9月25日から堤防の緊急復旧工事に着手すると発表しています。
なお、水位の記録などの数値は報道でも伝えられていますが、この記事では、県や国の発表で確認できた内容だけを載せています。被害の全体や復旧の見通しは、まだ確認が続いている段階です。
📝 歴史の話との関係について:この記事で紹介した利根川東遷、田沼意次の干拓、天保の掘割普請、戦後の干拓は、いずれも今回の堤防決壊の原因として確認されたものではありません。過去の治水事業と今回の決壊を結び付ける公的な見解は、この記事の作成時点では確認できていません。
最新の状況は、千葉県「北印旛沼の堤防決壊について」でご確認ください。避難や暮らしに関わる情報は、お住まいの市町の発表もあわせてご確認ください。

被害にあわれた方々に、心からお見舞い申し上げます。近くにお住まいの方は、県や市町から出ている最新の情報を確かめてください。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:印旛沼の工事は、田沼と水野の2人をセットで覚えるのが近道です。田沼=新田開発・治水・水運(商人の資金)、水野=物資輸送・江戸湾の防備・排水(大名の御手伝普請)と、目的とお金の出どころを対にして整理しましょう。
⚠️ 混同注意:どちらも工事を進めた老中の失脚で止まりましたが、きっかけは別です。田沼は将軍家治の死、水野は上知令への反対。田沼のときは大洪水で掘割が壊されたことも重なっています。

印旛沼って、田沼のところでも天保の改革のところでも出てくるから、いつも混ざっちゃうんだよね。テストではどこを見分ければいい?

見分けるポイントは「目的」と「時代」だよ。18世紀後半の田沼は、新しい田を増やして収入を上げたかった。19世紀半ばの水野は、外国船に江戸湾をふさがれても物資を運べる道がほしかった。
選択肢に「海防」や「江戸湾の防備」が出てきたら天保の改革の水野、「商人の資金で新田開発」なら田沼、と結びつけておけばバッチリだね!
利根川東遷・印旛沼干拓の理解を深めるおすすめ本

利根川東遷や印旛沼干拓について、もっと地形・土木の視点から深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!
著者の竹村公太郎さんは、建設省に入り、2002年に国土交通省河川局長を最後に退官した河川行政の技術者です。本書は「地形」という切り口から日本史の出来事を読み解くシリーズの一冊で、この【文明・文化篇】には、家康がなぜ利根川を東へ曲げたのかを論じた章が収められています。本記事の前提そのものを、著者独自の仮説も交えて扱った内容です。利根川東遷を歴史の出来事としてだけでなく、治水・土木というもう一つの視点から捉え直したい人に向いている一冊です。
利根川東遷や印旛沼干拓の背景を、地形・治水という切り口から捉え直したい人。江戸を洪水から守るための土木事業という視点に興味がある人。
田沼意次や水野忠邦の政治的な駆け引き・失脚の経緯を詳しく知りたい人(本書は地形・土木の視点が中心です)。
よくある質問(FAQ)
江戸湾(いまの東京湾)に注いでいた利根川の流れを、東へ移して銚子から太平洋へ出るようにした江戸時代初めの大工事です。1594年に始まり、伊奈忠次と伊奈家の人びとに受け継がれて、1654年に一応の完成をみました。江戸を大水から守る・新田を開く・舟で物を運ぶ道をつくる、といったねらいが重なっていたと考えられています。
沼が海面から1mほどの低い土地にあり、水が海へ出るには利根川を銚子まで長く下らなければならなかったためです。さらに利根川東遷のあとは、利根川があふれるたびに、その水が長門川を通って沼へ逆に流れこむようになりました。沼は、利根川の大水を受け止める遊水地の役割を果たしていたのです。
1786年、工事が計画の3分の2ほどまで進んだところで、関東一円の大雨によって利根川が大きくあふれ、工事中の掘割が壊されたためです。同じ年に田沼を重く用いていた将軍徳川家治が亡くなり、工事は中止され、田沼も老中を辞めさせられました。1783年の浅間山の噴火で川底が上がり、水害が大きくなりやすかったことも工事の妨げになったとされています。
天保の改革のなかで、老中水野忠邦が1843年に始めた印旛沼の掘割工事です。5つの藩に御手伝普請として工事を分担させました。田沼のときが新田開発を大きなねらいとしていたのに対し、天保の工事は、外国の船に江戸湾をふさがれても物資を江戸へ運べる道をつくることや、利根川の水を逃がすことに重点があったと考えられています。
江戸時代の3度の試みはいずれも完成せず、干拓が形になったのは戦後です。1946年に国の事業として干拓が始まり、のちに印旛沼開発事業として、1969年3月に竣工式を迎えました。この工事で沼は北印旛沼と西印旛沼の2つに分かれ、沼の水を利根川と東京湾の両方へ出せるようになりました。
この記事の作成時点(2026年9月25日0時35分)で確認できた千葉県・国土交通省の発表には、江戸時代の工事や戦後の干拓を今回の決壊の原因とする説明はありません。直接の因果関係は、公的な発表の範囲では確認されていません。決壊の原因や被害の状況は、今後の県や国の発表でご確認ください。
まとめ
江戸時代の初め、利根川は東へ移され、銚子から太平洋へ流れるようになりました。そのあと、利根川の大水は千葉県北部の低い土地へ向かい、印旛沼はその水を受け止める場所になります。
沼を干して田にしようとした田沼意次、物資を運ぶ水の道を開こうとした水野忠邦。2人の挑戦は、どちらも完成しないまま止まりました。
干拓が形になったのは戦後の1969年のことです。印旛沼は、田をつくり、水害を防ぎ、水を役立てるために、江戸時代から人の手で作り変えられてきた沼だといえます。

以上、利根川東遷と印旛沼・手賀沼の干拓の歴史のまとめでした。田沼意次や天保の改革について、もっと詳しく知りたい人は、下の記事もあわせて読んでみてね!
📅 最終確認:2026年9月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』/いんばぬま情報広場『印旛沼物語』/2026年9月の堤防決壊は千葉県・国土交通省関東地方整備局の発表(2026年9月25日0時35分確認)
国土交通省関東地方整備局 利根川上流河川事務所「利根川の東遷」ほか(2026年9月確認)
国土交通省関東地方整備局 利根川下流河川事務所・利根川水系砂防事務所の解説資料(2026年9月確認)
千葉県「北印旛沼の堤防決壊について」および報道資料・別紙(2026年9月23日発表・2026年9月25日確認)
国土交通省関東地方整備局 報道発表資料「印旛沼の堤防の緊急復旧を国が支援します」「〔追加支援〕印旛沼周辺の堤防の緊急復旧を国が支援します」(2026年9月23日発表)「印旛沼の堤防の緊急復旧に着手します」(2026年9月24日発表)(いずれも2026年9月25日確認)
公益財団法人印旛沼環境基金「第1章 印旛沼の歴史」(2026年9月確認)
いんばぬま情報広場『印旛沼物語』第4章「印旛沼の洪水」(2026年9月確認)
独立行政法人水資源機構 千葉用水総合管理所「印旛沼開発施設」の解説(2026年9月確認)
水土の礎「手賀沼干拓事業」(2026年9月確認)
一般財団法人日本ダム協会「ダム便覧」(2026年9月確認)
ヒストリスト[Historist](山川出版社)「印旛沼干拓」「天保の改革」(2026年9月確認)
コトバンク「利根川」「印旛沼」「印旛沼干拓」「花見川」「天保の改革」「御手伝普請」ほか(山川日本史小辞典・日本大百科全書・改訂新版世界大百科事典・日本歴史地名大系・百科事典マイペディア・デジタル大辞泉)(2026年9月確認)
山川出版社『詳説日本史』
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