今回は、1789年に北海道で起こったクナシリ・メナシの戦いについてわかりやすく丁寧に解説していきます。
ちなみに、高校の教科書では「クナシリ・メナシの戦い」という言葉は登場せず、以下のようにサラッとしか書かれていないので、受験勉強しっかりと覚える必要はありません。
ただ、クナシリ・メナシの戦いを知っておくと当時の北海道の事情の理解が深まること間違いなしなので、余裕のある方や北海道やアイヌの歴史に興味のある方はぜひこの記事をご一読してみてください!
クナシリ・メナシの戦いが起こった背景
1789年当時、北海道は蝦夷地とよばれ、アイヌ人は松前藩に支配されていました。
アイヌと松前藩の関係はどんな感じだったのか?簡単におさらいしておきます。
松前藩は、昔から家臣たちにアイヌとの交易独占権を与えていました。「アイヌから手に入る品は本州で大人気だから、交易独占権を利用して生計を立ててくれよな!」ってわけです。
アイヌが自分勝手に交易を始めると家臣たちが交易権を独占できなくなるので、アイヌに対しては「決められた者としたか交易するな!」と交易を強く制限します。
アイヌはこれに逆らえません。なぜなら、松前藩が強かったからです。
江戸時代の初め、アイヌのシャクシャインという人物が反乱を起こしますが、鎮圧されている過去があります。
こうしてアイヌとの交易独占権を手に入れた松前藩の家臣たちは、直接アイヌと取引はせずに、取引をすべてプロの商人に任せます。
そして、商人たちから「儲かる交易場所を与えた見返り」としてその利益の一部を徴収することにしました。
この仕組みのことを場所請負制と言います。
松前藩家臣「商売は苦手だから、商人に任せて手数料だけ貰いたい・・・」
商人「アイヌとの交易はめっちゃ儲かるから手数料を払ってでも、交易を請け負う価値がある」
場所請負制は、そんな両者がwin-winの関係を築くことのできる画期的な制度でした。詳しくは、以下の記事で解説しています。
商人も松前藩もwin-winだった場所請負制で、最も被害を被ったのがアイヌの人たちでした。
交易するだけじゃなくて、アイヌにこき使わせて超低賃金で働かせた方がもっと儲けられるわww
利益を追い求める和人の商人たちは、交易だけでは飽き足らず、アイヌを漁場で強制労働させることにしました。
和人の商人たちはアイヌに暴力や脅迫をして、非常に安い賃金や品物で長時間働かせます。
当時のアイヌの状況は悲惨なもので、長時間労働のために自分の食べ物すら確保できずに餓死するアイヌもいた・・・と言われています。加えて、アイヌ人女性への性的な暴行も当然のように行われていました。
これらの行為にアイヌたちは強い不満を持ち、この不満が大爆発したのがクナシリ・メナシの戦いでした。
クナシリ・メナシの戦いのきっかけ
場所は北海道の東、国後島。
当時、国後島は松前藩の場所請負制が敷かれていた地域の1つであり、飛騨国の材木屋だった飛騨屋久兵衛が交易を請け負っていました。
戦いのきっかけはクナシリの総首長(ボス)サンキチが和人から貰った酒を飲んで亡くなったことでした。
これに加えて、サンキチの弟だったマメキリの妻も、和人からもらった飯を食べた後に亡くなりました。
2人の死はあまりにも不自然すぎる!
私たちアイヌは、ずっと和人たちに『仕事サボったら毒殺すんぞコラァ!」と脅され続けていた。
きっとこれが現実になったんだ。和人が私たちのボスを毒殺したんだ・・・!!
サンキチたちの死因が本当に毒殺だったのかはわかりません。
しかし、和人に虐げられてきたアイヌたちにとって、毒殺はそれほど荒唐無稽な話でもなかったのだろうと思われます。
クナシリのアイヌたちはこの毒殺説を信じ、これまでため込んでいた胸を鬱憤をついに爆発させました。
1789年5月、嫁を毒殺されたマメキリが中心となり、クナシリ(今の国後島)でアイヌの蜂起が起こります。これがクナシリ・メナシの戦いです。
クナシリ・メナシの戦いの経過
マメキリを中心としたアイヌ人たちは、まずはクナシリ地方(現国後島)で商人や商船などを襲撃。
さらに対岸のメナシ地方(道東方面)でも同様に和人を襲撃します。計130人のアイヌ人たちが蜂起し、71人の和人を殺害してしまいます。
この事件は松前藩にも知らされ、直ちに260人の鎮圧隊が現地へ派遣されます。鎮圧隊は7月にはノッカマップと言う場所(今の根室市にある)に到着し、蜂起を起こしたアイヌたちを降参させました。
当初、蜂起を起こしたアイヌたちは報復を恐れて降伏をためらっていたので、鎮圧隊は中立のスタンスだった別のアイヌたちを通じて説得を試みます。
松前藩は強いし勝てるわけがない。早く降伏したほうがいいぞ・・・
上の吹き出しはイメージですが、そんな説得によってようやくアイヌたちは降伏。
その後、蜂起を起こしたアイヌたちへの取り調べが行われます。この取り調べにより約130人のうち37人が重罪によって死刑が確定。
7月21日、37人はみな命を落とします。生き残ったアイヌたちは松前まで連れて行かれ、松前藩に「もう反乱は起こしません」と誓いを立てさせられました。
終わってみれば、完膚なきまでのアイヌの敗北。こうしてクナシリ・メナシの戦いは鎮圧されたのです。
・・・と、ここまでは戦いの表面的な話。
実はクナシリ・メナシの戦い、その裏にはもっと複雑な事情が隠されていました。
アイヌの裏にはロシアの影が・・・
というのも、今でいう北方領土に住んでいたアイヌたちは、裏でロシアと関係を持っていたからです。
当時、択捉島付近はラッコの狩猟場所として有名な場所でした。ラッコの毛皮はとても儲かるため、ロシア人はそのラッコを求めて択捉島付近までやってきたのです。
クナシリ・メナシの戦いの知らせを聞いた江戸幕府老中だった松平定信は、これを強く恐れました。
ブチ切れたアイヌたちがロシアに協力を求めて、ロシア軍が攻めてきたら、松前藩なんか消し飛ぶぞ・・・。
だから、アイヌを安易に刺激してはいけないんだ。
なぜアイヌは蜂起した?松前藩に何か問題があるのか?
アイヌとロシアはどの程度接近している?
・・・情報が足りなさすぎる!!
そこで、松平定信は道東や北方領土の松前藩・アイヌ・ロシアの関係を探るため、スパイを現地に送り込みます。
スパイの1人に、生涯の多くをアイヌの待遇改善に努めた最上徳内の姿もありました。
このスパイ活動は、最上徳内の同僚がポカをして失敗に終わったものの、クナシリ・メナシの戦いの戦後処理を通じて、幕府は現地の社会情勢を詳しく把握するようになります。
クナシリ・メナシの戦いの後
まず、蜂起を起こしたアイヌたちの聞き取り調査によって、蜂起の原因が「場所請負をしている飛騨屋がアイヌにひどい扱いをしていたから」ということがわかります。
飛騨屋、アイヌを弾圧したおまえはクビだ。
そして松前藩よ。今後決してアイヌに不当な扱いをしてはならぬ。これはもはや、松前藩だけの問題ではないのだ。
アイヌとロシアの連携を恐れた松平定信は、アイヌの待遇改善を松前藩に命じます。
さらに、クナシリ・メナシの戦いの戦いの10年後の1799年、江戸幕府は北海道東部を幕府の直轄領とすることを決定。ロシアが本格的に南下してくる前に、択捉島までを幕府の支配下に置いてしまうと考えました。
そして、アイヌとロシアの結託を防ぐため、アイヌへの態度を軟化。
飛騨屋が場所請負をしていた頃にような利益追求でアイヌを酷使することも少なくなり、クナシリ・メナシの戦いでアイヌは敗れたものの、結果的にアイヌの待遇は改善しました。
・・・が、1813年頃になるとロシアと日本の関係が改善。すると、幕府は道東を松前藩へ返却。さらに、ロシアに気を遣わなくて良くなるとまたアイヌへの不当な扱いが横行するようになり、アイヌは再び苦境に立たされることになるのです。
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