悲劇の皇子、有間皇子とは?辞世の句や系図をわかりやすく【中大兄皇子の陰謀】

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有間皇子

もぐたろう
もぐたろう

今回は有間皇子(ありまのみこ)について、辞世の句の意味・系図・生涯をわかりやすく丁寧に解説していくよ!「中大兄皇子の陰謀で19歳で処刑された悲劇の皇子」というイメージで知られているけど、実はそれだけじゃないんだ。

この記事を読んでわかること
  • 有間皇子とは何者か(生没年・父・処刑年齢のプロフィール)
  • 有間皇子の系図(中大兄皇子・孝徳天皇・斉明天皇との関係)
  • 辞世の句2首の意味(万葉集「磐代の浜松が枝を引き結び」「家にあれば」の現代語訳と鑑賞)
  • なぜ19歳で処刑されたのか(蘇我赤兄の讒言・謀反の露見)
  • 有間皇子ゆかりの地(藤白坂・有間皇子神社・磐代の松)

「悲劇の皇子」として有名な有間皇子。中大兄皇子(後の天智天皇)の陰謀により、わずか19歳で命を絶たれた——というのが世間一般のイメージかもしれません。

でも実は、有間皇子は狂人を装ってでも生き延びようとした”戦略家”でした。いとこである中大兄皇子の冷酷な策略を見抜き、政治の世界から距離を取ることで自らの命を守ろうとしたのです。にもかかわらず、わずか19歳で処刑される運命をたどることになります。今回はそんな有間皇子の生涯と、万葉集に残された2首の辞世の句を、ペルソナ別にわかりやすく解説していきます。

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有間皇子とは?プロフィール

有間皇子とは?3行でわかるまとめ
  • 生没年:640年〜658年。第36代・孝徳天皇の皇子で、わずか19歳で処刑された飛鳥時代の悲劇の皇子。
  • いとこ・中大兄皇子(後の天智天皇)の政争に巻き込まれ、蘇我赤兄の讒言により謀反人として捕縛された。
  • 万葉集に辞世の句2首を残し、後世に「悲劇の皇子」として語り継がれている。

有間皇子ありまのみこは、640年に第36代・孝徳天皇の皇子として生まれた飛鳥時代の皇族です。母は阿倍小足媛あべのおたらしひめで、孝徳天皇のただ一人の皇子でした。

表記は「有間皇子」と「有馬皇子」の二通りがあり、どちらも同じ人物を指します。『日本書紀』では「有間皇子」、『万葉集』では「有間皇子」と記される一方、後世の文献や歴史辞典では「有馬皇子」と表記されることもあります。読みはいずれも「ありまのみこ」で統一されています。

658年11月、わずか19歳で藤白坂(現・和歌山県海南市)にて絞首刑となり、その短い生涯を閉じました。残された辞世の句2首は『万葉集』巻二に収められ、千年以上の時を超えて今も人々の心を打ち続けています。

ゆうき
ゆうき

「有間皇子」と「有馬皇子」で表記が2通りあるのはなぜ?どちらが正式な書き方なの?

もぐたろう
もぐたろう

大丈夫、「ありまのみこ」って読みは同じだよ!『日本書紀』や『万葉集』などの古代史料では「有間皇子」表記が基本で、後世の地誌や一部の辞典では「有馬皇子」と書かれることが多いんだ。両方知っていれば資料の幅が広がるよ。ちなみに兵庫県の有馬温泉とは直接の関係はないと言われてるんだよ。

💡 有馬温泉と有間皇子の関係:兵庫県神戸市の有馬温泉は、舒明天皇や孝徳天皇が訪れたという伝承が残る古湯ですが、有間皇子の名前の直接の由来とする学術的根拠は乏しく、後世の付会(こじつけ)とされる説が有力です。有間皇子が湯治に向かったのは紀温泉(牟婁の湯=現在の和歌山県白浜町)であり、有馬温泉ではない点に注意しましょう。

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有間皇子の系図と家族関係

有間皇子の悲劇を理解するには、まず家族関係を押さえておくのが近道です。父・孝徳天皇、いとこ・中大兄皇子、伯母にあたる斉明天皇——飛鳥時代の天皇家の中で、有間皇子はどんな立ち位置にあったのでしょうか。

有間皇子の系図。父・孝徳天皇、いとこ・中大兄皇子(後の天智天皇)、伯母・斉明天皇との関係を示す。

有間皇子の父は第36代・孝徳天皇(こうとくてんのう/在位645〜654年)です。孝徳天皇は乙巳の変(645年)で蘇我入鹿が暗殺された直後に即位し、大化の改新と呼ばれる一連の政治改革を主導した天皇として知られています。

そして孝徳天皇の姉が斉明天皇(さいめいてんのう/皇極天皇の重祚)、その息子が中大兄皇子です。つまり有間皇子から見ると、中大兄皇子はいとこ(従兄)にあたります。さらに後の大海人皇子(おおあまのみこ/天武天皇)もいとこにあたり、有間皇子は当時の皇族ネットワークのど真ん中にいた人物でした。

ところが、父・孝徳天皇が654年に崩御した後、政権の実権は完全に中大兄皇子の手に移ります。父を失った有間皇子は、有力な後ろ盾を持たないまま、次期天皇候補という危険な立場に置かれることになったのです。

あゆみ
あゆみ

中大兄皇子って、有間皇子のいとこなんですね。実の親族なのに処刑してしまうって、現代の感覚では信じられない話です……。

もぐたろう
もぐたろう

うん、現代の感覚だと残酷に見えるよね。でも飛鳥時代の皇位継承は「親族間の血で血を洗う闘い」が当たり前だったんだ。皇位を狙える皇族は常にお互いをライバル視していて、ちょっとでも政治的に邪魔な存在は謀略によって消される——これがこの時代の宮廷の現実。実際、中大兄皇子は乙巳の変で蘇我入鹿を、後には異母兄の古人大兄皇子も粛清しているんだよ。有間皇子は孝徳天皇のただ一人の皇子だったから、中大兄皇子にとって”将来の最大の競争相手”だったんだね。

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有間皇子の生涯

有間皇子の生涯は、わずか19年という短いものでした。生まれたときは父・孝徳天皇の皇子として華やかな未来が約束されていたはずです。しかし父の崩御を境に、彼は政争の渦中に飲み込まれていきます。ここからは有間皇子の生涯を、4つの局面に分けて追っていきましょう。

■ 孝徳天皇崩御と有間皇子の苦境

有間皇子の運命が大きく動き始めたのは、父・孝徳天皇の晩年でした。653年、孝徳天皇と中大兄皇子の関係が表面化するかたちで悪化します。中大兄皇子は当時の都であった難波宮なにわのみや(現・大阪市中央区)を離れ、旧都であった飛鳥の地へと帰ってしまいました。

このとき注目すべきは、孝徳天皇の皇后だった間人皇女(はしひとのひめみこ)までもが夫を見捨て、兄・中大兄皇子と一緒に飛鳥に去ったという点です。間人皇女は中大兄皇子の同母妹であり、また孝徳天皇にとっては姪にあたります。皇后が天皇を捨てて兄について行く——これは尋常な事態ではありません。

翌654年、難波宮に取り残された孝徳天皇は、失意のうちに崩御します。在位中に推進した大化の改新の理想は道半ばで、有間皇子は最大の後ろ盾を失うことになりました。当時、有間皇子は14歳。父を失った彼は、政治的に孤立した皇子として宮廷の隅に取り残されたのです。

655年、中大兄皇子の母である斉明天皇が即位します(重祚=二度目の即位)。斉明天皇は実子の中大兄皇子を次期天皇に据えるつもりであり、その筋書きの中で、孝徳天皇の遺児である有間皇子は明らかに”邪魔者”でした。

■ 狂人を装う——生き延びるための戦略

飛鳥時代の宮廷で、次期天皇のライバルとなる皇族は謀略によって次々と排除されるのが常でした。父を失った有間皇子は、自分が中大兄皇子に消される運命にあることを敏感に察していたと考えられます。

そこで彼が選んだのが、狂人を装うという生存戦略でした。『日本書紀』には、有間皇子が「いつわりて狂と称し」、紀温泉(現在の和歌山県白浜町の牟婁むろの湯)へ療養に赴いたと記されています。「狂気の発作が出たので温泉療養が必要」という名目で、危険な都から距離を取ろうとしたのです。

有間皇子は牟婁の湯から戻ると、斉明天皇や中大兄皇子に「温泉に行ったら病気がすっかり良くなりました。素晴らしい温泉でした」と熱心に勧めたとされます。これは単なる体験談ではなく、「私は政治に関わる気はありません、ただの病人です」というメッセージを発するための演技でした。中大兄皇子に「こいつは天皇の座を狙う気概もない無害な男だ」と思わせること——それが有間皇子の狙いだったのです。

こうするしか、生き残る術はない」——若き皇子の胸の内には、そんな決意があったのかもしれません。父を失った14歳のときから、彼は4年間ずっと、宮廷の冷たい視線に耐え続けていたのです。

■ 蘇我赤兄の讒言と謀反の露見

有間皇子の慎重な振る舞いも、しかし、中大兄皇子の謀略を防ぐことはできませんでした。658年(斉明天皇4年)10月、斉明天皇は中大兄皇子を伴って牟婁の湯へ行幸(旅行)に出かけます。この間、都の留守を任されたのが蘇我赤兄そがのあかえでした。

蘇我赤兄は、天皇不在の都で有間皇子に急接近し、こう囁いたとされます——「今の斉明天皇の政治には3つの大きな問題があります。第一に、大規模な倉庫を建てて民の財を集めていること。第二に、長い運河を掘って公の食糧を費やしていること。第三に、舟に石を積んで運び丘を作っていること。民は疲弊しています。今こそ皇子が立ち上がるべきです!

蘇我赤兄が指摘した3つの問題は、斉明天皇が実際に行っていた大規模土木事業であり、民衆が苦しんでいたのも事実でした。狂心渠(たぶれごころのみぞ)と呼ばれた運河は、当時から「無駄な公共事業」として悪評が高かったのです。蘇我赤兄の言葉は、有間皇子の正義感を刺激するに十分でした。

有間皇子は蘇我赤兄を信じてしまいます。二人は赤兄の邸宅で挙兵の計画を練り始めました。ところが——これがすべて中大兄皇子の仕掛けただったのです。蘇我赤兄は中大兄皇子と通じており、有間皇子をおびき出すための囮役でした。

もぐたろう
もぐたろう

蘇我赤兄の役割は、今でいう「公安のおとり捜査」みたいなものかな。中大兄皇子は有間皇子を直接処分する大義名分がほしかった。だから蘇我赤兄を使って「謀反を企てた」という証拠を作らせたんだ。狂人を装って身を守ろうとしていた有間皇子も、4年間の緊張の中で「今こそ立つべきだ」という赤兄の言葉に揺さぶられてしまったのかもしれないね。

蘇我赤兄は計画が動き始めた数日後、すぐさま牟婁の湯にいる中大兄皇子へ密告します。「都で有間皇子が謀反の企みをしております」——この一報により、有間皇子はただちに捕縛されました。この事件は後に有馬皇子の変(または「有間皇子の謀反」とも呼ばれる)と呼ばれています。蘇我赤兄と出会ってから挙兵計画が露見するまで、わずか数日間の出来事でした。あまりにも展開が早すぎる点に、後世の歴史家たちは「最初から仕組まれていた陰謀」と見る根拠を見いだしています。

■ 処刑——わずか19歳の最期

捕縛された有間皇子は、斉明天皇と中大兄皇子が滞在する牟婁の湯へ連行されます。658年11月9日、有間皇子は中大兄皇子から直々に尋問を受けました。中大兄皇子の問いに対して、有間皇子はこう答えたと『日本書紀』は記しています——「天と赤兄が知っている。私は何もわからない(天与赤兄知、吾全不解)」と。

謀反を認めもせず、否定もしない。この曖昧な答えには、すべてを察した者の諦観と、最後の抵抗が込められているように感じられます。すでに自らの命運が尽きたことを悟っていたのでしょう。

そして翌11月11日、有間皇子は牟婁の湯からの帰途、藤白坂(ふじしろざか/現・和歌山県海南市藤白)にて絞首こうしゅに処されました。享年19歳。同時に従者の新田部米麻呂にいたべのこめまろも斬殺され、もう一人の従者・守大石もりのおおいわは流罪となります。

父・孝徳天皇を失ってからわずか4年。狂人を装ってまで生き延びようとした若き皇子の人生は、こうして藤白坂の松の下で幕を閉じることになりました。残されたのは、刑場へと向かう道中で詠まれたとされる2首の和歌のみ——それが次章で紹介する有間皇子の辞世の句です。

有間皇子の辞世の句(万葉集より)

有間皇子が藤白坂へ連行される道中で詠んだとされる2首の辞世の句は、『万葉集』巻二(141・142番歌)に収められています。題詞には「有間皇子、自ら傷みて松が枝を結べる歌二首」と記され、刑場へ向かう途中の心情を歌ったものとされています。

この2首は、わずか19歳の若者が死を目前にして詠んだとは思えないほど、深い情感と優れた技巧を備えています。万葉集の中でも特に有名な歌の一つとして、現在も教科書・国語便覧に取り上げられ続けています。

■ 第1首「磐代の浜松が枝を引き結び」

磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む

(万葉集 巻二・141番歌)

【現代語訳】磐代(いわしろ)の浜辺の松の枝を引き寄せて結びました。もし無事に生き延びることができたなら、また帰ってこの松の枝を見ることでしょう。

磐代(いわしろ)」は、現在の和歌山県日高郡みなべ町西岩代付近を指す古代の地名です。牟婁の湯へ向かう途中の海岸線にあり、有間皇子が連行されるルートにあたります。この歌の中で詠まれた「松の枝を結ぶ」という行為は、古代の道中安全祈願の習俗でした。旅人は道中の松の若枝を結び、無事に旅から戻れるよう祈ったのです。

有間皇子はすでに死を覚悟していたはずです。それでもなお、彼は古来の習俗にならって松の枝を結びました。「ま幸(さき)くあらば」——「もし無事であったなら」という仮定の言葉に、絶望の中の一縷の希望、あるいは諦観を装いつつも捨てきれない生への執着がにじみ出ています。

この歌が後世に強い印象を残したのは、後に同じ磐代の地を通った歌人・長意吉麻呂ながのおきまろ柿本人麻呂かきのもとのひとまろらが、有間皇子を追悼する歌を相次いで詠んだことからも明らかです。万葉集には「有間皇子の結松(むすびまつ)を見て哀しむ歌」が複数収められており、若くして散った皇子への鎮魂の念が、世代を超えて受け継がれていったのです。

■ 第2首「家にあれば笥に盛る飯を」

家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

(万葉集 巻二・142番歌)

【現代語訳】家にいれば、ちゃんと器に盛って食べる飯なのに、こうして旅の身であるから、椎(しい)の葉に盛って食べていることだ。

この第2首には、3つの古語の理解が鍵になります。「」は古代の食器(飯を盛る器)、「草枕くさまくら」は「旅」にかかる枕詞、「椎の葉しいのは」は道中の即席の食器代わりに使った木の葉のことです。

家にいれば器に盛られていたはずの白米が、護送中の身では椎の葉に盛られている——この何気ない食事の描写は、皇子としての日常がもはや戻ってこない現実を、静かに、しかし痛切に突きつけてきます。第1首が「祈り」だとすれば、第2首は「諦観と望郷」の歌です。

当時の皇族の食事といえば、漆塗りのに白く輝く飯が盛られ、給仕の者が複数控えるような華やかなものだったはずです。それが今や、藤白坂への道中、誰もいない山の中で椎の葉を皿代わりにする粗末な食事に成り果てている。皇族としての誇りや日常が剥ぎ取られていく感覚——そこには、もはや家には帰れないと悟った若者の、深く静かな絶望があります。

もぐたろう
もぐたろう

2首をセットで読むと、有間皇子の心の動きがくっきり見えてくるんだ。第1首は「帰還への祈り」——松の枝を結んで「また見たい」と詠む、最後の希望を込めた歌。一方第2首は「死の覚悟と望郷」——椎の葉に盛られた粗末な飯を見つめて、もう家には帰れないと悟った歌。19歳でこれだけの歌を詠めるなんて、有間皇子は感性も知性も卓越した青年だったんだろうね。万葉集の中でも特に心を打つ2首だよ。

📚 諸説あり:辞世の句は本当に有間皇子が詠んだのか?
民俗学者・折口信夫(おりくちしのぶ)をはじめとする一部の研究者は、この2首は有間皇子本人の作ではなく、後世の人物が有間皇子の悲劇に仮託して詠んだ「後人の追悼歌」である可能性を指摘しています。19歳という若さで、護送中という極限状況の中で、これほど洗練された和歌を詠めるだろうか?という疑問が根拠です。ただし学界の定説は今も「有間皇子作」とされており、一般的にも作者は有間皇子として紹介されています。

有間皇子ゆかりの地(和歌山県)

有間皇子ゆかりの地は、いずれも和歌山県内に集中しています。処刑の地・藤白坂、皇子を祀る有間皇子神社、辞世の句の舞台となった磐代の松——いずれも紀伊半島の西海岸沿いに点在し、現在も歌碑や記念碑が残されています。万葉集の旅・歴史散歩のコースとしても人気のあるエリアです。

■ 藤白坂(処刑の地・海南市)

藤白坂ふじしろざかは、現在の和歌山県海南市藤白に位置する坂道です。古代には熊野古道(紀伊路)の難所として知られ、京都・大坂方面から熊野三山へ向かう参詣道の途中にありました。有間皇子はこの藤白坂で絞首刑に処されたとされ、坂の途中には「有間皇子の墓」と伝えられる五輪塔と、辞世の句を刻んだ歌碑が建てられています。

坂の入口にある藤白神社は、有間皇子の悲劇とも深い縁を持つ古社です。境内の奥には「有間皇子神社」が鎮座しており、地元では今も皇子の鎮魂祭が続けられています。藤白坂は徒歩で登ることができ、約30分ほどで頂上の地蔵峰寺までたどり着けます。古道の石畳と緑の中を歩きながら、千三百年以上前の悲劇に思いを馳せることができる場所です。

■ 有間皇子神社(海南市・藤白神社境内)

有間皇子神社は、藤白神社の境内末社として鎮座する小さな祠です。祭神はもちろん有間皇子。創建年代は不詳ですが、地元では古くから「皇子塚」「有間皇子の宮」として崇敬されてきました。藤白神社の本殿の脇から参道を進み、玉砂利を踏みしめて到達する静かな空間に建っています。

毎年11月11日(処刑日とされる日)には、地元の有志による鎮魂祭が執り行われています。観光地として大規模に整備されているわけではないため、訪れる人もまばらで、静かに皇子の生涯に思いを馳せることができる穴場スポットです。JR紀勢本線・海南駅から徒歩約20分、または車で藤白神社の駐車場に止めればすぐにアクセスできます。

■ 磐代の松・万葉歌碑(みなべ町)

辞世の句第1首「磐代の浜松が枝を引き結び」の舞台となったのが、和歌山県日高郡みなべ町西岩代の海岸沿いです。現在の「磐代の結松(むすびまつ)」は、有間皇子が結んだとされる松の子孫木として、地元の人々によって代々植え継がれてきました。海を望む丘の上には、辞世の句を刻んだ万葉歌碑が建っており、撮影スポットとしても親しまれています。

JR紀勢本線「岩代駅」から徒歩約10分。穏やかな漁村の風景の中に、突然「有間皇子結松記念碑」が現れます。海風に吹かれながら、19歳の皇子が松の枝を結んだという1300年以上前の情景を想像できる、万葉ファンの聖地のような場所です。

あゆみ
あゆみ

和歌山方面に旅行するときに、3か所まとめて巡れそうですね。万葉集の舞台を実際に訪れて、辞世の句を現地で読み返してみたいです。御朱印もあるんでしょうか?

もぐたろう
もぐたろう

3か所はぜんぶ和歌山県の海沿いにあって、車だと半日〜1日でゆっくり巡れるよ!おすすめは「みなべ町の磐代の結松海南市の藤白坂藤白神社・有間皇子神社」のルート。藤白神社では御朱印もいただけるんだ。岩代駅から海南駅までは特急くろしおで約1時間なので、関西方面からの日帰り旅行にもピッタリだよ。万葉集片手に歩くと、有間皇子の最後の心情がより深く感じられるはず。


有間皇子についてよくある質問

有間皇子について読者からよく寄せられる質問を、Q&A形式でまとめました。気になる項目を開いて確認してみてください。

A. 「ありまのみこ」と読みます。「有馬皇子」とも表記されることがありますが、『日本書紀』『万葉集』などの古典史料では「有間皇子」表記が一般的です。名前の「有間」は、誕生地と伝えられる摂津国・有馬温泉(現・兵庫県神戸市北区)に由来するとする説が有力です。

A. 中大兄皇子(後の天智天皇)の陰謀によって、わずか19歳で処刑されたからです。父・孝徳天皇の死後、有間皇子は次期天皇候補の最有力の一人でしたが、政権の実力者・中大兄皇子にとっては最大のライバルでした。狂人を装って身を守ろうとしたものの、蘇我赤兄の讒言(実際には罠だったとされる)により謀反の容疑で捕えられ、藤白坂で絞首刑に処されました。さらに辞世の句として詠まれた万葉集の2首が「短命に散った若き才能」のイメージを後世に焼き付けたため、「悲劇の皇子」として記憶されるようになったのです。

A. 現代語訳は「磐代(いわしろ)の浜辺の松の枝を引き寄せて結びました。もし無事に生き延びることができたなら、また帰ってきてこの松の枝を見ることでしょう」となります。古代には旅の道中で松の枝を結んで安全祈願をする習俗があり、有間皇子もそれにならって松の枝を結びました。「もし無事であったなら」という仮定の言葉に、すでに死を覚悟しながらも一縷の望みにすがる切なさが込められており、万葉集を代表する辞世歌の一つとされています。

A. 有間皇子と中大兄皇子はいとこ同士にあたります。有間皇子の父・孝徳天皇と、中大兄皇子の母・皇極こうぎょく天皇(後の斉明さいめい天皇)は兄妹であり、中大兄皇子から見れば孝徳天皇は叔父にあたります。つまり中大兄皇子は、いとこである有間皇子を策略によって処刑した加害者という立場になります。古代における皇位継承争いは血縁の濃さを問わず冷酷に行われたことを示す代表例の一つです。

A. 『万葉集』には有間皇子の作とされる和歌が計2首収録されています(巻二・141番歌「磐代の浜松が枝を引き結び」、巻二・142番歌「家にあれば笥に盛る飯を」)。いずれも藤白坂への護送中に詠まれた辞世の句とされ、万葉集の中でも特に有名な歌の一つです。さらに後世、同じ磐代の地を通った長意吉麻呂・柿本人麻呂らが有間皇子を追悼する歌を残しており、それらを含めると有間皇子に関連する歌は計5首ほど万葉集に収められています。

有間皇子・飛鳥時代・万葉集をもっと深く知りたい人へ

もぐたろう
もぐたろう

有間皇子の記事が面白かった人に、万葉集や飛鳥時代をもっと深く知れるおすすめの本を紹介するよ!それぞれのレベルに合わせて選んでみてね。

①万葉集を初めて読む人に。中高生〜大学生向け入門書

②有間皇子の時代・飛鳥の政変をもっと深く知りたい大人に

はじめての日本古代史

倉本 一宏 著|筑摩書房


③万葉集の心をじっくり味わいたい大人向け教養書

有間皇子のまとめ|19歳で散った悲劇の皇子と辞世の句

ここまで、有間皇子の生涯・系図・有馬皇子の変・辞世の句・ゆかりの地について解説してきました。最後に、有間皇子の生涯を年表にまとめておきましょう。640年の誕生から658年の処刑まで、わずか19年間の出来事です。

有間皇子の年表
  • 640年
    有間皇子、孝徳天皇の皇子として誕生
  • 645年
    大化の改新。中大兄皇子が政権の中枢へ
  • 654年
    孝徳天皇崩御。有間皇子、後ろ盾を失う
  • 658年
    狂人を装い温泉療養へ赴く(生存戦略)
  • 658年11月
    蘇我赤兄の讒言により謀反発覚。有馬皇子の変
  • 658年11月
    藤白坂にて絞首刑。享年19歳

もぐたろう
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以上、有間皇子のまとめでした!万葉集の辞世の句2首と、19歳で散った悲劇の生涯——飛鳥時代の権力闘争の影には、こうした「歴史の敗者」たちの物語があるんだ。下の関連記事から、有間皇子を陥れた中大兄皇子や、辞世の句が収められた万葉集、飛鳥時代全体の流れもあわせて読んでみてね!

📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「有間皇子」(2026年6月確認)
コトバンク「有間皇子」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年6月確認)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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