使い終わった参考書・赤本をコスパ最強で売る方法はコチラ!

面白いほどわかる改新の詔!簡単にわかりやすく徹底解説【評を設置して公地公民制を目指す】

この記事は約6分で読めます。

今回は、646年に出された改新の詔かいしんのみことのりについてわかりやすく丁寧に解説していきます。

最初に、教科書風に改新の詔をまとめておきます↓

改新の詔とは・・・

646年の正月、改新の詔が出され、豪族の田荘たどころ部曲かきべを廃止して公地公民制への移行を目指す政策方針が示された。

全国的な人民・田地の調査、統一的税制の施行が目指され、地方行政組織の「こおり」が各地に設置されるとともに、中央の官制も整備されて大規模な難波宮なにわのみやが営まれた。

みことのり

天皇からの命令や発表のこと。改新の詔の場合は「発表」に近い。

この記事では、改新の詔について以下の点を中心に解説を進めていきます。

  • 改新の詔が出されるまでの経過
  • 改新の詔の内容
スポンサーリンク

改新の詔が出されるまでの経過

改新の詔までの流れ

上の流れの補足として「推古天皇や中大兄皇子たちがなぜ天皇主権を目指したのか?」について少し説明しておきます。

結論から言ってしまうと、推古天皇たちが天皇主権を目指したのは「天皇が強力な権限を持ち、東アジアの諸外国と対等に外交をするため」でした。

東アジアの諸外国
  • とう
  • 高句麗こうくり
  • 百済くだら
  • 新羅しらぎ

この中で日本にとって、特に重要だったのは新羅と唐です。

新羅とは500年代から朝鮮半島の先っちょに位置する任那みまなという地域をめぐって争いが続いていました。新羅との関係は最悪で、600年前後に日本は新羅へ進攻したとも言われています・・・。

唐は、シンプルに超強い国でした。唐に狙われれば勝ち目がないので、唐とは外交によって友好関係を結ぶ必要がありました。また、強国ゆえにそこから学ぶことも多く、日本の天皇主権の動きは、唐の政治が参考とされていました。

これらの外交問題に対応するには、日本の代表となる天皇が強力な権力を持って国をまとめている必要があります。(国が乱れていると外国に付け入る隙を与えることになる

スポンサーリンク

改新の詔の内容とは

国際的な緊張の高まりから始まった天皇主権の動きですが、その最大の反対勢力だった蘇我入鹿・蝦夷が乙巳の変で滅ぶことで、その動きが一気に加速することになります。

645年の乙巳の変の後、孝徳天皇こうとくてんのうが即位すると、さっそく都を飛鳥から難波の難波長柄豊碕宮なにわのながらのとよさきのみやへと移し、新しい都で天皇主権に向けた政治方針を定めます。これが改新の詔です。

改新の詔の内容はまとめると以下の4点となります。

改新の詔の内容
  • 1 豪族がプライベートで所有している人・土地を撤廃する
  • 2 国家を運営するための行政組織を整備する
  • 3 班田収授はんでんしゅうじゅを実施する
  • 4 旧来の税制を廃止して、田の収穫物から徴収する税制度を構築する(後の租庸調(そようちょう)の「租」になる)

これだけだと漠然としているので、それぞれについてもう少し詳しく見ていきます。

スポンサーリンク

私有する人・土地の廃止=公地公民制のこと

第一条は、公地公民制の実施を意味します。

当時、豪族の所有している土地は田荘たどころその土地に住む人々は部曲かきべと呼ばれ、豪族たちの支配下にありました。第一条では、その田荘・部曲を廃止することが書かれています。

土地と人々の名称
  • 豪族の持っている土地→田荘
  • 田荘に住む人々→部曲
  • 王族(皇族)の持っている土地→屯倉みやけ
  • 屯倉に住む人々→名代・子代なしろ・こしろ

田荘・部曲を廃止してどうしたかというと、その土地・人民を天皇のものとしました。そして、全ての土地・人が国のトップである天皇のものとすることを公地公民制こうちこうみんせいと言います。

次に、各地の公地(天皇の土地)を管理するために、こおりと呼ばれる行政組織(今でいう市町村的なもの)を置きました。そして、評の代表者には豪族の長たちが選ばれます。

豪族たちは、「自分の土地をボス」から「天皇に評の管理を任された責任者」へと立場が変わってしまったのです。中小企業の社長が、大企業に吸収されて中間管理職になる・・・というイメージです。

これに対する豪族の反応は様々だったようです。

土地を奪われたことに反対する豪族もいれば、国司に賄賂を送って上手く新制度に適用しようとする豪族もいました。全体的に見れば、反対する豪族は少数派でした。

国司こくし

国(朝廷)が地方を監視するために創設された役職。地方では絶大な権力を誇った。(権力を利用して悪事を働く者も多かった・・・)

評は、それまでの豪族の勢力を考えて範囲が決められました。豪族は社長から中間管理職と立場は変わっても、引き続きそこに住む人々の代表者として君臨することができたので、大きな反対がなかったものと思われます。

スポンサーリンク

疑惑の班田収授法

豪族の私有地を廃止して全土を天皇の所領とした後、その土地を人々に配る班田収授の実施が目指されました。

人々に田んぼを与え、そこで稲を育ててもらい、その稲を「租」という税金として徴収しようという計画でした。(このアイデアは、唐の制度がモデルになっています。)

しかし、これはすぐに実施できませんでした。実際に班田収授が行われるようになったのは670年以降だろうと言われています。

それどころか、「改新の詔の第3条(班田収授)は、奈良時代に改編された内容であり、原文ではない」ということがわかっていて、本当に班田収授を目指していたのかどうかすら謎のままになっています。

ただ、土地の制度が変わるのに税制は何も変えない・・・というのは考えにくいので、何らかの税制改革が盛り込まれていたのだろうとは思います。

スポンサーリンク

改新の詔まとめ

改新の詔の内容は詳細に不明な点はあるものの、日本を天皇による中央集権国家にすべく行われた改革方針だったことは間違いありません。

推古天皇聖徳太子の時代から止まっていた中央集権化の流れが、乙巳の変を経て、ようやく再スタートすることになったのです。

しかし、改新の詔から再開された始まった中央集権化の流れは、唐・新羅連合軍と戦った白村江の戦いにより停滞します。

さらにその後、古代最大の内乱とも言われる壬申の乱によって有力豪族が没落したことで、壬申の乱の勝者である天武天皇の手によって遂に完成することになります。

改新の詔は、中央集権化の大きな流れのまさに中間地点に位置する政治改革だったのです。



飛鳥時代
もぐたろうをフォローする
この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

もぐたろうをフォローする
まなれきドットコム

コメント