
「大化の改新=645年の出来事」と覚えている人は多いですよね。
ところが実は、大化の改新は1年で終わった出来事ではありません。約55年かけて完成した、日本史上最大級の国家改革プロジェクトだったのです。

今回は、645年に始まった大化の改新と、改革の方針を示した改新の詔についてわかりやすく丁寧に解説していくよ!
大化の改新とは?(645年・何があった?)
大化の改新とは、645年の乙巳の変で蘇我氏が滅亡した後、孝徳天皇のもと、中大兄皇子と中臣鎌足が中心となって進めた一連の政治改革のことを言います。
この改革により、それまでの豪族を中心とした政治から、天皇を中心とした中央集権的な政治体制へと、日本は大きな変貌を遂げることになりました。

「大化の改新」って、乙巳の変と同じこと?ちがうの?

いい質問!乙巳の変は「蘇我入鹿を暗殺した事件」のことで、大化の改新は「その後に行われた国家改革全体」のことだよ。乙巳の変は大化の改新のスタートのきっかけ、って感じだね。
改革の背景 ― なぜ改革が必要だったのか?
■東アジアの緊迫した国際情勢
大化の改新が行われた7世紀、東アジアの国際情勢は大きく動いていました。
中国では隋が統一を果たし、その後を継いだ唐が東アジアの覇者として君臨。朝鮮半島でも高句麗・百済・新羅の三国が激しい争いを繰り広げていました。
このまま豪族の連合体のような緩やかな統治体制を続けていては、強大な唐や朝鮮三国に太刀打ちできない……。日本は、より強力な中央集権的な国家体制を築く必要に迫られていたのです。

唐は律令という法典に基づいて国を治める「律令国家」として繁栄していたんだ。日本も東アジアの強国に負けないよう、唐のような統一国家を目指そうと考えたんだよ。
■蘇我氏の専横

そんな中、日本の政治の実権を握っていたのが蘇我氏でした。蘇我氏は代々、大臣の地位を世襲し、6世紀後半から約半世紀にわたって政治を動かしてきました。
特に蘇我蝦夷とその子・蘇我入鹿の時代(おおむね630年以降)になると、蘇我氏の権力は絶頂に達します。
入鹿は皇極天皇の意向を無視して勝手に官位を与えたり、自分の墓を造営したりと、まるで自分が天皇であるかのような振る舞いをするようになりました。
この蘇我氏の専横に危機感を抱いたのが、皇極天皇の皇子である中大兄皇子と、後の藤原氏の祖となる中臣鎌足でした。

このまま蘇我入鹿の好き勝手にさせておけない。俺がこの国を変えてやる・・・!

私も同意見です。私も協力します。
登場人物
■中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)

皇極天皇の皇子。後の天智天皇。中臣鎌足とともに乙巳の変を主導し、大化の改新の中心人物となります。
孝徳天皇のもとで皇太子となり、実質的に改革を推進。668年に天智天皇として即位します。

乙巳の変を起こしたとき、中大兄皇子はまだ20歳前後だったんだ。若くして国を変える決断をしたっていうのは、なかなかすごいことだよね!
■中臣鎌足(なかとみのかまたり)

中大兄皇子の盟友にして参謀役。乙巳の変の計画立案に深く関わりました。
死の直前に藤原の姓を賜り、後の藤原氏の祖となります。今でいう「ブレーン」「参謀」のような存在です。
■孝徳天皇(こうとくてんのう)

皇極天皇の同母弟。乙巳の変後に即位し、「大化」という日本初の元号を定めた天皇です。
難波(現在の大阪)に都を移し、中大兄皇子とともに改革を推進しましたが、653年に中大兄皇子が飛鳥に戻ってしまい、翌654年に難波で崩御します。

孝徳天皇は改革に熱心な天皇だったんだけど、実は中大兄皇子との関係がうまくいかなくなって、最後は都に取り残されるような形で亡くなってしまうんだ…。
乙巳の変 ― 改革の始まり(645年)

645年6月12日(旧暦)、飛鳥板蓋宮の宮殿で朝鮮からの使者を迎える儀式が行われていました。
その最中、中大兄皇子と中臣鎌足らは蘇我入鹿を暗殺。さらに翌日、入鹿の父である蘇我蝦夷も自らの邸宅に火を放ち自害に追い込まれます。
長く続いた蘇我氏の支配体制は、ここに終止符を打ったのです。

蘇我氏の時代は終わりだ!!これからは天皇中心の新しい国を作る。誰にも文句は言わせねぇ!
乙巳の変の後、皇極天皇は退位し、その弟である軽皇子が即位して孝徳天皇となりました。中大兄皇子は皇太子となり、中臣鎌足とともに新しい政治体制づくりに着手します。

改新の詔(646年)
翌646年1月1日、孝徳天皇は「改新の詔」を発布しました。これが大化の改新の本格的な始まりとなります。

「詔」というのは、天皇からの命令・発表のこと。今でいう「総理大臣の施政方針演説」みたいなイメージだよ!
改新の詔は全4条。それぞれの内容を見ていきましょう。
第1条:公地公民(私有地・私有民の廃止)
第2条:地方行政の整備(国司・郡司の設置)
第3条:戸籍・計帳・班田収授法の制定
第4条:税制の統一(租庸調制へ)

この4条を押さえておけば、改新の詔はバッチリだよ!ひとつずつ見ていこう。
■第1条|公地公民制の宣言(私有地・私有民の廃止)
【第1条の内容】天皇や豪族が私的に所有する民(子代の民・部曲)と土地(屯倉・田荘)をすべて廃止する。
これは、私的な土地・民の所有を否定することで、「すべての土地と民は天皇のものである」という公地公民の理念を打ち出したものです。

「公地公民制が確立した」ってテキストで読んだけど、すぐに実現したわけじゃないの?

そこ大事!「公地公民」はこの時点ではあくまでも目指すべき理念・方針を示したものなんだ。豪族による土地支配は実際にはその後もしばらく続いて、大宝律令(701年)で制度として完全に整備されるんだよ。
■第2条|地方行政制度の整備
【第2条の内容】都(京師)を定め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬などの制度を設置し、国郡の境界を定める。
都を新たに定め、地方統治のための行政組織をしっかり整備する、というのが第2条の内容です。

国司とか郡司ってなに?

国司は今でいう県知事、郡司は市長のようなイメージだよ!中央から地方に役人を派遣して、全国を天皇の命令で動かせるようにしようとしたんだね。
■第3条|戸籍・計帳・班田収授法の制定
【第3条の内容】初めて戸籍・計帳・班田収授法を策定する。
各地に住む人々の人数・年齢などを戸籍・計帳で把握し、それに応じて田地(班田)を民に支給しようとしたのが第3条です。

戸籍っていうのは、今でいう住民台帳のこと。「この地域に何人住んでいるか」を国が把握して、それに応じて田んぼを配る仕組みを作ろうとしたんだよ。
■第4条|税制の統一(租庸調制へ)
【第4条の内容】旧来の税制・労役を廃止して、新たな租税制度(田の調)を策定する。
班田を支給した民から税を徴収する新しい仕組みを整えようとしたのが第4条です。後の租庸調制度へとつながっていきます。

租庸調は簡単に言うと、お米(租)・労働(庸)・特産品(調)の3つで税を納める仕組みのことだよ!ここで方針が示されて、後に制度として完成していくんだ。
実はこの改新の詔、内容が後世に書き改められた可能性が学者の間で指摘されています。
1967年に奈良・藤原宮跡から出土した木簡に「評(こおり)」という文字が書かれていることが判明。本来「評」と書かれていたはずの箇所が、『日本書紀』(720年編纂)では「郡(ぐん)」に書き替えられていたことがわかったのです。
現在の学術的な主流は「潤色説」——原資料は存在したが、8世紀の大宝律令施行後の制度内容に合わせて補足・書き直しが行われた、という考え方です。
つまり改新の詔に書かれた内容は「645年当時の原文そのまま」ではなく、後世の視点が入っている可能性があります。歴史資料を読む際には、こうした史料批判の視点も大切です。
大化の改新で実際に行われたこと
結論から言うと、大化の改新で孝徳天皇の時代に確実に実現したとわかっているのは、第2条の行政組織の見直しが中心でした。

652年、都を難波長柄豊碕宮(現在の大阪)に遷都し、地方には行政単位となる評(今でいう市町村のようなもの)を設置しました。
残りの改革については、記録が残っていなかったり、後の時代にまで実現を待つ必要がありました。

なお654年に孝徳天皇が亡くなると、都は再び飛鳥に戻されたんだ。実は653年に中大兄皇子が皇極上皇らを連れて飛鳥に戻ってしまい、孝徳天皇は難波に取り残された形で翌年崩御してしまうんだよ…。
天智朝・天武朝での改革の進展
改新の詔で示された理念が実際に完成するまでには、なんと約55年もの歳月がかかることになります。その間に何が起きたのか、ポイントを確認しておきます。
■白村江の戦い(663年)
663年、日本は百済を支援するため朝鮮半島に出兵しましたが、唐・新羅の連合軍に大敗を喫します(白村江の戦い)。
この敗北を機に、中大兄皇子(天智天皇)は唐・新羅の侵攻に備えて防衛体制を強化。九州北部に水城・山城を築き、律令制度の整備をさらに急ぎます。
■庚午年籍(670年)
天智天皇の時代、670年についに日本初の全国的な戸籍である庚午年籍が完成します。
これは改新の詔・第3条で掲げた「戸籍の整備」がようやく実現した瞬間でした。庚午年籍は後の大宝令でも永久保存が命じられるほど重視されました。

改新の詔で「戸籍を作ろう!」と宣言してから約25年。ようやく全国規模の戸籍が完成したんだね。改革っていうのは、一朝一夕にはいかないものなんだ。
■壬申の乱(672年)
天智天皇の死後、皇位継承をめぐって天智天皇の弟・大海人皇子と天智天皇の子・大友皇子が争った内乱が壬申の乱です。
大海人皇子が勝利して天武天皇として即位し、天皇権力のさらなる強化が進みます。天武天皇の時代には部曲の廃止令も出され、公地公民制の実現へと大きく前進しました。
■大宝律令の完成(701年)
701年、刑部親王・藤原不比等らの手によって大宝律令が完成・施行されます。
これにより、班田収授法・租庸調を基本とする税制・戸籍制度など、改新の詔で掲げた理念がついに法制度として整いました。大化の改新から実に約55年、ここで律令国家・日本の完成です。
大化の改新の歴史的意義と影響
大化の改新は、単なる政変ではありませんでした。日本史における最大の「国家体制の転換点」のひとつと言えます。
意義①:東アジアに対応できる国家体制を確立した
唐・新羅という強大な隣国に対抗するため、バラバラな豪族連合から中央集権国家へと生まれ変わりました。
意義②:「天皇」を頂点とする政治秩序が確立した
豪族が私的に土地・民を支配する体制を否定し、すべての土地と民は天皇のものという原則が打ち出されました。これが後の摂関政治・院政へと続く日本の政治体制の土台となります。
意義③:律令国家・日本の出発点となった
改新の詔で示された理念は、大宝律令(701年)の完成によって制度として完成します。日本が「法に基づいて統治される国家」へと変貌する出発点が大化の改新でした。

大化の改新は「天皇中心の国家を作ろう!」という壮大なプロジェクトの出発点だったんだ。55年かけて完成させたと思うと、まさに日本の国づくりの原点だね!
語呂合わせ・覚え方

テスト前に覚えておきたい年号の語呂合わせを紹介するよ!
645年(乙巳の変・大化の改新)
→「むしごろし(645)、蘇我氏倒す大化の改新」
646年(改新の詔)
→「むしろ(646)新しい詔を発布」
701年(大宝律令)
→「なれ(701)ちょう大宝律令」
よくある質問(FAQ)
645年は「乙巳の変(蘇我入鹿の暗殺)」、646年は「改新の詔の発布」です。大化の改新全体の始まりは645年と答えるのが一般的です。テストでは問題文をよく読んで使い分けましょう。
原資料は存在したとされていますが、現在の『日本書紀』に書かれている内容は、後世(大宝律令の後)に書き改められた部分があるというのが学術的な主流の見方です。これを「潤色説」と言います。「完全にウソ」ではなく「後から補足・修正が入っている」という理解が正確です。
結論から言うと大成功です。ただし、すぐに実現したわけではなく、約55年かけて大宝律令(701年)で完成しました。短期的にはすべての政策が実現したわけではありませんが、長期的には日本を律令国家へと変える壮大な改革の出発点となりました。
まとめ
大化の改新は、乙巳の変による蘇我氏打倒から始まり、改新の詔による改革の方針提示、そして大宝律令(701年)の完成によって締めくくられる、約55年にわたる長期の国家改革でした。
改革はすぐには実現せず、天智・天武朝を経て徐々に整備されていきました。しかしこの改革が示した方向性——「天皇を頂点とする中央集権国家」——は、その後の日本の政治体制の根幹となったのです。
第1条|公地公民
→ 天武朝で部曲廃止令 → 大宝律令(701年)で制度として完成
第2条|地方行政の整備
→ 651年に「評」を設置。孝徳天皇の時代にいち早く実現
第3条|戸籍・班田収授法
→ 670年に庚午年籍が完成 → 大宝律令で班田収授法が制度化
第4条|税制の統一
→ 大宝律令(701年)で租庸調制として完成

テストでは「改新の詔の4条の内容」と「それがいつ実現したか」がセットで問われることが多いから、上の表はしっかり押さえておこう!
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645年乙巳の変。中大兄皇子・中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺。孝徳天皇が即位し「大化」の元号を制定
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646年改新の詔を発布(全4条)。公地公民・地方行政・戸籍・税制改革の方針を示す
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652年難波長柄豊碕宮の完成・遷都。地方に「評」を設置し行政組織を整備
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654年孝徳天皇崩御。都が再び飛鳥へ
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663年白村江の戦いで大敗。防衛・律令整備が加速
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670年天智天皇のもと、日本初の全国戸籍「庚午年籍」完成
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672年壬申の乱。天武天皇即位。天皇権力がさらに強化される
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701年大宝律令完成・施行。律令国家・日本が完成する

以上、大化の改新のまとめでした!乙巳の変・飛鳥時代まとめの記事もあわせて読んでみてください!

- Wikipedia日本語版「大化の改新」「改新の詔」「乙巳の変」「孝徳天皇」「難波長柄豊碕宮」「庚午年籍」「大宝律令」
- コトバンク「改新の詔」「大化の改新」(デジタル大辞泉・日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典・山川日本史小辞典)






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