(出典:wikipedia「藤原京」、Author:663highland)
今回は694年に建設された天皇主権国家として日本最古の首都となった藤原京(ふじわらきょう)について紹介したいと思います。
710年の平城京が有名で藤原京はなんとなく地味なんですが、実は歴史的には藤原京って結構凄いんです。
藤原京はなぜ造られたのか?
藤原京は、今でいう奈良県の橿原市・明日香村に広がる巨大な都市でした。その発掘結果などから藤原京はとても広大であり平城京以上の敷地面積を持つ首都でした。
新しい都を造るというのは、途方も無い財力と労力を要します。なぜそのような苦労をしてまで当時の日本人は巨大な都を造ろうとしたのでしょうか?
そこには飛鳥時代初期から続いていた天皇主権国家の樹立という日本の大きな目的がありました。飛鳥時代の概要は以下の記事を参考にどうぞ。
壬申の乱に勝利し、既得権益層を一斉排除した天武天皇は、天皇主権国家の樹立に向けて大事業を次々と打ち出しました。その1つが藤原京の建設だったのです。
天皇主権国家の樹立に向けて天皇の権力・権威を象徴する壮大な都を建設し、人々の心をつかむ必要があったんですね。
藤原京ができるまで
藤原京の建設は、690年から始まり4年間の工期を経て694年に完成します。当時の天皇は持統(じとう)天皇という天皇でした。
持統天皇は前代の天武天皇の妻。持統天皇は天武天皇の後を引き継ぎ、藤原京の建設を開始しました。
なので690年に本格的な建設工事が始まったとは言え、それ以前から都の場所の選定や設計図の作成などの準備は着々と進んでいました。690年以前から、建設工事が始まっていた・・・と考える説もあるほど。
藤原京の設計図は、唐の古典である周礼(しゅうらい)という著書に基づいて造られたと言われています。藤原京は日本の完全オリジナル首都ではないわけです。
藤原京の特徴
藤原京に関する話は数多くあるのですが、個人的に思う最も顕著な特徴は以下の2つにあると考えています。
- 天皇の代替わりがあっても、遷都することを想定しない長期定住を想定した都市であること
- 都の中央に皇居が位置していること
これだけだとよくわからないと思うので、この2点についてもう少し詳しく見てみましょう。
遷都を想定しない画期的な都市
実は、藤原京が完成する以前の天皇って代替わりごとに遷都を繰り返していました。
藤原京以前の日本の首都は、天皇が即位式を挙げたその土地になるという決まりがありました。結果的に同じ場所になることもありましたが、天皇の代替わりがあると必ず都が変わる仕組みになっていたんです。
それが藤原京の登場によって、天皇は代が変わっても藤原京に定住するようになります。天皇の権力・権威を象徴する壮大な都市に天皇はどっしりと腰を据えて君臨するようになったわけです。
天皇が代わるごとに都が変わっては巨大な首都など造れません。従前の習慣を大きく変えた藤原京の登場によって、その後の平城京・平安京という巨大都市の建設へと繋がっていきます。
藤原京と天子南面思想
藤原京のもう1つの特徴に、皇居が都の中央に位置していることが挙げられます。
当時の唐の都は長安。中国には昔から天子南面(てんしなんめん)と言って、皇帝は必ず北に背を向け南を向き、民衆らは北を向いて皇帝と向き合う・・・という思想がありました。
長安もその例に漏れず、皇居は都の北側に位置していました。ところが藤原京はそうなっていません。唐に習って藤原京を建設してるはずなのに、なぜ皇居の位置という超重要な点が長安と異なっているのでしょうか?
それは、日本人が長安の実際の様子を見たことがなかったから。先ほど紹介した中国の古典である周礼だけを見て藤原京は建設されたんです。書物だけを見て都を造ってしまうとは凄い話ですよね・・・。
702年に粟田真人を死者とする遣唐使が派遣すると、人々はカルチャーショックを受けます。「おいおい・・・、唐を真似て藤原京造ったのに長安の造りって藤原京と全然違うじゃねーか・・・」
まぁ、当たり前ですよね。昔の本を読んで造ったのが藤原京なんだから、違って当然。ただ、皇居の位置っていうのは都市を造る上で超重要な問題です。その点が唐と違うっていうのは、藤原京は都として致命的欠点を抱えていたことを意味します。
もちろんそれだけが理由ではないと思いますが、708年、平城京への遷都が決定され、長安に習った本格的な首都の建設がスタートします。(710年に平城京は完成します)
藤原京まとめ
以上、藤原京についての紹介でした。
藤原京は、天皇主権国家としての日本にとって最古の首都となった歴史的にも意義ある大都市・・・なんですけど、なんか残念な感じなんですよね。
周礼という本にだけ頼って、実際の長安を見ずに建設してしまったわけですが、机上の理論だけで完璧な都市が造れるほど都市設計は甘くないです。藤原京は694年から710年までの間、日本の首都として機能しましたがわずか16年で首都の座を平城京に譲り渡してしまいました。
ただ、当時の人々は一刻も早く新しい首都を建設したかったわけだし、遣唐使も簡単に派遣できるものでもないし、やむを得ないといえばその通りなんですがね・・・。
コメント
はじめまして、いつも楽しみに読ませて頂いてます。
素朴な疑問なんですが藤原京建設にあたり、中国の書物だけを参考に造営したと言うことですが、当時日本には中国からの渡来人が多数居たと思うのですが、藤原宮の位置が長安とは違う事を指摘する渡来人は無かったのでしょうか?
長文で失礼しました。ふと疑問に思い書き込みました。
返信が遅くなってしまいました(汗。
確かに実際のところはどうだったんでしょう。言われてみると気になりますね。
当時は、白村江の戦いで日本が唐に敗北した後であり、唐とは敵対国でした。白村江の戦い後の遣唐使は、唐との和平工作の意味合いも含まれています。
そんな情勢の中、唐から渡来人が日本の政治の中枢にいたことは考えにくいのかな?と個人的には思います。(それに、当時の渡来人は唐よりも白村江の戦い前後で滅んだ百済からの渡来人が多かったものと思われます。)
一方で、600年代前半には遣唐使が長安に訪れていたようなので、書物以外にも長安の都市設計について知る機会はあったのでは?とも思ったり・・・。
唐との関係が落ち着き、「唐の制度や政治を学ぶ」という強い目的意識を持って初めて派遣されたであろう遣唐使が702年の遣唐使でした。702年以前に長安について知っている者は日本国内にいたのかもしれませんが、政治の中枢に意見できる人物が知ったタイミングとしてはやはり702年の遣唐使だったのでは?というのが個人的な見解です。(根拠史料等を知っているわけではなく、本当に個人的な意見です)
周礼に基づいて藤原京が建設されたというのが通説ですが、通説が正しいかどうかはっきりとわからないのが歴史の難しいところであり面白いところですね。