今回は、主に古代史に登場する令外官について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
令外官とは
大宝律令が制定されて以降、新しく置かれた官職のことをまとめて令外官と言います。
昔の日本では、新しい官職ができても律令に修正を加えることはしませんでした。
その代わりとして、新しく設けられた官職は「律令の外にある官職」という意味で、すベて令外官と呼ばれるようになったのです。
律令とは、当時の法律のことを言います。
「律」は刑罰に関する法律(今でいう刑法)。
「令」は、訴訟や行政全般に関する法律のことを意味していて、官職のことはこの令に定められています。
なので、厳密には「律令の外の官職」ではなく「令の外の官職」が正確な表現になります。
だから律令外官ではなくて、令外官と呼ばれているんだね!
高校日本史で覚えておきたい令外官一覧
令外官は、大宝律令以降に定められたほぼ全ての官職になるので、膨大な数の官職があります。
この記事では、その膨大な数の令外官から、高校の日本史で知っておきたい重要な令外官をいくつかピックアップして紹介していきます。
絶対に知っておきたい令外官は5つです。
それぞれについて、簡単に紹介していくよー!
勘解由使
勘解由使は、地方に派遣された国司が、ちゃんと仕事をしているかチェックする官職。797年頃に設置されました。
具体的には、
国司が不正をしていないかチェックする。
新しく赴任する国司と前任の国司が利権をめぐってトラブった際に、争いを収める。
というような仕事をしていました。
国司の任期は基本4年。任期を終えた国司は、活躍が朝廷で認められれば、出世することができます。
しかし国司は、勘解由使による審査をクリアしなければ、任期を終えることができませんでした。
※問題ないことが確認できた国司には、解由状が渡されました。国司には解由状を渡すか調べる(勘がえる)、という意味で、勘解由使と名付けられました。
あなたが任期中に、不正に農民から稲を搾取していることが確認できました。
よって解由状は渡さない。これまでの不正を改善するまで、出世は諦めな!
俺は朝廷からの評価も良かったから、国司の任期が終われば出世コースに乗るはずだったのに・・・!
蔵人頭
蔵人頭は、天皇の側近秘書的な官職。810年に設置されました。
天皇と朝廷の役人たちの間を行き来して、情報の伝達をするのが仕事でした。
情報伝達の仕事は、蔵人頭が設置されるまでは天皇の生活全般の世話をする女官の仕事でした。
ところが、810年に起きた平城太上天皇の変(薬子の変)によって、事態は一変します。
平城太上天皇の変は、権力をめぐる嵯峨天皇VS平城太上天皇という争いです。
この時大問題になったのが、女官のトップ(尚侍)だった藤原薬子という女性が、平城太上天皇の愛人だったことです。
敵の愛人が情報伝達の担当だなんて、機密情報がすべて敵に筒抜けになってしまう・・・(絶望)
そこで、情報伝達の仕事を女官から分離させて、独立した部署を立ち上げることにしました。
この部署のことを蔵人所と呼び、蔵人所のトップを蔵人頭と言いました。
蔵人頭は、重要な機密情報を扱うこともあったため、天皇から信頼されている人物が抜擢されました。
検非違使
検非違使は、平安京の治安を守る官職。816年頃に設置されました。
平安京内の監視や違法者の逮捕といった警察のような仕事から、必要であれば裁判や行政に関することまで幅広い仕事をこなしました。
検非違使が置かれるまで、平安京の治安を守る仕事は、多くの部署が役割分担をして行われていました。
平安京内の監視をするのは弾正台
違法者を捕まえるのは衛府
裁判を担当するのは刑部省
といった感じです。
しかし、平安時代に入ると、この治安維持の仕組みが機能しなくなります。
「悪い奴を見つける」→「捕らえる」→「裁判する」という3つの手順を進めるのに、それぞれ別の部署で手続する必要があるので、スムーズに処理を進めることができなくなってきたのです。(いわゆる縦割り行政ってやつです)
こうして治安維持の機能が低下すれば、当然、平安京の治安は悪化します。そこで設置されたのが検非違使です。
検非違使は、縦割り行政になっていた監視・逮捕・裁判を一手に引き受ることで、強大な権限を持ちました。その強権を活かして、実効性のある治安維持活動を行っていたのです。
令外官の良いところは、従来の律令制では解決できない問題に対して柔軟な対応ができる点です。
押領使&追捕使
押領使と追捕使は、とても似ている官職だからまとめて紹介するよ
押領使は、地方の国々の治安を守る警察のこと。検非違使の地方版のイメージです。
追捕使は、地方の国々で反乱が起きた時に、これを鎮圧する軍隊の長のこと。
今風にいえば、押領使は地方警察、追捕使は自衛隊のイメージです。
どちらも地域密着型の仕事なので、各国の有力者(豪族)で、かつ、武芸に長けた者が抜擢されました。
もともと押領使&追捕使は、有事が起こった時にだけ置かれる臨時的な令外官でした。
ところが、地方の軍事制度が崩壊すると、押領使&追捕使なしでは地方の治安を守りきれなくなり、常に置かれる常設の官職となっていきます。
軍事のスペシャリストだった押領使&追捕使は、後に登場する武士の始まりとなる存在でもありました。
939年に日本では、2つの大反乱が同時に起こりました。平将門の乱と藤原純友の乱です。
この大反乱の鎮圧で大活躍したのが、押領使&追捕使でした。
平将門の乱の鎮圧に当たったのは、追捕使の平貞盛。そして、平将門の首を直接討ち取ったのは押領使だった藤原秀郷という人物でした。
一方、藤原純友の乱の鎮圧に当たったのも、追捕使の源経基でした。
平貞盛・藤原秀郷・源経基は、その活躍が評価され大出世を遂げることになります。そしてこの三人は、それぞれ・・・
平貞盛→平清盛のご先祖さま
藤原秀郷→奥州藤原氏のご先祖さま
源基経→源頼朝のご先祖さま
となり、武士の始まりとも言える存在になっていきます。
平将門の乱・藤原純友の乱以後も、反乱が起こるたびに押領使と追捕使の活躍は脚光を浴びるようになり、両者は次第に武士へと成長していきました。
中世の武士の繁栄は、押領使と追捕使から始まった・・・といっても過言ではないわけです。
そのほかの令外官
教科書に載っている令外官は、他にも次のような官職があります。
この3つの官職は、教科書にも載っている大事な官職です。
ただ、「令外官かどうか?」とテストで問われることはほぼないので、令外官であることは参考程度に知っておけばOKです。
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