今回は、平安時代に登場した関白という役職について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
関白とは
関白とは、成人になった天皇を補佐する役職のことを言います。
平安時代の初期、藤原基経という人物が日本初の関白となり、江戸時代が終わるまでの間、定期的に置かれる役職となりました。
なぜ関白という役職ができたのか
時代は876年、陽成天皇という天皇が即位した頃にさかのぼります。
陽成天皇はわずか9歳で即位したため、政治を行うことができません。そこで、摂政が置かれました。
この時に摂政に選ばれたのが、藤原基経という人物でした。藤原基経は、天皇の叔父(基経から見れば甥っ子)という外戚として、摂政に選ばれたのです。
ところが、摂政を任された藤原基経は、陽成天皇のことをあまり良く思っていませんでした。
藤原基経は、陽成天皇の母であり自分の妹でもあった藤原高子との関係がギクシャクしていました。
そのため、高子の息子である陽成天皇のことも快く思っていなかった・・・と言われているよ。
880年に陽成天皇のお父さん清和上皇が亡くなると、藤原基経の天皇嫌いが少しずつ悪化していきます。
宮内での殺人事件から少し経って、次は陽成天皇が皇居内で勝手に馬を飼い始めると、ついに藤原基経の不満が爆発。
ブチギレた基経は、馬を皇居の外へ排除し、さらに天皇に対して譲位するよう迫りました。
陽成天皇は、政治を藤原基経に任せっきりだったため、基経を無下に扱うこともできず、譲位を受け入れました。
こうして884年2月、陽成天皇は譲位して、新しく光孝天皇が即位します。
光孝天皇は当時55歳と高齢で、おまけに天皇家の分家です。本来なら光孝天皇が天皇即位することはあり得ませんでした。
※天皇家の本家は、文徳天皇→清和天皇→陽成天皇と続く血筋です。
それが、藤原基経ブチギレ事件によって、突如として天皇即位のチャンスを得たのです。
光孝天皇は、天皇即位のチャンスを与えてくれた藤原基経のため、基経を自らの補佐役に任命して政治の全権を委ねることとしました。
この時に登場した、天皇を補佐する役職のことを関白と言います。
光孝天皇は、血筋こそ陽成天皇に劣るけど、周囲からの評判が良く人徳のある人物だ。
私は光孝天皇に対して「天皇即位できるようにしてやるから、政治の実権をこれまでどおり私に預けてほしい」と、実は裏で交渉を進めていたのだ。
関白は天皇を補佐する立場から、朝廷と天皇のやりとりに関与し、絶大な発言力を持ちました。
そして、「関与する」とは、当時の言葉で「関り白す」と言います。天皇と朝廷と全てのやりとりに関り白す(関与する)という意味で、関白という役職が名付けられたのです。
摂関政治と関白
結果的に藤原氏は、清和天皇→陽成天皇→光孝天皇と三代にわたって、摂政・関白に就任して政治の実権を握りました。
そして、光孝天皇が亡くなった後も、藤原氏は天皇家と血縁関係を結んだ上で、摂政・関白を世襲するようになり、政治の実権を握り続けます。(この政治のことを摂関政治と言います。)
摂関政治が始まると、天皇に娘を嫁がせようと、藤原氏同士の政治争いが激化。
この政治争いに勝利し、摂関政治を通じて大繁栄を成し遂げたのが藤原道長・頼通の親子です。
藤原道長は、生きている間に、娘三人をそれぞれ一条天皇(67代目)・三条天皇(68代目)・後一条天皇(69代目)の3代にわたって嫁がせることに成功。
藤原道長は、天皇家との外戚関係を通じて確固たる地位を築きました。その息子の頼通もまた、後朱雀天皇・後冷泉天皇の治世を通じて約50年もの長期間(1017年〜1068年)、関白として政治の実権を握り続けました。
その後の関白【平安時代末期〜江戸時代】
・・・が、摂政・関白が権力を振るったのもここまで。
平安時代後期の1086年、白河上皇が院政を始めると、摂政・関白は次第に実権を握ることができなくなり、摂関政治は終焉を迎えました。
ただし、摂関政治が終わった後も、摂政・関白の役職は残り続けます。
摂政・関白は、藤原道長の子孫たちが世襲することとなり、道長の子孫たちは摂家と呼ばれるようになりました。
鎌倉時代中期に入ると、藤原道長の子孫(摂家)が増えたため、摂家が5つの家柄に分裂。
それぞれ、近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家と言い、合わせて五摂家と呼びました。
江戸時代が終わるまで、この五摂家が、摂政・関白を世襲し続けます。
※この頃になると、天皇との血縁関係はあまり重視されなくなり、五摂家による世襲に重きが置かれました。
異例の関白!天下人の豊臣秀吉
しかし、世襲と言いながら、藤原氏以外で関白になった人物がいます。
それが戦国時代に登場する豊臣(羽柴)秀吉です。
近衛家と二条家が関白の地位をめぐって言い争いをしていると、そのドサクサに紛れて天下人である豊臣秀吉が関白に任命されたのです。
しかし、摂政・関白は藤原氏しかなれないというルールがあったので、豊臣秀吉は近衛家の猶子となった上で、関白となりました。
ここまでは問題ありません。豊臣秀吉が近衛家を名乗れば、昔から続く「摂政・関白は五摂家が世襲する」というルールがしっかりと守られているからです。
問題になったのは、豊臣秀吉が関白の役職を、五摂家ではなく豊臣家の世襲にしてしまったという点でした。
俺が近衛家の猶子になったことで、五摂家のみんなを勘違いさせちゃったかな?ごめんごめんww
天下を治めた私は、絶対的な権力と地位が欲しいのだ。であるから、当然関白の地位も、これからは豊臣家が世襲することにするぞ!
もし異論があるなら誰でも良いから言ってみろ!!(俺に文句を言える奴なんているわけないよなww)
豊臣秀吉は、関白の座を養子の豊臣秀次に譲ることで、五摂家の時代が終わったことを世に知らしめました。
しかし、関ヶ原の戦い(1600年)や大阪冬の陣(1614年)・夏の陣(1615年)によって豊臣家は没落。すると、摂政・関白は再び五摂家が世襲することとなりました。
摂政・関白は、確かに天皇を補佐する重要な役職だけど、鎌倉時代以降は政治の実権を武家が持っていたから、ほとんど無力だったんだ。
五摂家は、豊臣秀吉に散々振り回された後、江戸幕府が定めた禁中並公家諸法度というルールに従って引き続き摂政・関白に就任することになります。
五摂家は摂政・関白の地位を守ることはできたものの、もはや自分たちの力で自らの処遇を決めることもできなかったのです・・・。
役目を終えた関白【明治時代〜現代】
江戸時代まで細々と存続していた関白の役職ですが、明治時代に入ると関白の役職は消え去ってしまうことになります。
明治時代になると、王政復古の大号令が叫ばれ、天皇自らが政治をする天皇親政が始まりました。
すると、天皇自ら政治を行うので、もはや天皇を補佐する関白は不要となってしまったのです。
関白っていうのは「天皇を補佐するよ!」と言いつつも、実態は天皇に代わって政治の全権を握ることがほとんどでした。
つまり、関白という役職が残っていると、天皇自ら政治を行いたいのに、代わりに関白が権力を握ってしまう可能性があったのです。
こうして関白は、天皇親政には不要どころか、むしろ邪魔な役職だと見なされ、役職から消えてしまうことになりました。
※ちなみに、摂政は、天皇に不測の事態が生じた時に必須の役職だったので存続し、現代でもなお皇室典範に摂政に関する規定が設けられています。
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