

今回は奈良時代の防人(さきもり)について、役割・生存率・なぜ東国の農民が選ばれたのかをわかりやすく解説していくよ!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
「防人」と聞くと、海を見つめながら国を守る誇り高い兵士のイメージがありますよね。しかし実は、防人は志願兵でも武士でもなく、東国(関東・東海)の農民が強制徴集された「無給・自腹・帰れない」の三重苦労働だったのです。遠く離れた九州北部まで自分の食料と装備を持参して向かい、家族に二度と会えないまま命を落とした人も少なくありませんでした。
この記事では、教科書では詳しく書かれない防人の「実態」を、設置された理由から廃止までの流れに沿ってわかりやすく解説します。テスト対策として「663年の白村江の戦い」「東国農民の徴集」「桓武天皇による廃止」の3点を押さえつつ、社会人の方も「奈良時代のリアルな庶民生活」として楽しんでもらえる内容にしています。
防人(さきもり)とは?3行でわかる
- 663年の白村江の戦いを機に設置された、九州北部・対馬・壱岐の沿岸警備兵
- 東国(関東・東海)の農民が強制徴集。給与なし・食料自腹・任期3年
- 万葉集に約100首の「防人の歌」が残り、離別と望郷の悲しみを今に伝える
防人とは、奈良時代に九州北部・対馬(つしま)・壱岐(いき)といった日本の西の最前線に配備された沿岸警備の兵士のことです。「先(さき)の守り(もり)」が語源で、外敵から日本を守る最初の防衛ラインの担い手という意味が込められています。
設置されたのは、663年の白村江の戦いで日本軍が大敗した直後のこと。「次は唐・新羅が日本本土に攻めてくるかもしれない」という危機感から、九州沿岸を24時間警戒する兵力が必要になり、防人制度がスタートしました。配備された場所は今でいう福岡県北部・佐賀県沿岸・長崎県(対馬・壱岐)あたり。日本でいちばん大陸に近いエリアです。
ただし、防人として送り込まれたのは現地(九州)の人ではなく、はるか遠く離れた東国(関東・東海)の農民でした。彼らは自分で食料も装備もすべて用意し、徒歩で1〜2か月かけて九州まで向かう必要がありました。給料は出ず、任期は基本3年。奈良時代の農民にとって、防人に選ばれることは「家計が破綻する宣告」に等しい重荷だったのです。


「防人」って字、もともとは「先守(さきもり)」と書いて、「最前線の守り」という意味なんだよ。今でいうと、博多・対馬・壱岐に配備された自衛隊員みたいなイメージかな。ただし、給料もボーナスも一切なしで、現地集合・現地解散の自費出張という地獄仕様だけどね…!
防人はなぜ設置されたの?白村江の戦いとの関係
防人が設置された最大の理由は、663年の白村江の戦いで日本軍が大敗したことです。この戦いは、朝鮮半島の百済(くだら)復興を支援するために中大兄皇子(後の天智天皇)が大軍を派遣したものの、唐・新羅連合軍に完膚なきまでに叩きのめされた一戦でした。
大量の兵船を失い、百済滅亡を阻止できなかった日本側に走ったのは、「次は本土に攻めてくるかもしれない」という強烈な恐怖でした。実際、唐は当時のアジア最強国家。日本にも軍を送ってくるのではないか、特に大陸に近い九州北部が真っ先に狙われるのではないか——朝廷はそう考えました。
そこで朝廷は、白村江の戦いの翌年から相次いで国防体制を整えていきます。九州沿岸の高台には烽(のろし台)を設置し、博多湾の内陸側には水城と呼ばれる長大な土塁+堀を築造。さらに大宰府を守るために大野城・基肄城といった山城を造り、その守備兵として東国農民を送り込んだのが防人だったのです。

つまり防人は「防衛施設のついでに作られた兵」ではなく、国家規模の防衛プロジェクトの一翼を担う存在でした。九州の地に常時数百〜2,000人規模が駐屯し、海岸線を見張り、烽火を上げ、城柵を守る——白村江ショックがあったからこそ、こうした制度が必要とされたのです。

白村江で大敗した直後だから、「次は本土に攻めてくる」って恐怖が朝廷にあったんだね。それで海沿いに見張りを置いたわけか!

そのとおり!防人だけじゃなく、水城・大野城・烽火台もこのときセットで作られたんだ。当時の朝廷は完全に臨戦態勢だったんだよ。「白村江で負けた→九州を要塞化→防人を置いた」という流れをセットで覚えると、テストでもバッチリ◎
なぜ東国の農民が選ばれたの?
「九州を守るのに、なぜわざわざ遠い東国の農民を呼び寄せたの?」——これは多くの人が抱く素朴な疑問です。地理的に考えれば、九州や瀬戸内沿岸の農民を防人にする方が圧倒的に効率的なはず。しかし朝廷はあえて、東国(関東・東海)から防人を徴集しました。
この理由として有力視されているのが、「白村江の戦いで西国軍が消耗していた」という説です。西国軍中心に編成された遠征軍は朝鮮半島で大きな損害を受けており、九州・瀬戸内・近畿の兵力は短期間で再動員できる状態ではなかった。そのため、戦争で疲弊していない東国の若者にお鉢が回ってきた——というのが通説的な見方です。
■ 西国の兵はなぜ使えなかったのか
白村江の戦いで日本軍は、約400隻ともいわれる兵船と多数の兵士を失いました。動員された兵の多くは九州・瀬戸内・近畿の出身者だったため、戦後の西国は壮年男子の数自体が大きく減っていたと考えられます。さらに残った西国の兵は、水城や大野城といった防衛施設の建設・維持にも駆り出されており、長期間九州沿岸に張り付かせる余裕がなかったのです。
もう一つの理由として、東国は伝統的に「兵の供給地」だったこともあげられます。古墳時代から東国の豪族・農民は朝廷の軍事動員の中心であり、ヤマト政権から見ると「使い慣れた人材プール」でもありました。蝦夷との境界地帯であった東国は、もともと武勇に優れた集団が多く、兵としての訓練や規律にも適していたとされます。
■ 東国から選ばれた農民とはどんな人たちか
当時の東国とは、おおむね遠江(とおとうみ・現在の静岡県西部)から東の関東・東北南部あたりを指します。今でいう静岡・神奈川・山梨・東京・埼玉・群馬・栃木・茨城・千葉・福島南部などです。徴集されたのは特別な軍人ではなく、ふつうに田畑を耕している農民の若者たち。奈良時代の戸籍に基づいて1戸につき1人のペースで選ばれていきました。
選ばれる年齢はおよそ21〜60歳の正丁(せいてい=成人男子)。20代の若者だけでなく、40〜50代の働き盛りの男もごっそり持っていかれることがありました。家族にとっては大黒柱を3年(往復含めると実質4年以上)も奪われる計算になり、その間の田畑の耕作・税の支払い・家族の養いはすべて残された妻と子と老親にのしかかったのです。

関東から九州まで、徒歩でですよね…?今でも新幹線で5時間以上かかる距離ですよ。それを何ヶ月もかけて歩かせるって、もう人事異動どころの話じゃないですよね。

そう、東国〜九州は徒歩で片道1〜2ヶ月。しかも食料も自費。出発した時点でもう超絶ブラック労働だよね…。出発前に「もう生きて帰れないかもしれない」と覚悟して、家族と泣きながら別れを告げたという歌が万葉集にもたくさん残っているんだ。
防人の仕事・生活の実態
防人の任地に着いてからの暮らしは、私たちが想像する「軍人生活」とはかけ離れたものでした。給料はゼロ、食料は自前、住まいは自分で建てる——軍隊というより、「自費で参加するボランティア+過酷な肉体労働」に近い生活だったのです。ここでは任期・給与・1日の仕事を順番に見ていきます。
■ 防人の任期と給与
防人の基本任期は3年でした。ただしこの「3年」には、東国から九州への往復にかかる時間(片道1〜2ヶ月)は含まれないのが基本ルール。実質的には4年近く家を離れることになり、しかも交通機関などないため、悪天候・病気・盗賊などで遅れれば任期はさらに伸びました。
給与については、現代の感覚でいう「お給料」は一切ありません。さらに防人本人は、本来納めるべき租(そ・米の税)と庸(よう・労役の代わりの布や米)が免除されるものの、調(ちょう・地方の特産物)は引き続き納める必要があったとされます。つまり「税の一部を払いながら、無給で命を懸けて九州を守る」という構造。家族側も、大黒柱が抜けた田畑を細々と耕しながら税を納め続ける必要がありました。
問題①:無給・自腹・帰れないの三重苦
問題②:任期終了後も帰路で死者が続出
装備(武器・防具・衣服)も基本は自分持ち。出発前の家族はあちこちから物を借り集め、なんとか送り出したと伝えられています。「ブラック企業」という言葉が生ぬるく聞こえるレベルの労働環境だったといえるでしょう。
■ 防人の一日の仕事
では、防人たちは現地で具体的に何をしていたのでしょうか。任務は大きく分けて「海岸監視」「烽火(のろし)の運用」「城柵の守備」「土木作業」の4つです。
- 海岸監視:対馬・壱岐・北部九州の高台や岬から海を見張り、唐や新羅の船が来ないかをチェック
- 烽火の運用:敵船を見つけたら「烽(とぶひ)」に火を上げ、リレー方式で大宰府まで急報。電話のない時代の最速通信網
- 城柵の守備:水城・大野城・基肄城などの拠点に詰めて、有事の際の防衛戦力となる
- 土木・自給自足:城や宿舎の修繕、自分たちが食べる分の畑作りまで防人の仕事。戦闘より雑用のほうが多かった
つまり防人の日常は、戦闘よりも「ひたすら見張り続ける単調な日々」でした。実際には3年の任期中に唐・新羅軍が攻めてくることはほぼなく、戦闘で命を落とすケースよりも、慣れない土地での飢えや病気で倒れるケースのほうがはるかに多かったとされています。

食料も装備も全部自分で用意するって、現代でいう「自費で長期出張、ホテル代も食事代も会社からゼロ円」みたいな状態ですよね…。今でいうブラック企業どころじゃないですよ。

しかも家族はほぼ養えなくなる。当時の農民は租・庸・調などの税も払っていたから、防人に選ばれた家は本当に大変だったんだよ…。「父ちゃんが防人に行く=家計即破綻」レベルの大事件だったんだ。
防人の生存率はどれくらいだった?
「防人 生存率」は、この記事を読んでくださっている人がもっとも気になるテーマかもしれません。結論からいうと、正確な生存率を示す数字を持った史料は残っていません。ただし続日本紀などの古代史料には、防人の死亡・逃亡・行方不明の記録が大量に残されていることから、決して安全な任務ではなかったことがわかります。
命を落とす最大のリスクは、戦闘ではなく「飢え」「病気」「帰路の事故」でした。任地までの片道1〜2ヶ月の長旅で食料が尽きれば、道中で倒れる人が出る。任地に着いてからも慣れない環境・水・気候で疫病が広がる。任期を終えて帰る道のりでも、すでに食料は尽き、体力も限界——という最悪のループです。
■ 帰路の死者・逃亡者
もっとも深刻だったのが、任期を終えた帰り道で命を落とすケースです。3年の任期を満了した防人は、当然ながら帰国にかかる費用も自腹。すでに3年分の食料を使い果たし、体力も削られた状態で、再び九州から関東まで徒歩で帰らなければなりません。途中で食料が尽きて餓死する者、行き倒れになる者、病気で死ぬ者が続出しました。
続日本紀には、こうした「帰路の防人が道路で行き倒れている」ことを問題視する記述が複数残されています。朝廷側もこれを放置できず、後の時代には帰路の食料を支給する措置や、沿道の国司に保護を命じる命令が出されたほどでした。逆にいえば、それだけ「任期を終えても無事に帰れない人が多かった」という証拠でもあります。
■ 防人逃亡問題と朝廷の対応
過酷な現実を前に、防人の中には任期途中で逃亡する者も少なくありませんでした。続日本紀には防人の逃亡を取り締まる記事や、逃亡者の家族に罰を与える記事が残されており、当時の朝廷もこの問題に頭を抱えていたことがうかがえます。なかには任地に着く前、東国を出てすぐに逃げ出す者もいたといいます。
東国農民の負担があまりに大きく、また逃亡者続出で運用が困難になったため、朝廷は757年(天平宝字元年)に大きな制度変更を行います。それまで東国農民に頼っていた防人徴集を停止し、九州現地(西海道)の人々を中心に徴集するよう切り替えたのです。これにより東国の負担は大きく軽減されたものの、防人制度そのものの過酷さは続きました。

「生存率」を一言で言えるような史料はないけれど、続日本紀には逃亡記録や帰路での行き倒れの記述がたくさん残っているんだ。「無事に故郷に帰り着けるかどうか」自体が運次第——というレベルの過酷な制度だったんだよ。次の章では、こうした制度がついに桓武天皇の時代に廃止される流れを見ていこう!
防人制度はいつ廃止された?
あれだけ過酷な制度ですから、当然ながら防人制度はいつまでも続けられたわけではありません。防人制度は795年(延暦14年)、桓武天皇の時代に正式に廃止されたとされます。664年の設置から数えて、およそ130年続いた制度の終わりです。さらに826年(天長3年)には九州(西海道)の軍団も廃止され、防人を含む古代の徴兵制度は完全に役割を終えました。
桓武天皇といえば、794年の平安京遷都でおなじみの天皇です。「平安遷都の翌年に防人廃止」とセットで覚えると、「奈良時代型の重い制度を一気に整理した天皇」というイメージがつかめます。桓武天皇は防人だけでなく、健児制(こんでいせい)と呼ばれる新しい兵制を導入し、農民徴兵から少数精鋭の兵士へと方針を切り替えていきました。
■ 廃止の経緯と背景
廃止の背景にはいくつかの要因が重なっていました。第一に、唐や新羅からの侵攻リスクが現実的でなくなっていたことです。663年の白村江直後の緊張感はすでに過去のものとなり、9世紀には唐そのものが内乱で衰退期に入りつつありました。第二に、農民の負担が限界に達していたこと。逃亡者の続出、戸籍の崩壊、税収の減少——農民をベースにした徴兵制度は、もはや国の体力を蝕む存在になっていたのです。
そこで桓武天皇が打ち出したのが、「全国一律の農民徴兵をやめ、地方の有力者の子弟(健児)を専業兵として抱える」という方針でした。少数の屈強な兵に絞ることで、一般の農民の負担を減らしつつ、機動的な防衛体制を維持しようとしたのです。これにより防人制度の存在意義は薄れ、ついに歴史の舞台から姿を消すことになりました。
ただし、廃止されたのは「東国農民を防人として徴集する制度」であって、九州沿岸を守る兵そのものがゼロになったわけではありません。九州現地の人々や健児が防衛任務を引き継いでいきました。「防人=なくなった」のではなく、「防人というキツい徴兵制度がなくなった」と理解しておくと、テストでも誤読しにくくなります。

テストで「防人を廃止した天皇は誰?」って出そう。桓武天皇でいいの?

そう、桓武天皇(在位781〜806年)が答え!「健児制スタート(792年)→ 平安遷都(794年)→ 防人廃止(795年)」のセットで覚えると、流れが一気に頭に入るよ。「奈良時代の重い制度を整理した天皇=桓武天皇」と覚えるのもオススメ◎
万葉集と防人の歌
過酷な防人制度は、ただ歴史の中に消えていったわけではありません。彼らが残した「歌」が、現代の私たちにまで届いています。日本最古の歌集である万葉集の巻20には、防人やその家族が詠んだ「防人の歌」が約93首収録されているのです(数え方によっては100首近いとされることもあります)。
その編纂を担ったのが、奈良時代を代表する歌人大伴家持です。家持は8世紀半ばに東国の防人たちが詠んだ歌を集め、巻20にまとめました。彼自身も兵部少輔という、軍事を担当する役所の次官クラスの役人。仕事として防人を見送る立場でもあったため、彼らの心情に深く触れる機会があったとされます。


東国の防人たちの思いを、何としても歌に残しておきたかった。彼らが家族と引き裂かれて九州へ向かう、その別れの言葉が消えてしまうのは……あまりに忍びない。
■ 防人の歌の代表例
防人の歌の特徴は、難しい言葉を使わず、東国の素朴な方言(東歌・あずまうた)でストレートに気持ちを詠んでいること。歌のうまさを競うサロン文化とは無縁の、ふつうの農民たちが、家族と離れる悲しみ・故郷への思い・残される妻や老親への気がかりを率直に綴っています。代表的な一首を紹介します。
「韓衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして」
(万葉集 巻20・4401/他田舎人大島)
※意味:「お父さん行かないで」と着物の裾にすがりついて泣く子どもたちを、母親もいないのに置いてきてしまった——という、信濃国(長野県)の防人が詠んだ別れの歌。
千年以上前の歌なのに、別れの場面が映像のように目に浮かんできませんか?妻に先立たれ、まだ幼い子どもを残して防人に出るしかなかった父親の心情。これが、当時の防人たちが置かれていた現実だったのです。万葉集にはこのような歌が約93首も並んでいて、当時の庶民の声を生々しく伝えてくれます。

ちなみに、シンガーソングライターのさだまさしさんが1980年に発表した「防人の詩」も超有名。映画『二百三高地』の主題歌になったよ。「教科書で習う防人」と「歌で歌われる防人」をつなぐ作品なので、興味があればぜひ聴いてみてね!
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:「防人=664年・東国・3年・無給」をワンセットで覚える。廃止は桓武天皇(795年)=平安遷都(794年)と並べて記憶すると、年号が頭に残りやすい。万葉集は巻20・大伴家持・約93首の3点セット。
よくある質問
最後に、防人についてよく検索される疑問にQ&A形式で答えます。テスト前のチェックや調べ物の確認に使ってください。
防人とは、奈良時代に九州北部・対馬・壱岐など日本の西端に配備された沿岸警備の兵士のことです。663年の白村江の戦い後に設置され、東国(関東・東海)の農民が強制的に徴集されました。任期3年・無給・自腹という過酷な条件で、万葉集には彼らの歌が約93首残されています。
基本的な任期は3年とされていましたが、東国から九州までの片道1〜2ヶ月の移動時間は含まれず、実質的には4年近く家を離れることになりました。給与は支給されず、食料や装備は自分で用意する必要があり、租や庸は免除される一方で調(特産物の税)は引き続き納める必要があったとされています。
663年の白村江の戦いで、九州や近畿などの西国の軍が大きく消耗していたためです。使える兵力が西国に少なかったため、比較的影響が少なかった東国(関東・東海)の農民が徴集されました。また東国はもともと「兵の供給地」として朝廷の軍事動員の中心であり、訓練や規律に適していたとも考えられています。
正確な生存率を示す史料は残っていませんが、続日本紀には防人の死亡・逃亡・行方不明の記録が大量に残されています。命を落とす最大のリスクは戦闘ではなく、長旅での飢え・病気・帰路の事故。任期終了後の帰り道で行き倒れる者も続出し、朝廷が沿道の保護を命じる詔を出したほどでした。
795年(延暦14年)に桓武天皇によって廃止されました。その後、826年(天長3年)に九州(西海道)の軍団も廃止され、古代の徴兵制度は完全に役割を終えました。なお健児制(こんでいせい)は792年(延暦11年)にすでに導入されており、防人廃止よりも先に新しい兵制への切り替えが始まっていました。桓武天皇は794年の平安京遷都を行った天皇でもあり、奈良時代の重い制度を整理した時代の改革者として位置づけられます。
万葉集の巻20に約93首が収録されており、家族との別れ・望郷の気持ち・命がけの旅の不安などが、東国の素朴な方言で詠まれています。大伴家持が兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)の役職にあったときに防人から集めて編纂し、当時の庶民の生の声として現代に伝わっています。
まとめ:防人とはどんな存在だったのか
防人の理解を深めるおすすめ本

防人のことをもっと深く知りたいなら、万葉集の入門書を読むのがオススメだよ!防人の歌が実際に収録されているから、彼らの生の声に触れられるんだ。

以上、防人のまとめでした!「国を守った誇り高き兵士」という美しい看板の裏側には、東国の農民たちが背負わされた厳しい現実があったんだ。次の章で紹介する関連記事もあわせて読むと、奈良時代の制度や万葉集との関係がもっと立体的に理解できるよ!
-
663年白村江の戦いで大敗
-
664年防人制度を設置(九州北部・対馬・壱岐)
-
757年東国徴集から九州現地徴集に変更
-
755年大伴家持が難波で防人の歌を収集・万葉集巻20に編纂
-
795年桓武天皇が防人制度を廃止
-
826年九州(西海道)の軍団廃止・古代徴兵制度の終焉
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「防人」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「大伴家持」(2026年5月確認)
コトバンク「防人」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「健児」(デジタル大辞泉)
山川出版社『詳説日本史』
『続日本紀』(国立国会図書館デジタルコレクション)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
📚 奈良時代の記事をもっと読む → 奈良時代の記事一覧を見る




