今回は、長徳の変という事件について説明します。この事件の意義は、長徳の変によって藤原道長のライバルだった藤原伊周が没落したことにより、藤原道長の時代が到来したことにあります。長徳の変があったからこそ、藤原道長は権力者として君臨することができたのです。
地味な事件ですが、藤原伊周のダメっぷりが際立つ意外と面白い事件です。
藤原道兼の後継者は誰?
前回に引き続き、今回も人間関係がわからないと話がよくわかりません。わからなくなったら、上の系図を見てみてください。赤枠で囲ってるのが今回のキーパーソンです。
前回の記事(中関白藤原道隆・伊周の没落と七日関白の藤原道兼をわかりやすく解説する)で、摂関職が、藤原兼家からその息子たち藤原道隆、藤原道兼へと受け継がれていった話をしました。
しかし、藤原道兼は七日関白と呼ばれ、せっかく関白に慣れたのにたった10日ほどで亡くなってしまうことになります。藤原道兼が亡くなってしまったことで、藤原一族の中で再び次の関白を決めようという動きが見られます。
次の関白を誰にするのか?という問題が起こったとき、それに拍車をかけるように平安京では疫病が流行し、多くの人が亡くなります。疫病の流行により、朝廷内でも有力者が次々と亡くなっていく中、生き残った藤原伊周と藤原道長の2人はライバルとして対立するようになっていきます。
結論から言うと、藤原道長が権力の座を勝ち取ることになります。決め手となったのは、藤原 詮子(ふじわらのせんし)という女性の存在でした。
強力な藤原道長の後ろ盾
一条天皇の方でも、次の補佐役(関白)を誰にしようかと頭を悩ませていましたが、そこで強力に藤原道長を推す人物がいました。それが藤原 詮子です。
藤原 詮子は、円融天皇の后(きさき)で一条天皇の母、さらに、藤原道長の姉にもあたります。藤原 詮子は、弟の道長を非常に好いていたようで強烈に藤原道長を推薦しました。藤原 詮子は国母(天皇の母)として強い影響力は持ち、藤原伊周と藤原道長の対立にも決定的な影響を与えました。
こうして藤原 詮子の強い意向により、藤原道長が次期関白の最有力者と考えられるようになりました。当時の道長と伊周の状況は、官位は伊周の方が上だが、血縁的には道長の方が天皇に近いので上、という状況でした。
内覧(ないらん)
結局、藤原 詮子の強い斡旋や、前回の記事(中関白藤原道隆・伊周の没落と七日関白の藤原道兼をわかりやすく解説する)で説明したような藤原伊周の愚行によって、一条天皇は藤原道長を次期補佐役として決定します。
こうして、遂に藤原道長が歴史の表舞台へと登場するのです。(長かった・・・)
しかし、藤原道長は関白にはなりませんでした。藤原道長はこのとき大納言。それまでの慣例として、関白・摂政は、大臣級の官位の者が就くのが普通でした。一条天皇は、大納言でしかない道長を関白とすることはせず、天皇が書類を見る前に検閲を行う内覧(ないらん)という職としました。ただし、内覧となった後、すぐに右大臣まで昇進したのにその後もずーっと関白になることはありませんでした。もしかすると、一条天皇は道長を最初から関白にさせる気がなかったのかもしれないし、逆に道長自らが関白を望まなかったのかもしれません。(この点については、別の記事で紹介したいと考えています。)
関白とは、天皇を全般的に補佐する役割を持つ役職であり、主に天皇との相談役というポジションでした。あくまで相談役なので、具体的な政策決定権はありません。しかし、その代わりに天皇が目にする書類を事前に検閲できる内覧の権限がありました。内覧は、相当に強力な権限で、天皇に何かを伝えるには、内覧が認めた内容しか天皇には伝わりません。つまり、内覧の許可がないと天皇との意思疎通ができないわけです。政策決定権がない代わりに、天皇に身近な存在として内覧という強大な権限を持つのが関白です。
藤原道長は、関白にはなっていないので、天皇の相談・補佐役ではありませんが、内覧という強大な権限だけ貰ったのです。
時系列の整理
ここまで時系列の整理をしてきませんでしたので、前回の記事の内容も含め時系列を整理しましょう。ここまでの話(前回の記事も)はすべて995年の話になっています。
【995年3月】
藤原道隆が病に倒れ、息子の伊周が内覧となる。
【995年4月】
藤原道隆が亡くなり、道隆の弟である道兼が関白となるが、10日ほどで病で亡くなってしまう。
ここまでは、前回の記事の話↓
【995年5月】
藤原道長が内覧に選ばれる。
【995年6月】
藤原道長が出世し、右大臣へ。ライバルである藤原伊周の内大臣を抜く。
疫病の大流行のせいもあって、関白職(又は内覧)をめぐる話は混迷を極めました。
逆切れする藤原伊周
995年6月、5月に内覧となった藤原道長は出世し、右大臣となり、伊周の内大臣を抜きました。
これに伊周は全く納得がいかなかったようです。その翌月の7月、伊周は藤原道長と口論をし、その3日後には部下同士が乱闘騒ぎを起こし、殺人沙汰にまでなったという記録が残っています。
藤原伊周は、明らかに権力の座を道長に奪われ、凋落の道を歩み始めていました。そして、伊周の凋落を決定づける事件が翌月996年に起きます。それが長徳の変という事件です。
長徳の変とは
長徳の変は、通史的にはかなりマニアックな事件だと思います。多分、ほとんどの人は学生時代も習っていないことでしょう。長徳の変、難しい名前ですが話は単純でちょっとドジっ子な伊周と花山法皇の色恋物語です。996年1月の話です。
藤原伊周には、夜に通っている女がいました。ある時、花山法皇も伊周の通うのと同じ家に夜に通うようになりました。花山法皇は、一条天皇の前の天皇。寛和の変という事件で謀られ、半強制的に譲位させられた人物です。
寛和の変については以下の記事を参考にどうぞ。

花山法皇は、伊周の通う家の別の女の家に通っていたのです。しかし、伊周は花山法皇が自分の意中の女の下へ通っているのだと勘違いし、これに激怒。
自分の女の下へ花山方法も通っている勘違いした伊周は、ある日、その腹いせなのか花山法皇を襲撃し、威嚇のつもりで放った矢がなんと袖を射抜いてしまいました。これは大事件です。元天皇とは言え、その権威は絶大なものです。伊周の首が飛んでもおかしくないほどの事件でした。(当時、死刑制度は形骸化していたため、実質的に最も重い刑は流罪でした。なので「首が飛んでも・・・」というのはたとえ話!)
花山法皇の方にも、後ろめたい点があって、そもそも花山法皇は出家をしているのに女の下へ通っていました。相手が伊周の女かどうかに関わらずこの事件が公になることは花山法皇にとっても困る話でした。
しかし、襲撃騒ぎにまでなった長徳の変。花山法皇が話さなくとも、噂は広まっていき次第に藤原伊周の処分の話になっていきます。勝手な推測ですが、世間では元天皇である花山法皇のゴシップネタということで相当に話題になっていたんじゃないかなぁ?と思います。結局、伊周は左遷され大宰府へと飛ばされてしまいました。長徳の変により、最大のライバルが勝手に自滅してくれたことで、藤原道長の時代が遂に始まるのです。
藤原定子の凋落と藤原彰子の入内
長徳の変は伊周の兄妹であり一条天皇の后(きさき。天皇の嫁)でもある藤原定子の運命にも決定的な影響を与えました。
伊周の左遷により朝廷内の後ろ盾を失った藤原定子は、996年5月、なんと出家してしまいます。俗世から離れた者が天皇の后となることはできません。これを藤原道長は逃しません。999年、道長は自分の娘である藤原彰子を入内させることに成功します。
定子の凋落に伴い、定子の世話役で枕草子でも有名な清少納言の運命にも決定的な影響を与えます。その後は、999年に入内して1000年には皇后にまでなった藤原彰子の世話役である紫式部が源氏物語を残すことになります。
次回は、藤原定子の話をしたいと思います。
【次回】

【前回】

コメント
大変勉強になります。
一部誤字ではないかと思いますので、コメントさせていただきました。
995年6月
藤原道長が出生⇒出世
だと思います。
この後も楽しみにしております。
ご指摘ありがとうございます。修正しました!