今回は、大正末期〜昭和初期にかけて行われた政治スタイル「憲政の常道」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
憲政の常道とは
憲政の常道とは、1924年〜1931年の7年間にかけて行われた政党政治のことを言います。
この7年間は、2大政党だった立憲政友会と立憲民政党(1924~1926年は憲政会)が交代して政権を担うことで、民主的な政治が実現した時代となりました。
一方の政党が失策をすれば、次はもう片方の政党が政権を担って政策を改善する。これを交互に繰り返して行われたのが憲政の常道です。
憲政の常道は、民意が政治に反映される理想的な政治だと考えられていたので、その実現はまさに多くの国民の悲願でもありました。
多くの人たちが望んでいた憲政の常道。
その政治がどんなものだったのか、見ていくことにするよ!
憲政の常道が始まった時代背景
憲政の常道が大きく叫ばれるようになったのは1912年頃。
当時、政権を担っていたのは立憲政友会。首相だったのは党首の西園寺公望です。(第二次西園寺内閣)
1912年12月、西園寺公望は、軍の増強を求める陸軍と対立し、内閣の解散に追い込まれました。(二個師団増設問題)
この陸軍の報復攻撃対して、とある人物が「議会で多くの議席数を持つ政党が政権を担うのが憲政の常道だ!」といった感じの批判の声が上げました。
この発言をきっかけとして、政党が政権を担う政党政治のことを憲政の常道と呼ぶようになりました。
陸軍の報復攻撃の後、政治の民主化を求めるデモ活動が激化。1913年になると、政治の民主化を求める第一次護憲運動が起こりました。
・・・が、結果的に憲政の常道は実現せず、実現には1924年まで待たなければなりません。
憲政の常道が始まった理由
第一次護憲運動から11年が経過した1924年、2回目の護憲運動が起こりました。
ことの発端は、1924年1月に結成された清浦奎吾内閣でした。
清浦奎吾は貴族院の出身の人物であり、、陸海軍を除く全ての大臣を同じ貴族院から抜擢しました。
この露骨な政党軽視に、各政党は「民主主義を蔑ろにするものだ!」と強い反対の声をあげます。
政党同士というのは、基本的に議席を争うライバルです。しかし、清浦内閣が政党の存在そのものを否定したことで、普段はライバル同士だった政党は協力関係を結び、反対運動を開始しました。
このときに反対運動を起こした政党は、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の3政党。
※この3政党のことを、合わせて護憲三派と言います。
そして、護憲三派が清浦内閣に対して起こした反対運動のことを第二次護憲運動と言います。
議席の過半数を占めていた護憲三派は、清浦内閣に対抗するため、議会で清浦内閣の政策を全否定する構えを見せます。
すると1924年5月、これに対抗するため、清浦内閣は選挙を行って、護憲三派と真っ向勝負することを決めました。
選挙に勝って、護憲三派の議席数を減らしてやろうと考えたんだね
・・・が、清浦奎吾は選挙に大敗。
憲政会が最大議席を獲得すると、選挙に敗北した責任をとって清浦内閣は総辞職しました。
第二次護憲運動に勝利した護憲三派は、最大議席を獲得した憲政会の党首である加藤高明を首相に推し、1924年6月、加藤高明内閣(護憲三派内閣)が登場します。
この加藤高明内閣が、憲政の常道の始まりとなります。
憲政の常道の経過【初期】
加藤高明内閣は、政党が政権を担う政党内閣です。しかし、「最大議席数を持つ第一政党が政権を担う」という意味で、100%な憲政の常道ではありません。
というのも、内閣を構成する各大臣には、護憲三派(憲政会・立憲政友会・革新倶楽部)の党員が選ばれたからです。
加藤内閣は、護憲三派が協力して勝ち取った政権なので、当然その戦利品(大臣の席)も護憲三派で分けあったということです。
もっと言ってしまうと、憲政の常道である「2大政党が交代して政権を担う」という点も不完全でした。
当時は、多くの議席を憲政会と立憲政友会が占めていたものの、他にも革新倶楽部や政友本党などの政党が乱立していて、1つの政党だけで議席の過半数を占めることが不可能だったからです。
※政策を決めるには議席の過半数以上の賛成が必要なので、第一政党が単独政党で過半数の議席をゲットしないと自由に政策を決めることができないのです。
とはいえ、不完全ながらも加藤内閣をきっかけに、ついに憲政の常道が実現することになったのです・・・!
憲政の常道【中盤】
1925年5月、政党の勢力図が大きく変わります。
護憲三派の一翼を担っていた革新倶楽部が、治安維持法をめぐる意見対立によって解散してしまいました。離党した議員の多くは立憲政友会に合流し、立憲政友会は勢力を拡大します。
※革新倶楽部のメンバーが合流した結果、立憲政友会の議席数は137議席となり、憲政会の151議席に迫りました。
立憲政友会の勢いが増すと、次第に憲政会VS立憲政友会の争いが激化。
1925年8月になると、大臣人事の見直し(内閣改造)があり、立憲政友会の党員が大臣の座から一掃され、内閣は第一政党の憲政会のみで構成される政党内閣となりました。
「議会で多くの議席数を持つ政党が政権を担うのが憲政の常道」だったよね!
ってことは、これでようやく憲政の常道が達成されたんだね!
と思うかもしれませんが、実はまだ完全ではありません。パーセントで言えば、まだ70%ぐらいです。
なぜなら、上の円グラフを見てもわかるように、当時の議会は2大政党ではなくて3大政党で構成されていたからです。
立憲政友会も憲政会も、確かに議席数を多く持っていますが、単独で過半数の議席(232議席)を持っていないので、どこかの政党と協力しないと、政策を議会で可決できません。
そこで、重要な存在になったのが政友本党でした。立憲政友会も憲政会も、政策を実行するには、憲政本党を味方に引き入れる必要があったからです。(この話は、後に重要になっていきます・・・!)
話題を内閣の話に戻します。1926年1月、加藤高明が病気で亡くなりました。後継者になったのは同じ憲政会の若槻禮次郎という人物。
しかし、1927年4月、若槻内閣は金融恐慌の対応に失敗した責任をとって総辞職に追い込まれます。
若槻禮次郎の次に首相になったのは、立憲政友会の党首だった田中義一でした。
憲政会が政策に失敗したら、次は立憲政友会・・・という流れになっていますね。
まだ2大政党にはなっていませんが、この頃からようやく憲政の常道っぽい動きが見られるようになりました。
完成度80%って感じですね。
憲政の常道【終盤】
1927年6月、政界に大きな動きが起こります。
なんと、憲政会と政友本党が合体して、新しく立憲民政党が結成されたのです。
これが何を意味しているかというと、政友本党を味方に引き入れることに成功したのは憲政会だったということです。
立憲民政党の登場によって、議会の勢力図は、3大政党から2大政党へと変化していき、1928年に行われた選挙の結果、こんな感じになりました↓↓
立憲政友会と立憲民政党が、二大政党として君臨しているのがわかると思います。
※「その他」には、少数政党がいくつも含まれています。
これで憲政の常道は、おおむね完成しました。完成率90%と言ったところでしょう。
残り10%の原因は、単独で過半数以上の議席(233席以上)をゲットできていない点です。
この状態だと、民衆から一番支持を受けているのは立憲政友会なのに、「その他」の少数政党がYESと言わなければ政策が決められません。
これでは、少数政党の意向が政策を左右することになり、政治に民意がしっかり反映されているとは言い切れません。
1929年7月、立憲政友会の田中義一内閣は、張作霖爆殺事件の対応ミスにより総辞職します。そして、新しく組閣されたのが、立憲民政党による浜口雄幸内閣でした。
憲政の常道に従って政権を握った立憲民政党ですが、議席数は立憲政友会の方が上です。そこで1930年、民意を問うための選挙が行われました。
その結果は以下のとおり↓↓
この結果で注目なのは、第一政党の立憲民政党が単独過半数の議席を獲得している点です
もしや、ついに憲政の常道が達成されたのでは・・・!?
そのとおり!1924年から、少しずつ作られていた憲政の常道がついに完成したんだ。
うぉ〜〜!!ついに憲政の常道が完成したぞ!!
・・・が、1930年11月、統帥権干犯問題をめぐって浜口雄幸が狙撃される暗殺未遂事件が発生。浜口の体調は回復せず、1931年に首相を辞職してしまいます。
後継者には、再び立憲民政党の若槻禮次郎が抜擢されました。
念のため確認なんだけど、政策のミスじゃなくて、首相が亡くなったり、体調不良を理由に辞職した時は、政権交代はしないんだよね?
そのとおり。
もし、それで政権交代できるなら、「政権交代したければ、首相をボコボコにするか暗殺すればOK」という理論がまかりとおって、民主主義が損なわれてしまうからね。
1931年9月、満州事変が起きると、若槻禮次郎は12月にその責任をとって内閣を総辞職します。
こうして、次は立憲政友会の犬養毅が首相となりました。
浜口内閣以降は浜口→若槻→犬養と、政権を担う政党はいずれも単独過半数の議席を占め、きれいな憲政の常道が実現することになりました。
憲政の常道の終わり
しかし、憲政の常道は長くは続きません。
1932年5月15日、犬養毅が海軍将校の手によって暗殺される事件が起こります。(五・一五事件)
首相の後継者には、立憲政友会の鈴木喜三郎という人物が選ばれましたが、過激思想の持ち主だったため天皇直々にストップがかかります。
その後、紆余曲折を経て首相に選ばれたのが、海軍の軍人だった斎藤実という人物でした。
当初、斎藤内閣は、満州事変などに対応するための臨時的な内閣になるはずでした。山積する問題が解決されれば、再び憲政の常道が戻る可能性もあったのです。
・・・が、斎藤内閣の後、政党政治が行われることはありませんでした。1932年の犬養毅の死によって、憲政の常道は終わりを告げることになったわけです。
内閣の各大臣の任命には、陸海軍の意向が強く反映されるようになり、日本の政治は軍国主義(ファシズム)的な思想に傾倒していくようになります。
憲政の常道まとめ【年表付】
※赤線が立憲政友会の内閣。青線が立憲民政党(または憲政会)の内閣です。
- 1924年6月憲政の常道が始まる
立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の3党による連立政権である加藤高明内閣(護憲三派内閣)が誕生
- 1925年5月革新倶楽部、立憲政友会と合体して消滅する。
- 1925年8月憲政会の加藤高明、立憲政友会との連立解消
加藤内閣は、憲政会単独の内閣となる。この時から、立憲政友会と憲政会はライバル関係へ・・・。
- 1926年1月加藤高明、亡くなる。後継者には、憲政会の若槻禮次郎が選ばれる(若槻内閣)
- 1927年4月若槻内閣が金融恐慌の責任をとって総辞職。新たに立憲政友会による田中義一内閣が組閣される。
- 1927年6月立憲民政党が結成される
立憲政友会・憲政会に次ぐ勢力だった政友本党が憲政会と合体。立憲民政党と命名される。
この合体によって、憲政の常道を担う2大政党(立憲政友会・立憲民政党)が揃うことに。
- 1928年選挙の結果、立憲政友会と立憲民政党が2大政党となることが確定
- 1929年張作霖爆殺事件の責任をとって田中内閣が総辞職。新たに立憲民政党の浜口雄幸内閣が組閣される。(浜口内閣)
- 1930年選挙の結果、政権を担っている立憲民政党が単独で過半数以上の議席をゲット
憲政の常道がついに完成
- 1931年1月浜口雄幸、体調不良により首相を辞職。後継を若槻禮次郎が担う(第二次若槻内閣)
- 1931年12月満州事変の責任をとって第二次若槻内閣が総辞職。新たに立憲政友会の犬養毅が首相となる。
- 1932年5月犬養毅、暗殺される(五・一五事件)。新たに海軍の軍人だった斎藤実が首相となる。【憲政の常道の終わり】
犬養毅死後、政党から首相が選ばれることはなく、憲政の常道は終了する。以後、日本は軍国主義(ファシズム)へと傾倒していく・・・。
最後に、憲政の常道のルールをまとめておきます↓
※ルールは、何かで決めたものではなく、当時の偉い人たちによる暗黙のルールです。
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