今回は、1669年に起こったシャクシャインの戦いについてわかりやすく丁寧に解説していくよ!
シャクシャインの戦いとは
シャクシャインの戦いは、アイヌを酷使する松前藩に対してアイヌの人々が反乱を起こした戦いのことを言います。
反乱を起こしたアイヌのボスがシャクシャインという名だったので、シャクシャインの戦いと言います。
戦いは松前藩の勝利に終わり、戦いに勝った松前藩は場所請負制という仕組みを作って、今まで以上にアイヌの人々を酷使する結果となりました。
松前藩とアイヌの関係
まずは、シャクシャインの戦いが起こった当時の松前藩とアイヌの関係をしっかりと確認しておこう!
江戸時代は米の時代でした。米は今で言うお金代わりに使われていて、米の収穫量(石高)は身分の格差に直結していました。(石高が多い藩→強い藩主、石高が少ない藩→弱い藩って感じ)
この米中心の経済・政治の仕組みを石高制と言いますが、松前藩は致命的な問題を抱えていました。
何が致命的かというと、北海道は寒すぎてまともに米が収穫できなかったのです。松前藩に石高制を採用すると、桁外れの弱小藩になってしまいます。
そのため、松前藩だけは商場知行制という石高制に代わる特殊な制度を採用していました。
商場知行制は、松前藩にアイヌ交易の独占権を与え、アイヌとの交易で得られる利益を石高代わりとする仕組みです。
松前藩は北海道各地に船を送り、あちこちに交易する場所として商場を作りました。松前藩の設置した商場以外での交易を禁止することで、アイヌとの交易権を独占するためです。
そして、各商場の管理を家臣に任せました。
通常、藩主は家臣への報酬として領地を与えるのが一般的でした。しかし、松前藩は領地を与えたところで米を育てられないため、家臣への褒美として商場の管理権を与えます。
松前藩の家臣たちは、商場でのアイヌとの交易を独占し、交易で得た利益の一部を自分たちの懐に入れることで生計を立てることができていたのです。
江戸幕府の都合で採用された商場知行制実は、アイヌにとっては非常に厄介な制度でした。
なぜかというと、アイヌたちは商場知行制のせいで、和人と自由に交易できなくなってしまったからです。おまけに松前藩は不正な取引がこっそりと行われることのないよう、和人とアイヌの住む場所を分断して、両者が簡単に会えないようにしました。
松前藩が強いる居住地と交易の制限に、アイヌたちは強い不満を持つようになります。
シャクシャインの戦いが起こった理由・時代背景
アイヌ人と一口にいっても、北海道から樺太までに広い範囲に居住しており、一致団結していたわけではありません。各地でアイヌ間の対立が起こっていました。シャクシャインの戦いは、その対立をきっかけとして起こります。
対立が起こったのはメナシクルという集団とシュムクルという集団。
下図が当時のアイヌ情勢です。
メナシクルは道東の海沿、シュムクルは室蘭や苫小牧のある胆振地方に勢力を持っていました。そして、メナシクルとシュムクルの境目に位置する静内川の漁猟権を巡って、1648年頃から両者が争うようになります。
メナシクルのボスはカモクタイン、シュムクルのボスはオニビシと言いました。
1653年、カモクタインがオニビシ率いるシュムクルに殺され、両者の争いは激化。カモクタインの息子だったシャクシャインが新たにメナシクルのリーダーとなり、1668年には父を殺したオニビシを討ち取ることに成功します。
この間、松前藩は両者の仲介を何度か試みています。松前藩は、両者の争いが拡大して松前藩にまで被害が及ぶことを恐れていたからです。しかし、この試みは一時的には成功しましたが、争いを終わらせるには至りませんでした。
オニビシを殺されたシュムクルは、メナシクルに対抗するため、ウタフという人物を松前藩に派遣して協力(武器支援)を求めますが、松前藩はこれを拒否。
松前藩がシュムクルに協力するということは、「松前藩もメナシクルとの戦いに参戦する」ということ。影響を最小限にしたい松前藩が、わざわざそんなことをするはずがありません。
実は、交渉に当たったこのウタフが、シャクシャインの戦いの引き金を引くことになります。というのも、交渉に失敗して地元に帰る途中、ウタフが急病で亡くなってしまったのです。
松前藩に拒絶された直後の死ということで、いろんな憶測が飛び交い、次第に「ウタフは和人に毒殺された」という噂がアイヌの間に広がります。この噂が広まると、アイヌの間で「俺たちアイヌ同士で戦ってる場合じゃねーぞ。俺たちの本当の敵は俺たちを虐げ続けてきた和人のはずだ!」という声が大きくなり、シュムクルとメナシクルは争いをやめ、アイヌが一致団結して和人に対抗することを決意します。
この時に、反乱のリーダーとなったのが、メナシクルのボスだったシャクシャインです。
1669年6月、シャクシャインは和人に対して報復攻撃を開始。シャクシャインの戦いが始まりました。
これは完全に個人的な意見ですが、ウタフの死からアイヌたちが一致団結するまでの流れが綺麗すぎて違和感を感じてしまいます。もしかすると、アイヌを和人との戦いに仕向けた黒幕が別にいたのかも・・・??
シャクシャインの戦いの経過
全道のアイヌが立ち上がったシャクシャインの戦いは、これまでの和人とアイヌの争いの中でも最大規模の争いとなりました。各地でアイヌ人が蜂起し、和人を襲います。この奇襲に和人たちは対抗できず、多くの和人が命を落としました。
幸先の良いスタートを切ったシャクシャインは松前を目指して進軍を続けます。
一方の松前藩は江戸幕府に事態の報告。その上で、東北諸藩から援軍や鉄砲の援助を受け、着実に準備を整えます。
また、松前藩と関係の深いアイヌを味方につけるなど、アイヌの離反工作も行いながら、シャクシャイン軍の力を少しずつ削いでいきます。
戦いが長引くにつれ武器の性能差などもあり、シャクシャイン軍はおされ気味となります。(松前藩は鉄砲を使っていたのに対し、シャクシャイン軍は弓で対抗していました。)
さらに、戦闘が長引くことでアイヌの団結力も弱まっていきます。「和人憎し」で一致団結したものの、もともとアイヌの集落同士が良好な関係になかったため、団結は長続きしなかったのです。
圧倒的な兵器の差と、統率を欠いて崩壊する軍を見たシャクシャインはこれ以上の戦闘を諦め、松前藩との和睦交渉に臨みます。
1669年11月、ピポクという場所(今の新冠町)で松前藩とシャクシャインの間で和睦交渉が始まりますが、これは松前藩の仕掛けた罠!
松前藩は、酒宴の場でシャクシャインが酔った隙を狙って、これを討ち取ってしまいました。
場所請負制度の始まり
アイヌとしてはシャクシャインを欺いて殺した松前藩に復讐をしたいところですが、シャクシャインというリーダーがいなくなった今、アイヌに松前藩に対抗する力は残されていません。
シャクシャインの戦いの敗北によって、アイヌはますます松前藩に逆らうことができなくなりました。1700年代前半(18世紀初期)になると、松前藩はアイヌとの交易の仕組みを見直し、商場知行制よりもさらにアイヌに不利な条件である場所請負制と呼ばれる仕組みへ制度を変えました。
商場知行制は、松前藩の家臣たちがアイヌとの交易で得た利益で生計を立てる仕組みでしたが、場所請負制では家臣たちは直接アイヌと交易はしません。
交易を行ったのは「アイヌとの交易でガッポリ儲けてやるぞ!!」と野心を抱く本州の商人たちです。
松前藩は商人たちに商場を提供する代わりに、商人がアイヌとの交易で得た利益の一部を税金(運上金)として商場を管理する松前藩の家臣達へ納めさせました。このように松前藩が商場を商人に貸す仕組みのことを、場所請負制と言います。
場所請負制によって、アイヌの交易相手は武士から商人に変わりました。そして、商人が交易をするようになると、商人は武士以上に利益を追求します。
場所請負制に参加した商人には、いわゆる「武士の情け」的なものはなく、儲けのためならアイヌに対して容赦をしませんでした。商人たちは、これまで以上にアイヌたちに厳しい労働を課したり、不公平な交易を繰り返しました。こうしてアイヌたちは、まるで奴隷のような扱いを受けるようになり、厳しい立場に立たされることになります。
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