狩野探幽の作風・生涯を簡単にわかりやすく紹介【代表作品は大徳寺方丈襖絵】

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もぐたろう
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今回は、江戸時代前期(寛永期かんえいき)に活躍した画家、狩野探幽かのうたんゆうとその作品について紹介していくよ!

この記事を読んでわかること
  • 狩野探幽ってどんな人なの?
  • 狩野探幽って何をした人?なぜ有名なの?
  • 狩野探幽の有名作品はどんな作品?
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狩野探幽ってどんな人?

狩野探幽は、江戸時代前期に活動した狩野派の画家です。10代のうちから才能を見出され、二条城や名古屋城の障壁画、大徳寺方丈襖絵など、多くの作品を残しました。

『狩野派』っていうのは一体どんな人たちなのかしら?

狩野派は、室町時代中期に活躍した狩野正信かのうまさのぶを祖とする、狩野一族を中心としたプロの画家集団のことを言います。

当初は室町幕府に仕えていましたが、戦国時代になると織田信長・豊臣秀吉に、江戸時代に入ると歴代の徳川将軍に仕えることで、絵画の世界で活躍しました。

狩野派は、室町時代〜江戸時代まで常に権力者がパトロン(支援者)についていたため、日本の絵画業界でも圧倒的な影響力を持っていました。

もぐたろう
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室町時代〜江戸時代の文化の話になると狩野◯◯って人がたくさん登場するのが、狩野派が強い影響力を持っていた証拠だよ。

なぜ幕府はプロの画家集団(狩野派)が登場するほど絵にハマったのか?

きっかけは、室町時代の足利将軍たちが禅宗ぜんしゅうにハマっていたことです。

禅宗の世界では、仏像を崇拝するのではなく、禅の教えを絵で表現する習慣がありました。このような習慣の中で、幕府から絵の腕を認められて頭角を表したのが、狩野派の祖である狩野正信だったのです。

※室町時代には、禅の世界観とマッチしていた水墨画すいぼくがが流行りました。

その後戦国時代に入り、織田信長→豊臣秀吉→徳川家康と権力者が変わってゆくと、狩野派もそれに合わせて権力者好みの作品を描くようになります。

もぐたろう
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戦国時代の桃山文化には、水墨画に大和絵を融合させた力強い絵画が流行ったよ。

時代が進むにつれて禅宗の色は薄れ、狩野派は幕府が求める絵画ならどんなものでも描くことのできるプロ集団へと成長していきました。

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英才教育を受けて絵の才能に目覚める

狩野探幽は1602年、そんな狩野派絵師である狩野孝信かのうたかのぶの長男として、京都に生まれました。

狩野探幽は、幼いころからたぐいまれな絵の才能を持っていたようで、次のような言い伝えが残っています。

狩野探幽って2歳の時に筆を渡したら急に泣き止んだり、4歳の時にはプロと肩を並べるほど素晴らしい絵を描いたって伝説が残ってるみたいよ。

プロ絵師の息子に生まれた狩野探幽は、才能のみならず、その才能を開花させる環境にも恵まれていました。

10歳前後になると、狩野家を挙げて探幽の才能を権力者たちに売り込むようになり、11歳で徳川家康と2代将軍徳川秀忠に謁見。

その後も画家としての活動を続け、16歳の頃には徳川秀忠から高い評価を受けることになり、幕府御用の絵師に任命されました。

徳川秀忠
徳川秀忠

優秀な画家は多くいるが、私は探幽の作品が気に入ったぞ!

これからも幕府のために絵を描いてくれよな!

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狩野探幽、絵師として多くの功績を残す

幕府御用の絵師に抜擢された狩野探幽は、幕府の依頼を受けてさまざまな絵画に挑戦します。

具体的には、大阪城・二条城・名古屋城など大事な場所の障壁画しょうへきがの制作を次々とこなしていきます。

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狩野派はプロ集団なので、狩野探幽一人で全てを描いたわけじゃなくて、みんなで分業しながら作品を作ったんだ。

狩野探幽の場合、弟の狩野尚信が補佐役として探幽を助けていたと言われているよ!

作品の一例【名古屋城の障壁画】

狩野探幽が数え34歳のとき(1635年)、仕事がひと段落した探幽は、自分の後継者として後藤益信ごとうますのぶという人物を養子を迎え入れました。

※探幽は34歳時点で息子がいなかったので、養子を迎える必要がありました。

これまで狩野探幽は、『采女うねめ』っていうペンネームを使っていました。探幽はこのペンネームも益信に譲ってしまい、新しいペンネームとして『探幽』を名乗るようになります。

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狩野探幽の本当の名前は、狩野守信かのうもりのぶと言います

探幽っていうのは、画家としての活動するときに使われた『ごう』と呼ばれる今でいうペンネームみたいなものなんだ。

探幽を名乗った後も多くの仕事が舞い込み、狩野探幽は精力的に作品を作り上げます。

1636年には日光東照宮にっこうとうしょうぐうの仕事に携わり、1641年には御所(天皇の住まい)の障壁画の制作に取り掛かります。

狩野探幽は、御所の仕事をしている間、京都の神社やお寺の関係者とも親しくなって、大徳寺だいとくじなどの神社仏閣での仕事もこなしています。

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有名な画家とか美術家って、『天才的なセンスで独創的な絵を描く人!』みたいなイメージがあるかもしれないけど、狩野探幽は少しそのイメージとは違います。

もちろん才能もあって独創的な絵も描いたけど、狩野探幽はそれ以上にプロの職業人でした。

依頼を受ければ、ニーズに応じて様々な絵を描きあげ、その実績をコツコツと積み重ねることで歴史に名を残す大画家として成長していきました。

狩野探幽と徳川家光

狩野探幽が成人後に引き受けた多くの仕事は、3代将軍の徳川家光とくがわいえみつによるものでした。

狩野探幽が1602年生まれに対して、家光は1604年生まれなので、この2人は同世代。2人は馬があったのかわかりませんが、狩野探幽は家光のため多くの絵を描きました。

面白いのが二人の美的センスの違いです。

狩野探幽がプロの絵師として要望に合わせた絵をビシッと描くのに対して、徳川家光の絵はお世辞にも上手いとは言えないものですが、家光の絵には独特な雰囲気が漂っています。

徳川家光の描いた鳳凰(かわいい・・・!)
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大徳寺方丈襖絵

教科書にも載っている狩野探幽の有名な作品「大徳寺方丈襖絵だいとくじほうじょうふすまえ」が描かれたのもこの時でした。

『方丈』というのは、お寺の中にある僧侶たち住居のことを言います。

狩野探幽は、大徳寺の広い方丈を囲う84枚もの襖に壮大な絵を描きました。

襖には、山や川といった自然の風景を描いた山水図さんすいず、ウグイス・クジャク・梅などを描いた花鳥図、虎図や龍図など、襖1枚1枚にさまざまな絵柄が描かれており、見る者を飽きさせません。

(出典:ライブ インテリジェンス アカデミー(LIA)より引用)
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狩野探幽、画家の頂点に立つ

その後も、多岐にわたる活躍をし続けた狩野探幽は、61歳の時、「法印ほういん」と呼ばれる画家としての最高の位につきました。

探幽が法印の位を授かったことで、狩野派はプロの画家集団として確固たる地位を築くことに成功。法印の位は、狩野探幽以降、子孫たちに受け継がれてゆくことになります。

狩野探幽は、最高の位を授かっても絵師として仕事はやめませんでした。その後も様々な仕事を引き受けていましたが、69歳の時、狩野探幽に試練が訪れます。

この頃から、病によって手足が痺れるようになり、筆を自由に振ることができなくなってしまったのです。

・・・が、狩野探幽はそれでも絵を描くことをやめません。71歳の時に痺れが治ると、再び多くの作品を残し、そして1674年、享年73歳でその生涯を終えました。

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狩野探幽の人柄

『狩野探幽は子供の頃から秀才だった』なんて言い伝えが残っていますが、実際は先人たちの作品を何度もスケッチし、地道な努力を続けることで作画の基礎をしっかりと身につけていました。

狩野探幽が特に深く学んだのは、雪舟せっしゅうの絵です。

雪舟
雪舟の名作「秋冬山水図」

実は先ほど紹介した大徳寺方丈襖絵にも、山水図に描いた岩の表現などに、雪舟を参考にした画法が使われています。

手足の痺れに悩まされていた70歳のころにも「雪舟山水図巻」という雪舟風の力強い画風の作品を残しており、自身の才能を頼りにするだけでなく、先人たちの功績もしっかりと学習したうえで創作活動を行っていたことがわかります。

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狩野探幽が凄すぎて狩野派は衰えることに・・・

狩野探幽は、狩野派として学んだ画法に、独学で学んだ雪舟やその他様々な画法を融合させることで、ほかの絵にはない「狩野探幽らしさ」を表現することに成功しました。

しかし、狩野探幽のおかげで磐石な地位を得た狩野派は、探幽亡き後、次第に人気を失うことになります。

確固たるブランドを築き上げた狩野派は、次第に「指示された作品をいかに正確に素早く描くか」という点にのみ注力するようになって、狩野派の作品から個性や新鮮味が失われることになってしまったのです・・・。

そのため探幽は、近代に入るとこんな評価を受けるようになりました。

狩野探幽は、狩野派を言われた絵を描くだけのプロの絵師集団にしてしまったのよ。

そして、指示された絵しか描けない狩野派は独創性を失った。探幽亡き後、狩野派が衰退したのは探幽にも原因があるみたいね。

もぐたろう
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探幽亡き後の狩野派に足りなかったのは、まさに徳川家光が描いたかわいい鳳凰のような固定観念に囚われない独創的な絵だったのかもね・・・。

ちなみに今は、江戸時代の絵画の基礎を築いた人物として再評価されていて、狩野探幽の評価は上がってきているよ。

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教育系歴史ブロガー。
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