今回は、江戸時代前期(寛永期)に活躍した画家、狩野探幽とその作品について紹介していくよ!
狩野探幽ってどんな人?
狩野探幽は、江戸時代前期に活動した狩野派の画家です。10代のうちから才能を見出され、二条城や名古屋城の障壁画、大徳寺方丈襖絵など、多くの作品を残しました。
『狩野派』っていうのは一体どんな人たちなのかしら?
狩野派は、室町時代中期に活躍した狩野正信を祖とする、狩野一族を中心としたプロの画家集団のことを言います。
当初は室町幕府に仕えていましたが、戦国時代になると織田信長・豊臣秀吉に、江戸時代に入ると歴代の徳川将軍に仕えることで、絵画の世界で活躍しました。
狩野派は、室町時代〜江戸時代まで常に権力者がパトロン(支援者)についていたため、日本の絵画業界でも圧倒的な影響力を持っていました。
室町時代〜江戸時代の文化の話になると狩野◯◯って人がたくさん登場するのが、狩野派が強い影響力を持っていた証拠だよ。
英才教育を受けて絵の才能に目覚める
狩野探幽は1602年、そんな狩野派絵師である狩野孝信の長男として、京都に生まれました。
狩野探幽は、幼いころからたぐいまれな絵の才能を持っていたようで、次のような言い伝えが残っています。
狩野探幽って2歳の時に筆を渡したら急に泣き止んだり、4歳の時にはプロと肩を並べるほど素晴らしい絵を描いたって伝説が残ってるみたいよ。
プロ絵師の息子に生まれた狩野探幽は、才能のみならず、その才能を開花させる環境にも恵まれていました。
10歳前後になると、狩野家を挙げて探幽の才能を権力者たちに売り込むようになり、11歳で徳川家康と2代将軍徳川秀忠に謁見。
その後も画家としての活動を続け、16歳の頃には徳川秀忠から高い評価を受けることになり、幕府御用の絵師に任命されました。
優秀な画家は多くいるが、私は探幽の作品が気に入ったぞ!
これからも幕府のために絵を描いてくれよな!
狩野探幽、絵師として多くの功績を残す
幕府御用の絵師に抜擢された狩野探幽は、幕府の依頼を受けてさまざまな絵画に挑戦します。
具体的には、大阪城・二条城・名古屋城など大事な場所の障壁画の制作を次々とこなしていきます。
狩野派はプロ集団なので、狩野探幽一人で全てを描いたわけじゃなくて、みんなで分業しながら作品を作ったんだ。
狩野探幽の場合、弟の狩野尚信が補佐役として探幽を助けていたと言われているよ!
狩野探幽が数え34歳のとき(1635年)、仕事がひと段落した探幽は、自分の後継者として後藤益信という人物を養子を迎え入れました。
※探幽は34歳時点で息子がいなかったので、養子を迎える必要がありました。
これまで狩野探幽は、『采女』っていうペンネームを使っていました。探幽はこのペンネームも益信に譲ってしまい、新しいペンネームとして『探幽』を名乗るようになります。
狩野探幽の本当の名前は、狩野守信と言います
探幽っていうのは、画家としての活動するときに使われた『号』と呼ばれる今でいうペンネームみたいなものなんだ。
探幽を名乗った後も多くの仕事が舞い込み、狩野探幽は精力的に作品を作り上げます。
1636年には日光東照宮の仕事に携わり、1641年には御所(天皇の住まい)の障壁画の制作に取り掛かります。
狩野探幽は、御所の仕事をしている間、京都の神社やお寺の関係者とも親しくなって、大徳寺などの神社仏閣での仕事もこなしています。
有名な画家とか美術家って、『天才的なセンスで独創的な絵を描く人!』みたいなイメージがあるかもしれないけど、狩野探幽は少しそのイメージとは違います。
もちろん才能もあって独創的な絵も描いたけど、狩野探幽はそれ以上にプロの職業人でした。
依頼を受ければ、ニーズに応じて様々な絵を描きあげ、その実績をコツコツと積み重ねることで歴史に名を残す大画家として成長していきました。
大徳寺方丈襖絵
教科書にも載っている狩野探幽の有名な作品「大徳寺方丈襖絵」が描かれたのもこの時でした。
『方丈』というのは、お寺の中にある僧侶たち住居のことを言います。
狩野探幽は、大徳寺の広い方丈を囲う84枚もの襖に壮大な絵を描きました。
襖には、山や川といった自然の風景を描いた山水図、ウグイス・クジャク・梅などを描いた花鳥図、虎図や龍図など、襖1枚1枚にさまざまな絵柄が描かれており、見る者を飽きさせません。
狩野探幽、画家の頂点に立つ
その後も、多岐にわたる活躍をし続けた狩野探幽は、61歳の時、「法印」と呼ばれる画家としての最高の位につきました。
探幽が法印の位を授かったことで、狩野派はプロの画家集団として確固たる地位を築くことに成功。法印の位は、狩野探幽以降、子孫たちに受け継がれてゆくことになります。
狩野探幽は、最高の位を授かっても絵師として仕事はやめませんでした。その後も様々な仕事を引き受けていましたが、69歳の時、狩野探幽に試練が訪れます。
この頃から、病によって手足が痺れるようになり、筆を自由に振ることができなくなってしまったのです。
・・・が、狩野探幽はそれでも絵を描くことをやめません。71歳の時に痺れが治ると、再び多くの作品を残し、そして1674年、享年73歳でその生涯を終えました。
狩野探幽の人柄
『狩野探幽は子供の頃から秀才だった』なんて言い伝えが残っていますが、実際は先人たちの作品を何度もスケッチし、地道な努力を続けることで作画の基礎をしっかりと身につけていました。
狩野探幽が特に深く学んだのは、雪舟の絵です。
実は先ほど紹介した大徳寺方丈襖絵にも、山水図に描いた岩の表現などに、雪舟を参考にした画法が使われています。
手足の痺れに悩まされていた70歳のころにも「雪舟山水図巻」という雪舟風の力強い画風の作品を残しており、自身の才能を頼りにするだけでなく、先人たちの功績もしっかりと学習したうえで創作活動を行っていたことがわかります。
狩野探幽が凄すぎて狩野派は衰えることに・・・
狩野探幽は、狩野派として学んだ画法に、独学で学んだ雪舟やその他様々な画法を融合させることで、ほかの絵にはない「狩野探幽らしさ」を表現することに成功しました。
しかし、狩野探幽のおかげで磐石な地位を得た狩野派は、探幽亡き後、次第に人気を失うことになります。
確固たるブランドを築き上げた狩野派は、次第に「指示された作品をいかに正確に素早く描くか」という点にのみ注力するようになって、狩野派の作品から個性や新鮮味が失われることになってしまったのです・・・。
そのため探幽は、近代に入るとこんな評価を受けるようになりました。
狩野探幽は、狩野派を言われた絵を描くだけのプロの絵師集団にしてしまったのよ。
そして、指示された絵しか描けない狩野派は独創性を失った。探幽亡き後、狩野派が衰退したのは探幽にも原因があるみたいね。
探幽亡き後の狩野派に足りなかったのは、まさに徳川家光が描いたかわいい鳳凰のような固定観念に囚われない独創的な絵だったのかもね・・・。
ちなみに今は、江戸時代の絵画の基礎を築いた人物として再評価されていて、狩野探幽の評価は上がってきているよ。
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