東大寺を再興した重源を簡単にわかりやすく紹介するよ!【逸話や建築様式など】

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(出典:wikipedia「重源」、Author:b_mode68)

 

今回は、源平合戦で灰燼に帰した東大寺を見事に復興させた重源(ちょうげん)という僧侶について紹介します。

 

東大寺に観光に行くのなら東大寺観光をより一層楽しむためにも重源はぜひ抑えておきたい人物です。なお、東大寺が焼失した経緯は以下の記事も参考にしてみてください。

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重源の経歴

重源は1121年生まれ。東大寺が焼け落ちたのが1180年でその後すぐに復興が進められますから、重源が東大寺復興という特大プロジェクトに参加したのは60歳ぐらいということになります。結構な高齢ですね。

 

青年期は、醍醐寺で天台宗を学び出家。その後は、法然のもとで浄土宗を学んだと言われています。浄土宗は1175年が開宗の年とされているので、重源は最新の仏教を学んでいたことになります。

 

浄土宗は、簡単に言えば「仏様を心の底から信じれば、救われる」という考えの宗教。信じる方法は色々あるわけですが、浄土宗では「南無阿弥陀仏」(阿弥陀如来に帰依します)と念仏を言葉に出す方法が採用されました。

 

これまでの日本の仏教は、「経典の内容を理解しそれを実践する」というのが一般的な仏教信仰のあり方でした。これだと、本を読む機会すらない民たちは仏教の教えを理解することすらできません。仏教を真に理解し教えを実践できるのは、それを本業とする僧侶か時間と金がある裕福な貴族らに限られました。

 

ところが浄土宗は、念仏を唱えるだけの超簡単な仏教信仰法。鎌倉時代以降、弾圧を受けながらも民衆に爆発的に広がり、現在にまで至っています。

 

浄土宗を信仰した重源は、民衆たちへの布教活動を行なっていました。今まで知りたくてもわからなかった仏教の教えをとても簡単に教えてくれる重源は、一躍民衆から大人気となったと言われています。

 

752年に奈良の大仏が造立された際に大仏造立に大貢献した行基(ぎょうき)も、重源と同じ民衆に仏教を普及し民衆にとても慕われていた人物でした。

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行基も重源も、東大寺を建設するに当たって、多くの人と財を動員する必要がありました。そーゆー意味では、大衆に慕われる人物が2回も選ばれるというのも偶然ではないのかもしれません。

 

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重源の留学、3度も宋へ

重源は、宋へ3度も留学した経験を持ちます。当時は平清盛によって強力に推し進められていた日宋貿易が盛んになっていた時期で、宋船が頻繁に出入りしていました。

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重源は宋で仏教の教えを学ぶとともに、宋で建築技術も学びました。

 

民衆に慕われ、仏教に精通し、建築技術の知識もある重源は、まさに東大寺復興に最も相応しい人物だったと言えます。というか、東大寺が焼けたタイミングで全てを兼ね揃えた重源が生きていたことは運命的なものさえ感じます。

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重源、東大寺復興最高責任者へ!

1180年の末、平重衡による戦火が東大寺・興福寺を襲い、寺院や僧房(そうぼう。僧が住む家)がことごとく焼き払われます。

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東大寺は聖武天皇が仏法による国の平和を願って建立したお寺。宗教的に重要なお寺なのもあるけど、それ以上に「日本の平和のシンボル!」って感じのお寺で政治的にも重要なお寺でした。

 

その東大寺が焼け落ちたというニュースは平安京に計り知れないショックを与えました。人々は動揺し、恐怖します。「東大寺が無くなった今、日本は仏法の加護を得られない。きっと国が乱れるに違いない」みたいな。

 

実際に、南都焼き討ちの後すぐに平清盛と高倉上皇が亡くなっており、これも当時は東大寺を焼いた仏罰だと恐れられていました。さらに結果的に1190年に奥州藤原氏が滅亡するまで10年間の戦乱の世が始まるので、確かに不吉な予感は当たっているかもしれません。

 

貴族から民衆まで多くの人々が動揺した東大寺焼失事件。平安京では「すぐにでも東大寺の復興を!」という声も上がりました。

 

そしてそんな声を上げた1人が重源でした。後白河法皇や源頼朝など、当時の権力者や貴族らも皆東大寺の復興を望んでおり、重源はその人望の厚さや入宗経験から東大寺復興の最高責任者に選ばれます。東大寺大勧進職(とうだいじだいかんじんしょく)と呼ばれ、主に人材・資金・材木などの管理・調達を担います。まさに巨大プロジェクトのリーダーですね!

 

昔々に、聖武天皇は大仏建立の詔で「みんな自発的に力を合わせて、東大寺を作り上げたい!」と願っていましたが、実際のところほぼ強制労働状態で全然実現しませんでした。

 

重源による東大寺復興は、後白河法皇・貴族・民衆ら皆が望むものであり、まさに聖武天皇の理想の形の実現と言っても良いかもしれません。(末端では強制労働はあっただろうとは思いますけどね・・・)

 

こうやって聖武天皇の頃と対比してみると面白いですね。

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重源と大仏様

重源の東大寺復興プロジェクトは難航を極めました。ザッと挙げるだけ以下の理由があります。

  1. 戦時中で民が疲弊していた
  2. 1181年の飢饉により平安京は死体が普通に道端に倒れている世紀末状態へ
  3. 戦時中により財源確保が困難

 

源平合戦は日本史上でも屈指の大内乱。そんな戦時中に東大寺復興という超巨大プロジェクトを行うなんて正直無理ゲーだと思います。普通のお寺ならまだしも、巨大な大仏を持つ東大寺はちょっとレベルが違う。

 

それでも重源は財源・人材の確保に努め、この無理ゲーを完遂します。重源神すぎ。

 

そんな逼迫した状況なので、「少ない材料で頑丈な建物を作りたい」と当然に考えるわけですが、そこで採用されたのが大仏様(だいぶつよう)という新しい建築様式でした。

 

私は建築の分野はまるで素人なので、詳しいお話はできませんが、下の写真のように天井が無くて屋根が直接見えるのと、貫(ぬき)と言って柱同士に横に木を当てて強度を上げているのが特徴。豪華絢爛というよりも質素というイメージが強いのが大仏様で、禅宗の影響も混じっています。

(出典:wikipedia「大仏様」,Author:663highland)

大仏様の導入は、宋で実際に建築について知識を得た重源にしか実践不可能であり、まさに重源無くして東大寺復興なしと言っても良いほどでした。

 

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重源と陳和卿(ちんなけい)

1180年に始まった東大寺復興プロジェクト。1185年には大仏が完成し、多くの人が喜びました。1180年〜1185年と言えば、源平合戦の真っ最中ですが、それでも大仏を再建できたのはやはり重源の人望やリーダーシップがあってこそ。

 

重源は大仏再建を陳和卿という宋出身の技術者に託します。これも宋に渡った経験のある重源だったからこそできたこと。

 

そして財政的支援は源頼朝が積極的に行います。もちろん源頼朝は東大寺復興を望んでいましたが、源頼朝にとっての東大寺の復興はそれ以上に政治的な意味合いも大きいものでした。

 

「ライバルの平家が焼き尽くし、天皇や貴族、民までが望んでいる東大寺復興。これに協力すれば、俺(源頼朝)の印象良くなるし、天皇や貴族との政治駆け引きも有利に進められる。おまけに平家の印象をさらに落とすこともできる。まじウハウハやな。」

 

という源頼朝の思惑があったというわけ。源頼朝はどこまで行っても生粋の政治家でした。

 

1185年には大仏開眼の儀式が行われ、後白河法皇が大仏の目を描いたと言われています。「高いところで危ないのでお控えを」という皆の制止を振り払い、「たとえ地震が起こり足場が崩れる可能性があろうとも構わぬ。死ぬ覚悟があるのだ」(超訳)と強い意思を持っての大仏開眼に臨みました。後白河法皇の大仏に対する強い想いがわかります。

 

 

そしてその10年後の1195年には大仏殿も完成。その後も細かな改修が続きます。東大寺の復興は10年以上を要した巨大プロジェクトだったことが改めてわかりますね。

 

ちなみにこの時、東大寺南大門の再建も進みます。大仏と大仏殿が最優先だったので出来上がったのは1200年ごろ。そして東大寺南大門の両脇に立つ金剛力士像を新たに製作したのがあの有名な運慶(うんけい)・快慶(かいけい)となります。

 

東大寺の焼失は人々を恐怖のどん底に陥れたとてもショッキングな事件でしたが、東大寺の復興を通じて、大仏様と言う新しい建築様式や運慶・快慶により新しい仏像様式が作り出されました。創造と破壊は常に紙一重の事象だと言うことがよーくわかります。

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 重源のまとめ

重源の詳細な人物像に迫ることはできませんが、少なくとも以下の点は整理できます。

  1. 浄土宗に帰依し、民への布教活動をしていた経歴から民に非常に慕われた。
  2. 宋へ渡航歴があり、宋の最新の建築技術を知る貴重な人材だった
  3. 青年期から僧として修行し、学問に励んでおり、仏教に精通していた

 

まさに東大寺を復興させるために生まれてきたような男です。重源が東大寺復興プロジェクトに参加した1180年、重源は既に60歳で高齢でしたが、大仏殿が完成する1195年の15年の間実に精力的に活躍しました。大仏殿が完成した時は70代に突入しています。そんな重源のバイタリティについても凄いを言わざるを得ません。

 

今の東大寺は重源がいたからこそ現存されていると言っても過言ではありません。(戦国時代にも焼けてますが、重源がいなければ、戦国時代に焼ける東大寺がそもそも存在しなかったかもしれない)

東大寺の俊乗堂に行ってみよう

その偉業もあって、東大寺には俊乗堂と言う重源の坐像が安置されている建物があります。(大仏殿からちょっと東に行ったところ)秘仏とされ、年に数回しか見る機会はありませんが、ぜひ訪れて重源を感じてみてはどうでしょうか!

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この記事を書いた人
もぐたろう

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