今回は、1937年に起きた日中戦争について、わかりやすく丁寧に解説していくね!
日中戦争とは
日中戦争とは、1937年、盧溝橋事件による武力衝突がきっかけで起きた日本VS中国の戦争のことです。
当初は、日本も中国も戦争をするつもりはありませんでした。
・・・ところが、1917年7月、中国の盧溝橋という場所で、日本軍と中国軍が小競り合いを起こすと、その責任をめぐって日本と中国が対立。
日本も中国も互いに一歩も譲らず責任を認めないでいると、争いが収まるどころか少しずつ拡大していき、意図せぬまま日本と中国は全面戦争へと突入していきました。
戦いは泥沼化し、1945年までの約8年に及ぶ長期戦となりました。
日中戦争が起きた時代背景
1920年代ころから日本は、満州の権益を維持するため、中国への内政干渉や軍事介入を強めていきました。
- 1928年
満州のボスだった張作霖を殺害する。
- 1931年
満州を中国から分離させて、新たに日本の言いなりの満州国を建国させる。
- 1935年以降
満州国の南に隣接している華北地方を中国から分離させるための裏工作が始まる。
こうした日本の侵略行為に中国では非難の声が高まりますが、中国政府は日本に対して毅然とした態度をとることはありませんでした。
・・・というのも、当時の中国は内紛状態で日本をまともに相手にできる状況ではなかったからです。
中国では、1926年から始まった北伐で軍閥政権が崩壊した後、
民主的な政治を目指す中国国民党
社会主義を目指す中国共産党
との間で内紛が続いていました。
ちなみに、政権を握っていたのは中国国民党。
政府を南京に置いていたよ。
南京政府は、日本と中国共産党の2者を同時に相手にすることが不可能だったので、中国共産党との戦いを優先し、内紛を終わらせることに専念します。
そのため、日本の侵略的な行為に対して本格的な抵抗をすることができず、結果として日本に自由な動きを許すことになってしまったのです。
・・・ところが、1936年、事態が一変します。
1936年12月、中国国民党のトップである蒋介石が、中国共産党に拉致される事件が起きます。(西安事件)
西安事件をきっかけに、蒋介石はこれまでの方針を転換。
中国共産党との争いを中断して、中国共産党と協力して日本に抵抗する方針を示します。
中国国民党と中国共産党が内紛を止めると、中国は日本の侵攻に対して本気の抵抗を見せるようになり、次第に日本と中国の間で外交的な緊張感が高まっていきました。
満州国と中国の国境付近では、両軍の小競り合いが絶えず起こっていたんだけど、その小競り合いの数や規模もだんだん大きくなっていったんだ・・・。
盧溝橋事件から日中戦争へ・・・
満州国と中国の国境付近で紛争が増え続ける中、1937年7月、北京の南西にある盧溝橋という場所で、日本軍と中国軍の軍事衝突が起こります。(盧溝橋事件)
これまでも、軍事衝突は頻繁に起きていましたが、いずれも現地で停戦協定が結ばれ、戦火が拡大することはありませんでした。
・・・が、盧溝橋事件は現地の停戦協定だけでは紛争が収まりませんでした。
7月11日に現地で停戦協定が結ばれたものの、日本・中国の両政府が増援の派遣を決定したため、事態の収集が困難になってしまったのです。
さらに盧溝橋事件の後、北京市内では日本人を襲撃する事件が多発し、これにブチギレた日本の現地軍が北京への攻撃を開始し、北京は日本軍の手によって制圧されました。
日本も中国も互いに譲らず、戦火はどんどん大きくなっていきます。
第二次上海事変→日中戦争始まる
盧溝橋事件の影響は、日本人が多く住んでいた上海にまで及びます。
1937年8月12日、中国軍が上海の日本人居住地を包囲。
その翌日(8月13日)には日本軍が応戦し、上海でも軍事衝突が起こります(第二次上海事変)
日本軍は、上海周辺の敵基地を叩くため、大規模な空爆攻撃を開始。
一方の中国側も、中国国民党と中国共産党が協力して日本と戦うことを公式に宣言(第二次国共合作)し、日本VS中国の戦いはついに国同士の全面戦争に発展。
こうして始まったのが日中戦争でした。
泥沼化する日中戦争
開戦当初、日本は戦局を有利に進めました。というのも、当時は日本の軍事力の方が圧倒的に上だったからです。
そのため日本は、「戦争はすぐに終わるだろう」と考えていました。
日本に勝てないことをわかりながら戦争を続けるほど中国も愚かではあるまい。
ある程度中国を追い詰めた後、日本に有利な条件で和平を提案してやれば、中国はすぐに和平に応じて戦争は終結するはずだ・・・!
・・・が、日本との徹底抗戦を決めた中国は、日本との和平交渉を頑なに拒否します。
1937年11月、ドイツ仲介の下、日本の和平案が示されますが、中国はこれを拒否。(トラウトマン工作)
日本はさらに中国を追い詰めるため攻勢を強め、11月には上海、12月には中国の首都だった南京を占領します。
その上で、日本は改めて和平交渉を持ちかけますが、中国はまたもやこれを拒絶。
わかったよ・・・。そこまで俺と戦いたいのなら、こっちだって徹底的に戦ってやんよ!
1938年1月、当時首相だった近衛文麿は、「国民政府とは交渉の余地なし」との声明(第一次近衛声明)を発表
中国を追い詰めて和平交渉で戦争を終わらせる計画は放棄する。
もはや武力により中国を制圧するしか戦争を終わらせる術はあるまい・・・!
近衛は、今後の戦争が総力戦になることを想定し、1938年4月、国家総動員法を制定しました。
一方の中国は、南京が日本に制圧されると、首都を南京→武漢→重慶と中国の奥地へと移し続け、日本への抗戦を続けます。
中国が首都を重慶に移すと、攻める側の日本は苦戦を強いられます。
なぜなら、日本は重慶までの長い補給路を守るために広大な防衛ラインを築かなければならず、膨大な兵士と武器が必要になってしまったからです。
汪兆銘工作の失敗
重慶に篭られての持久戦になれば、攻める側の日本が不利だ。
このまま戦争を継続すれば、日本は国力を消耗し、もし勝ったとしても甚大な被害を被ることになるだろう・・・。
こうなったら、もう一回中国と和平交渉できないか試してみよう!!
日本政府は、1938年2月ころから国民政府で日本との和平を主張していた汪兆銘に接近し、和平交渉に向けて動き始めます。
日本の和平に向けた計画(汪兆銘工作)は次のようなものでした。
- STEP1汪兆銘を説得して国民政府を離脱させる。
- STEP2日本が裏で支援して汪兆銘をリーダーとする新政府を樹立させる。
- STEP3日本は「中国の公式の政府は汪兆銘政府である」と主張して、汪兆銘と和平を結ぶ
1938年11月、日本はこれまでの徹底抗戦の方針を見直し、中国と和平交渉を結ぶ意思があることを公式に発表しました。(東亜新秩序声明)
東亜新秩序声明には、汪兆銘に対して『日本には和平の準備がある』ということを示して、汪兆銘の国民政府からの離脱を後押しする狙いがあったよ。
日本の和平計画(汪兆銘工作)に乗った汪兆銘は、12月に重慶を抜け出して新政府立ち上げに向けて動き出します・・・が、汪兆銘に賛同する者が思っていた以上に少なく、新政府樹立は難航します。
要するに、汪兆銘は失敗に終わったのです。
汪兆銘は、1940年3月に日本の占領下にあった南京で新政府を樹立しましたが、民衆の支持を得られず、名ばかりの中身のない政府になってしまったんだ。
援蒋ルートをめぐる争い
汪兆銘工作が失敗した後も、日本は重慶を攻めきれずにいました。
重慶を攻めきれなかったのは、単に補給路の問題だけではなく、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連などが中国の後方支援をしていたことも大きな原因でした。
日本は、重慶を攻略するため、まずは援蒋ルートを破壊することを考えました。
1939年、援蒋ルートのため、日本に追い風が吹きます。
・・・というのも、1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発したのです。
1941年6月、ドイツがソ連への侵攻を開始(独ソ戦)。独ソ戦が始まると、ソ連はドイツの相手で手一杯となり、中国への支援を中止。
さらに同月(6月)、フランスがドイツに降参し、仏印ルートも自然消滅し、残る援蒋ルートはビルマルートだけになりました。
太平洋戦争の勃発
日本が直面していた問題は、援蒋ルートだけでありません。実はもう1つ、日本は大きな問題に直面していました。
・・・というのも、日本はアメリカから経済統制を受けていて、日中戦争の継続に必要な軍事物資が少しずつ不足するようになっていったのです。
日本は軍座物資確保のため、アメリカに対して経済制裁をやめるよう交渉(日米交渉)を進めるのと同時に、鉄や石油などの資源を求めて東南アジアへの進出を企てます。
1941年9月、日本はアメリカを牽制するため、ドイツ・イタリアと日独伊三国同盟を結びます。
・・・ところが、日独伊三国同盟はアメリカを牽制するどころか、ブチギレさせてしまいます。
日本ごときの脅しに俺は屈しない。
こうなったら、日本への石油輸出を全面禁止にしてやんよ。
日本は石油の約8割をアメリカに依存しているから、日中戦争を継続することも不可能になり、日本は敗北の道を歩むであろう。
俺に歯向かったことを後悔するがいい・・・!!
ぐぬぬ・・・、こうなったら力づくで東南アジアの資源「特に石油」を確保するしかない!
1941年12月、日本の真珠湾攻撃を皮切りに日本VS連合国による太平洋戦争が勃発しました。
日中戦争は太平洋戦争の戦線の一部となり、1941年以降、戦局が大きく動くことになります。
日中戦争、日本の敗北に終わる
太平洋戦争開戦後、日本は連戦連勝の快進撃を続け、東南アジアを一帯を占領。さらにはビルマルートの封鎖にも成功しました。
1942年夏には、広大な領域(大東亜共栄圏)を支配下に収めました。
・・・が、日本の進撃もここまで。
ミッドウェー海戦の敗戦(1942年6月)、ガダルカナル島の戦いの敗戦(1942年8月〜1943年2月)と大きな戦いで大敗を続け、日本は次第に劣勢に立たされていきました。
日本は劣勢に立たされながらも、中国相手の日中戦争では相変わらず日本優勢の状況が続きました。
・・・しかし、アメリカと戦争中の日本には、重慶を一気に攻め落とす力はもはや残っていません。
結局、日中戦争はグダグダのまま泥沼化し、一向に終戦の気配が見えることはありませんでした。
日本は、中国に対しては最期までおおむね優勢でしたが、アメリカには太刀打ちができず、硫黄島の戦い(1945年2月〜3月)、沖縄戦(1945年4月〜)に敗北。
1945年8月には、ソ連の対日参戦、広島・長崎への原爆投下によって日本は降伏し、この降伏によって日中戦争も日本の敗北で終戦することになりました。
日中戦争が日本・中国に与えた影響
日本
日中戦争は泥沼の長期戦となっただけではなく、日本を連合国との戦争(太平洋戦争)へ引きずり込み、結果的に日本を敗戦を導くこととなりました。
日本は、長期化する日中戦争を終わらせるべく東南アジアへの進出を図ったけど、これがアメリカ・イギリスの反発を招いて太平洋戦争へと発展していったんだ。
もし日中戦争が早期に解決していたら、太平洋戦争は起こらず、日本・中国の歴史は大きく変わっていたかもしれません。
中国
中国は中国国民党VS中国共産党による内紛が続いていましたが、日中戦争をきっかけに両党は一致団結し(第二次国共合作)、内紛が集結することになりました。
・・・が、日中戦争が終わると、再び内紛が再発。(国共内戦)
勝者になったのは、中国共産党でした。
中国共産党は首都を北京に定め、新たに中華人民共和国を建国。
一方の中国国民党は、台湾に逃れて政権を維持しました。
台湾と中国は、今も統治のあり方を巡って対立を続けています・・・。
日中戦争の年表
- 1937年7月盧溝橋事件
日中戦争、始まる
- 1937年8月第二次上海事変
戦火が中国全土へ拡大する
- 1937年11月和平工作(トラウトマン工作)失敗
- 1937年12月日本軍、南京占領
- 1938年1月第一次近衛声明
日本政府、和平交渉を諦めて徹底的に戦うことを宣言
- 1938年4月国家総動員法が制定
- 1938年11月東亜新秩序声明
日本政府、汪兆銘と和平交渉をするため、第一次近衛声明を撤回して和平の用意があることを宣言
- 1940年3月汪兆銘政権、樹立
日本と和平を結ぶために汪兆銘が新政府を立ち上げるも、民衆の支持を得られず和平は失敗に終わる。
- 1941年12月太平洋戦争、始まる
日中戦争は、太平洋戦争の戦線の1つとなる。
- 1945年8月日本、太平洋戦争に敗北。日中戦争も終戦する。
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