今回は、1917年に起きたロシア革命について、わかりやすく丁寧に解説していくね
ロシア革命とは
ロシア革命とは、1917年にロシアで起きた革命運動のこと。
ロシア革命によってロシア帝国が滅亡し、ロシアはソヴィエト政権の下で社会主義国家として生まれ変わることになります。
ロシア革命は大きく2段階に分けることができます。
1917年3月に起きたロシア帝国が崩壊するまでの革命(通称:二月革命)
1917年11月に起きたソヴィエト政権が樹立するまでの革命(通称:十月革命)
そして、「二月革命」+「十月革命」をロシア革命と呼びます。
3月と11月に起きた革命なのに、二月革命、十月革命って呼ぶの?
何か間違ってないかしら・・・?
それは、ロシアでは革命の前と後で使っている暦が違っているせいなんだ。
ロシアでは、革命前はユリウス暦、革命後はグレゴリウス歴という暦が採用されていて、2つの暦には13日の誤差があったんだ。
例えば、二月革命は革命が起きた当時のユリウス暦では、2月23日に起きたけど、革命後(現代)の暦だとその13日後の3月8日が革命が起きた日になるんだ。
革命時点では確かに二月に起きた革命なんだけど、教科書は基本的に現在の暦であるグレゴリウス歴で年月を書いているから、「3月8日に起きた革命(二月革命)」なんて複雑怪奇な表現が出てくるんだ。
※この記事では年代の表記はすべてグレゴリウス暦(多くの教科書と同じ暦)で書いていきます!
ロシア革命が起きた時代背景
ロシア革命が起きた背景には、第一次世界大戦当時のロシアの実情を知っておく必要があります。
1914年にサライェヴォ事件をきっかけに第一次世界大戦が起きると、ロシアはすぐさま参戦し、ドイツ・オーストリアと戦争状態に突入します。
第一次世界大戦は、1914年から1918年の約4年間にわたる長期戦となりましたが、当初、参戦した多くの国は「戦いは短期で終わるだろう」と考えていて、長期戦を想定していませんでした。
想定外の長期戦は、多くの国で政治や社会の歪みを生むことになり、その歪みが特に大きかったのがロシアでした。
第一次世界大戦では、互いに塹壕に籠って砲撃・銃撃を浴びせまくる塹壕戦による戦いが繰り広げられ、戦闘には大量の弾薬や銃火器を必要としました。
・・・つまり、兵士たちの力量だけではなく、「いかに大量の弾薬・兵器を生産できるか?」という各国の工業の力が、勝敗のカギになっていったのです。
政治・社会への歪みが特に大きかったのが、国力と工業力にギャップがある国、もっと具体的に言うと「大国なのに工業の力が弱い国」でした。
国力と工業力にギャップのある代表的な国だったのが、ロシアとオーストリアだったんだ。
工業化が遅れていたロシアは、効率的な弾薬・武器の生産ができなかった代わりとして、人海戦術で戦争を乗り切ろう・・・と考えました。
技術力が足りない部分は、大量の人々を工場で働かせることでカバーしよう!
こうしてロシアでは、弾薬・武器の生産や食糧確保のため、多くの民衆たちが過酷な労働や規制を強いられることになりました。
第一次世界大戦も終盤に突入した1917年、度重なるロシアの敗戦も相まって、重い負担に民衆たちがいよいよ耐えきれなくなり、ロシアで暴動が起こります。
・・・こうして起きたのがロシア革命です。
実は、他の多くの国もロシアと似た状況になっていて、苦しんでいたのはロシアだけではありません。
しかし、ロシアは人口が多くて民主主義も採用されていなかった(ロシアは絶対王政を敷いていた)から、民衆たちの暴動のパワーが特に大きくなったんだ。
二月革命
1917年3月8日、当時のロシアの首都ペトログラード(今のサンクトペテルブルク)で、繊維工場で働く女性労働者たちが、戦争のせいで手に入らなくなったパンや薪を求めて、ストライキを起こしました。
当初、このストライキは小規模なものでした。
しかし、多くの民衆がこれに賛同し、ストライキは瞬く間に市内一帯を巻き込んだ大規模なデモ活動に発展していきます。
3月11日にはデモ隊と軍隊の間で衝突が起こり、さらに12日には、その軍隊内からも離反者が続出し、首都機能は完全に麻痺。
13日には、首都を守る兵士のほとんどがデモ隊側に寝返り、ペトログラードはデモ隊の手によって制圧されました。
ペトログラードがデモ隊に制圧されると、政府の要職に就ていた者が次々と追放され、3月15日にはロシア皇帝のニコライ2世も退位に追い込まれ、ロシア帝国はそのままあっけなく崩壊してしまいました。
約300年続いたロマノフ王朝だったけど、最期はわずか5日の暴動で滅びることになったんだね・・・。
臨時政府とソヴィエト
ロシア帝国が二月革命によって崩壊した後、ロシア国内では帝政に代わる新政権樹立の動きが加速します。
二月革命後、ロシアの政治を大きく動かしたのは「臨時政府」と「ソヴィエト」の2つの組織でした。
臨時政府
民主的な政治を目指す人々によって結成された臨時政府。
臨時政府は、ロシアの経済自由化・政治民主化を目指し、新たな憲法制定や普通選挙の実施に着手します。
ソヴィエト
2月革命の最中に、農民・兵士たちが一致団結するために結成された組織。
ソヴィエトは2月革命の原動力となった組織で、社会主義の実現のため臨時政府とは違う独自の動きを見せます。
二月革命後のロシアは、臨時政府とソヴィエトが混ざり合った二重権力の状態で、その政局はとても不安定なものでした。
ソヴィエトには、社会主義を目指す様々な人たちが集まり、大きく「社会革命党」・「メンシェヴィキ」・「ボリシェヴィキ」の3つの勢力で構成されていました。
社会革命党
農民たちの力で社会主義の実現を目指していた政党。
メンシェヴィキ
ロシア社会民主労働党の派閥の1つ。
メンシェヴィキは、闘争や暴動によって一挙に社会主義を目指すのではなく、時間をかけて穏便にロシアの社会主義化を実現しようと考えていました。
ボリシェヴィキ
メンシェヴィキと対をなす、ロシア社会民主労働党のもう1つの派閥。
闘争によって社会主義を勝ちとろうとした派閥でメンシェヴィキよりも過激思想を持っていました。
二月革命直後のソヴィエトは、その構成員の多くが社会革命党・メンシェヴィキの出身者であり、ボリシェヴィキは少数派でした。
四月テーゼ
二月革命直後、ソヴィエトは、臨時政府による憲法制定・普通選挙を受け入れ、臨時政府と協力する姿勢を示しました。
・・・が、ソヴィエト内でもボリシェヴィキだけは、臨時政府との妥協を認めず、臨時政府への協力に反対し続けました。
ボリシェヴィキが孤立しつつあった1917年4月、ボリシェヴィキのリーダーであるレーニンが亡命先のスイスから帰国します。
ボリシェヴィキは、過激思想とみなされロシア帝国から弾圧を受けていたのだ。
だから私は、弾圧からの逃れるために亡命していたのだが、2月革命でロシア帝国が滅びたので祖国に戻ってきた・・・というわけだ。
帰国したレーニンは、ボリシェヴィキの今後の革命指針を示し、ボリシェヴィキの勢力拡大を目指すようになります。
この革命指針は、世界史の用語で四月テーゼと呼ばれています。(世界史の重要ワードです!)
四月テーゼの内容は次ようなものでした。
四月テーゼは、臨時政府との妥協を許さないボリシェヴィキの姿勢を改めて示したもので、レーニンはさらになる革命のチャンスに向けて、少数派だったボリシェヴィキの拡大に努めるようになります。
そして、レーニンが四月テーゼで掲げたさらなる革命が現実のものとなったのが、十月革命でした。
10月革命
もう1つの革命が起きたきっかけは、臨時政府が二月革命の後も、戦争を継続したことでした。
二月革命は、戦争に苦しむ民衆・兵士たちが起こした暴動であり、人々は平和を切望していました。
・・・ところが1917年7月、臨時政府は民衆の期待を裏切りドイツへの総攻撃を開始。
しかも、結果はロシアの大敗に終ります。
7月16日、ペトログラードで戦争に反対する兵士たちとボリシェヴィキが蜂起を起こします。
蜂起は鎮圧されましたが、臨時政府内部でソヴィエトの勢力が増す結果となり、ソヴィエトに所属する社会革命党のケレンスキーが新たな臨時政府のトップに就任しました。
ボリシェヴィキは、蜂起に失敗して勢力が削がれた結果となり、終わってみれば社会革命党・メンシェヴィキが漁夫の利を得て臨時政府の実権を握ることになったんだ。
・・・しかし、新たに就任したケレンスキーも、戦争をやめることはありませんでした。
民衆たちの中には、社会主義者のケレンスキーなら戦争を終わらせてくれる・・・と考えている者もいましたが、またもや裏切られた民衆たちは、次第に臨時政府を見限ります。
臨時政府もダメだし、臨時政府と同調しているソヴィエト内の社会革命党・メンシェヴィキも民衆の期待を裏切った。
こうなったら、ロシアを大きく変えてくれるのはもうボリシェヴィキしかない!!
8月以降、各地でストライキやデモ活動が再び激化するようになり、それに呼応するかのようにボリシェヴィキも民衆の支持を得て、勢力を急拡大するようになりました。
時は熟した。
民衆の支持を得た今こそ、臨時政府を倒すため再び革命を起こすのだ!!
こうして1917年11月7日、ボリシェヴィキは再びペトログラードで蜂起。
ボリシェヴィキは強襲によって臨時政府に抵抗する隙を与えず、臨時政府の要人たちを次々と逮捕。
ケレンスキーが逃亡したことによって、臨時政府はあっという間に崩壊しました。(十月革命)
平和に関する布告・土地に関する布告
臨時政府が崩壊した翌日(11月8日)、ソヴィエトはロシアの実権を握ることを宣言し、あわせて「平和に関する布告」「土地に関する布告」を発表します。
平和に関する布告
ロシアと交戦中のすべての国に対して、無併合・無償金・民族自決の原則に沿って和平交渉に応じるよう呼びかけた布告。
※布告:広く一般に告げ知らせること
四月テーゼで掲げた早期終戦を実現するための動きです。
土地に関する布告
ロシア国内での土地の私有を全面禁止することを発表した布告。
社会主義の実現のため、土地はソヴィエトが管理し、農民たちへ適切に配分されることになりました。
平和に関する布告は国外向け、土地に関する布告は国内向けにソヴィエトの方針を打ち出したものってことだね!
ロシア革命がロシアに与えた影響
ロシア革命は、ロシアのみならず第一次世界大戦にも大きな影響を与えました。
ブレスト=リトフスク条約
ボリシェヴィキ率いるソヴィエト政権が樹立すると、終戦に向けた外交交渉が本格化。
1918年3月、ドイツとの交渉がまとまって和平条約であるブレスト=リトフスク条約が結ばれ、ソヴィエト政権は第一次世界大戦が戦線離脱することになりました。
世界初の社会主義国家
ソヴィエト政権は、世界初の社会主義国家であり、その誕生は世界に大きな衝撃を与えました。
社会主義は、資本主義を否定する思想だったため、資本主義によって大国に成長したイギリス・フランス・アメリカ・日本などは、ソヴィエトの存在を脅威に感じるようになります。
ソヴィエト政権による国家運営が成功すれば、日本やイギリスなどの国でも民衆たちが革命を望むようになって、ロシア革命と同じようなことが世界各国に波及する危険があったんだ。
第一次世界大戦が終わった後も、資本主義の大国たち(アメリカ・イギリス・日本など)は、ソヴィエト政権の勢力拡大を防ぎためにシベリア出兵を実施し、世界では社会主義VS資本主義という新たな紛争の種が生まれることになりました。
資本主義VS社会主義の構造は、今もなお続いているよ・・・。
共産党の誕生
十月革命でソヴィエトから社会革命党・メンシェヴィキが排除された結果、ソヴィエト政権の中身は、実質的にボリシェヴィキだけであり、ロシアではボリシェヴィキの一党支配による政治が始まります。
ボリシェヴィキは、その組織名を共産党に改名し、さらに首都をペトログラードからモスクワへ移しました。
1919年には、社会主義を世界へ広げるための組織としてコミンテルンを結成し、ソヴィエト政権の影響は世界中へと広がっていくことになります。
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