大東亜共栄圏を簡単にわかりやすく解説【目的・範囲・実態をバッチリ抑える!】

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もぐたろう
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今回は、太平洋戦争の時に日本のスローガンの1つにもなっていた大東亜共栄圏だいとうあきょうえいけんについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ。

この記事を読んでわかること
  • 大東亜共栄圏ってなに?
  • 大東亜共栄圏はなぜ生まれたの?生まれるまでの経過・時代背景は?
  • 大東亜共栄圏は結局どうなったの?
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大東亜共栄圏とは

大東亜共栄圏とは、「日本をリーダーとして、東アジア・東南アジアに白人支配を脱した新しい世界秩序を構築しよう!」という思想のことを言います。

大東亜共栄圏の思想は、1940年に第二次近衛内閣によって発表され、1941年から始まる太平洋戦争の大きなスローガンとなりました。

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大東亜共栄圏が生まれた時代背景

実は、「列強国に支配されない新秩序をアジア全体に構築する」という考え方は、ずーっと昔の明治時代から存在していました。

19世紀(1800年代)になると、列強国が東アジア・東南アジアの大半を支配するようになり、直接の支配を免れたのは日本とタイだけでした。

もぐたろう
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日本は直接の支配はまぬがれたけど、列強国と不平等条約である安政の五カ国条約を結ばされたり、やっぱり立場は列強国より下だったんだ。

・・・ところが、明治時代に入って日本政府が西洋の最新技術を取り入れた殖産興業しょくさんこうぎょう富国強兵ふこくきょうへいを推進すると、日本は生まれ変わります。

パワーアップした日本は、1894年の日清戦争、そして1904年の日露戦争の勝利によって、列強国の支配を脱して、逆に列強国の仲間入りを果たします。

そして、アジア唯一の列強国になった日本は次第に、「東アジア(清・朝鮮)が列強国支配から脱することができるよう、日本が東アジアのリーダーになる!」という思想を持つようになります。

・1910年に朝鮮を植民地化した韓国併合

・第一次世界大戦中に清に迫った21か条の要求

・1931年に起きた満州事変と、その後の華北分離工作

など、戦前の日本の外交政策の多くは、その根底に大東亜共栄圏と似た思想があったのです。

※こうした思想のことをアジア主義と言います。大東亜共栄圏もアジア主義の一種です。

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東亜新秩序声明

1938年11月、日本政府は、大東亜共栄圏の前身となる「東亜新秩序声明」なるものを公式発表します。

発表したのは、首相だった近衛文麿。(第一次近衛内閣)

当時は日中戦争の真っ最中であり、中国と和平を結ぶために発表されたのが東亜新秩序声明です。

東亜新秩序声明の内容はザックリとこんな感じの内容でした。

日本は、中国・満州国と協力して、東アジアに列強国に対抗しうる新しい秩序を創りたいと思ってる。これに協力してくれるなら、中国への侵攻を止めてやってもいいよ!

日本ではアジア主義を掲げる人は多くいましたが、政府が公式にアジア主義を発表したのは、この東亜新秩序声明が初めてでした。

もぐたろう
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つまり、日本政府は東亜新秩序声明を発表することによって、アジア主義を国策として正式に採用したわけです。

※東亜新秩序声明について詳しく知りたい方は、次の記事をあわせて読んでみてください。

・・・が、蒋介石が率いる中国の国民政府は、日本の求めに応じません。

中国は、アメリカ・イギリスなどから支援を受けて、日本と徹底抗戦する構えを見せます。

※この時に使われた中国へ支援物資を送る輸送ルートのことを援蒋ルートと言います。

もぐたろう
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列強国は、日本に東アジアを支配されることを恐れて中国を支援することにしたんだ。

さらに列強国は、アメリカ・イギリスを中心に日本への経済制裁を強め、日本はこの経済制裁のことをABCD包囲網と呼びました。

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大東亜共栄圏の誕生

東亜新秩序声明を含む一連の和平工作(汪兆銘工作)が失敗に終わると、近衛文麿は政府の意見をまとめることができなくなり、1940年1月に内閣を解散してしまいました。

・・・が、次に内閣を担った平沼騏一郎ひらぬまきいちろう阿部信行あべのぶゆき米内光政よないみつまさも、政府の意見をまとめきれず、短命政権が続きます。

うーん、やっぱり近衛文麿の方が期待できるんじゃね?

ってことで、1940年7月22日、近衛文麿が再び首相となり、第二次近衛内閣が結成されました。

当時、政府内で大きな議論になっていたのが『日中戦争をどう終わらせるか?』という問題でした。

ネックになっていたのが、東南アジアから中国へ支援物資を送っている援蒋ルートの存在です。

中国は援蒋ルートを通じて無限に物資を調達できるから、いくら攻撃しても速攻で体制を立て直してくる。

このまま攻撃を続けてたら逆にこっちがジリ貧で負けちまうぞ!!

そこで陸軍を中心にこんな案が浮上します。

陸軍
陸軍

援蒋ルートが邪魔なら、援蒋ルートごと潰してしまえばいいんじゃね?

でもさ、援蒋ルートを通じて中国に支援してるのってイギリス・アメリカだよね?

ってことは、下手に手を出したら、超大国のアメリカと戦争になるかもしれない。それはあまりにも危険すぎるし、まずはアメリカと交渉すべきじゃないかな・・・。

そんな議論が続く中、1940年7月26日、近衛文麿は新しい方針を打ち出します。

東亜新秩序声明をさらに拡大して、「日本・満州国・中国に加えて、植民地支配されてる東南アジア諸国もみんなで協力して、東アジア・東南アジアに日本をリーダーとして、列強国に支配されない新しい秩序を構築しよう!」と方針を打ち出したのです。

この方針に基づく新秩序ことを、大東亜共栄圏と言います。

※大東亜とは、東アジアに東南アジアを加えた地域のことを指しています。

近衛文麿は、日中戦争を終わらせるには援蒋ルートを封鎖するため東南アジアに進出する必要があると考えて、大東亜共栄圏の考え方を打ち出しました。

ただし、大東亜共栄圏を創り上げる方法や具体的な範囲には触れられていません。大東亜共栄圏はあくまで日本のスローガン的なものとして掲げられたものでした。

もぐたろう
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武力か外交か・・・という手段には賛否があったものの、『東南アジアの援蒋ルートをなんとかしないと勝ち目なし』というのが、当時の日本の共通認識でした。

そこで、近衛はあえて手段には触れず、異論がない部分だけをうまくスローガンに掲げることで、政府の意見を1つにまとめたのです。

近衛文麿
近衛文麿
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スローガンから現実目標へ・・・

当初はスローガン的なものだった大東亜共栄圏ですが、1941年に入ると、次第に現実目標へと切り替わっていきます。

そのきっかけになったのが、1941年7月に起きた南部仏印進駐でした。

日本は強まるアメリカの経済制裁を警戒して、自力で資源を得るためにフランス領インドシナ南部へと軍を進めたのです。

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日本はアメリカに対抗するため1940年に日独伊三国同盟を結びましたが、その仕返しとしてアメリカは日本への経済制裁を強化していました。

これにブチギレたアメリカは、日本への石油輸出を全面禁止。日本は深刻な石油不足に陥ります。

ちくしょう!

こうなったら、石油資源が豊富にあるオランダ領東インド(今のインドネシア)を占領するため、ガチで大東亜共栄圏を目指すしかない・・・!!

さらに1941年11月、アメリカに中国への支援をやめさせるため継続していた外交交渉が、アメリカの厳しい条件(ハルノート)により決裂に終わります。

アメリカとの交渉も失敗に終わった。日中戦争に勝つには、もはや武力で東南アジアを支配下に置くしかない!

1941年12月1日、日本はイギリス・アメリカとの開戦を決断。

そして12月8日、日本は大東亜共栄圏の実現を目指して、イギリスの植民地だったマレー半島(今のマレーシアのあたり)への侵攻を開始します。

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アメリカの太平洋の主戦力を叩くため、同時にハワイ州への真珠湾攻撃も開始されたよ。

日本は、この戦争のことを大東亜共栄圏を目指す戦争・・・ということで「大東亜戦争」(※)と名付けました。

※現代では「太平洋戦争」と呼ばれています。

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南方作戦

日本の主な攻略目標は、マレー半島・フィリピン・ジャワ島の3つでした。

マレー半島にはイギリス海軍フィリピンにはアメリカ海軍の拠点があり、この2箇所さえ攻略してしまえば、日本に対抗できる勢力はいなくなります。

そして、ジャワ島には、豊富な石油資源があったので、ジャワ島の占領が最終目標でした。

南方作戦のターゲットであるマレー半島・フィリピン・ジャワ島

日本は、この作戦を南方作戦と呼び、作戦の実行に移ります。

・・・この南方作戦は、奇跡的な大成功を収めます。

1942年2月、日本軍はマレー半島の先っちょにあるシンガポールを制圧。イギリス軍を降伏させました。

さらにフィリピンでは、1月に首都マニラを制圧し、6月にはアメリカ軍を追い出してフィリピンを占領下に置いてしまいます。

本命だったジャワ島も、3月には制圧を完了。

他の各戦場でも日本は連戦連勝の快進撃を続け、東南アジア一帯のみならず、グアムやソロモン諸島、さらにはアメリカのアラスカ州であるアッツ島までをも占領することに成功しました。

大東亜共栄圏
大東亜共栄圏

一連の戦いでの日本軍の死者は1万人以下。一方の連合国軍は死者16万人を超えており、南方作戦は日本の完全大勝利に終わったのです。

日本が圧勝した背景には、列強国を嫌っていた現地住民が、日本に協力してくれた・・・という事情もありました。

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大東亜会議

大東亜共栄圏を創り上げた日本は1943年11月、アジア諸国の協力体制を築くため、大東亜会議だいとうあかいぎなる会合を開きます。

参加国は、日本・中国(汪兆銘政権)・タイ・満州国・フィリピン・ビルマ・インド。

※インドは大東亜共栄圏の範囲外でしたが、イギリスの植民地支配から脱するため会議に参加しました。

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汪兆銘政権っていうのは、蒋介石に対抗するために日本が作り上げた中国の傀儡政権です。詳しくは、汪兆銘工作の記事を読んでみてくださいね。

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大東亜共栄圏の実態

大東亜会議によってアジア諸国の結束を固めましたが、大東亜共栄圏の実態は、協力関係というよりも、日本による一方的な支配でした。

日本は、当初こそ快進撃を続けたものの、アメリカが攻勢に転じると、少しずつ敗北が増えていきます。

1942年6月にはミッドウェー海戦でアメリカ軍に大敗。続いて1943年2月にはガダルカナル島の戦いでも大敗を喫し、日本は劣勢に立たされまるようになります。

広すぎた大東亜共栄圏が仇になる・・・

日本は南方作戦の想定を超える快勝によって、大東亜共栄圏もまた計画よりも広大なものになります。

しかし、その広大さは日本の防衛能力を上回るものでした。つまり、日本は神がかり的スピードで大東亜共栄圏を築きましたが、それを維持できるほどの国力を持っていなかったのです。

日本は、

劣勢に立たされてた太平洋戦争の立て直し

大東亜共栄圏の防衛ラインの強化

のため、人手や物資を集めることを最優先し、アジア諸国に対して過酷な労働などを強いました。

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大東亜共栄圏の実態として有名な話を2つほど紹介しておきます。

泰緬鉄道

日本はインド侵攻のために、タイとビルマ(今のミャンマー)を結ぶ物資運送用の鉄道「泰緬鉄道たいめんてつどう」の建設に取り掛かります。

泰緬鉄道建設のため、現地では多くの人たちが過酷な強制労働を強いられ、多くの死者を出しました。

※インド侵攻は、インドそのものではなくインドを支配するイギリスを排除するために計画です。

泰緬鉄道で酷使されている現地住民
(出典:海外(アジア)の豆知識 & ちょいとした話 〜 jintottyのブログ

血債の塔

シンガポールでは、日本占領後も、日本に抵抗する中国系住民(華僑かきょう)が抵抗を続けていました。

日本は、抵抗を続ける華僑を全て掃討する計画を立て、多くの華僑たちの命を奪い取りました。

シンガポールにある血債の塔
戦没者追悼のため、シンガポールに建てられた「血債けっさいの塔
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要するに大東亜共栄圏っていうのは、表向きは「西洋列強国を倒すためみんなで協力!」ってことだったけど、実際のところは日本と他の国には大きな上下関係があって、基本的に日本の命令には逆らえなかったんだ。

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大東亜共栄圏のその後【アジア諸国が独立を遂げる】

ガダルカナル島での大敗以降、連合国に占領地を奪い取られ大東亜共栄圏は縮小し、1945年9月、日本が連合国に降伏したことで、大東亜共栄圏は消滅しました。

日本が敗北すると、フランス・イギリス・オランダなどは、日本に奪われた植民地を取り戻そうと、東南アジア諸国に対して再び圧力をかけます。

・・・が、日本からも西洋の列強国からも解放されて自由になった東南アジア諸国は、これに激しく抵抗。太平洋戦争が終わると、東南アジア諸国は次々と独立を成し遂げていきます。

東南アジアの独立の歴史
  • 1945年8月
    インドネシアが独立を宣言

    インドネシアは旧オランダ植民地(オランダ領東インド)。反対するオランダと戦争に突入する。

  • 1945年9月
    ベトナム民主共和国がフランスからの独立を宣言

    ベトナム民主共和国は旧フランス植民地(フランス領インドシナ)。反対するフランスと戦争に突入する。(インドシナ戦争)

  • 1946年7月
    フィリピンが独立

    フィリピンは旧アメリカ植民地。

  • 1948年
    ビルマが独立

    ビルマは旧イギリス植民地。今のミャンマー。

  • 1953年10月
    ラオスが独立

    ラオスは旧フランス植民地(フランス領インドシナ)

  • 1953年11月
    カンボジアが独立

    カンボジアは旧フランス植民地(フランス領インドシナ)

日本の大東亜共栄圏政策では、東南アジアで残虐な行為が行われたのは事実です。

しかし、大東亜共栄圏のおかげで、東南アジアが長年苦しんでいた列強国支配から脱することができ、しかも、その後の独立の大きなきっかけになったのも事実でした。

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日本に対する評価は国で様々だけど、東南アジアでは『日本が列強国を追い出してくれたおかげで独立できた!』と評価する国が多く、東南アジアに親日国家が多いのも、この辺りの事情が深く関係しているよ。

【大事なお知らせ】YouTube始めました!!

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まだ動画は少ないですが、学生や大人の学び直しに役立つ動画をたくさん増やしていくので、ぜひ下のアイコンからチャンネル登録、よろしくお願いいたします。

この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

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