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盧溝橋事件を簡単にわかりやすく解説するよ【きっかけ〜日中戦争までの流れを理解しよう!】

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事件の現場となった盧溝橋
もぐたろう
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今回は、1937年に起きた盧溝橋事件ろこうきょうじけんについて、わかりやすく丁寧に解説していくね!

この記事を読んでわかること
  • 盧溝橋事件ってどんな事件だったの?
  • 盧溝橋事件はなぜ起きたの?
  • 盧溝橋事件の経過は?
  • 盧溝橋事件は、日本にどんな影響を与えたの?
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盧溝橋事件とは

盧溝橋事件とは、1937年7月に中国の盧溝橋ろこうきょうという橋の近くで、日本軍と中国軍が争いを起こした事件のことを言います。

盧溝橋事件そのものは小競り合いなので、実はそれほど大きな事件ではありません。

それなのになぜ、盧溝橋事件は教科書にも載るほどの重大な事件になったのか?

それは、盧溝橋事件が日中戦争の直接のきっかけになってしまったからです・・・!

もぐたろう
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盧溝橋事件はなぜ起こったのか、そしてどのように日中戦争に繋がっていったのかを理解することがこの記事の目的です!

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盧溝橋事件が起きた時代背景

盧溝橋事件が起きた1937年当時、日本と中国の関係は、最悪の状況でした。

日本は1931年に満州事変を起こして、1932年には満州国を建国。

その後も日本は、華北かほく地方を中国から分離させようとする華北分離工作を進めます。

1935年には北京の北部に冀東防共自治政府きとうぼうきょうじちせいふを設置し、中国から独立させることに成功していました。

これに対抗するため中国は、1935年12月、自ら北京周辺を手放して独立させ、冀察政務委員会きさつせいむいいんかいという新政府を置きます。

北京一帯を独立させて日本に従順な態度を取る戦略を採ることで、日本に侵略の口実を与えず、日本の華北分離工作を防ぐことが中国の狙いです。

しかし、日本の度重なる侵略行為によって中国人たちの反日感情が高まっていたため、日本に従順なふりをするにも限界がありました。

日本軍と中国軍との小競り合いが頻繁に起こるようになり、現地の治安は次第に悪化していきます。

冀察政務委員会の政権下にある北京ぺきん天津てんしんには、昔から支那駐屯軍しなちゅうとんぐんと呼ばれる日本陸軍の部隊が置かれていました。その軍が、中国軍と小競り合いを起こしていたのです。

なぜ日本軍が中国国内に堂々と駐屯できるの?

もぐたろう
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なぜかというと、1901年に北清事変の事後処理として結ばれた北京議定書ぺきんぎていしょで、そーゆー約束をしていたからです!

さて、ここまでに登場した満州国・冀東防共自治政府・冀察政務委員会の位置関係を確認しておきましょう!

北から

赤色満州国

黄色冀東防共自治政府

緑色冀察政務委員会

です。

もぐたろう
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曖昧でもOKだから、位置関係を知っておくと話が理解しやすくなるのでオススメです!

華北地方の治安悪化を危惧した日本政府は、1936年4月、支那駐屯軍の増強を決定します。

・・・が、ここで一つ大きな問題が浮上します。それは、人員が増えすぎてもともとある駐屯地だけでは手狭になってしまったのです。

支那駐屯軍は、駐屯地を増設することを考えますが、これは簡単なことではありません。なぜなら、軍が駐屯できる場所は、先ほど登場した北京議定書によってすでに決められているからです。

そこで支那駐屯軍は、北京議定書の約束を無視して、勝手に駐屯地を増やすことにしました。

中国はこれに猛反対しますが、支那駐屯軍は強引に駐屯地の設営を開始します。

もぐたろう
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支那駐屯軍の駐屯地増設は、中国にとっては相当な脅威です。

なんせ今の日本で例えるなら「日本国内に、中国やロシアが無断で軍隊を置いている」ようなものですからね。

この時、勝手に置かれた駐屯地の1つに豊台ほうたいというエリアがあります。

豊台は、北京のやや南に位置し、盧溝橋があるエリア。この無断で置かれた豊台の駐屯地が、盧溝橋事件の舞台となります。

盧溝橋と豊台の場所はこんな感じ↓↓

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盧溝橋事件のきっかけ

日本が華北分離工作を進める一方で、1936年12月、中国国内でも大きな動きがありました。

長く続いていた中国政府と中国共産党との内紛が停戦することになったのです。(西安事件

内紛が終わって日本対策に専念できるようになった中国は、1937年に入ると豊台の近辺の守備体制を増強。豊台の近くで軍事演習を行ったりして、日本の支那駐屯軍を牽制します。

こうして盧溝橋付近には、いつ争いが起こってもおかしくない緊張感がただよい始めました。

そんな空気の中、1937年7月7日にいよいよ事件は起こります。

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盧溝橋事件の経過

1937年7月7日、豊台の支那駐屯軍が、盧溝橋の近くで軍事演習をしていました。

演習は敵味方に分かれて行われ、22時30分頃に演習が終了。

その後、演習終了を伝える伝令に対して、誤って機関銃の空砲が発砲されました。

もぐたろう
もぐたろう

演習中だったので、演習終了に気付かずに誤って伝令を敵だと認識した可能性が高い・・・と言われているよ。

問題はここからです。

この空砲の後、どこからか数発の実弾が打ち込まれました。

しかも、兵士たちを集めて点呼をとると伝令が行方不明になっていることがわかり、大騒ぎになります。

日本兵
日本兵

もしや、先程の発砲で何者かに襲われたのでは・・・。

豊台の支那駐屯軍は、これを中国軍の仕業だと考え、一度兵士を撤退させ、不測の事態にそなえて戦闘体制へと移行。

それと同時に、中国に対して抗議と交渉を行うための調査団が発足されました。

さらに7月8日の深夜3時ころ、次は伝令のため上司たちの間を動き回っていた兵士が中国軍に狙撃されました。(最初に行方不明になった伝令とは別の人です!)

この狙撃によって日本軍は中国軍とは臨戦態勢に入りますが、早朝5時、盧溝橋横にある城(盧溝橋城)で中国と日本の間で現地交渉が開始され、かろうじて戦闘には至りませんでした。

・・・が、5時30分ころに再び中国軍が日本軍へ発砲。この発砲をきっかけに、ついに盧溝橋で両軍が衝突。戦闘が起こりました。

ただ、7月9日の早朝には両軍の間で停戦に向けた交渉が行われ、7月11日には停戦協定が結ばれました。日本軍は約10名程度の戦死者を出しますが、戦闘そのものは数日で終わり、戦闘規模も小規模なものに終わります。

これで事件が終わっていれば、盧溝橋事件は日本史に残らない局地的な小競り合いで終わるはずでした。

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盧溝橋事件から日中戦争へ・・・

盧溝橋事件の一報は、7月8日早朝には日本本土にいる陸軍にも伝わっていました。

盧溝橋事件の経過が満州事変にあまりにも似ていたため、政府関係者の多くは「盧溝橋事件は中国侵略の口実を得るための支那駐屯軍の策謀なのではないか?」と事件を疑います。

政府内では、盧溝橋事件をめぐる対応案が大きく2つに分かれます。

案1:これ以上戦闘を拡大させずに中国との関係を引き続き維持する不拡大方針

案2:満州事変の時のように、盧溝橋事件を口実に一気に中国に攻め込む強硬方針

盧溝橋事件の中心にいた陸軍は、当初、案1の不拡大方針を採用しました。

もぐたろう
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陸軍の中でも意見が大きく分かれていたんだけど、結局『日本が将来戦争するとなれば、敵はソ連になるだろうから、それまでは無駄な敵を作らない方が良いよね!』ということで案1(不拡大方針)が採用されました。

ちょうど7月9日から停戦交渉が始まっていたので、援軍は送らずに停戦をして事件を終わらせよう・・・と考えたのです。

・・・が、7月11日の停戦協定の成立までの間に戦闘が起こってしまったことで、少しばかり方針が変わります。

案1(不拡大方針)を採用する点は変わらないけれども、駐屯軍を助けるため、現地へ援軍を派兵することが決まったのです。

当時首相だった近衛文麿このえふみまろは、こうして増援の派兵を決断。

近衛文麿

ところが、不拡大の方針を叫んでいるにも関わらず、近衛首相は中国を挑発するようなやり方で派兵を決めてしまいます。

まず1つは、援軍の送り方です。

近衛は、大陸にすでにいる関東軍や朝鮮軍からの派兵ではなく、日本本土からの本格的な派兵によって中国に兵を送り込む決定をしたのです。

もう1つは、公表方法です。

派兵に関する声明が発表されたのは、7月11日。ちょうど現地で停戦協定が結ばれた日でした。

その声明内容はザックリと次のようなものでした。

「盧溝橋事件が中国の仕業であることはもはや疑いようがない。中国に対して、これまでの日本を排除し侮辱するような行為への謝罪を要求し、今後このようなことが起こらぬよう、中国への派兵という重要な決断を下した。」

もぐたろう
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こうした強気の姿勢の背景には、「中国なんて軍事力で脅せば簡単に屈するはず」という日本政府の安易な考えがあったんだ。

こうした近衛のやり方は、中国から見れば、日本が不拡大と言いながら戦争をするために派兵をしているように映ったのです。

※ちなみに、せっかく停戦協定を結んだ現地の支那駐屯軍ですが、政府の派兵決定とこれに反対する中国軍との板挟みとなり、現地では苦しい対応を強いられることになりました

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日本VS中国、全面戦争へ【日中戦争】

日本で派兵決定の声明が発表された後、中国でも大きな動きがあります。

まず1つに、日本に抵抗する動きが激化しました。

7月13日には、北京の大紅門だいこうもんという場所で日本軍のトラックが爆破され4名が死亡。

14日には日本軍の騎馬兵が惨殺され、18日には日本の偵察機が射撃を受ける事件が起こりました。

さらには7月17日は、これまで日本と対立することを避けていた中国政府の代表である蒋介石しょうかいせきまでもが、「日本が戦争を仕掛けるのなら、中国政府はあらゆる犠牲を払っても徹底抗戦するからな!」と抵抗する意思を表明。

中国政府は長い間、中国共産党との内紛に専念するため、日本の圧力には柔軟に対応するスタンスを取り続けていました。

ところが、1936年の西安事件によって中国政府と共産党との停戦が決まり、日本に譲歩する理由が薄れてしまいます。

それでも日本は強国なので、中国政府は日本との争いを避けようと様子を見ていました。

しかし、日本の派兵決定が中国に強い危機感を持たせる結果となり、中国政府は日本への徹底抗戦を決断するに至ったのです。

その後も、中国軍VS日本軍の小競り合いが各地で起こりますが、次第に規模が大きくなっていきます。

7月29日には、通州という場所で日本人200人以上が虐殺される事件が起こり、8月13日には上海で日本軍と中国軍が衝突しました。(第二次上海事変

こうしてズルズルと戦いが長期化するようになり、気付けば日本と中国は戦争状態へと突入していったのです。(日中戦争

もぐたろう
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ちなみに、盧溝橋事件のきっかけになった最初の発砲が、本当に中国人の仕業だったのかは今でもわからず謎のままです。

行方不明の伝令は◯◯◯にいた(おまけ)

最初に発砲があったときに行方不明になっていた伝令ですが、実は行方不明ではなくてトイレに行っていて集合に遅れただけだった・・・というオチがあったりします。

支那駐屯軍は、「行方不明の伝令は中国軍に襲われたのでは?」と警戒したから話が発展したわけで、もし伝令が小便or代弁をちゃんと我慢して集合の合図で集まっていれば、事件は起こらなかったかもしれないのです・・・。

それってつまり、伝令がトイレに行ったせいで盧溝橋事件が起きたってこと?

大か小かは知らないけど、トイレに行ったせいで日中戦争を起こすとか、伝令の人は一生トラウマ確定だよね・・・。

もぐたろう
もぐたろう

まぁ、そうとも言えるよね。笑

でも、盧溝橋付近では中国軍と日本軍がいつトラブってもおかしくない情勢だったから、仮に伝令がトイレに行ってなかったとしても、いずれ似たような事件は起こっていたんじゃないかなって思ったりもするね。

この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

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