今回は、1935年ころから始まった華北分離工作という動きについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
華北分離工作とは
日本は1931年に満州事変を起こして、1932年に日本の傀儡国家である満州国を建国しました。
※傀儡:操り人形のこと
日本は、満州国を裏から支配することで中国から満州を奪おうと考えたんだ。
ところが、日本は満州を手に入れただけでは満足できません。
日本は満州だけでは飽き足らず、満州の南に位置する華北地方を次のターゲットに定めたのです。
そして、華北地方を中国から分離させるために施された日本によるさまざまな工作活動のことを華北分離工作と言います。
華北分離工作が行われた時代背景
1933年、満州事変の停戦協定である塘沽協定が日本と中国の軍部の間に結ばれました。
ここから先の話は、満州事変の話をある程度知っていることが前提になるよ。
満州事変についてよくわからないって方はまず満州事変の記事を読んでみてくださいね!
塘沽協定では、満州国と中国の国境付近で争いが起こらぬよう、次のことが約束されます。
日本軍は、万里の長城より南に軍を置かない
中国軍は、昌平(今の北京市北部)から寧河(今の天津市北部)ラインより北に軍を置かない
塘沽協定の結果、満州国と中国の間には、日本軍も中国軍もいない中立地帯ができることになりました。
下の地図の色がついている部分です。
この中立地帯とその周辺地域(察哈爾・綏遠・河北・山西・山東の5省)をまとめて華北と言います。
華北の場所は、下の地図を参考にしてみてください!
ちなみに、塘沽協定で決められた中立地帯は河北省の東側に位置しています。
協定の上では中立と定められた地域ですが、実際のところは、日本軍と中国軍の小競り合いが絶えませんでした。
そこで日本は中立地域を平定するため、華北地方を中国から分離させて満州国に続く第二の傀儡国家を建国することを考えました。
こうして行われたのが華北分離工作です。
こうした外交上の理由以外には、華北には鉄や石炭などの資源が豊富だったという事情もあるよ。
満州を拠点にソ連と戦うのなら、資源の豊富な地域は絶対に抑えておきたい場所ですからね!
華北分離工作の経過
一方の中国は、華北の分離には反対しつつも、「華北地方の争いを終わらせたい!」という点では日本と利害が一致したため、外交交渉によって状況を打開しようと考えました。
1935年1月、当時外務大臣だった広田弘毅も蒋介石との外交交渉に応じましたが、陸軍がこれに大反対しました。
蒋介石が「日本と中国は経済連携すべき!」と、日本による華北地方の支配を認めず、あくまで経済連携という話で交渉をまとめ上げようとしていたことに不満があったのです。
華北は絶対に日本が手に入れないとダメ!!外交で中途半端なことをするのなら、いっそ実力行使で華北を支配すべきだ!
そこで陸軍は、外務省を無視して独自に華北分離工作を進める方針を決め、露骨な行動を採るようになります。
1935年5月、河北省で親日派の新聞社社長が殺害される事件が起こると、陸軍は北京の軍事責任者に対して、河北省からの軍の撤退を約束させ、
6月には、チャハル省で4名の日本軍が中国軍に捉えられる事件が発生すると、次はチャハル省の責任者に対して、チャハル省からの軍の撤退を約束させました。
河北省・チャハル省の掌握が目前に迫ると、陸軍は次の一手に着手し始めます。
冀東防共自治政府
河北とチャハルから中国軍を追い出した陸軍は、1935年11月、中立地帯に冀東防共自治委員会(12月からは冀東防共自治政府)という新政府を樹立しました。
「冀」は河北省の別名です。
『冀』の『東』部に樹立した『共』産主義の侵食を『防』ぐための『自治政府』で、冀東防共自治政府です!
政府の代表者は、関東軍の言いなりだった殷汝耕という人物。
陸軍の狙いはもちろん、冀東防共自治政府を足掛かりにして、先ほど紹介したような華北一帯に日本の傀儡国家を作り上げることです。
しかし、中国(国民政府)も負けじと対抗策を打ってきます。
1935年12月、中国は冀東防共自治政府のとなりに新たに冀察政務委員会という新政府を樹立させ、あえてチャハル省と河北省を手放すことにしたのです。
冀察政務委員会は、日本に難癖をつけられないよう、日本人の軍事顧問を招いたりして、表向きは親日政府でした。
こうなっては、日本が河北・チャハルに進出する大義名分は失われてしまします。
中国は、日本に奪われる前に河北・チャハルを他の第三者に明け渡してしまうことで、日本の計画を邪魔しようとしたのです。肉を切らせて骨を断つ、まさに苦肉の策です。
当初は外交での解決を目指した日本政府でしたが、こうした陸軍の暴走を止めることができません。
陸軍の圧力を受けた日本政府は1936年1月、陸軍による華北分離工作を公式に認めます。
つまり、華北分離工作は、陸軍の独断行動から政府公認の国策へと昇格したのです。
さらに1936年2月、ニ・二六事件が起こると、当時首相だった岡田啓介は、政権運営の自信を喪失して内閣を解散。
3月に広田弘毅が新たに首相になると、広田内閣は陸軍の要求を次々と認め、華北分離工作に割く軍人を大幅増員しました。
こうして1936年以降、華北分離工作はますます本格化していくことになります。
華北分離工作の結果
華北分離工作が本格化した結果どうなったかと言うと・・・、華北分離工作は失敗しました。
なぜかというと、日本が強硬な手段で中国を支配しようとすればするほど、中国で反日運動が激化するようになったからです。
当初、蒋介石は日本が強硬策を採るようになっても、中国共産党との戦いを優先して、あくまで日本と友好的な関係を保とうと考えていました。
・・・が、国民政府の中には、蒋介石の方針に反対し、反日運動を支持する者も増えていきます。
そして1936年12月、事件は起こりました。国民政府を裏切った張学良という人物が、蒋介石を監禁したのです・・・!(西安事件)
張学良は、蒋介石に対して中国共産党とタッグを組んで日本に抵抗することを主張。
日本との話し合いの道を探っていた蒋介石も、ついに心変わりし、中国共産党と協力することを決めます。
こうして分裂していた中国が1つになり、中国では反日運動がますます激化する結果となりました。
その後、1937年の盧溝橋事をきっかけに日本軍が中国へ軍事侵攻を開始すると、国民政府と中国共産党はタッグを組んでこれに抗戦(第二次国共合作)。日中戦争が始まります。
さらに、これに呼応して冀東防共自治政府が中国側に寝返ったことで、華北分離工作の失敗が確定的となり、日本と中国の戦争は泥沼の長期戦に突入していくことになります。
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