今回は、1932年5月に起きたテロ事件、五・一五事件についてわかりやすく丁寧に解説していくよ!
五・一五事件とは?
五・一五事件とは、1932年5月15日に首相の犬養毅が海軍の青年将校に殺害されたテロ事件のことを言います。
5月15日に起こった事件だから五・一五事件って呼ばれているんだ。
ちなみに、青年将校っていうのは、軍人の中でも若手の中堅職のことを言います。
五・一五事件が起きた時代背景
さっそくですが、海軍の青年将校はなぜ首相を暗殺したのでしょうか。
・・・それは、その青年将校が政府に対して強い不満を持っていたからです。
海軍の青年将校は、何に対して不満を抱いていたの?
暗殺するぐらいだから相当な不満なはずだよね。
海軍の中には、政府の外交政策に強い不満を持っている人がたくさんいたんだ。
まずは、そのあたりの話を詳しく解説していくよ!
具体的にどんな政策に不満を持っていたかというと、1930年に政府がロンドン海軍軍縮条約を結び、海軍の意向を無視して軍縮を決めてしまったことでした。
海軍の一部の人たちは、この政府のやり方に強い不満を抱き、当時野党だった立憲政友会と協力して、次のように政府を批判します。
大日本帝国憲法では、『陸海軍の統帥権(指揮・監督の権限)は天皇にある』と書かれているのに、政府が勝手に軍縮を決めたの明らかな憲法違反だ!!
当時、立憲政友会のトップだった犬養毅も、次のような発言をして政府を批判しています。
海軍は、『軍の規模を縮小したら、国家を守ることができない』と言っている。専門家(海軍)の意見を軽んじるようでは、安全な国防は不可能だ。
※立憲政友会は、与党の立憲民政党から政権を奪取するため、海軍の不満分子と協力して政府を攻撃したのです。
この統帥権をめぐる問題は、統帥権の干犯問題と呼ばれています。
ところが政府は批判を無視して、1930年10月に条約の批准を完了。すると翌月(11月)には、当時首相だった浜口雄幸が、政府の対応にブチギレた右翼団体の青年によって狙撃される暗殺未遂事件が起こります。
五・一五事件が起こる前から似たような事件がすでに起こっていたんだね・・・。
怒涛のテロラッシュ
当時の日本の政治は、立憲政友会と立憲改進党の2大政党が交代して政治を担う憲政の常道と呼ばれる政党政治が行われていました。
陸海軍の一部の人々や右翼団体たちは、国家改造運動を実現するため、この政党政治の仕組みぶっ壊して、新政権樹立を考えるようになります。
こうして起きたのが、1931年の3月と10月に起きたクーデター未遂事件、三月事件と十月事件です
この2つの計画は、陸軍の一部といくつかの右翼団体によって企てられましたが、陸軍内部でテロ計画が漏れてしまい、いずれも失敗に終わります。
この両方に参加していた右翼団体の1つに血盟団という組織がありました。血盟団は、三月・十月事件の失敗から、次は陸軍に頼らない新たなクーデター計画を企てます。
この時、血盟団が陸軍に代わる協力者として接近したのが、海軍でした。
海軍の中には、国家改造運動を目指して活動する王師会と呼ばれる組織があって、血盟団は王師会と連携してクーデターを起こそうと考えたのです。
クーデターを起こすには兵力が必要になるから、海軍の協力はとても重要だったんだ。
1932年1月、クーデターの決行日が2月11日に決まりますが、1月末になって王師会のメンバーが仕事で急遽上海に行くこととなり、当初の計画が不可能に。
※海軍は、1月28日に起きた第一次上海事変に対応するため兵として上海に送り込まれました。
そこでクーデター計画は、メンバー各々が担当する殺害ターゲットを決めて、各自が一人一殺で殺せる人物から順番に消していくことにしました。これなら、大規模な兵力を集める必要もありませんからね。
計画は、海軍組が戻ってくるまでは血盟団がテロを行い、その後は帰国した海軍組がバトンタッチでテロを継続する2段構えの計画とすることが決まります。
1932年2月〜3月、計画の第一弾として血盟団がテロを開始。2名の暗殺に成功しますが、その後、警察によって関係者が一網打尽に捕らえられ、このクーデター計画も失敗に終わります。(血盟団事件)
血盟団が捕らえられたことで、海軍組の出番はないまま血盟団事件は終わってしまいました。しかし、これでは海軍組は不完全燃焼です。
血盟団が捕らえられたおかげで、俺たちの出番がなくなっちまった・・・。
こうなったら、次は俺たちだけでもクーデターを続行してやんよ!!
こうして、海軍の青年将校の主導によって起きたのが五・一五事件でした。
五・一五事件の計画
上海から戻った海軍組は、警察から逃れた血盟団の残党などの協力も得て、再びクーデター計画を企てます。(これが五・一五事件となります。)
計画内容は、数回の変更を重ねた結果、最終的に以下のように決まりました。
1932年5月当時の首相って犬養毅だよね?
さっき、犬養毅は海軍と一緒にロンドン海軍軍縮条約に反対したって話があったけど、それなら海軍が首相官邸を襲撃する理由はないのでは・・・??
そのとおり。過去の犬養毅の言動を見ると、実はそこまで海軍に恨まれるような人物ではありません。
しかし、五・一五事件を起こした海軍の青年将校たちは、単純に政府=悪としか考えていなくて、そこまでのことは考えていませんでした。
犬養毅は立憲政友会が野党だった頃に、政府が統帥権を干犯したことを海軍と一緒に批判していましたが、「軍部は天皇直属の組織だから、政府の言うことは聞く必要ないし政府に対して何をしてもOK」というまさに統帥権干犯の理論によって、犬養毅も五・十五事件のターゲットにされてしまったんだ。なんとも皮肉な話だよね・・・。
五・一五事件
1932年5月15日、その日、犬養毅は来日していたチャップリンと会うため、首相官邸にいました。
ここに海軍の青年将校たちが表門と裏門の両方から突撃を開始。手当たり次第に部屋を開けて、犬養毅を探します。
犬養はちょうど食堂で家族と食事をとっていて、これを発見した青年将校の三上卓は、犬養毅に発砲するも銃弾を使い切ってしまい、犬養を殺すことができません。
胸にピストルを突きつけられながらも、落ち着いた様子で犬養はこう言います。
お前たち、何を騒ぐか。まぁ、話せばわかる。
こう言って、三上を客の間に案内すると、土足で上がろうとするこう言って三上を叱りました。
他人の家に土足で上がるとはなにごとだ!!
靴のことなどどうでもよい!
我々が何をしにきたかわかるだろう。何か言いたいことがあれば言え!
こうして話し合いが始まろうとしていた矢先、もう一人の青年将校が叫びます。
問答無用だ!撃て!
三発の銃弾が犬養毅を直撃。犬養毅が倒れ込むと、青年将校たちは最終ターゲットである警視庁へと向かっていきました。
・・・が、犬養毅は即死には至らず存命。
今の若い者をもう一度呼んでこい、わかるように話してやる。
9発も打って3発しか当たらないようでは、軍の訓練もダメではないか。
こう周囲の人たちに話しますが、5月15日23時26分、犬養毅は命を落としました。
4か所の襲撃ターゲットのうち、襲撃に成功したのは犬養毅のみ。
内大臣の暗殺は失敗に終わり、立憲政友会の本部は日曜日だったため人がおらず、三菱銀行は外壁に少しの損傷を与えただけに終わりました。
さらに最終決戦の予定だった警視庁への襲撃は、集合時間も決められていないほど杜撰な計画で手榴弾による小さな損害のみにとどまり、変電所を襲って東京を暗闇にする作戦も失敗しました。
・・・つまり、首相官邸の襲撃以外はすベて失敗したということです。
五・十五事件は、国家改造が目的なのに要人を殺害する計画しかなくて、その後のことはノープランというそもそもが不完全な計画だったので、失敗は仕方なしといった感じです。
五・十五事件は、本気の国家改造を目指したというよりも、青年将校たちの日本を憂う気持ちが爆発して、計画よりも行動が先行して起こった側面が強かったんだ。
五・一五事件の事後処理
五・一五事件の首謀者たちは、最初から警視庁での最終決戦を終えた後、自首するつもりだったため、多くの者が自首し、他の関係者も次々と逮捕・自主し、事件は終わりました。
ただ、首謀者への処分は、首相を殺害したにもかかわらず、とてつもなく軽い刑のみで済まされてしまいます。
主犯格の者は禁錮15年、他の関係者は禁錮4〜13年程度の刑で終わりました。
五・一五事件は、「首相を殺しても軽い刑で済む」という前例を作ってしまい、これが1936年に起こる二・二六事件の遠因になったとも言われているよ。
五・一五事件が日本の政治に与えた影響
失敗に終わった五・一五事件ですが、実は日本の政治に大きな影響を与えることになります。
というのも、立憲政友会&立憲民政党が交互に政権を担う政党政治「憲政の常道」が終わりを迎えることになったからです。
犬養毅の次の首相に選ばれたのは、政党出身者ではなく、海軍大臣の斎藤実という人物でした。
憲政の常道には、立憲政友会&立憲民政党が交互に政権を担う(暗黙の)ルールがありましたが、このルールには若干の例外があります。
その例外の1つが『病や不慮の事故、暗殺などで首相が亡くなったときは政権交代はせず、同じ政党の後継者が首相を担う』というものです。
もし「首相が亡くなった時も政権交代してOK」というルールだとしたら、野党は首相を暗殺すれば政権を奪取できる・・・ということになるので、必要不可欠な例外だったんだ。
※憲政の常道の詳細は、以下の記事も合わせて読んでみてくださいね!
この例外ルールを適用すれば、次の首相は立憲政友会から選ぶはずでしたが、そもそも陸海軍には政党政治に反対する声が根強く残っていました。
そこで政府の重鎮たちは、これまでの陸海軍が関与していたテロラッシュも考慮して、陸海軍が納得し、かつ陸海軍をコントロールできる人物として斎藤実を抜擢したのです。
政党政治というのは、議会で最も議席数を持つ政党(与党)が政権を担う仕組みです。専門用語で言えば議会制民主主義が採用されていたのです。
しかし、五・一五事件によってこの政党政治が終わりました。政府は、国民の声よりも陸海軍の暴走を恐れて、軍部の意向を重視するようになったからです。
五・一五事件以降、テロ事件はめっきり少なくなります。なぜかというと、政党政治が終わったことで、テロを起こさなくとも政府が軍部の言うことに従うようになっていったからです。
五・一五事件は、当初の計画には失敗したものの、結果的に国家改造運動の目的である「無能な政党を政治から排除する」という点では成功を収め、日本が軍国主義に染まっていく大きな転機となっていったのです。
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