今回は、1928年に中国で起こった済南事件について、わかりやすく丁寧に解説していくよ。
済南事件とは
済南事件とは、1928年に日本軍が中国の済南市を占領した事件のことを言います。
1928年当時、中国は、中国国民党VS北京政府による内紛が続いていました。
日本は、北京政府と「北京政府は日本が満州にいろんな特権(権益)を持つことを認めるよ!」という約束をしていたので、その北京政府が敗北しないように、山東半島に出兵して何かあれば北京政府を支援するつもりでした。
そして、国民革命軍が済南を占領した際に、日本軍との間にトラブルが起こり、日本軍が済南を占領した事件が済南事件です。
済南事件の詳しい経緯は、以下の山東出兵の記事に詳しく書いてあるので、合わせて読んでみてくださいね。
済南事件が起こった背景
話は、済南事件が起こった一年前(1927年)にさかのぼります。
1927年3月、南京を占領した国民革命軍が、日本人を含むイギリス人などの外国人に暴行を加える事件が起こります。
これにアメリカやイギリスなどが大激怒。
私は、中国の内政に直接干渉することを避けていたが、我が国民に危険が及ぶというのなら、話は別だ。
中国に住むアメリカ国民を守るため、そして、同じようなことが起こらぬよう中国に圧力をかけるため、他の列強国とも協力して中国に軍を送り込み、
当時、中国に関しては「他国が中国の政治・領土を支配するのは禁止な!」という九カ国条約(1922年)が適用されていました。
なので、日本国内には「内紛で北京政府が負けないよう、日本も支援すべきなんじゃねーの?」という意見がありながらも、表立って行動に移すことはありませんでした。
ところが、南京の事件で列強国たちがブチギレたことで状況が一転。日本に対して、列強国から「中国を脅すために、一緒に軍隊を送りこもうぜ!」との誘いがあったのです。
1927年5月、日本は、この誘いを口実にして、山東半島への出兵を決めました。(山東出兵)
日本も、中国の内紛から日本人を守るために軍を送りこむぞ!
というのは表向きの理由で、日本は裏では・・・
もし北京政府が劣勢になったら、送り込んだ軍を使って北京政府を支援しよう・・・!
と考えていました。
1928年になると、内紛は激化。国民革命軍は、南京を拠点として、北京を目指して次々と北上していきます。
日本は、北京と南京のちょうど中間に位置する山東省に兵を送り込み、山東省の省都である済南に軍を集めます。
山東省は、日本人が多く住み、かつ、地理的に北京を目指す国民革命軍がほぼ確実に通るルートでした。
つまり、「日本人を守る!」という口実で国民革命軍を妨害するには、都合の良い場所だったのです。
参考までに北京・南京・済南の場所を掲載しておきます↓↓
済南事件、起こる
北京政府は破竹の勢いで北上する国民革命軍を止めることができず、1928年5月1日には済南が制圧されてしまいます。
5月2日になると、国民革命軍のリーダーだった蒋介石は、日本軍に対して兵を引くよう要望します。
済南の治安は国民革命軍が責任を持って維持する。
だから、日本には兵を引いてもらいたいのだが・・・。
しかし、日本は蒋介石の要望を黙殺。さらに翌日の5月3日には、国民革命軍と日本軍の間でトラブルが起こり、日本兵が中国兵を射殺してしまいます。
なぜトラブルが起こったのか、原因は今でもわかっていません。わかっているのは、日本と中国で言い分が真っ向から対立したということです。
国民革命軍の兵が、済南の日本人に暴行を加えた!
日本兵は、日本人を助けるため、中国兵を射殺したのだ。悪いのは中国だろ。
と主張する日本に対して、中国は「日本兵と中国兵との間で言い争いが起こり、その場で日本兵が中国兵を射殺した!最初に手を出したのは日本だろ!!」と主張します。
その後も小競り合いが続くと、日本軍との意味のない戦いを嫌った蒋介石は5月6日に済南を脱出。大部分の兵を済南から引き上げ、本来の目的である北京を目指します。
一方の日本軍は、5月5日に惨殺された9人の見るに耐えない日本人遺体を発見。日本軍は、これにブチギレて、済南にわずかに残っている国民革命軍へ攻撃をすることを決定します。
日本軍は済南城を包囲。5月10日〜11日にかけて済南城の制圧に成功します。
国民革命軍の敵は北京政府であって、日本ではありません。
済南城の国民革命軍に徹底抗戦の意思はなく、日本軍は激しい抵抗にあうこともなく、わずか2日で済南城を制圧できてしまいました。
済南事件の結果
済南事件の結果、済南に住む日本の民間人12名が亡くなり、軍人には26名の死者が出ました。
一方の中国側は2,000名を超える死者がいたと言われています。
※死者数については諸説あるので、あくまで目安程度だと考えてください。
この結果だけ見ると、日本の「自国民の保護を口実にして、国民革命軍を攻撃し、北京政府を支援する。」という目的は達成したように見えます。
しかし、日本軍が済南を占領したぐらいでは、破竹の勢いだった国民革命軍を止めることはできません。
日本軍がいる済南を迂回して北上を続けた国民革命軍は、1928年6月、北京政府を制圧。北京政府は敗北することになります。
中国の情勢が大きく変わると、日本はすぐさま国民革命軍のトップである蒋介石と交渉を行い、「日本が満州に権益を持つことを」を認めさせました。
済南事件の結果をまとめると、こんな感じになります↓
北京政府を支援するため、国民革命軍の進軍を妨害することはできたものの、肝心の北京政府が敗北。
済南事件そのものは微妙な結果に終わってしまったけど、北京政府を制圧した国民革命軍との交渉によって、ひとまず満州の権益維持には成功する。
済南事件が日本に与えた影響
日本としては、済南事件の結果がどうあれ、日本が持つ満州の権益が維持できたので、ひとまず結果オーライという感じでした。
しかし、済南事件は、日本に深刻な副作用をもたらしました。その副作用とは、中国での反日感情の高まりです。
もともと、中国で最も嫌われていた国はイギリスでした。なんせイギリスは、アヘン戦争で黒歴史を作った元凶で、その後も数百年にわたり中国に干渉し続けていますからね。
しかし、1910年代に入って日本が中国に露骨な圧力をかけるようになると、1919年に起こった五・四運動を筆頭に中国での反日感情が高まっていきます。
そして、今回の山東出兵による中国への内政干渉、そして多くの死者を出した済南事件を通して、中国人はイギリスに劣らぬ反日感情を抱くようになってしまいました。
おまけに、済南事件で進軍を妨害された蒋介石が、日本に強い不信感を抱くようになります。蒋介石は北京政府を倒して中国の覇者となっていたので、中国のトップからの信用も失ったということです。
※蒋介石は中国統一を果たしましたが、その後すぐに新しい内乱が起こり、統一は短命に終わっています。
さらに日本は、北京政府が敗北した後、満州の権力者だった張作霖を殺害。満州に日本の言いなりになってくれそうな権力者を擁立しようとしますが、これもまた満州の人々の強い反感を買う結果となりました。
こうした反日感情の高まりは、日本の満州支配にも無視できない影響を与えました。(反日感情が高まると、日本に逆らう人が増えて、支配が難しくなる)
これは結果論ではありますが、国民革命軍が北京政府を倒してしまったことで済南事件の効果はほとんどなく、かえって反日感情を高めるだけの結果となりました。
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