今回は、日中戦争の際に中国の後方支援ルートになった援蒋ルートについて、わかりやすく丁寧に解説するよ!
援蒋ルートとは
援蒋ルートとは、日中戦争(1937年〜)で日本と戦っていた中国に支援物資を送るための支援ルートのことです。
当時の中国政府のトップは蒋介石。その『蒋』介石を支『援』するためのルートということで援蒋ルートと呼ばれています。
援蒋ルートを通じて中国を支援したのは、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連などでした。
援蒋ルートからの支援を受けた中国はとても手強く、日本は想定外の苦戦を強いられ、日中戦争は終わりの見えない泥沼の長期戦に突入していくことになりました・・・。
援蒋ルートができた時代背景
イギリス・アメリカ・フランス・ソ連は、なぜ中国を支援したの?
その理由は、もし日本が日中戦争に勝ってしまったら、日本が中国を支配して強大な力を手に入れてしまうからです。
日本が強くなることは、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連にとって、どうしても避けたいことでした。
ソ連の事情
ソ連は、日本と国境を接していて、たびたび日本と小競り合いを繰り返していました。(ノモンハン事件のような大規模な戦闘もありました。)
そんな日本が中国を支配してパワーアップすることは、ソ連にとって相当な脅威でした。
イギリス・アメリカ・フランスの事情
イギリス・アメリカ・フランスが恐れていたのは、日本が中国を支配して強くなると、東南アジアの植民地統治に悪影響が生じる可能性でした。
要するに、自分たちの支配地を守るためにも、日本がこれ以上強くなることは避けたかったんだね。
3つの援蒋ルート
中国に勝ってほしいと考えていたイギリス・アメリカ・フランス・ソ連ですが、中国の味方として日中戦争に参戦することはありませんでした。
理由は2つあります。
理由その1:東アジア最強の国である日本と戦いたくない
理由その2:ヨーロッパでは1939年に第二次世界大戦が起こっていて、日本と戦う余力がない
そこでイギリスたちは、日本と戦う中国の後方支援に徹することにしました。
その後方支援ルートこそが援蒋ルートなのですが、援蒋ルートには主に3つのルートがありました。
ルートその1:ビルマ→重慶の『ビルマルート』
ルートその2:フランス領インドシナ→重慶の『仏印ルート』
※仏印:フランス領インドシナの漢字による表現
ルートその3:ソ連→重慶の『ソ連ルート』
・・・ん、いきなり出てきた重慶ってどこのことなのかしら?
重慶は、当時の中国の首都だよ。
場所は、下の地図で確認してみてくださいね。
ビルマルート・フランス領インドシナルート・ソ連ルートを地図で表すとこんな感じになります。
【悲報】日本、中国に勝てない
3つの援蒋ルートから支援を受けた中国はかなり手強く、日本は中国に勝つことができません。
単純な軍事力では日本の方が上でしたが、倒しても倒しても中国はすぐに体制を立て直してくるため、中国を倒しきることができなかったのです。
RPGゲーム風に言えば、中国は背後から回復呪文を受け続けながら戦っているイメージです。そりゃ簡単には倒せません。
日本は当初、日中戦争は早期に終わるはずだと考えていました。
なぜなら、日本の方が軍事力が上で中国もそれをわかってるから、中国はすぐに降参してくるだろう・・・と予想していたからです。
ところが、援蒋ルートが登場によって日本の予想は完全に狂いました。
援蒋ルートによる支援を受けた中国は、降参どころか徹底抗戦の構えを見せ、戦争は長期化。
日中戦争は終わりの見えない消耗戦へと突入していき、日本も国力を総動員する必要に迫られるようになりました。
ちなみに、日中戦争が総力戦になることを想定して1938年に定められた法律が国家総動員法だよ!
日本の援蒋ルート対策
日本は長期戦になってしまった日中戦争を外交によって終わらせようと考え、中国に対して和平工作(汪兆銘工作)を仕掛けました・・・が、この和平交渉は1939年に失敗。
戦争継続を強いられた日本は、次第に援蒋ルートの封鎖を考えるようになります。
中国をいくら攻撃しても、援蒋ルートを通じてあっという間に回復されてしまう・・・。
中国を倒すには、援蒋ルートの封鎖が重要になってくるだろう。
ただ、援蒋ルートの封鎖には反対の声もありました。
なぜなら、援蒋ルートに手を出すということは、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連に対して喧嘩を売ることを意味しているからです。
中国の相手だけでも精一杯なのに、イギリスやらアメリカが本格参戦してきたら日本に勝つ目はない。援蒋ルートに手を出すのは悪手だよなぁ・・・。
1939年9月、そんな日本に好機が訪れます。
ドイツがポーランドへ侵攻して、これにブチギレしたイギリス・フランスがドイツに対して宣戦布告。第二次世界大戦が始まったのです。
ドイツは破竹の勢いで敵を蹴散らし続け、1940年5月にはフランスがドイツに敗北しました。
もしかして、ドイツと協力してフランス・イギリスと戦えば、援蒋ルートを封鎖することができるのでは・・・?
1939年9月、フランスがドイツに敗北した隙を狙って、フランス領インドシナの北部へ進軍(北部仏印進駐)。援蒋ルートのうち仏印ルートの封鎖に成功すると、それと同時並行で日本はドイツ・イタリアと日独伊三国同盟を結びました。
さらに1941年になると、ソ連ルートも自然消滅します。
1941年6月、ソ連がドイツからの攻撃を受けると、ドイツVSソ連のガチンコ勝負(独ソ戦)が始まったからです。
ドイツとの戦いで手一杯になったソ連は、中国への支援をやめてしまい、ソ連ルートは消滅することになりました。
ソ連が中国への支援をやめた背景には、日本を刺激したくないという事情もありました。
もしドイツに兵力を割いている間に日本がソ連に攻め込んできたら、ソ連は挟み撃ちされることになります。(しかもドイツと日本は同盟を結んでいた!)
最悪の事態を避けるため、ソ連は中国への支援を中止したのです。
ビルマルート阻止→太平洋戦争
さて、こうして残った最後の援蒋ルートは、ビルマルートのみになりました。
ビルマルートを潰せば、中国は支援を絶たれることになり、日本に勝機が見えてきます。
・・・が、ビルマルートの封鎖は容易なことではありません。なぜなら、イギリスの背後にはアメリカが付いているので、ビルマルートを封鎖するにはイギリス・アメリカの両方を相手にしなければならないからです。
日本はビルマルートを封鎖すべきかどうか悩んでいましたが、日本は否応なしにイギリス・アメリカとの戦争へ突入していくことになります。
1941年7月、日本がフランス領インドシナ南部に進軍(南部仏印進駐)すると、これにブチギレたアメリカが日本への経済制裁を強化したのです。
アメリカは、経済制裁強化のために、日本への石油の輸出を禁止。この経済制裁によって、日本は自力で石油を調達する必要性に迫られました。
日中戦争が始まってから、アメリカは少しずつ日本への経済制裁を強めていたんだけど、南部仏印進駐をきっかけに重要資源である石油の輸出禁止を決めたんだ。
日本の東南アジアへの侵攻は、東南アジアの植民地支配を脅かす行為であって、断じてこれを許すことができなかったんだね。
この時に日本が計画したのが「東南アジアの植民地を奪って、そこから石油ゲットすればよくね?」っていう作戦でした。
ちょうど、インドネシア(オランダ植民地)に豊富な石油資源が眠っていたため、日本はインドネシアにターゲットを合わせます。
しかし、この作戦には問題もありました。もし、インドネシアを支配できたとしても、イギリス領のビルマ・マレー半島と、アメリカ領フィリピンから攻撃を受けて、支配を維持するのが困難だったのです。
そこで日本は、イギリス・アメリカに先制攻撃を仕掛ける電撃作戦を立案します。
この作戦が実行されたのは1941年12月。
アメリカにはハワイ真珠湾への奇襲攻撃(真珠湾攻撃)を仕掛け、
イギリスに対してはマレー半島へ侵攻を開始しました。
その勢いに乗じて1942年3月にはインドネシアを含む東南アジア一帯の占領に成功。
ビルマを占領下に置くと、最後に残った援蒋ルート「ビルマルート」の封鎖にも成功しました。
あとは、インドネシアを安定支配できれば石油確保作戦は成功・・・ですが、ここから先はうまくいきませんでした。
なぜかというと、パールハーバーをきっかけに、アメリカと日本による戦争(太平洋戦争)が始まって、日本は1945年に敗北することになるからです。
ここまでの話をまとめます↓
援蒋ルートの封鎖は、日中戦争に勝利することが目的でした。しかし、援蒋ルートの封鎖は、日本が東南アジアへ侵攻するきっかけとなり、これに反発したアメリカとの太平洋戦争へと発展していったんだ。
援蒋ルートの存在は、太平洋戦争のきっかけを生んだという意味で、当時の歴史を語る上では絶対知っておかなければいけません。(だから教科書にも載っています!)
コメント