ミッドウェー海戦を簡単にわかりやすく解説【敗因は何?空母4隻を失い日本大敗!】

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ミッドウェー海戦
もぐたろう
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今回は、1942年6月に起きたミッドウェー海戦について、わかりやすく丁寧に解説していくね!

この記事を読んでわかること
  • ミッドウェー海戦ってどんな戦いだったの?
  • ミッドウェー海戦はなぜ起きたの?
  • ミッドウェー海戦の経過は?
  • ミッドウェー海戦は太平洋戦争の戦局にどんな影響を与えたの?
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ミッドウェー海戦とは

ミッドウェー海戦とは、1942年6月にミッドウェー島をめぐる日本VSアメリカの戦いです。

ミッドウェー島の場所は下の地図の赤いマークのところ

ミッドウェー島は、ハワイと日本の間に位置する島であり、アメリカから見ればハワイ防衛の重要拠点でした。

日本は1941年12月、真珠湾攻撃でハワイに大ダメージを与えましたが、アメリカにさらなる大打撃を与えるために計画されたのがミッドウェー海戦です。

・・・先に結論を言っておくと、ミッドウェー海戦は日本の大敗に終わり、その後日本の軍事作戦に大きな影響を与えました。

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ミッドウェー海戦が起こるまでの戦況

まずは、ミッドウェー海戦当時の太平洋戦争の戦況を確認しておきます。

日本は1941年12月、東南アジアから列強勢力を掃討そうとうするため、イギリス・アメリカに対して戦争を仕掛けました。(太平洋戦争)

アメリカに対しては、ハワイ州のパールハーバーへの奇襲攻撃真珠湾攻撃

イギリスに対しては、植民地のマレー半島(今のマレーシア)へ奇襲攻撃

を開始します。

真珠湾攻撃による大ダメージでアメリカが動けなくなった隙に、東南アジア一帯を占領する・・・というのが日本の作戦でした。この作戦は「南方作戦」または「第一段作戦」と呼ばれています。

・・・、南方作戦は大成功に終わりました。

1942年3月、日本の最終目標だったオランダ領のジャワ島を制圧。

まだまだ余力を残していた日本は、ビルマ(今のミャンマー)やニューギニア島の攻略にも着手し、これも順調に進みます。

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第二段作戦

南方作戦を大成功で終えた日本は、1942年4月、新たな軍事作戦(第二段作戦)をくわだてます。

第二段作戦の目的は、南方作戦で手に入れた広大な占領地(大東亜共栄圏)を守り抜くことでした。

想定以上に勝ちすぎて、占領地域が広くなりすぎてしまった。手に入れた支配地をどうやって守り抜けばいいんだろう・・・。

日本は、大東亜共栄圏の防衛のため、大きく3方面での軍事作戦を計画します。

MO作戦・FS作戦

日本は、オーストラリアとアメリカの連携を遮断するため、

ニューギニア島の未占領都市だったポートモレスビー

フィジー島・サモア島・ニューカレドニア島と周辺の島々

の攻略を計画しました。

日本では、ポートモレスビー攻略作戦のことをMO作戦、フィジー・サモア・ニューカレドニア攻略作戦のことをFS作戦と呼びました。

※名前の由来は、ポートモレスビーの「モ」を採ってMO作戦フィジー(Fiji)の「F」とサモア(Samoa)の「S」を採ってFS作戦と名付けられました。

AL作戦

ソ連とアメリカの連携を遮断するため、アラスカ州のアリューシャン列島攻略を計画します。

この作戦を、アリューシャン列島(Aleutian Islands)のイニシャルを採ってAL作戦と名付けました

もぐたろう
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日本は、アメリカ軍がソ連と連携して、アリューシャン列島→シベリア経由で満州国や日本に侵攻してくることを警戒したのです。

MI作戦

3方面のうち、ラスト1つがこの記事の本題であるミッドウェー島の攻略です。

発案したのは、真珠湾攻撃の立案者でもあった海軍大将の山本五十六やまもといそろく

真珠湾攻撃は、戦火だけ見れば大成功に見えますが、実は『アメリカの太平洋艦隊を壊滅させる』という本来の目的には失敗していました。

山本五十六
山本五十六

真珠湾攻撃では、アメリカの空母の破壊に失敗している。

空母がある限り、日本はアメリカの航空部隊からの攻撃に怯え続けないといけない・・・。

そこで、ミッドウェー島に攻め込んで、迎撃にやってきたアメリカ空母を破壊するために計画されたのが、ミッドウェー(Midway)のイニシャルを採ったMI作戦でした。

これらの作戦のスケジュールはこんな感じでした。

第二段作戦のスケジュール
  • 1942年5月
    MO作戦
  • 1942年6月
    MI作戦・AL作戦
  • 1942年7月
    FS作戦
もぐたろう
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MI作戦とAL作戦はセットで計画されました。

ミッドウェー島に攻め込んだだけではアメリカが空母を出動しない可能性があったので、AL作戦と組み合わせることで空母をおびき出しやすくなるだろう・・・と考えたんだ。

それぞれの作戦の地理関係は、次のような感じです。太平洋を南北に横断する大規模な作戦であることがわかります。

赤色がMO作戦、黄色がFS作戦、青色がMI作戦、緑色がAL作戦です。

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ミッドウェー海戦が起こるまで

第二段階作戦が決まって、MI作戦が決行されるまでの間(1942年4月〜5月)に大きな出来事が2つありました。

ドーリットル空襲

ドーリットル空襲のため発進するアメリカ爆撃機
日本に向けて発進しているアメリカの爆撃機

1942年4月18日、太平洋上のアメリカ空母から発進した爆撃機が捨て身覚悟で日本各地を空襲します。

やっぱりアメリカに空母があるかぎり、日本本土もアメリカの射程圏内なんだ・・・。なんとかして空母をやっつけないと!!

空母の恐ろしさを再認識した日本は、各種作戦の中でもMI作戦の重要度を一気に高めました。

MO作戦、失敗する。

1942年5月4日〜8日、ポートモレスビー付近で日本VSアメリカの海戦が始まりました。(珊瑚海さんごかい海戦)

日本は敗北こそしなかったものの、空母1隻、航空機約100機を失う大損害を被ります。

MO作戦は延期を余儀なくされ、損傷した空母や航空機の中には、MI作戦の戦力として用いる予定のものもありました。

つまり、MI作戦に使える戦力が当初の想定よりも減ってしまったわけです。

もぐたろう
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軍部の中には、MI作戦を延期する声もあったけど、山本五十六は延期をかたくなに拒否し、MI作戦は強行されることになりました。

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ミッドウェー海戦、始まる

1942年5月下旬、MI作戦のため広島とサイパンから艦隊が出陣。

6月5日午前1時30分、艦隊がミッドウェー島に近づくと、空母から約100機の航空機がミッドウェー空襲部隊として発進。

この空襲部隊を率いたのは、南雲忠一なぐもちゅういちを司令官とする第一航空艦隊。

※南雲は真珠湾攻撃でも司令官を務めた人物です。

午前3時頃から、ミッドウェー島のアメリカ基地の攻撃が始まります。

攻撃を受けているミッドウェー基地
攻撃を受けているミッドウェー基地

MI作戦は、真珠湾攻撃と同じく奇襲を前提とした作戦でした。

まずは、電撃奇襲攻撃でミッドウェー島を占領する。

そうすると、ハワイから援軍が来るはずだから、ミッドウェー島占領後、その援軍の中にいる空母をぶっ壊す!

・・・が、実はこの計画は実行前から破綻していました。

というのも、アメリカは日本の通信内容を傍受し、さらには日本の暗号文まで解読済であり、日本がミッドウェー島に攻めてくることを事前に知っていたからです。

日本は情報漏洩の予感を感じつつも、奇襲を想定した作戦は変更しませんでした。

もぐたろう
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つまり、日本が考えていた「ミッドウェー島を占領→空母を叩く!」という計画は破綻していて、日本はミッドウェー島を占領する前に、準備万端のアメリカ軍との戦わなければ行けなかったのです。

空襲部隊による攻撃では、想定していた戦火は上がらず、南雲は第二波攻撃を計画します。

・・・が、午前4時頃、反撃に転じたアメリカが日本の第一航空艦隊へ空襲を仕掛けてきました。

こうして起きた日本VSアメリカの戦いがミッドウェー海戦です。

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ミッドウェー海戦の経過

アメリカの攻撃は時間を追うごとに激しくなり、4時半には日本の偵察機がアメリカの艦隊を発見。

さらに5時半には、アメリカの空母らしき艦隊が発見されたとの報告まで入ります。

同じころ、ミッドウェー空襲部隊が空母に帰艦しますが、ここでもう1つ大きな問題が発生します。

南雲忠一
南雲忠一

アメリカ軍を迎撃するため空母から戦闘機を発進しようとすると、戻ってきた空襲部隊が帰艦できるスペースがなくなってしまう。

帰艦できない空襲部隊には、海上や艦隊上での緊急着陸をさせることになり、少なくない数のベテランパイロットが死傷するであろう。

・・・かといって、空襲部隊を帰艦させてしまうと、その分だけ迎撃部隊の発進が遅れてしまう。もしアメリカ空母が迫ってきているのなら、こちらも戦闘機を飛ばさないと絶対に勝てないぞ!

悩んだ末、南雲は空襲部隊の帰艦を優先することにしました。

当時、偵察機からは「空母は発見したけどまだ遠いところにいるよ!」という報告が送られていました。

この情報を受けて、南雲は「この距離なら空襲部隊を収容する時間があるな」と判断した・・・のですが、実はこの報告は誤情報であり、アメリカ空母は報告よりももっと近い位置にありました。

この報告の誤り(情報精度の低さ)は、ミッドウェー海戦の結果に致命的な影響を与えることになります。

6時半には空襲部隊の収容を終え、7時半〜8時ぐらいには迎撃部隊が発進する予定でした。

・・・が、7時25分、アメリカ空母2隻が日本の艦隊に接近してきて、戦闘機による一斉攻撃が始まりました。

日本軍は、迎撃部隊の発進がまだだったため、空母は丸裸同然で、7時25分〜30分のわずか5分の間に、日本はMI作戦に動員した空母4隻のうち3隻(蒼龍そうりゅう赤城あかぎ加賀かが)を喪失。

軍艦赤城
赤城
軍艦蒼龍
蒼龍

残っていた空母1隻(飛龍)は応戦するも、その後アメリカの攻撃で沈められ、空母4隻全てを失った日本は敗走。戦死者約3、000人にのぼり、ミッドウェー海戦は日本の敗北に終わりました。

アメリカの被害は空母1隻沈没、戦死者約300人であり、数字からも日本が大敗したことがわかります。

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ミッドウェー海戦の敗因を考えてみる

ミッドウェー海戦の敗因については、本やネット上でもさまざまな議論がありますが、個人的には次の要因が大きいと考えます。

  • 1.珊瑚海海戦の敗北で、戦力が想定よりも少なかった
  • 2.アメリカに作戦が漏れていて、しかも日本は作戦が漏れていたことを想定しなかった。
  • 3.日本は味方同士の情報共有がうまくいかず、大事な情報が報告されなかったり、誤った情報が伝えられたりしていた。
  • 4.アメリカ軍が襲ってきた時、すぐに迎撃部隊を発進させなかったため、丸裸の艦隊が狙われてしまった。
もぐたろう
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特に4番目の話は、日本の空母が攻撃されたのが7時25分で、迎撃部隊の出撃予定は7時半〜8時の間だったから、出撃予定があと5分早かったら戦局は大きく変わったかもしれない・・・とも言われているよ。

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ミッドウェー海戦が太平洋戦争に与えた影響

ミッドウェー海戦の敗北は、太平洋戦争が始まって以来、初めての大敗北であり、ミッドウェー海戦の結果は、その後の戦局にも大きな影響を与えました。

戦争は短期戦から長期戦へ・・・

太平洋戦争は、そもそも短期決戦を想定して日本が仕掛けた戦争でした。

日本
日本

国力があるアメリカと持久戦になったら絶対に勝てないから、奇襲に奇襲を重ねて短期決戦で一気に決着をつけるぞ!!

・・・が、ミッドウェー海戦での敗戦によって、日本が保有していて空母6隻のうち4隻を失い、

さらに多くの熟練パイロットをも失い、日本の攻撃力は大幅ダウン。

短期決戦の勢いを失った日本は、方針を長期戦に変更します・・・が、長期戦になった場合、国力があるアメリカが断然有利です。

この方針変更は、これまで連戦連勝だった日本の幸先に暗い影を落とし始めました。

もぐたろう
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ミッドウェー海戦に敗北した2ヶ月後の1942年8月、日本はガダルカナル島の戦いでも大敗していて、この2つの敗戦によって日本はアメリカに対して劣勢に立たされることになりました。

大本営発表

陸海軍をまとめて指揮する天皇直属の最高機関「大本営だいほんえい」は、国民の士気低下を防ぐため、ミッドウェー海戦の被害内容を正しく発表しませんでした。

日本は空母1隻喪失、1隻大破、巡洋艦1隻大破の被害を受けたが、アメリカの空母をなんと2隻撃沈した!!日本はアメリカに大打撃を与えた!!

とまるで日本が勝利したような発表を行います。

敗戦の責任を負いたくなかった陸軍・海軍

大本営が嘘の発表をしたもう1つの理由に、「敗戦の責任を負いたくない」という軍部の思惑もありました。

陸軍も海軍も、内部に派閥ができていて対立関係ができていました。そんな中、敗戦の責任を追って失脚してしまうと、ライバル派閥が有利になってしまうので、自ら敗戦を認めることを極端に嫌ったのです。

最高責任者である天皇が責任を取る方法もありますが、神格化されていた天皇に責任を負わせることはあり得ないため、この方法も採用されません。

結局、『敗戦の原因はどこにあったのか?』という大事な部分が有耶無耶にされてしまった結果、大本営は事実ではない報道を行うようになったのです。

ミッドウェー海戦以降も、大本営による虚偽の発表は増え続け、「大本営発表」という言葉は、偽りの公式発表を揶揄する代名詞として今でも使われることがあります。

ミッドウェー海戦の敗戦によって、日本はすぐに窮地に立たされたわけではありません。

・・・が、ミッドウェー海戦での敗戦をきっかけに、短期戦→長期戦の方針転換や、虚偽の大本営発表と言った暗い話が増え始め、日本はジワリジワリとアメリカに追い詰められていくことになるのです。

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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