今回は、1931年に起きた満州事変について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
満州事変とは
満州事変とは、日本が中華民国の領地である満州へ侵攻し、軍事制圧した事件のことを言います。
1931年9月18日に起きた柳条湖事件をきっかけに始まり、1933年に日本・中華民国の間に停戦協定である塘沽協定が結ばれるまで続きました。
満州事変によって日本と中華民国は紛争状態に突入し、1937年には全面戦争である日中戦争が起こることになります。
日本と中華民国の関係を大きく変えた満州事変。一体どんな事件だったのか、見ていくことにします。
満州事変が起きた時代背景
満州事変が起きた背景には、満州の権益をめぐる日本VS中華民国の対立の歴史があります。
時代は、1904年の日露戦争にまでさかのぼります。
日露戦争に勝った日本は、1905年ロシアとポーツマス条約を結び、ロシアが清国から手に入れた満州周辺にある様々な権益(※)を奪うことに成功しました。
※具体的には関東州(遼東半島)、南満州の鉄道、鉄道周辺の炭鉱などの租借権を手に入れました。
しかし、1912年に清国が滅びて中華民国が建国すると、中華民国は日本の満州支配に対して反発するようになります。その反発は、1919年に起きた五・四運動など大規模な反対運動が起こるほどおおきなものでした。
日本はこの反発に対抗するため、中華民国で起こっていた内紛を利用します。
当時、中華民国は、北の北京政府と南の中国国民党の南北に分かれ、対立を続けていました。
日本は北京政府に接近し、「中国国民党との争いを支援してやるから、満州の日本の権益には口出しすんなよ!」という外交戦術を採ることで、満州の権益を守ること成功します。
しかし1925年、中国国民党が、中華民国の列強国支配からの解放を掲げて国民政府を樹立。さらに1926年、その勢いで国民政府は北京政府への侵攻を開始しました。(北伐)
北伐の結果、1928年に北京政府が敗北。中華民国は南北統一を果たし、建国依頼続いていた内紛がようやく終結(※)することになりました。
※正確には、内紛が終わったというよりも国民政府VS中国共産党という新しい局面を迎えることになりました。
北京政府が消滅したことで、日本は満州の権益を守るため大きな方針転換に迫られます。しかし、日本の対応は二転三転し、方針がなかなか固まりません。
最初は、旧北京政府のボスで満州の支配者でもあった張作霖を引き続き支援しようとします。・・・が、これに反対した関東軍が張作霖を爆殺してしまい失敗。(張作霖爆殺事件)
その後は、協調外交(幣原外交)による話し合いの方法を探ります。しかし、中華民国の強気の姿勢に押され国内からも「軟弱外交!!」と批判を受けたため、上手くいきません。
幣原外交への反発から、国内では満州を軍事制圧するという案も出ますが、結局先延ばしに。このグダグダな政府の対応に我慢できず、立ち上がったのが関東軍でした。
関東軍は、関東州や南満州鉄道を守る最前線で活躍した陸軍です。中華民国からの圧力が日に日に増していくのを肌で感じていた関東軍は、政府の対応を見限り、満蒙の危機を救うため独断で満州軍事制圧作戦を決行します。
こうして起こったのが満州事変です。
ここまでの経過は以下の記事で詳しく紹介しています。わからない点があったら、まずはこちらの記事を最初に読んでみてくださいね。
満州事変の始まり
満州事変を計画した中心的な人物は、関東軍参謀の石原莞爾という男でした。
いきなり満州へ攻撃すれば、日本は国際社会から痛烈な批判を浴びることになる。
それを避けるため、わざと南満州鉄道(満鉄)を爆破し、これを中華民国の仕業に見せかけた上で、『中国軍が鉄道を爆破したから、その報復で仕方なく満州を攻撃しただけ!』という口実で満州を軍事制圧しよう!
作戦が決行されたのは1931年9月18日、奉天の柳条湖という場所で満鉄が爆破される事件が起こります。(柳条湖事件)
※柳条湖は湖ではありません。あくまで柳条湖っていう地名です!
場所はだいたいこの辺りです↓↓
関東軍はこれを中国軍の仕業だと決めつけ、満州の主要都市を次々と占領していきます。
こうして、ついに満州事変が始まりました。
満州事変の経過
柳条湖事件の翌日(9月19日)、事件の報告を受けた日本政府は対応をめぐって緊急会議を開催。
当時首相だった若槻禮次郎は、この会議で関東軍の暴走を抑えるため、戦線不拡大の方針を決定します。
当時の外務大臣は幣原喜重郎であり幣原外交が続いていたので、政府は幣原外交を邪魔する軍事行動を嫌ったのです。
関東軍は奇襲攻撃によって満州の主要都市を制圧できましたが、実はその軍勢はそこまで多くありません。
なので、戦線不拡大の方針を掲げて援軍さえ送らなければ、関東軍の動きを封じることができました。政府は、関東軍の動きを抑えている隙に幣原外交による事態収集の道を探ろうと考えたのです。
・・・が、9月21日、次は朝鮮の日本軍が政府の命令を無視して満州へ援軍を送り込みます。
は?援軍なんか送ったら、戦線が拡大して戦いが終わらなくなるんだが・・・(絶望)
諦めた若槻は方針を転換し、戦線拡大の方針を決定。関東軍を抑えられなくなった以上、戦線不拡大の方針はすでに無意味となったためです。
関東軍だけじゃ兵力が少なすぎて満州制圧など無理だからな。実は、朝鮮の日本軍には別の者が事前に根回しをしていたんだ。
こうやって政府を引くに引けない状態に追い詰めてやれば、政府は関東軍を認めざるを得なくなる。そうなれば、勝利への道が見えてくる。
本格的な軍事制圧の方針を決めた日本に対して、中華民国はあえて抵抗をしませんでした。
日本の挑発に乗ると自らの首を絞めるリスクがあったり、中華民国は中国共産党との内紛で手一杯だったためです。
そこで中華民国は、国際連盟に柳条湖事件の真相を調査するよう求めることで、日本に抵抗することにしました。つまりは、列強国を巻き込んで外交戦に持ち込もうとしたのです。
錦州爆撃
外務大臣だった幣原喜重郎は、頭を悩ませます。
せっかく国際協調を重んじた外交を進めていたのに満州事変のせいで全てがパーだ!!
満州事変は、九カ国条約などの条約に明らかに反している。条約違反について列強国から強い批判を受ければ、日本は外交面で不利な立場に立たされることになるぞ・・・。
実際、アメリカの国務長官だったスティムソンという人物が、日本に対して条約違反の責任を追求。日本に対して戦争をやめるよう強く主張しました。
アメリカは、当時世界最強の国です。アメリカと対立したくない日本政府は、再び戦線拡大を止めようとします・・・が、石原莞爾がこれを許しません。
10月8日、関東軍は錦州市への空爆を開始。
都市への直接空爆は、第一次世界大戦以来の世界的大事件でした。この空爆は多くの民間人が死傷し、日本は国際社会から厳しい非難を受けることになります。
事ここに至り、幣原喜重郎の苦労は完全に水の泡となりました。
政府は戦争を止めようとしているが、都市を空爆すれば日本は国際的に孤立し戦争をするしかなくなる。
さっきも言ったが、政府を引くに引けぬ状況にすることが大事なのだ・・・!
ちなみに、錦州の場所はココです↓↓
日本政府から「これ以上戦線を拡大しない」と聞いていたスティムソン国務長官は、錦州への空爆にブチギレ。錦州爆撃によって、日米関係は決定的に悪化することになります。
こんな感じで若槻内閣の方針は二転三転し、関東軍の暴走を抑えることもできません。
そして1931年12月、満州事変への対応に行き詰まった若槻内閣は総辞職に追い込まれることになります。
満州国の誕生
立憲改進党率いる若槻内閣に代わって、新しく組閣されたのが立憲政友会率いる犬養毅内閣です。
犬養毅は、若槻のように関東軍の行動を非難するのではなく、関東軍の軍事行動を認め、軍事予算の確保に努めました。
関東軍との妥協点を見つけて、なんとか軍部をコントロールしようと考えたのです。
一方の陸軍は、1931年12月〜1932年1月にかけて、満州を日本の言いなりの独立国家にする方針を正式に決定します。
当時は、満州を日本の領地(植民地)にしてしまう案もありました。満州を支配する一番シンプルな方法が植民地化だったからです。
・・・が、植民地にすると、中華民国を筆頭に他国から強い批判が予想されたため、断念。そこで、傀儡政権を築いて、裏から満州をコントロールしようとしたわけです。
※傀儡:言いなりという意味
関東軍は、国家の元首に相応しい人物として清王朝の最後の皇帝だった溥儀に狙いを定めます。
ここでいう「相応しい』っていうのは、表向きは国家の指導者で、裏では関東軍の言いなりになってくれる人って意味です。
言いなり感が満載だと、「日本は満州を支配している!」と他国から批判を受ける可能性もあったので、裏と表のバランスが大事でした。関東軍は、その両方の役割を果たす可能性を、清国再興を望んでいた伏犠に見出したんだ。
※溥儀は、その生涯を描いた歴史映画「ラストエンペラー」の主役としても有名です。
1931年10月以降、関東軍と溥儀の間で交渉が行われ、溥儀も『清王朝の再興』を条件として関東軍の提案を受け入れました。
1932年2月に満州主要地域の軍事制圧が完了すると、1932年3月、満州に溥儀を元首とする新国家が誕生します。
この国家のことを満州国と言い、元首のことは執政と呼ばれました。
しかし、首相の犬養毅は満州国に反対し、満州国を政府として公認することを拒否します。
犬養は、「満州は引き続き中華民国の支配下にあるべきで、日本は経済的利益を中華民国とともに分かち合うべきだ」と考えていたのです。関東軍の軍事行動は認めても、満州の独立には反対したわけです。
犬養は中華民国との外交交渉を試みるも失敗に終わり、そして1932年5月15日、犬養毅は暗殺され、その生涯に幕を閉じることになります。(五・十五事件)
満州事変は外交戦へ【リットン調査団】
満州国に反対していた犬養毅が亡くなると、話は大きく進展します。
犬養を継いで首相となった斎藤実は、満州国の承認に前向きでした。1932年6月には、帝国議会で満州国の承認案が可決されます。
9月15日には、日満議定書を交わし、日本は満州の権益を引き続き保持し、満州での軍事権を掌握することが決まりました。(つまり、満州を日本に逆らえない言いなりにしたということです。)
一方で、中華民国の外交戦の方も大きな動きを見せます。
中華民国の訴えを受けて、1932年3月、ついに国際連盟が満州事変の真相の調査に乗り出したのです。
調査団の団長はイギリス人のリットン。
リットン率いる調査団(リットン調査団)は、日本や満州、中華民国で約3ヶ月にわたる調査を行い、1932年10月、その調査結果が発表されます。
報告書を要約すると
柳条湖事件や関東軍の満州占領は自衛行為ではない
満洲国は日本軍の傀儡国家である
と中華民国の意見に配慮しつつ
満洲に日本が持つ条約上の権益は認められるべき
と日本にも一定の配慮を見せたものでした。
リットン調査団の目的はあくまで満州事変の解決だから、日本と中華民国が歩み寄れる道筋を示そうとしたんだね。
そして、リットンは結論は、
満州国の独立は認められないけど、満州に国際連盟から外国人(日本人)顧問を送り込んで、その顧問の下で満州を統治するならいいんじゃない?
要するに「満州独立は許さないけど、日本が満州の統治に介入するならいいよ!」ってことです。
満州事変に対してイギリスやアメリカは強い不快感を示していましたが、その割にはかなり日本に譲歩した内容です。
これは、国際連盟に加入している多くの国が、平和的な解決を望んでいた現れでもあります。・・・が、日本は1932年9月に満州国の独立を公式に認めたばかりだったこともあり、「満州国の独立を認めなければ、国際連盟の案には賛同できない」とこれを頑なに拒否。
おまけに日本は、満州国と中華民国の国境に位置する熱河省から中国兵を駆逐するため、軍事行動を開始してしまいます。
こうした行動を見て説得を諦めた国際連盟は、1933年2月、満州国独立を否定することを決定。
この決定は多数決で行われましたが、44ヵ国中、賛成42反対1棄権1という圧倒的な賛成多数で決まることになりました。
反対の一票は、もちろん日本が投じた一票だよ。
さらに国際連盟の決定にブチギレた日本は、1933年3月に国際連盟を脱退してしまいます。
熱河作戦と塘沽協定
1933年2月、国際連盟と日本が満州国独立をめぐって対立していた頃、関東軍は熱河省への侵攻を開始しました。
熱河省は、今で言う北京の北部一帯に位置する省。ちょうど満州国と中華民国の国境のある場所でした。
※下図の紫部分あたりです。(超ざっくりなので正確な位置ではありません)
中華民国は関東軍に対して大規模な抵抗はしませんでしたが、さすがに国境付近では小競り合いが絶えず、不穏な情勢が続いていました。
そこで関東軍は、熱河省にいる中国兵を駆逐し、国境警備を強化しようと考えたのです。
満州国の北にはソ連がいたから、南方の中華民国に対する国境警備を怠ると、南北から挟み撃ちにされる可能性があったんだ。
ソ連に対抗する意味でも、南方を平定しておく必要があったんだね。
この熱河侵攻作戦は成功し、熱河省は満州国に組み込まれます。中国兵の駆逐に成功した関東軍は、国境付近から撤退します。
・・・が、軍を引くとその隙をついて中国軍が攻撃を開始。関東軍はこれに応戦しますが、関東軍が軍を引くと再び中国軍が攻撃を仕掛け・・・と戦いが繰り返されたため、戦況は泥沼化。
1933年5月25日、終わりの見えぬ戦いに危機感を覚えた中国側が、日本に対して停戦協定を申し出ました。
停戦協定は1933年5月31日に結ばれました。この協定を塘沽協定と言います。
※塘沽っていうのは地名です。
この停戦協定によって、約1年半にわたる満州事変はようやく終焉することになりました。
満州事変が日本に与えた影響
満州事変の結果、日本は満州をゲットしてアジア大陸への進出を強めました。
・・・が、その代償として、日本は国際的に孤立することになります。
日本は満州事変の過程で国際連盟を脱退。中国はもちろんアメリカ・イギリスとの関係も悪化しました。
一方、国内に目を転じれば、軍部の政治への影響力が強まる結果となりました。
政府の命令を無視して満州事変を起こした石原莞爾は処罰を受けることなく、むしろ出世。朝鮮から援軍を送った林銑十郎という人物は、1936年には首相にまでなりました。
日本は次第に、軍部が主導して政治を行うようになり、その政治は『他国を侵略して国力を高める』というファシズムへと傾倒していきます。
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