今回は、1938年に発表された東亜新秩序声明について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
東亜新秩序声明とは
東亜新秩序声明とは、1938年に日本政府が発表した「日本と満州国と中国が連携して、東アジアに列強諸国に支配されない新しい秩序を創ろうぜ!」っていう声明のことを言います。
『東亜』っていうのはアジア(亜細亜)の東側。つまり、東アジアのことを意味しているよ!
東亜新秩序声明が発表されたのは1938年11月。近衛文麿首相によって発表されました。
当時に日本は、日中戦争の真っ最中。東亜新秩序声明は、中国と和平交渉を結んで日中戦争を終わらせようという日本の思惑で発表されたものでした。
なんで東亜新秩序声明の発表が、日本と中国の和平交渉に繋がるわけ?
実は近衛文麿は、1938年1月に『中国を絶対にぶっ潰す!(超訳)』と宣戦布告に近い声明を発表していました。(第一次近衛声明)
ところが、1938年の後半に入ると和平交渉の可能性が浮上。この和平交渉を成功させるため、日本も方針を『中国ぶっ潰す!』から『みんなで協力しようぜ!』という方針に変えて、中国と歩み寄る姿勢を示す必要がありました。
そのために出された声明が東亜新秩序声明ってわけなんだ。
東亜新秩序声明が出された時代背景【アジア主義】
「列強国に支配されない新秩序をアジア全体に構築する」という考え方はアジア主義と呼ばれ、実は明治時代の頃から存在していました。
明治時代の初め頃に西郷隆盛らが唱えた征韓論、福沢諭吉が唱えた脱亜論なんかは、アジア主義の影響を受けているよ。
列強国は18世紀半ばから、東アジア・東南アジアの植民地支配を急速に広めていました。
東アジア・東南アジアで列強国の支配を免れたのはわずかに日本とタイだけ。列強国の強さの前に、多くの国は手も足も出なかったんだ。
一方で、列強国支配を免れた日本は、明治時代に入ると急成長を遂げました。
1984〜1985年:日清戦争に勝利して台湾を植民地化
1904〜1905年:日露戦争でロシアに勝利して列強国の仲間入り
1910年:日本は朝鮮(大韓民国)を植民地化
日本がアジアの大国に成長するにつれ、日本国内ではアジア主義の思想が広まり、この流れは1930年代に入るとますます加速していきました。
きっかけは、1929年に起きた世界恐慌。イギリス・フランスらの列強国は、自国の経済を守るためブロック経済を開始し、自国の植民地以外との貿易をシャットアウトしてしまいます。
日本もブロック経済をしようと考えましたが、イギリス・フランスと違って植民地が少ない(日本の植民地は台湾と朝鮮だけ)ため、植民地だけで経済を回すことができませんでした。
そこで注目を浴びたのがアジア主義の思想です。
今こそ、東アジアから列強国勢力を駆逐し、アジアに日本を中心とした新しい秩序を構築すべきだ!
そうすれば、日本は経済・軍事面で盤石な体制を築くことができるはず!
1930年代に入ると日本は、この思想を実現しようと、中国へ侵略行為をするようになります。
1931年には満州事変を起こし、1932年には満州国を建国。
1935年頃になると、華北地方から中国を分離させる華北分離工作を開始。
1937年には盧溝橋事件をきっかけに、ついに中国がブチギレ。日本と中国は戦争状態へと突入していきます。(日中戦争)
(第一次)近衛声明
当初、日本政府は日中戦争が長期戦になることを嫌い、ドイツに仲介に入ってもらって中国と和平交渉を始めました。(トラウトマン和平工作)
・・・が、この和平交渉は、日本と中国の意見がまとまらず1938年1月に交渉は決裂。
1938年1月、和平交渉が失敗に終わるのと同じタイミングで、首相だった近衛文麿は『中国が降参するまで徹底的に闘う!(超訳)』と声明を発表します。(第一次近衛声明)
和平交渉には失敗したけど、このまま攻め続ければ中国はきっとすぐに降参するはず!
・・・が、日本の思惑は大きく外れます。中国は首都の南京を日本に奪われた後も、武漢→重慶と遷都を繰り返し、降参する気配を全く見せません。
このままだと戦争が長期化して、日本も総力を挙げなければならない。そうなれば、国家に重い負担を強いることになる。何か早期解決の妙案はないものか・・・。
※日本では、総力戦を想定して1938年4月に国家総動員法が制定されました。
汪兆銘工作
そんな時、日本に差し込んだ希望の光が、中国の汪兆銘という人物でした。
汪兆銘は、中国国民政府のナンバー2。
国民政府トップの蒋介石が「日本と徹底的に戦うぞ!」というスタンスなのに対して、
No2の汪兆銘は「被害が増える一方だし、日本と和平交渉した方が良くね?」というスタンスで、政府内で意見対立が起きていました。
和平交渉を望む汪兆銘は、独自に日本に接近。1938年に入ると、和平に向けた交渉がスタートしました。(汪兆銘工作)
和平交渉は、トラウトマン工作で一度失敗していたけど、汪兆銘によって和平に向けた動きが再開したってわけだね!
汪兆銘と日本の交渉は順調に進み、1938年11月には和平交渉の案が完成。
和平交渉の目処がつくと、日本政府は1938年1月に発表した「中国と徹底的に戦う!」という声明(第一次近衛声明)を撤回。
同年11月、近衛文麿は中国との徹底抗戦を白紙撤回し、東アジアに新秩序を創設することを宣言します。この宣言のことを東亜新秩序声明(または第二次近衛声明)と言います。
汪兆銘のことはここではあまり触れていませんが、以下の記事で詳しく紹介しています。気になる方は合わせて読んでみてくださいね。
東亜新秩序声明の内容
東亜新秩序声明の内容は、簡単にいうとこんな感じの内容でした↓↓
かなり上から目線の声明ですが、日本に協力さえすれば国民政府の存在を否定しない、つまり和平の可能性について言及していることがわかります。
あとは、汪兆銘がリーダーシップを発揮して国民政府を動かし、東亜新秩序声明に応じてくれさえすれば、和平が成立する・・・と日本政府は考えたのです。
第三次近衛声明(近衛三原則声明)
1938年12月、首相の近衛文麿は再び声明を発表します。(第三次近衛声明)
内容は、「東亜新秩序を築くために、日本・満州・中国はどんなことを協力すべきか?」というもの。
東亜新秩序声明(第二次近衛声明)で掲げた新秩序を実現するための具体的な内容が、第三次近衛声明ってわけです。
近衛文麿は、東亜新秩序の実現のためには次の3点について協力する必要があると発表しました。
つまり、「東亜新秩序のためには、日本・満州・中国が仲良くなって(善隣友好)、3者で共産主義(ソ連)から身を守って(共同防共)、経済連携を深める(経済連携)必要があるよね!」ってことです。
近衛が発表した善隣友好・共同防共・経済連携の3点のことを、日本史では近衛三原則と呼んでいます。
東亜新秩序声明が与えた影響
影響その1:汪兆銘政権の樹立
東亜新秩序声明・近衛三原則声明が発表されて、日本の和平に向けた方針が示されると、汪兆銘はこれに賛同し、和平に向けた行動を開始します。
汪兆銘は和平派の人々を集めて蒋介石から離反し、新政権を築いた上で、日本との和平交渉に望む計画を立てていました。
そして1940年、汪兆銘は日本のバックアップも受けながら、南京で新政府を樹立
・・・が、多くの国民が汪兆銘の新政権を認めず、日本と戦う蒋介石を支持したため、戦争は終わらず、和平交渉(汪兆銘工作)は失敗してしまいました。
影響その2:アメリカとの関係悪化
東亜新秩序声明の発表は、アメリカとの外交関係を悪化させる結果となりました。
上で紹介したように、東亜新秩序は「東アジアから列強国の影響を排除する」ことを意味していました。
1900年頃から中国の門戸開放・機会平等を訴えていたアメリカは、日本がアジアでブロック経済圏(円ブロック)を築くことを嫌い、これに反発しました。
東亜新秩序の発表以降、アメリカと日本の関係は悪化に一途をたどり、1941年の日本による南部仏印進駐によって、日米関係は崩壊すると、同年12月の真珠湾攻撃をきっかけに太平洋戦争へと突入していくことになります。
影響その3:大東亜共栄圏のスローガン
1940年7月、日本政政府は、東亜新秩序をさらに進化させ、大東亜共栄圏の建設を新たなスローガンに掲げました。
日中戦争が長期化して東亜新秩序の実現が難しくなると、日本政府は新秩序の範囲を東南アジアにまで拡大。東アジア+東南アジアのことを大東亜と呼んで、日本の影響下に置こうと考えたのです。
日中戦争の長期化で物資不足に陥った日本は、戦争に必要な物資を東南アジアから調達しようと考えたんだよ。
しかし、大東亜共栄圏の思想は、東南アジアに植民地を持っているアメリカ・イギリスと対立することを意味します。
※アメリカはフィリピン、イギリスはビルマを植民地としていました。
東亜新秩序が大東亜共栄圏にグレードアップしたことで、日本とアメリカ・イギリスとの関係はますます悪化。1941年になると、日本は真珠湾攻撃を行い、アメリカ・イギリスに対して宣戦布告をすることになります。
コメント