今回は、1942年に起きたガダルカナル島の戦いについて、分かりやすく丁寧に解説していくね!
ガダルカナル島の戦いとは
ガダルカナル島の戦いは、1942年8月に太平洋南方の制海権・制空権をめぐって連合軍と日本が争った戦いです。
戦場となったのは、ソロモン諸島にあるガダルカナル島。
ガダルカナル島は、オーストラリアとアメリカを結ぶ中継地点。
アメリカとオーストラリアの連携を阻止したい日本
太平洋上に日本が拠点を築くことを阻止したいアメリカ
この両者が、ガダルカナル島で衝突しました。
・・・結果は、日本の大敗。
太平洋戦争は、序盤は日本の優勢に進んでいましたが、ミッドウェー海戦の大敗(1942年6月)とガダルカナル島の戦いの大敗により形勢は逆転。
戦況は連合軍が優勢となり、1943年以降、日本は少しずつ連合軍に追い詰められていくことになりました。
ミッドウェー海戦と合わせて、ガダルカナル島の戦いは太平洋戦争の戦況を大きく変えた歴史上でも重要な一戦となりました!
ガダルカナル島の戦いが起きた時代背景【太平洋戦争の戦況】
本題に入る前に、まずは太平洋戦争のおさらいをしておきます。
日本は、東南アジアの石油資源などを手に入れるため、1941年12月、イギリス領だった東南アジアのマレー半島と、アメリカ領のハワイ島へ奇襲攻撃(真珠湾攻撃)を仕掛け、太平洋戦争が始まります。
日本の作戦は順調に進み、1942年3月には石油資源が豊富なインドネシア(オランダ領東インド)を制圧。
当初の作戦を大成功で終えた日本は、手に入れた支配地(大東亜共栄圏)を守るため、新たな軍事作戦を立案します。
新たな作戦は第二段作戦と呼ばれ、大きく3方面での軍事作戦で構成されました。
MO作戦・FS作戦
オーストラリアとアメリカの連携を遮断するため、
・ニューギニア島の未占領都市だったポートモレスビー
・フィジー島・サモア島・ニューカレドニア島と周辺の島々
の攻略を計画しました。
ポートモレスビー攻略作戦はMO作戦、フィジー・サモア・ニューカレドニア攻略作戦はFS作戦と呼びました。
※名前の由来は、ポートモレスビーの「モ」を採ってMO作戦、フィジー(Fiji)の「F」とサモア(Samoa)の「S」を採ってFS作戦と名付けられました。
AL作戦
ソ連とアメリカの連携を遮断するため、アラスカ州のアリューシャン列島攻略を計画します。
この作戦を、アリューシャン列島(Aleutian Islands)のイニシャルを採ってAL作戦と名付けました
MI作戦
アメリカの太平洋拠点であるミッドウェー島を制圧しようとした作戦。ミッドウェー(Midway)のイニシャルを採ってMI作戦と呼ばれました。
作戦スケジュールはこんな感じでした↓↓
- 1942年5月MO作戦
- 1942年6月MI作戦・AL作戦
- 1942年7月FS作戦
地図で整理するとこんな感じです↓↓
赤色がMO作戦、黄色がFS作戦、青色がMI作戦、緑色がAL作戦です。
この4つの作戦のうち、ガダルカナル島の戦いに関係してくるのは、MO作戦とFS作戦です。
当初の計画では、ガダルカナル島は主要な攻略ターゲットではありませんでした。
当初の計画は、敵の重要拠点だったポートモレスビーをMO作戦で攻略。
そして、MO作戦の成功後、フィジー・サモア・ニューカレドニアなどの島々を制圧する・・・というものでした。
・・・しかし、MO作戦・FS作戦は途中で頓挫してしまい、ガダルカナル攻略の案が浮上することになります。
日本、ミッドウェー海戦で敗戦する
1942年6月、日本はミッドウェー海戦で大敗します。
日本は多くの空母・戦艦・戦闘機とパイロットを失い、今後の作戦に大きな支障が生じました。
特に作戦に影響があったのは空母の喪失でした。
というのも、ポートモレスビーを攻略するには戦闘機による空爆が必須でしたが、戦闘機の発進拠点となるのが空母だったからです。
空母がなければ戦闘機はポートモレスビーに近づくことができないため、ミッドウェー海戦の敗戦後、MO作戦・FS作戦は2カ月の延期が決定。
2つの作戦は、大きな見直しに迫られました。
ガダルカナル島、日本の重要拠点となる
日本は、作戦を練り直した結果、次のような結論に至りました。
そうだ!空母がダメなら、ポートモレスビーの近くに強力な飛行場を作ってしまえばいいんだ!
日本は、ポートモレスビーに近くて、かつ、日本が占領済みだったソロモン諸島に、飛行場建設に適切な場所がないか調べ始めました。
・・・すると、ガダルカナル島に飛行場を建設するのにバッチリな場所があることがわかります。
ガダルカナル島は、地理的にもオーストラリアとアメリカの連携を遮断できる絶好の位置にある。
ここに飛行場と軍事拠点を築いて、連合軍を牽制してやる!
1942年6月15日、この作戦はSN作戦と呼ばれ、MO・FS作戦に代わる新しい作戦となります。
8月5日には飛行場が完成し、8月中旬からは戦闘機が現地入りすることも決まりました。
アメリカ「ガダルカナル島の飛行場を奪い取ってやんよ!」
・・・しかし、アメリカも黙ってはいません。
アメリカは1942年7月、オーストラリア周辺の島々を日本から奪還する新たな軍事作戦を立案します。
作戦は三段階に分かれ、最初の作戦はソロモン諸島・フィジー諸島の攻略を目的としたもので、アメリカはこの最初の作戦をウォッチタワー作戦と名付けました。
日本がガダルカナル島に飛行場を建設していることを知ると、アメリカは攻略ターゲットにガダルカナル島を追加し、作戦決行日は8月7日となりました。
ガダルカナル島を拠点にされるのは非常にマズい。
まずは最優先でガダルカナル島の日本軍を駆逐してやる!
ガダルカナル島の戦い、始まる
8月7日午前4時、アメリカ軍を主戦力とする連合軍が、ガダルカナル島の飛行場近くに上陸。
飛行場は8月5日に完成したばかりだったため守備が手薄で、現地にいた日本兵の多くは飛行場設営のために動員された非戦闘員。
おまけに、日本は連合軍の攻撃を事前に察知することができず、これに対応できません。
飛行場とその一帯はあっという間に制圧され、飛行場にいた日本兵は、飛行場の西側にあるマタニカウ川付近まで撤退しました。
※アメリカは、日本から奪った空港をヘンダーソン飛行場と名付けました。
こうして、日本が奇襲を受ける形で、ガダルカナル島をめぐる戦いが始まりました。
下図のルンガ岬赤い部分が戦いの舞台となります。
ガダルカナル島の戦いの経過
第一次ソロモン海戦
日本は、ガダルカナル島に援軍を送ることを決定。さらに、海軍では次のような計画が立案されます。
駆逐艦でガダルカナル島のアメリカ艦隊を夜襲して、敵の動きを封じる。同時に、円軍をガダルカナル島に上陸させ、一挙にしてガダルカナル島をアメリカから奪い返す!!
8月7日、作戦実行のため、ラバウルから艦隊が出撃。
8月8日、ガダルカナル島の少し北に位置するサボ島付近でアメリカと日本の艦隊が衝突。さらに8日の夜から作戦どおりガダルカナル島への夜襲が始まります。(第一次ソロモン海戦)
結果は、日本の勝利。
アメリカは日本の夜襲にうまく対応できず、巡洋艦4隻を失う大損害を受けることになりました。
・・・が、日本が当初目的としていた
アメリカ軍のガダルカナル島上陸阻止
日本軍のガダルカナル島上陸
には、失敗しました。
この敗戦を受け、ガダルカナル島の即時奪還は困難となります。
イル川渡河戦
8月16日、一木清直大佐が率いる歩兵部隊約900人が、タイボ岬(飛行場に東側)に上陸することに成功。
一木隊は上陸するとすぐにアメリカに奪われた飛行場を目指し移動しますが、8月21日、途中にあるイル川付近でアメリカ軍と衝突。
戦力差は、アメリカ約10,000に対して、日本は約900。
圧倒的戦力差の前に、一木隊は太刀打ちできません。一木隊はアメリカ軍に包囲されて壊滅。
一木清直は戦地で命を落とし、約800の兵士が死亡、残された約100名ほどはかろうじてタイボ岬へ撤退していきました。
第一次総攻撃
援軍派遣に苦慮するなか、9月7日、川口清健少将が率いる部隊たちがガダルカナル島に到着。
兵力は約5,500。ようやく強力な援軍がガダルカナル島に到着しました。
川口の部隊は、一木隊がストレートに攻め込んで壊滅した教訓から、迂回して背後から飛行場を奇襲することとしました。(第一次総攻撃)
9月12日、迂回した部隊が飛行場を強襲する・・・も、飛行場の奪還は失敗。
日本軍は約700の犠牲者を出しながら、背後にあるアウステン山や、戦い当初から退避場所となっていたマタニカウ川へと撤退しました。
この時点で、ガダルカナル島に残された兵力は約5,000。
日本は、さらなる援軍や物資をガダルカナル島に送ろうとしますが、この頃には制空権を完全にアメリカに握られており、ガダルカナル島に近づくのは困難になっていました。
第二次総攻撃
10月24日〜26日にかけて、日本は2回目の総攻撃(第二次総攻撃)を仕掛けますが、物資不足で疲弊している日本軍は豊富な物資を持つアメリカ軍を打ち破ることができず、またもや敗北。
南太平洋海戦
10月26日には、ガダルカナル島の西方面で起きた海戦(南太平洋海戦)でアメリカに勝利するも、日本の被害も大きく、ガダルカナル島の戦いの戦況を大きく変える勝利にはなりませんでした。
第三次ソロモン海戦
さらに11月12日〜15日には、ソロモン諸島での海戦(第三次ソロモン海戦)でアメリカに敗北。
第三次ソロモン海戦によって日本は多くの輸送船を失い、ついにガダルカナル島への大規模な援軍・物資輸送が不可能となってしまいます。
日本、ガダルカナル島の戦いに敗北する
物資の補給を断たれたガダルカナル島の日本兵は、飢餓に苦しむようになり、多くの兵士たちが戦闘ではなく飢餓で命を失いました。
戦況報告の中には「そこら中でからっぽの飯盒を手にしたまま兵隊が死んで腐って蛆がわいている」との報告があり、
生存者の中にはガダルカナル島を「緑の砂漠」と呼ぶ者もいました。
さらには、兵士たちの中で、次ような生命判断まで流行りだます・・・。
立つことの出来る人間は、寿命30日間。身体を起して座れる人間は、3週間。寝たきり起きれない人間は、1週間。寝たまま小便をするものは、3日間。もの言わなくなったものは、2日間。まばたきしなくなったものは、明日。
wikipedia「ガダルカナル島の戦い」
ガダルカナル島の悲惨な状況から、人々の間では、ガダルカナル島のことを餓死の『餓』を採って餓島と呼ぶようになったよ・・・。
・・・そして12月31日、日本政府はついにガダルカナル島からの撤退を決定。つまり、日本はガダルカナル島での戦いに敗北することとなったのです。
日本の死者・行方不明者は合計で約20,000人にのぼりましたが、そのうちの戦死者はわずか約5,000。その他の多くの人々は、戦闘ではなく餓死やマラリアなどの疫病によって命を落とします。
ガダルカナル島の戦いは、その凄惨さ・戦闘の規模から太平洋戦争の数ある戦闘の中でも有数の大激戦地となりました。
ガダルカナル島の敗戦が戦況に与えた影響
日本、アメリカに対して完全に劣勢になる
ミッドウェー海戦に続いてガダルカナル島の戦いでも大敗した日本は、多くの艦隊や兵士を失い、その後の戦争遂行能力を喪失します。
ガダルカナル島の戦い以降、日本は局地的に勝利することはあっても、アメリカ有利の戦況を覆すことができず、日本は1945年に太平洋戦争に敗北することになります。
アメリカ、バンザイ突撃を知る
ガダルカナル島の戦いは、連合軍が日本に勝利した初めての陸上戦でした。
連合軍は敗北した日本兵を見て、ある事実に気付きます。
日本兵は敗北しても決して降伏せず、玉砕覚悟で自爆攻撃をしてくる・・・。
玉砕覚悟で突撃して死体の山を築いていく日本兵を見て、連合軍の多くの兵士たちが恐怖したと言われれています。
日本兵が玉砕覚悟の突撃するとき『万歳!』と言って突撃したため、連合軍からはバンザイアタック・・・と呼ばれていたよ。
ガダルカナル島の戦いまとめ
- 1942年8月7日連合軍、ガダルカナル島の日本拠点(飛行場)を襲撃
- 8月8日第一次ソロモン海戦(日本勝利!)
日本、勝利するも援軍・物資をガダルカナル島に送れず。
- 8月21日イル川渡河戦(日本敗北!)
連合軍10000万VS一木隊900。一木部隊が壊滅
- 9月12日第一次総攻撃(日本敗北!)
川口隊、ヘンダーソン飛行場を強襲するも失敗。食糧は底をつき、残された兵たちは飢餓に苦しむ。
- 10月24日第二次総攻撃(日本敗北!)
- 10月26日南太平洋海戦(日本勝利!)
- 11月12日第三次ソロモン海戦(日本敗北!)
日本は多くの輸送船を失い、ガダルカナル島への大規模輸送が不可能に。
- 12月以降連合軍、ガダルカナル島に残る日本兵の掃討を開始
- 12月31日日本、ガダルカナル島からの撤退を決定
- 1943年2月日本軍の撤退開始
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