今回は、太平洋戦争の直前(1941年)に行われた日本とアメリカの交渉「日米交渉」についてわかりやすく丁寧に解説していくよ
日米交渉とは
日米交渉とは、険悪な関係だった日本とアメリカが、戦争を避けるために行なった一連の外交交渉のことを言います。
交渉期間は1941年4月〜11月にかけて行われました。
結論を先に言っておくと、日米交渉は破談しました。
日本は、自分に有利な交渉条件をアメリカから引き出せないことを悟ると、「どうせ戦争になるんだったら、奇襲先制攻撃でアメリカに大打撃を与えてやんよ!」と考え、1941年12月8日、ハワイの真珠湾に奇襲攻撃(真珠湾攻撃)を仕掛けたのです。
真珠湾攻撃によって日米交渉は決裂し、日本VSアメリカの太平洋戦争が開戦しました。
日米交渉の時代背景【アメリカと日本の関係が悪化していた理由】
日本とアメリカの関係が悪化していた原因は、ザックリ言ってしまうと「東アジア・東南アジアに対する考え方が日本とアメリカで真っ向から対立していたから」でした。
アメリカの考え方
アメリカの考え方はこんな感じでした↓
東南アジア:現状維持!
当時、東南アジアはタイを除くすべての国が列強国の植民地でした。アメリカもフィリピンを植民地にしていたので、東南アジアでは今までどおりの植民地支配が続くことを望んでいました。
東アジア(中国):門戸開放・機会均等!
アメリカは1890年代に起きた中国分割以降、中国が特定の国に支配されてしまうことを嫌い、「中国はどの国にも開かれた国であるべきだ!」と門戸解放・機会均等を唱えていました。
日本の考え方
東南アジア:日中戦争に勝つために、東南アジアに進出しなければいけない!
日本と戦争中だった中国は、東南アジアから軍事物資などの支援を受けていました。
日本は、「中国が降伏せずに抵抗し続けられるのは、東南アジアからの支援があるせいだ!」と考えて、その支援ルート(援蒋ルート)を遮断しようと考えました。
そして、東南アジアの現状維持を望むアメリカは、援蒋ルート遮断のため日本が東南アジアに進出することを強く嫌いました。
東アジア(中国):日中戦争に勝って中国を日本の支配下に置くぞ!
日本は、1931年の満州事変以来、中国への侵略強めていきました。
1935年ころには華北分離工作を開始し、1937年には盧溝橋事件をきっかけに中国との全面戦争(日中戦争)に突入していました。
中国の門戸開放・機会均等を訴えていたアメリカは、日本の中国への侵略行為に強い懸念を抱いていました。
こんな感じで、アメリカと日本の方針は真っ向から対立していたのです。
アメリカ「日本に経済制裁すっぞ!」
日中戦争が始まると、アメリカは日本を弱体化させようと、日本に対して経済制裁を検討するようになります。
1939年7月、アメリカは日米通商航海条約の破棄を決定し、1940年1月に条約が失効しました。
1940年9月、日本ではアメリカを刺激する大きな出来事が2つありました。
1つは、援蒋ルートを遮断するためにフランス領インドネシア北部へ進軍したこと。(北部仏印進駐)
2つ目は、アメリカ・イギリスに対抗するため、ドイツ・イタリアとの間で日独伊三国同盟を結んだことです。
あのさ・・・、これ以上俺に喧嘩売るようなことしたら、ガチで経済制裁すんぞ?
日本の不穏な動きを察知したアメリカは、1940年8月から本格的な経済制裁を開始します。
8月には航空機用燃料、9月には鉄屑の日本への輸出を全面禁止としました。
この経済制裁によって、日本は日中戦争に勝つ道を閉ざされることになります。
なぜなら、日本が攻勢を強めれば、アメリカの経済制裁がさらに厳しくなることは明らかであり、日本の軍事資源(鉄や燃料など)はあっという間に枯渇してしまうからです。
かと言って、このまま何もしなければ、それはそれでジリ貧となり日本は窮地に立たされます。
進むも地獄引くも地獄の状態のなか、現状打破の一案として浮上したのが、アメリカとの交渉、つまり日米交渉だったのです。
一方のアメリカも、日本との交渉を望んでいました。
と言うのも、このまま日本との関係が悪化し続ければ、いずれ日本との戦争になるかもしれないからです。
当時、ヨーロッパではドイツがフランス・イギリスを攻撃し、アメリカとの対立を深めていたので、アメリカとしてはドイツ以外の余計な敵を作りたくなかったのです。
日米交渉のきっかけ
両者の思惑が錯綜する中、1940年11月に交渉のきっかけとなる1つの出来事がありました。
11月25日に、日本にキリスト教の神父ウォルシュとドラウトという人物がやってきて、「日本政府とアメリカ政府の橋渡しをする用意があるよ!」と話を持ちかけてきたのです。
ウォルシュとドラウトは、ルーズベルト大統領の側近の一人と親しい関係にありました。
・・・つまり、この2人の来日の背後にはアメリカ政府の思惑があって、非公式の民間レベルでの交渉を行うことで、日本との交渉の感触を掴もうと考えたわけです。
ウォルシュとドラウトは、近衛文麿首相の側近だった井川忠雄という人物に訪問した後、政府の要人とも会って、「日本とアメリカの交渉の場が用意できるよう手伝うよ!」と提案。
現状を打破したい日本政府は、この提案を受け入れました。
ウォルシュとドラウトは、1941年1月に帰国し、日本の意向をルーズベルト大統領に伝えました。
さらに1941年2月、日本政府は駐米大使として野村吉三郎をアメリカに送り込みます。
野村吉三郎は、渡米経験があって、ルーズベルト大統領とも旧知の仲でした。
・・・つまり、野村吉三郎の起用には、『アメリカとガチで交渉を進めていくぞ!』という日本政府の意気込みが込められているわけです。
こうして、ようやく日米交渉の舞台が整いました。
日米交渉の経過
交渉は、ウォルシュとドラウトを通じた非公式の交渉を継続する形で行われました。
1941年4月に交渉案がまとまると、その内容は野村吉三郎とアメリカ国務長官のコーデル・ハルに伝えられ、次のような内容でまとまりました。
※この時まとめられた非公式の交渉案のことを日米諒解案と言います。(教科書には載ってないので覚える必要はありません)
ハルは日米諒解案を受け入れる条件として、当時のアメリカ外交の基本原則だった次の4原則を遵守するよう求めました。
要するに『日中戦争の和平に向けて日本のために動いてやるから、その代わり日本はもう他国を支配したり侵略したりすんなよ!』ってことをアメリカは言っています。
ここまでの話をまとめると、「ハル4原則を日本が守るのなら、アメリカは日米諒解案をベースに、公式な外交の場で日本と交渉する用意がある」ってことです。
日米交渉、グダグダになる・・・
話がまとまると、4月18日、野村は電報で現状を近衛首相に報告します・・・が、ハル4原則だけは伝えませんでした。
野村は、政府がハル4原則に反対してアメリカとの交渉に応じないことを恐れて、政府が受け入れやすい日米諒解案だけを渡したのです。
政府は、日米諒解案を見て大歓喜します。なぜかというと、日本に課せられた日中戦争の和平条件がかなりゆるかったからです。
日独伊三国同盟の継続と満州国の存在をアメリカが認め、おまけに日中戦争を終わらせてくれるのなら、願ったり叶ったりの好条件だ!これでアメリカと交渉を続けて戦争を終わらせるぞ!!
4月22日、外務大臣の松岡洋右がヨーロッパ外交を終えて帰国。松岡は、自分の知らぬ間に勝手に交渉が進められていたことに不快感を示します。
私は、4月5日にソ連と日ソ中立条約を結んできたところだ。つまり、日独伊三国同盟と日ソ中立条約によって、今の日本はドイツ・ソ連と協力的な関係にある。
この関係を全面的に押し出し、アメリカに対して『文句を言うなら、ドイツ・ソ連も黙ってねーぞ!』と脅しをかけるべきだ。そう考えれば、日米諒解案は少し軟弱すぎる。
5月3日、松岡は野村に対して日米諒解案をもっと日本に有利な内容に修正した後で、交渉をアメリカに迫るよう伝えました。
そして5月12日、野村は修正した案をハルに提出します。
修正案では、
・アメリカから中国への和平勧告は、日本の方針(近衛三原則)に則って行うこと
※近衛三原則はこちらの記事で解説しています↓
・日独伊三国同盟は、ドイツが第3国から攻められた時に発動するものであり、第3国が積極的に攻め込んできたかどうかは問わない。
・首脳会談は不要
と、当初よりもかなり強硬な内容に改められました。
・・・は?俺さ、ハル4原則を守らないとそもそも公式の外交の場は設けないって言ったよね?
それなのに、なんで当初よりアメリカに不利な上から目線の条件になってんの?こんな条件、到底受け入れられるものではない!!
日本政府はハル4原則のことを知らされていなかったので、食い違いが生じたのはある意味で当然のことでした・・・。
日米交渉、暗礁に乗り上げる・・・
6月21日、ハルは日本の修正案を受けて、アメリカ政府公認の修正案を提示します。
その内容は次のようなものでした。
・日独伊三国同盟はヨーロッパの戦争に適用しない。つまり。ドイツを援助するために同盟を発動してはならない。(事実上の軍事同盟の否定)
・日中戦争の和平は、ハル4原則に則って、アメリカが日本と中国の仲介役になること。
・満州国の承認は交渉内容で判断する。(無条件での満州国の承認は行わない)
・日本が南方の進出することを禁止する。
ハルは、日本の強硬案を受けて、それを上回る強硬案を示してきた形です。
さらに、ハルは松岡が交渉の障害になっていることを理解した上で、「日本にヒトラーに賛同するやつ(松岡)がいて、そいつが交渉の邪魔をしている」と、松岡を批判します。
ハルめ、ふざけるな!!こんな交渉案、外務大臣として絶対に認めんぞ!!
ハルと松岡の意見が真っ向対立したことによって、日米交渉は暗礁に乗り上げることになりました。
南部仏印進駐で日米関係はさらに悪化
交渉が暗礁に乗り上げた後、日本政府では「外務大臣の松岡を解任して、交渉を継続しよう!」と言う声が強まり、近衞首相も松岡をクビにすることを決心します。
実は6月22日(ハルが対案を出してきた次の日!)、ソ連とドイツが戦争を開始しました。(独ソ戦)
松岡の考えは、『ドイツ・ソ連・日本がトリオを組んで、アメリカの参戦を阻止する』というものでしたが、ドイツとソ連が戦争を開始したことで、松岡の案は白紙になってしまいます。
そんな意味でも、松岡の外交戦略は破綻していました。
近衞首相は松岡を外務大臣から解任するため7月18日に内閣を解散し、同日に松岡を抜きにした第3次近衛内閣を結成します。
こうして日米交渉が再開する・・・と思われましたが、政府は同時並行で1941年7月、フランス政府に迫り、「フランス領インドシナの共同防衛」を口実にフランス領インドシナ南部に軍隊を置きました。(南部仏印進駐)
アメリカは、交渉中にもかかわらず日本が南方進出したことにブチギレます。アメリカは、南部仏印進駐をきっかけに日本への経済制裁をさらに強め、8月には日本への石油輸出を禁止しました。
日本とアメリカの関係はさらに悪化し、交渉は前に進むどころか後退してしまったわけです。
日米交渉のその後
南部仏印進駐はフランス政府合意の上の平和的な進軍である。だから、アメリカを刺激することはないだろうと思っていたが、想定以上にアメリカとの関係が悪化してしまった。どうすればいいんだ・・・。
近衞首相は、この状況を打破するため、ルーズベルト大統領との直接会談をアメリカに打診しつつ、最悪の事態も想定してアメリカとの戦争に備えることにしました。
9月6日、今後の外交方針をまとめた帝国国策遂行要領が作られ、その中で「10月上旬までにアメリカとの話がまとまらなければアメリカと開戦する!」という方針が打ち出されます。
日本は、アメリカの経済制裁のせいで資源不足に陥っていたから、ダラダラと交渉を続けているとジリ貧になるだけなので、交渉にタイムリミットを設けたってことです。
近衛首相は、タイムリミット(10月上旬)までになんとしてもルーズベルトとの会談を実現しようと、必死の外交交渉を続けますが、アメリカが重い腰を上げることはありませんでした。
10月上旬までにルーズベルトとの会談を実現できなかった近衛首相は、なすすべを失い、10月16日、逃げるように内閣を総辞職。
さらに水面下では、第3次近衛内閣の解散と同時並行で、帝国国策遂行要領に定められた10月上旬のタイムリミットを延期するよう政府内で根回しが行われていました。
領土拡大のため戦争を望む陸軍大臣の東條英機と、それを阻止したい近衛首相、そして政府の重鎮だった木戸幸一内大臣との間で話し合いが行われ、
最終的に『東條英機に首相を任すから、アメリカとの戦争判断は延期な!』ということで話がまとまり、東條内閣が結成されました。
交渉のタイムリミットは12月1日まで延長されたものの、アメリカの日本不信は拭えず、日米交渉がこれ以上進むことはありませんでした。
進展がないまま月日だけが過ぎ、12月1日にはアメリカとの開戦を決定。12月8日には、ハワイの真珠湾へ奇襲攻撃を仕掛け、太平洋戦争が勃発することになります。
・駐米大使の野村吉三郎がハル4原則を握りつぶしたこと
・外務大臣の松岡洋右が、アメリカに強硬案を突き付けたこと
・交渉中に日本が南部仏印に進駐したこと
・ドイツがソ連と開戦したことで、アメリカにとって日本と交渉する重要性が減ったこと
などなど、いろんな要素が重なって日米交渉は失敗しに終わったってわけだね。
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