ドイツの歴史をわかりやすく解説|神聖ローマ帝国からナチス・東西ドイツ統一まで

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ドイツの歴史
もぐたろう
もぐたろう

今回は「ドイツの歴史」を、古代のゲルマン人から現代のドイツ連邦共和国まで、まるっと一本の物語として解説していくよ! 国の名前がころころ変わってややこしいけど、「バラバラだった国が、どう1つになって、どう壊れたか」だけ追いかければ必ずつながるから安心してね。

📚 この記事のレベル:高校世界史
📖 山川出版社『詳説世界史』準拠

この記事を読んでわかること
  • 神聖ローマ帝国とは何だったのか(なぜ「帝国」なのに実体がなかったのか)
  • 神聖ローマ帝国・プロイセン・ドイツ帝国の違い(いちばん混同されやすいポイント)
  • ドイツの統一が1871年までずれ込んだ理由(皇帝と教皇の争い・宗教戦争・領邦分立)
  • ナチスが台頭できた背景(第一次世界大戦の敗戦とワイマール共和国の行きづまり)
  • 東西分断から再統一までの流れ(ベルリンの壁はなぜ築かれ、なぜ崩れたのか)
  • 「このとき日本は何時代か」の対比(世界史と日本史を並べて位置をつかむ)

ドイツと聞くと、ヨーロッパの真ん中にどっしり構える、昔から強い大国というイメージがあるかもしれません。

でもドイツが1つの国としてまとまったのは、実は1871年のこと。日本でいえば明治維新の3年後という、意外なほど新しい出来事なのです。

しかもその統一から74年後の1945年、ドイツは敗戦によって連合国に分割占領され、1949年には東西2つの国家へ切り離されます。ふたたび1つの国に戻ったのは1990年でした。

この記事では、「なぜ統一がこれほど遅れたのか」「神聖ローマ帝国・プロイセン・ドイツ帝国は何が違うのか」「なぜ国が2度も壊れたのか」という3つの問いを軸に、ドイツの歴史を順番にたどっていきます。

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ドイツの歴史とは?なぜ統一が900年以上も遅れたのか

3行でわかるまとめ
  • ドイツが1つの国民国家になったのは1871年。プロイセンの首相ビスマルクが主導して、ドイツ帝国が生まれました。
  • それ以前の844年間(962年〜1806年)は神聖ローマ帝国の時代です。皇帝はいましたが、実体は大小の領邦が集まったゆるやかな連合体でした。
  • 1871年に統一 → 1945年の敗戦をへて1949年に東西分断 → 1990年に再統一。ドイツは「2度こわれて、また1つに戻った国」です。

ドイツの歴史がわかりにくい最大の理由は、「ドイツ」という言葉が指すものが、時代によってまるで別物だからです。

「ドイツ」という呼び名は、時代によって指すものが違う

①古代〜中世初期:言葉が近い部族の集まり
もともと「ドイツ人」という国民はいません。ライン川の東やドナウ川の北に住んでいたゲルマン系の諸部族が、似た言葉を話す人々としてゆるくまとまっていただけでした。

②中世〜近世:神聖ローマ帝国の中の「ドイツ」
のちに帝国は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」と自称するようになります。ただしこれは統一国家の名前ではなく、皇帝を頂点にいただく諸邦の連合体の呼び名でした。

③1871年:国民国家としてのドイツ帝国
プロイセンが中心となって諸邦をまとめ、はじめて「ドイツ」という1つの国家ができます。教科書で「ドイツ統一」と呼ばれるのは、この出来事です。

④現在:ドイツ連邦共和国
第二次世界大戦後に東西へ分かれ、1990年の再統一を経て今の国になりました。首都はベルリンです。

このうち②の期間がとにかく長く、962年から1806年まで続きます。この時代の主役が神聖ローマ帝国でした。

ここで「統一が遅れた」という言葉の中身を、数字で確かめておきましょう。帝国が成立した962年から、ドイツ帝国が生まれた1871年まで、その差は909年です。

つまり神聖ローマ帝国という枠がありながら、ドイツが1つの国家としてまとまるまでに900年余りかかった、ということになります。同じころイギリスやフランスが国王のもとで中央集権を進めていたことを思えば、これはかなり異例の遅さでした。

ゆうき
ゆうき

えっ、待って。ドイツって昔から強い国だと思ってた……。神聖ローマ帝国っていう「帝国」があったんだから、それがドイツじゃないの?

もぐたろう
もぐたろう

そこがいちばんの落とし穴なんだ。神聖ローマ帝国は、皇帝が全土を直接おさめる国じゃなかったんだよ。皇帝は選挙で選ばれるし、各地の領主は自分の軍隊も裁判所もお金も持ってる。今でいうと「EUに皇帝がついてるようなもの」ってイメージに近いかな。だから「帝国=ドイツという国」ではないんだ。

では、そのゆるい帝国はどこから生まれたのでしょうか。話は、ローマ帝国の北の森に住んでいた人々までさかのぼります。

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ゲルマン人とフランク王国――「ドイツ人」の起源

紀元前後のヨーロッパで、ライン川とドナウ川の外側に広がっていたのがゲルマン人の世界です。ローマ人から見れば、そこは帝国の外に広がる森の世界でした。

その均衡が崩れたのが4世紀後半でした。東からやってきたフン人に押し出される形で、ゲルマン諸部族が帝国領内へ移動しはじめます。これがゲルマン民族大移動です。

移動の波を受けとめきれなかった西ローマ帝国は、476年に滅びました。ゲルマン民族大移動は、古代の終わりと中世の始まりを分ける大事件として扱われます。

移動した諸部族は、旧ローマ帝国の各地に自分たちの国をつくります。そのなかでいちばん長続きし、大きく育ったのがフランク王国でした。

フランク王国はローマ・カトリック教会と手を結んで勢力を伸ばし、800年にはカール大帝がローマ教皇からローマ皇帝の冠を授けられます。西ヨーロッパに、ローマ帝国の後継者を名乗る勢力が復活したのです。

もぐたろう
もぐたろう

ちなみにカール大帝が戴冠した800年は、日本だと平安時代のはじまりのころ。桓武天皇かんむてんのうが平安京に都を移したのが794年だから、ほぼ同じ時期だと思っておくと位置がつかみやすいよ。

ところがカール大帝の死後、フランク王国は相続争いから分裂していきます。843年のヴェルダン条約で3つに分かれ、870年のメルセン条約であらためて境界線が引き直されました。

このとき生まれた東フランク王国が、のちのドイツにあたります。西フランク王国はフランス、中部の地域はイタリアへとつながっていきました。

あゆみ
あゆみ

ということは、ドイツとフランスって、もとは同じ国だったの? あんなに何度も戦争してるのに……。

もぐたろう
もぐたろう

そうなんだよ。ドイツ・フランス・イタリアの原型は、どれも同じフランク王国から分かれたきょうだいみたいなものなんだ。しかも分け方が「兄弟でどう相続するか」だったから、国境の線があいまいなまま残った。この分けきれなかった境目が、のちのアルザス・ロレーヌをめぐる争いまで尾を引くことになるんだよ。

こうして「ドイツの原型」が姿を現しました。次の章では、その東フランク王国から、962年から1806年まで844年続くことになる帝国が生まれます。

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神聖ローマ帝国の成立――皇帝と教皇、分立する領邦

東フランク王国の王だったオットー1世は、東方から侵入してきたマジャール人を955年のレヒフェルトの戦いで撃退し、諸侯からの信望を集めます。そして962年、ローマ教皇から皇帝の冠を授けられました。これが神聖ローマ帝国の始まりとされています。

名前だけ聞くと、ローマ帝国が復活した強大な国のように思えます。しかし中身はまったく違いました。

神聖ローマ帝国は本当に一つの「ドイツ」だったの?

答えは「いいえ」です。神聖ローマ帝国の皇帝は世襲ではなく、有力な諸侯による選挙で選ばれました。1356年の金印勅書では、選ぶ権利を持つ選帝侯せんていこうが7人と定められています。

しかも各地の諸侯や都市は、自前の軍隊・裁判所・税を持っていました。皇帝の命令が全土にそのまま通る仕組みではなかったのです。

のちの18世紀には、大小の領邦や自由都市が300ほどにのぼったとされています(数え方によって数字は変わり、諸説あります)。フランスの思想家ヴォルテールが「神聖でもローマ的でも帝国でもない」と皮肉ったのは、この実態を突いたものでした。

この「まとまっていない」という前提こそ、後のプロイセン台頭とドイツ統一の遅れにまっすぐつながっていきます。

皇帝の力が伸びなかった理由は、もう1つあります。ローマ教皇との争いです。

当時の皇帝は、司教や修道院長といった聖職者を任命する権利を握っていました。教会の役職に自分の味方を送り込めるので、これは統治のうえで大きな武器だったのです。

ところが教会側は「聖職者を任命できるのは教皇だけだ」と主張します。こうして11世紀後半に始まったのが叙任権闘争じょにんけんとうそうでした。

もぐたろう
もぐたろう

叙任権っていうのは、要するに「教会のポストの人事権」のこと。会社でいえば、支店長を誰にするかを決める権利だね。これを取られると、皇帝は各地に自分の味方を配置できなくなる。だからどうしても譲れなかったんだ。

この争いが頂点に達したのが1077年です。教皇グレゴリウス7世に破門された皇帝ハインリヒ4世が、雪のカノッサ城の前で3日間ゆるしを乞うたと伝えられています。世にいうカノッサの屈辱です。

叙任権闘争は1122年のヴォルムス協約でひとまず決着します。しかし皇帝が教皇に頭を下げた事実は、諸侯に「皇帝は絶対ではない」と教えることになりました。

ゆうき
ゆうき

皇帝なのに、教皇に謝りに行ったの? 軍隊で攻め込めばよかったんじゃ……。

もぐたろう
もぐたろう

それができない事情があったんだ。破門されると「この人の命令に従わなくていい」と教会が公認したことになる。つまり皇帝に不満を持つ諸侯にとっては、反乱のお墨付きなんだよ。国内の敵に足元をすくわれる前に、まず破門を解いてもらうしかなかった。皇帝の権威が諸侯に対して弱かったからこそ、こうなったってわけだね。

皇帝がイタリア政策や教皇との争いに力を注いでいるあいだに、ドイツ本国では諸侯の自立が進みました。統一を遠ざける土台は、こうしてできあがっていきます。そこへ、帝国をさらに引き裂く出来事が起こりました。

宗教改革と三十年戦争――ルターとドイツの荒廃

1517年、ヴィッテンベルク大学の神学教授が、教会のあり方を問う95か条の論題を公表しました。ドイツを、そしてヨーロッパ全体を揺るがす動きの始まりです。

その人物がマルティン・ルターです。きっかけは、ローマのサン・ピエトロ大聖堂の建築資金を集めるためにドイツで売られていた贖宥状しょくゆうじょう(免罪符)でした。

お金で罪の償いが軽くなるという説明に、ルターは強く反発します。95か条の論題は城教会の扉に掲示されたと伝えられていますが、掲示があったかどうかについては研究者のあいだで議論もあります。

マルティン・ルター
マルティン・ルター

紙切れを買えば罪が軽くなるだと…? 救われるかどうかは、信じる心の問題のはずだ。金でやりとりできるものではない。この疑問を、学問の場できちんと問いたい。

ルターの主張は、活版印刷によって短期間でドイツ中に広がりました。マルティン・ルターは1521年のヴォルムス帝国議会で主張の取り消しを求められますが、これを拒みます。

この動きが広がった背景には、宗教だけでなく政治の事情もありました。領邦君主にとって、ローマ教会から距離を置くことは、教会領や教会への上納金を自分の手に取り戻す好機でもあったのです。宗教改革がドイツで最初に燃え広がったのは、この利害が重なったからでした。

もぐたろう
もぐたろう

1555年のアウクスブルクの和議で、領邦君主はカトリックかルター派かを自分で選べるようになったんだ。信仰の自由が個人に認められたわけじゃなくて、「殿さまの宗派=その領邦の宗派」という決着だったんだよ。つまり宗教のちがいが、そのまま領邦のちがいとして固定されちゃったんだ。

この火種は、1517年の宗教改革から101年後の1618年に爆発します。ボヘミア(現在のチェコ)でのプロテスタント貴族の反乱をきっかけに、三十年戦争が始まりました。

1618年から1648年まで、まさに30年におよぶ戦いです。デンマーク・スウェーデン・フランスといった周辺国が次々と介入し、戦場のほとんどは神聖ローマ帝国の領内でした。カトリック国のフランスがプロテスタント側について参戦したことからも、この戦争が宗教だけの争いではなくなっていたことがわかります。

被害の大きさについては、ドイツ全体で人口の2〜3割が失われ、戦場となった地域ではさらに大きな損失が出たとする推計があります。ただし当時の人口統計は限られており、数値には幅があって諸説あります。

あゆみ
あゆみ

宗教のちがいが、どうして30年も続く戦争になっちゃうの?

もぐたろう
もぐたろう

宗派がそのまま「どの殿さまにつくか」を意味してたからだよ。だから宗教の対立は、そのまま領地と権力の取り合いになる。しかも周りの国から見れば、帝国の内輪もめは自分の勢力を伸ばす絶好のチャンスなんだ。同じころオランダ独立戦争(八十年戦争)も終盤を迎えていて、ヨーロッパ全体がハプスブルク家との戦いに巻き込まれていたんだよ。

📝 このとき日本は? 三十年戦争が続いた1618年から1648年は、日本では江戸時代の初めにあたります。1637年に島原・天草一揆いっきが起こり、1639年にはポルトガル船の来航が禁じられて、いわゆる鎖国の体制が固まっていきました。ヨーロッパが宗教をめぐる戦争で荒れていたころ、日本はキリスト教を締め出す方向へ進んでいたわけです。

1648年のウェストファリア条約で戦争は終わりました。この条約で各領邦にはほぼ独立国並みの主権が認められ、帝国のばらばらぶりは制度として固定されます。神聖ローマ帝国が「有名無実」と言われるのは、ここからです。

皇帝の権威が名目だけになった帝国の中で、次に力をつけたのはどこだったのでしょうか。次の章では、北の辺境から台頭した1つの領邦を追いかけます。

プロイセンの台頭――オーストリア・ハプスブルク家との対立

プロイセンはもともと、ドイツ北東部のブランデンブルクを治めていた選帝侯家(ホーエンツォレルン家)が、バルト海沿いのプロイセン公国を受け継いだことから始まります。土地はやせ、人口も少ない北の辺境でした。

1701年、この家の当主が「プロイセンにおける王」を名乗ることを認められ、プロイセン王国が成立します。以後の歴代の王は、限られた財政を軍隊に集中させ、規律の厳しい常備軍を育てていきました。

軍の将校には、エルベ川より東の大地主であるユンカーと呼ばれる貴族が多く登用されました。国家予算の多くが軍にまわされたため、当時のプロイセンは「国家が軍隊を持つのではなく、軍隊が国家を持っている」と評されたと伝えられています。

王が官僚と軍隊を通じて国をまとめるこの体制は、同時代のフランスやスペインと同じく絶対王政の一つの形でした。ただしプロイセンの場合は、王が「国家第一の下僕」を自称して自ら質素に働く、軍事色の強いスタイルが特徴です。

一方、神聖ローマ皇帝の位を代々ほぼ独占していたのが、オーストリアを本拠とするハプスブルク家でした。15世紀以降、皇帝はほぼこの家から選ばれ続けます。

ハプスブルク家は婚姻政策で領土を広げ、スペインやハンガリー、ボヘミアにまで影響を及ぼす大勢力でした。ドイツの「本家」といえば、長らくこちらだったのです。

もぐたろう
もぐたろう

ここが大事なところ。ドイツ語圏には、南に「格式のあるオーストリア」、北に「新興の軍事国プロイセン」という2つの大国が並び立ってしまったんだ。どっちがドイツをまとめるのかが決まらないまま、1701年のプロイセン王国成立から1866年に決着がつくまで、160年あまりにらみ合うことになるんだよ。

両者が正面からぶつかったのが、1740年に始まるオーストリア継承戦争です。プロイセンのフリードリヒ2世(大王)は、ハプスブルク家のマリア・テレジアが家督を継いだ機会をとらえ、織物業がさかんで人口も多い豊かな地方シュレジエンに侵攻しました。

さらに1756年からの七年戦争でも、プロイセンはシュレジエンを守りきります。辺境の小国が、ヨーロッパの列強の一角として認められた瞬間でした。

ゆうき
ゆうき

オーストリアとプロイセンって、結局どっちが「本家のドイツ」なの? ここ、混乱しそう……。

もぐたろう
もぐたろう

「格式ならオーストリア、実力ならプロイセン」で覚えるといいよ。皇帝の位を持ってたのはオーストリアのハプスブルク家。でも軍事力で伸びたのはプロイセン。そして最終的にドイツをまとめるのはプロイセンのほうなんだ。この勝負がついたのが1866年の普墺戦争ふおうせんそうで、ここがドイツ統一の分かれ目だよ。

ただし18世紀の時点では、まだ「ドイツを1つの国にしよう」という発想そのものがありません。それを生み出したのは、フランスからやってきた1人の軍人でした。

ナポレオンの支配とドイツ国民意識の芽生え

フランス革命後のヨーロッパを席巻したフランス軍は、ドイツにも押し寄せます。1806年のイエナ・アウエルシュテットの戦いで、あの軍事国家プロイセンが完敗しました。

同じ1806年、西南ドイツの諸邦はフランスの保護下でライン同盟を結成し、帝国から離脱します。これを受けて皇帝フランツ2世は退位を宣言し、神聖ローマ帝国は消滅しました。962年から数えて844年続いた枠組みの終わりです。

皮肉なことに、ドイツ人が「自分たちは1つの国民だ」と意識しはじめたのは、このあとでした。支配してきたナポレオンへの反発が、まとまりの気持ちを生んだのです。

哲学者フィヒテはベルリンで「ドイツ国民に告ぐ」と題した連続講演を行い、教育を通じた国民の再生を訴えました。プロイセンではシュタインとハルデンベルクが農民解放や行政改革を進め、軍も国民から広く兵を集める形へ変わっていきます。

そして1813年のライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)で、プロイセン・ロシア・オーストリア・スウェーデンの連合軍がナポレオンを破ります。ドイツにとってこの戦いは「解放戦争」と呼ばれ、国民意識の原体験になりました。

もぐたろう
もぐたろう

ここ、流れとしてすごく面白いところなんだ。844年続いた帝国が消えて、はじめて「じゃあドイツって何なんだ?」が真剣に問われるようになった。器がなくなって、中身を探しはじめたって感じだね。

あゆみ
あゆみ

何百年もバラバラだったのに、どうして急に「同じドイツ人だ」って気持ちが生まれたの?

もぐたろう
もぐたろう

「共通の敵」ができたからだよ。バイエルン人でもプロイセン人でもなく、フランス軍から見れば全員まとめて「ドイツ人」。占領され、税をとられ、兵を出させられる経験を一緒にしたことで、はじめて「自分たちは同じ側だ」と感じるようになったんだ。国民意識って、外から押されたときに固まりやすいんだよね。

気持ちは芽生えました。しかし、それを1つの国家にまとめる力はまだありません。その仕事を引き受けたのが、次の章の主役です。

ビスマルクとドイツ統一(1871年)――プロイセン主導のドイツ帝国

ナポレオン戦争後の1815年、ウィーン会議の結果としてドイツ連邦が発足しました。35の君主国と4つの自由都市、あわせて39の国からなる、ゆるやかな連合体です。統一国家にはほど遠い姿でした。

それでも統一へ向かう動きは進みます。1834年にはプロイセン主導でドイツ関税同盟が発足し、加盟する諸邦のあいだで関税の壁が取り払われました。経済の面から先に1つになりはじめたのです。

1848年には三月革命が起こり、フランクフルト国民議会が開かれます。しかし憲法を作って統一国家をつくろうという試みは、オーストリアを含めるか外すかで意見が割れ、プロイセン王が皇帝の位を辞退したことで挫折しました。話し合いによる統一は、ここで一度潰えます。

この行きづまりのなか、1862年にプロイセン首相となったのがオットー・フォン・ビスマルクでした。就任直後の9月30日、議会(下院)の予算委員会での演説で、彼はこう言い切ったと伝えられています。

オットー・フォン・ビスマルク
オットー・フォン・ビスマルク

いま直面している問題は、演説や多数決で決まるものではない。決めるのは鉄と血だ。議会が予算を認めないなら、それでも私は軍を強くする。

これが1862年の「鉄血演説」です。ここでいう鉄は兵器、血は兵士を指し、話し合いではなく軍事力で統一を進めるという宣言でした。ビスマルクが「鉄血宰相」と呼ばれるゆえんです。

宣言のとおり、ビスマルクは3つの戦争で統一を実現していきます。1864年のデンマーク戦争、1866年の普墺戦争、そして1870年から71年の普仏戦争ふふつせんそうです。

普墺戦争でオーストリアを破ったことで、ドイツ連邦は解体されました。オーストリアを除いてドイツをまとめる「小ドイツ主義」の路線が、ここで確定します。続く普仏戦争では、南ドイツ諸邦も開戦の時点からプロイセン側について参戦します。そして戦争のさなか、南ドイツ諸邦はプロイセンが率いる北ドイツ連邦への加入に合意しました。

もぐたろう
もぐたろう

3つの戦争は「デンマーク→オーストリア→フランス」の順に、じゃまな相手をひとつずつ外していく作業なんだ。まず北の領土問題を片づけ、次にライバルのオーストリアを追い出し、最後に外から口を出してくるフランスをたたく。順番に意味があるってわかると、一気に覚えやすくなるよ。

そして1871年1月18日、占領下のヴェルサイユ宮殿の鏡の間で、プロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝として即位します。ドイツ帝国の成立です。962年から909年を経て、ドイツはようやく1つの国家になりました。同じ1871年、日本では廃藩置県が行われています。ばらばらの領地を1つの中央政府のもとにまとめる作業を、ドイツと日本はほぼ同じ時期に進めていたことになります。

同じ年の5月に結ばれたフランクフルト講和条約で、ドイツはフランスからアルザスとロレーヌの一部(アルザス・ロレーヌ)を獲得し、多額の賠償金も受け取りました。フランク王国の分割以来あいまいなままだった境目を、力ずくで自国側へ引き寄せたことになります。

この土地はこののち、両国のあいだで持ち主が何度も入れかわることになります。ドイツ統一の達成は、同時にフランスとの深い遺恨の始まりでもありました。

神聖ローマ帝国・プロイセン・ドイツ帝国は何が違うの?

この3つは、範囲がだんだん変わっていく別ものです。整理しておきましょう。

①神聖ローマ帝国(962〜1806年)……ドイツ語圏を中心に、数多くの領邦が集まったゆるやかな連合体。皇帝は選挙で選ばれ、実権は各領邦にありました。

②プロイセン……その連合体の中にあった領邦の1つ。のちに独立した王国となり、軍事力で列強に成長しました。あくまで「ドイツの一部」です。

③ドイツ帝国(1871〜1918年)……そのプロイセンが中心となって、バイエルンなど他の諸邦を束ねて作った連邦国家。皇帝はプロイセン王が兼ね、首相もプロイセン首相が兼ねました。

つまりプロイセンはドイツ帝国の中核であって、同じものではありません。「連合体 → その中の一領邦 → その領邦が主導して作った国家」という順で押さえると、混乱しなくなります。

ゆうき
ゆうき

じゃあプロイセンとドイツ帝国って、名前が変わっただけで同じ国ってこと?

もぐたろう
もぐたろう

ちがうんだ。ドイツ帝国ができたあとも、プロイセン王国もバイエルン王国も国として残ってる。日本でいうと、都道府県がそのまま残ったまま、その上に国ができたイメージかな。ただしプロイセンが人口も面積も飛び抜けて大きくて、皇帝も首相もプロイセンから出す仕組みだったから、実質はプロイセンが動かす国だったんだよ。

こうしてドイツはヨーロッパの中央に強大な統一国家として登場しました。しかしこの帝国は、意外なほど短命に終わります。

第一次世界大戦と帝政の崩壊、ワイマール共和国

ビスマルクは統一後、周辺国と複雑な同盟を結んでフランスを孤立させ、ヨーロッパの均衡を保とうとしました。しかし1890年に彼が辞職すると、皇帝ヴィルヘルム2世は海軍を増強し、植民地獲得へ乗り出す積極外交へ転じます。

その結果、ドイツはイギリス・フランス・ロシアと対立を深めていきました。そして1914年、第一次世界大戦が始まります。

短期決戦のもくろみは外れ、戦争は4年におよぶ総力戦となりました。封鎖によって食料も燃料も不足し、国内では戦争にうんざりする空気が広がっていきます。

1918年11月、キール軍港での水兵の反乱をきっかけにドイツ革命が起こりました。革命は各地へ広がり、ヴィルヘルム2世は退位してオランダへ亡命します。1871年に生まれた帝政は、47年で幕を閉じました。

もぐたろう
もぐたろう

900年かけてやっと手に入れた統一国家が、たった47年で形を変えちゃったんだ(1871年から1918年だから47年だね)。しかもこのあと、もっと大きな崩れ方をすることになる。ドイツの歴史が「分裂と統一のくり返し」って言われるのは、こういうところなんだよ。

📝 史実と通説:「背後の一突き」 敗戦後のドイツでは、「前線の軍は負けていなかったのに、国内の革命勢力に背後から刺されたせいで負けた」という説明が広まりました。「背後の一突き」と呼ばれる主張です。しかし実際には、1918年の秋の時点で軍の継戦能力は限界に達しており、休戦を政府に求めたのは軍の最高指導部のほうでした。事実にもとづく説明ではありませんが、この物語は共和国と講和条約への不信をあおる材料として、のちのちまで使われていくことになります。

帝政に代わって成立したのがワイマール共和国です。1919年、ワイマールの地で開かれた国民議会で新しい憲法が制定されました。

ワイマール憲法は、男女の普通選挙や、労働者の団結権・生存権といった社会権を定めた点で、当時としてはきわめて先進的な憲法でした。

しかし新しい共和国は、重い荷物を背負ってのスタートでした。1919年に結ばれたヴェルサイユ条約は、ドイツに全植民地の放棄、アルザス・ロレーヌのフランスへの返還、軍備の大幅な制限、そして巨額の賠償金を課したのです。

賠償の総額は1921年に1320億金マルクと決められたと伝えられますが、実際に支払われた額や当時の負担の重さについては研究者のあいだで評価が分かれ、諸説あります。確かなのは、多くのドイツ国民がこの条約を「一方的に押しつけられた命令」と受け止めたことでした。

あゆみ
あゆみ

そんなに進んだ憲法があったのに、民主主義はうまくいかなかったの?

もぐたろう
もぐたろう

いかなかったんだ。1923年には物価が天文学的に上がるハイパーインフレが起きて、貯金の価値がほとんど消えてしまった。生活が苦しいと「民主主義は役に立たない」という不満が育つ。しかもワイマール憲法には、大統領が緊急時に議会ぬきで命令を出せる条文もあった。この2つが後から効いてくるんだよ。

不況、賠償、そして議会政治への失望。ここに1929年から始まる世界的な大不況が重なったとき、共和国はもちこたえられなくなります。次の章では、ドイツが独裁へ向かっていく過程を見ていきます。

ナチス・ドイツと第二次世界大戦

1929年10月、ニューヨークの株式市場の暴落から始まった世界恐慌は、ドイツを正面から直撃しました。

ワイマール共和国の景気は、アメリカから流れ込む短期の資金に支えられていたためです。その資金が一斉に引きあげられると、企業の倒産と失業が急速に広がりました。

1932年には失業者が約600万人に達したとされています。生活が立ちゆかなくなった人々のあいだで、「今の政治では駄目だ」という気持ちが広がっていきました。

議会は各党の対立で物事を決められず、大統領の緊急令にたよる統治が当たり前になっていきます。民主主義の仕組みが、目に見えて機能を失っていったのです。

この行きづまりのなかで支持を伸ばしたのが、アドルフ・ヒトラーを指導者とする国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)でした。

ナチスが掲げたのは、ヴェルサイユ条約の破棄、失業の解消、そして「強いドイツを取り戻す」という主張です。屈辱と貧しさに苦しむ人々にとって、それはわかりやすい答えに見えました。

得票は選挙のたびに伸びていきます。1928年の総選挙で12議席だったナチスは、1930年に107議席、1932年7月には230議席を得て議会の第一党になりました。

そして1933年1月30日、ヒトラーは大統領ヒンデンブルクによって首相に任命されます。クーデターではなく、憲法の定める手続きにしたがった任命でした。

ここからの動きは速いものでした。1933年2月27日の国会議事堂放火事件を口実に、翌日、大統領緊急令によって言論・集会の自由などの基本権が停止されます。共産党の議員らは逮捕され、選挙も自由なものではなくなりました。

続く3月23日、政府が議会を通さずに法律を制定できるようにする全権委任法(授権法)が可決されました。ワイマール憲法は廃止されないまま、議会は自分の手で立法の権限を手放したのです。

📝 独裁は「憲法を壊して」ではなく「憲法の内側で」完成した ナチスの権力掌握は、①選挙で第一党になる → ②憲法にもとづいて首相に任命される → ③緊急令で基本権を止める → ④全権委任法で立法権を政府へ移す、という順で進みました。どの段階も、形のうえでは合法の手続きです。ワイマール憲法は最後まで廃止されませんでした。憲法があっても、経済が壊れ、議会が何も決められず、「強い誰かに任せたい」という空気が広がったとき、民主主義は内側から止まりうる——ここがこの時代を学ぶ最大の意味だとされています。

翌1934年に大統領ヒンデンブルクが死去すると、ヒトラーは大統領と首相の権限をあわせ持つ総統となりました。ナチス以外の政党はすべて解散させられ、一党独裁が完成します。

ナチスは「ドイツ民族の優秀さ」を掲げ、その裏返しとして、ユダヤ人を社会から段階的に排除していきました。差別は法律で権利を奪うことから始まり、やがて暴力へ、そして戦争が始まると組織的な殺害へと段階を上げていきます。

占領地に置かれた強制収容所・絶滅収容所で命を奪われたユダヤ人は、およそ600万人とされています(正確な人数は資料により幅があります)。この一連の迫害と虐殺はホロコーストと呼ばれ、ロマの人々、障害のある人々、政治的な反対者も対象となりました。

📝 ホロコーストにいたる段階 1935年のニュルンベルク法で、ユダヤ人は市民としての権利を法律によって奪われました。1938年11月には各地の商店やシナゴーグが襲撃されます(「水晶の夜」と呼ばれます)。権利を奪うことから暴力へ、そして戦争の開始とともに収容所での殺害へと、段階を追って進んでいったことがわかります。ユダヤ人がどのような信仰と歴史を持つ人々だったのかは、ユダヤ教の記事もあわせて読んでみてください。

外に向けても、ナチス政権は条約の枠をつぎつぎに破っていきました。1935年に再軍備を宣言し、1936年にはヴェルサイユ条約で非武装とされたラインラントへ軍を進めます。

1938年にはオーストリアを併合し、同じ年のミュンヘン会談ではチェコスロヴァキアのズデーテン地方を手に入れました。イギリスとフランスは戦争を避けるために譲歩しましたが、翌1939年3月、ドイツはチェコスロヴァキアそのものを解体します。

1939年8月、ドイツはソ連と不可侵条約を結びました。そして9月1日のポーランド侵攻に対してイギリス・フランスが宣戦し、第二次世界大戦が始まります。

開戦後のドイツは、1940年にデンマーク・ノルウェー・オランダ・ベルギーを制圧し、6月にはフランスを降伏させました。第二次世界大戦のヨーロッパ戦線のなかで、この時期がドイツの勢力の頂点にあたります。

しかし1941年6月にソ連へ攻め込んだ独ソ戦が転機となりました。1942年から43年にかけてのスターリングラードでの敗北を境に、ドイツは後退を続けることになります。

1944年6月には連合軍がノルマンディーに上陸し、東西から挟まれる形になりました。1945年4月30日にヒトラーは自ら命を絶ち、5月8日、ドイツは無条件降伏します。

1933年に政権を握ってから1945年の敗戦まで、ナチスの支配はわずか12年でした。その12年のあいだに、ドイツは国土を焼かれ、ヨーロッパ全体に計り知れない被害をもたらしたのです。

もぐたろう
もぐたろう

ここは、覚えるというより考えてほしいところなんだ。ヒトラーは軍を動かして権力を奪ったわけじゃない。選挙で票を集めて、憲法の手続きを通って首相になった。仕事がなくなって、暮らしが立ちゆかなくて、議会が何も決められない——その状態が続いたときに、人は「誰でもいいから決めてくれる人」を選んでしまうことがある。ドイツだけに起きた特別な話としてではなく、仕組みの話として読んでおいてほしい。

敗れたドイツを待っていたのは、国そのものを2つに分けられるという結末でした。次の章では、その分断の時代を見ていきます。

東西分断とベルリンの壁――冷戦下のドイツ

1945年5月の降伏後、ドイツはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4か国によって分割占領されました。首都ベルリンも、同じように4つの地区へ区切られます。

やっかいだったのは、そのベルリンがソ連の占領地域のまん中にあったことです。西側3か国が管理する西ベルリンは、東側の海に浮かぶ島のような存在になりました。

西側とソ連の対立は深まっていきます。1948年6月、西側が占領地域で新しい通貨を導入すると、ソ連は西ベルリンへの陸路をすべて封鎖しました。

西側は食料も石炭も空から運び込むという方法で対抗します。封鎖は1949年5月に解かれました。力ずくの圧力が通じないことがはっきりした一方、東西の溝は決定的になります。

そして1949年5月に西側でドイツ連邦共和国(西ドイツ)が、10月には東側でドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立しました。1871年の統一からわずか74年後の1945年に敗れたドイツは、こうして2つの国家へ分かれることになったのです。

2つのドイツは、冷戦の構造のなかで別々の陣営に組み込まれていきます。1955年、西ドイツはNATO(北大西洋条約機構)に加盟し、東ドイツはソ連が主導するワルシャワ条約機構へ加わりました。

もぐたろう
もぐたろう

地図の上では線が1本引かれただけに見えるけど、実際にはとんでもないことなんだ。親きょうだいが別々の国の人になって、手紙も自由には出せない。同じ言葉を話して同じ町で育った人たちが、1949年から1990年まで、ずっと別の国の国民として暮らすことになったんだよ。

経済の差もはっきり出ました。西ドイツは1950年代に「奇跡の経済復興」と呼ばれる高い成長をとげ、一方の東ドイツは計画経済のもとで生活物資の不足に悩みます。

豊かな西を目指して、東から人が流れ出していきました。1949年から1961年までに250万人以上が東から西へ移ったとされています(推計には幅があり、300万人を超えるとする研究もあります)。若い働き手や技術者が抜けていくことは、東ドイツにとって致命的でした。

そこで東ドイツは、1961年8月13日の未明、東西ベルリンの境界に有刺鉄線を張りめぐらせます。これがのちにコンクリートの壁となるベルリンの壁の始まりでした。

壁は、東ドイツ政府にとって人口の流出を止めるための装置でした。1961年に築かれたベルリンの壁は、1989年に崩れるまで28年にわたってベルリンを分け続けます。

ゆうき
ゆうき

そもそも、なんで同じドイツが2つに分かれちゃったの? 誰かが「分けよう」って決めたの?

もぐたろう
もぐたろう

最初から2つの国を作るつもりだった人はいないんだ。4か国で一緒に占領して、いずれ1つの国へ戻す——という約束だったんだよ。でも「どんな国に戻すか」で米ソが折り合えなかった。西は自由な選挙と市場経済、東は共産党が指導する社会主義。妥協できないまま、それぞれの占領地域で別々に国づくりが進んでしまった。分断は「決めた結果」じゃなくて、「決められなかった結果」なんだ。

壁は東ドイツの体制を延命させました。しかしそれは、人々の不満をせき止めていただけだったのです。

ベルリンの壁崩壊と再統一(1990年)、そして現代ドイツ

変化は東ドイツの外から始まりました。1985年にソ連の指導者となったゴルバチョフがペレストロイカ(立て直し)を進め、東ヨーロッパの国々への締めつけをゆるめたのです。

1989年5月、ハンガリーがオーストリアとの国境のフェンスを撤去します。東ドイツの人々はチェコスロヴァキアやハンガリーを経由して西側へ抜ける道を見つけ、脱出が止まらなくなりました。

秋になると、ライプツィヒなどの都市で市民が毎週デモを行うようになります。10月には長く東ドイツを率いてきたホーネッカー書記長が退陣しました。

そして1989年11月9日の夜、旅行の自由化について説明した政府報道官の発表が「ただちに有効」と受け取られ、国境の検問所に人々が殺到します。押しとどめきれなくなった検問所は次々と開かれ、1961年から立ち続けた壁は、この夜、事実上その役目を終えました。

そこからの動きも速いものでした。1990年3月に東ドイツで初めての自由な選挙が行われ、7月には通貨が統合されます。

1990年10月3日、東ドイツの5つの州が西ドイツの基本法のもとへ加わる形で、東西の統一が実現しました。これがドイツ再統一です。1989年11月9日の壁崩壊から数えて、11か月ほどの出来事でした。

📝 「1871年の統一」と「1990年の統一」は別のできごと 1871年は、プロイセンが3つの戦争を経て多数の領邦を束ね、ドイツ帝国という国家を新しくつくった「建国」です。これに対して1990年は、すでに存在していた西ドイツへ東ドイツの5州が加わる形をとった「再統一」でした。同じ「ドイツ統一」という言葉でも、片方は国が生まれた瞬間、もう片方は分かれていた国民が元に戻った瞬間を指します。検索や問題文で「ドイツ統一」と出てきたら、まず1871年か1990年かを確かめる癖をつけると混乱しません。

もぐたろう
もぐたろう

1949年に2つに分かれて、1990年にまた1つに戻った。別々の国だったのは41年間だね。壁が開いてから統一まではたった1年足らずで、当時の人にとっても「まさかこんなに早く」という速さだったんだ。

ただし、統一は喜びだけをもたらしたわけではありません。1949年から1990年まで別々の経済で動いてきた2つの国をつなぐには、大きな費用がかかりました。

1991年には、旧東ドイツ地域の再建を支えるために所得税などへ上乗せする「連帯税」が導入されます。道路や鉄道、工場の立て直しには、長い年月と多額の資金が投じられました。なおこの連帯税は、2021年の改正で大部分の納税者が負担を免除され、現在は高所得層などに限って続いています。

1990年の統一から現在に至るまで、旧東ドイツ地域の一人あたりの経済力は西側の水準に届いていないとされ、東西の経済格差はいまも課題として残っています。

一方で現代のドイツは、EU(欧州連合)のなかで最大の経済規模をもつ国となりました。2010年前後のユーロ危機では、財政が苦しくなった国を支える枠組みづくりで中心的な役割を担っています。

社会の面では、戦後に多くの外国人労働者を受け入れてきた歴史があり、2015年には中東などからの難民を大きく受け入れる決断をしました。多様化する社会をどう運営していくかは、現在も議論が続いているテーマです。

エネルギーの分野では、2011年の福島第一原子力発電所の事故を受けて原子力からの撤退を決め、2023年4月に国内最後の原子力発電所を停止しました。

そして現代ドイツを語るうえで欠かせないのが、過去との向き合い方です。

1970年、ブラント首相はワルシャワのゲットー跡の記念碑の前でひざまずき、ナチスの犯罪に対する姿勢を世界へ示しました。1985年には、ヴァイツゼッカー大統領が敗戦から40年の演説で、過去から目をそむけないことの大切さを語っています。

学校ではナチス時代を繰り返し学び、被害者への補償も長年にわたって続けられてきました。2005年にはベルリンの中心部に、虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑がつくられています。

過ちを忘れないことを国の土台に置く。この姿勢は「記憶の文化」と呼ばれ、戦後のドイツが国際社会で信頼を取り戻していく支えになったと評価されています。

あゆみ
あゆみ

今のドイツがEUの真ん中にいるのって、こういう歴史があったからなんだね。

もぐたろう
もぐたろう

そうなんだ。2度の大戦で「力でヨーロッパをまとめようとして失敗した」経験があるからこそ、戦後のドイツは逆のやり方を選んだ。まずフランスと石炭・鉄鋼を共同で管理するところから始めて、少しずつ国どうしの結びつきを深めていった。それが今のEUにつながっていくんだよ。ヨーロッパの真ん中という場所は千年前から変わらないけど、そこでの振る舞い方が変わった。それが1945年以降のドイツのいちばん大きな変化かもしれないね。

押さえておきたいポイント

ここまでの流れのなかで、とくに押さえておきたいポイントをまとめます。読み終えたあとの振り返りにも使ってください。

押さえておきたい要点
  • 神聖ローマ帝国(962〜1806年)とドイツ帝国(1871〜1918年)の区別:前者は多数の領邦が集まった連合体で皇帝は選挙で選ばれ、後者はプロイセン王を皇帝とする連邦国家。プロイセンはドイツ帝国の中核であって同じものではない、という関係が要点です。
  • 統一への助走(1815年→1834年→1848年):ウィーン会議後のドイツ連邦(39の国からなる連合体)→ドイツ関税同盟→フランクフルト国民議会の挫折。経済の統一が政治の統一に先行した点が見どころです。
  • ビスマルクと3つの戦争:鉄血演説(1862年)→デンマーク戦争(1864年)→普墺戦争(1866年)→普仏戦争(1870〜71年)→1871年ドイツ帝国成立。オーストリアを外す「小ドイツ主義」で統一された点が要点です。
  • ヴェルサイユ条約とワイマール憲法(ともに1919年):巨額の賠償・軍備制限を課した条約と、社会権や男女普通選挙を定めた当時最先端の憲法。この2つはセットで押さえます。
  • ナチスの政権掌握(1933年):世界恐慌(1929年)→失業増大→ナチス第一党(1932年)→首相任命(1933年1月)→全権委任法(1933年3月)。武力ではなく合法的な手続きで独裁が完成した流れが要点です。
  • 東西分断と再統一:東西ドイツ成立(1949年)→ベルリンの壁建設(1961年)→壁崩壊(1989年)→再統一(1990年)。「1871年=建国/1990年=再統一」の区別まで押さえておきたいところです。

📌 整理のコツ:年号は「962・1806・1871・1919・1933・1945・1949・1961・1989・1990」を縦に並べ、「成立・消滅・統一・共和国・独裁・敗戦・分断・壁・壁崩壊・再統一」と対応させると流れごと覚えられます。混同注意は2つだけ。①神聖ローマ帝国とドイツ帝国は別もの、②「ドイツ統一」は1871年と1990年の2回ある。この2点を取り違えなければ、ドイツ史の骨格は崩れません。

ゆうき
ゆうき

ドイツ史って年号が多すぎて、どこから覚えればいいのかわからないよ…。

もぐたろう
もぐたろう

全部を平らに覚えようとするから大変なんだ。まずは1871・1945・1990の3つだけでいい。統一・敗戦(このあと分断)・再統一だね。この3本の柱を立ててから、間の出来事をぶら下げていくと崩れないよ。そこに神聖ローマ帝国の962年と1806年を足せば、それだけで大きな流れは説明できるようになるんだ。

ドイツ史の理解を深めるおすすめ本

もぐたろう
もぐたろう

ここまでで、ドイツ史の大きな流れはつかめたはず。もっと詳しく、通史としてじっくり追いかけたい人のために、おすすめの1冊を紹介するね。

①ドイツ史の流れを一冊でつかみたいなら|図版豊富な2000年通史

ジェームズ・ホーズ『超約 ドイツの歴史』(東京書籍、2024年刊)は、古代のゲルマン人の台頭からメルケル退陣後までの2000年を超えるドイツ史を、4つの時代区分で大胆に要約した一冊です。カラーの図版や地図が豊富に収録されており、この記事で追ってきた流れを、より詳しい背景とともに確認し直せます。原書は2017年にイギリスで刊行されてベストセラーとなり、ドイツ語・イタリア語をはじめ各国語に翻訳されました。著者のジェームズ・ホーズはオックスフォード大学などでドイツ語・ドイツ文学を学び、複数の大学でドイツ語講師を務めた経歴を持つイギリスの作家です。

超約 ドイツの歴史

ジェームズ・ホーズ 著|東京書籍

✓ こんな人におすすめ

ドイツ史の大きな流れを図版とともに一冊でおさらいしたい人。古代ゲルマン人から現代までを通しで確認したい人。

△ こんな人には向かない

神聖ローマ帝国や特定の時代・人物だけを、より専門的に深掘りしたい人には記述がやや駆け足に感じられる場合があります。

よくある質問(FAQ)

ゲルマン諸部族からフランク王国が生まれ、その分裂によってできた東フランク王国が962年に神聖ローマ帝国となりました。しかし帝国は領邦が分立したままで、1871年にプロイセン主導のドイツ帝国が成立するまで統一国家にはなりません。その後は2度の世界大戦に敗れ、1945年の敗戦後は連合国の分割占領を経て1949年に東西2つの国家へ分断、1990年に再統一されて現在のドイツ連邦共和国になりました。

神聖ローマ帝国(962〜1806年)は、ドイツ語圏の多数の領邦が集まったゆるやかな連合体です。皇帝は選挙で選ばれ、実権は各領邦にありました。プロイセンはその中にあった領邦の1つで、のちに独立した王国となります。ドイツ帝国(1871〜1918年)は、そのプロイセンが中心となって他の諸邦を束ねた連邦国家です。「連合体 → その中の一領邦 → その領邦が主導して作った国家」という順で押さえると混乱しません。

「ドイツ統一」と呼ばれる出来事は2回あります。1回目は1871年で、プロイセンのビスマルクが3つの戦争を経て諸邦をまとめ、ドイツ帝国を建国しました。2回目は1990年10月3日で、東西に分かれていた2つのドイツが1つに戻った再統一です。世界史の問題で「ドイツ統一」と出てきたら、まずどちらを指しているかを確認してください。

直接の引き金は1929年の世界恐慌です。アメリカ資本に支えられていたドイツ経済は崩れ、1932年には失業者が約600万人に達したとされています。議会は対立で機能せず、人々は暮らしの立て直しを訴える勢力を求めました。そこへナチスが「ヴェルサイユ条約の破棄」「失業の解消」といったわかりやすい主張を掲げたのです。第一次世界大戦の敗戦と条約への屈辱感が土台にあった点も見逃せません。

1945年の敗戦後、ドイツは米英仏ソの4か国に分割占領されました。もともとは占領を経て1つの国へ戻す方針でしたが、「どんな国に戻すか」で西側とソ連が折り合えませんでした。西側は自由な選挙と市場経済、ソ連は共産党が指導する体制を求めたためです。その結果、1949年に西のドイツ連邦共和国と東のドイツ民主共和国が別々に成立しました。分断は誰かが決めた結果というより、決められなかった結果でした。

豊かな西ドイツを目指して東ドイツから人が流出し続けたため、東ドイツ政府が流出を止める目的で1961年8月13日に築いたのが始まりです。崩壊の背景には、ソ連のゴルバチョフによるペレストロイカと、1989年のハンガリーによる国境開放がありました。東ドイツ市民の脱出とデモが止まらなくなるなか、1989年11月9日に旅行自由化の発表が「ただちに有効」と受け取られ、検問所へ殺到した人々によって壁は開かれました。

柱は6つです。①神聖ローマ帝国とドイツ帝国の区別、②ドイツ連邦・関税同盟からドイツ統一までの流れ、③ビスマルクの3つの戦争と鉄血演説、④ヴェルサイユ条約とワイマール憲法、⑤ナチスが合法的に政権を握った過程、⑥東西分断から再統一まで。とくに①と、「ドイツ統一」が1871年と1990年の2回あることは、取り違えやすいポイントです。

まとめ

最後に、冒頭で立てた3つの問いに答えておきましょう。

1つめの「なぜ統一が遅れたのか」。それは、皇帝が教皇との争いに力を注ぎ、宗教改革と三十年戦争で領邦の分立が固定され、しかも大国オーストリアと新興のプロイセンがドイツの主導権を争ったからです。962年の神聖ローマ帝国成立から1871年の統一まで、909年かかりました。

2つめの「3つの国家概念の違い」。神聖ローマ帝国は領邦の連合体、プロイセンはその中の一領邦、ドイツ帝国はプロイセンが諸邦を束ねて作った国家です。この順番さえ押さえれば混同しません。

3つめの「なぜ2度も壊れたのか」。1度目は第一次世界大戦の敗戦による帝政の崩壊、2度目は第二次世界大戦の敗戦による東西分断でした。いずれも戦争の結果として、国の形が作り替えられたのです。

ドイツの歴史のポイントまとめ
  • 962〜1806年:神聖ローマ帝国 皇帝はいたが実権は領邦にあり、実体は多数の領邦が集まったゆるやかな連合体だった(近世には大小の領邦・自由都市が300ほどにのぼったとされる)。
  • 18〜19世紀:プロイセンの台頭 軍事力を高めたプロイセンが、皇帝を出し続けたオーストリアのハプスブルク家と主導権を争った。
  • 1871年:ドイツ帝国の成立 ビスマルクが3つの戦争を経て統一を実現し、プロイセン王がドイツ皇帝となった。
  • 1918〜1933年:ワイマール共和国 第一次世界大戦の敗戦で帝政が崩壊。先進的な憲法を持ちながら、賠償と不況に苦しんだ。
  • 1933〜1945年:ナチス・ドイツ 世界恐慌を背景に合法的な手続きで独裁が成立し、第二次世界大戦の敗戦で終わった。
  • 1949〜1990年:東西分断と再統一 冷戦のなかで2つの国に分かれ、1961年の壁建設と1989年の崩壊を経て、1990年10月3日に1つへ戻った。
もぐたろう
もぐたろう

以上、ドイツの歴史のまとめでした。バラバラだった国が1つになり、2度こわれて、また1つに戻る——そう並べてみると、ドイツ史はけっこうシンプルな物語だったと思わない? 下の記事では、この記事で駆け足になった部分をもっと詳しく解説しているから、気になったところからのぞいてみてね!

📅 最終確認:2026年9月 / 参照:山川出版社『詳説世界史』

参考文献

山川出版社『詳説世界史』
コトバンク「神聖ローマ帝国」「ウェストファリア条約」「ドイツ連邦」「普仏戦争」「ライプツィヒの戦い」「鉄血政策」ほか(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年9月確認)
Wikipedia日本語版・英語版「ドイツの歴史」「神聖ローマ帝国」「ライプツィヒの戦い」「普仏戦争」「ヴァイマル憲法」「全権委任法」「ドイツ再統一」「ベルリンの壁」ほか(2026年9月確認)
Encyclopaedia Britannica「Germany」「Wirtschaftswunder」「Warsaw Pact」(2026年9月確認)
東京書籍 公式サイト(紹介書籍の書誌情報)(2026年9月確認)
Wikimedia Commons(記事内画像の作者・ライセンス確認)(2026年9月確認)

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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