

今回は世界恐慌について、原因・なぜ世界に広がったのか・各国の対応まで、図解とストーリーでわかりやすく解説していくよ!「世界恐慌って結局なに?」というところから、テストに出るポイントまで一気に押さえられる内容にしたから、気になるところから読んでみてね。
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校世界史
📖 山川出版『詳説世界史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト)対応
実は、世界恐慌は「アメリカがつまずいただけ」の話ではありません。1929年10月にニューヨークの株式市場で起きた大暴落は、わずか数年でドイツの工場・イギリスの貿易港・日本の農村にまで影響を与え、最終的には第二次世界大戦の引き金にまでつながっていきました。
なぜ「アメリカ国内の株価暴落」が、地球の裏側にいる日本の農家まで苦しめたのか——その答えは、当時の世界がすでに「国境を越えてお金がぐるぐる回るネットワーク」でつながっていたからです。この記事では、その連鎖の仕組みを、図解と吹き出しのストーリーでわかりやすく解説していきます。
世界恐慌とは?
① 1929年10月、ニューヨークで株価が大暴落し、世界規模の大不況が始まった
② アメリカの不況が金融・貿易を通じて欧州・アジアへ次々と連鎖した
③ 各国はブロック経済・ニューディール・軍国主義化など異なる対応をとり、第二次世界大戦の遠因となった
世界恐慌とは、1929年10月にアメリカで起こった株価大暴落をきっかけに、世界中を巻き込んだ大規模な経済不況のことです。英語ではGreat Depressionと呼ばれ、世界史の教科書でも必ず登場する重要事件のひとつです。
きっかけは、1929年10月24日の木曜日に起きたニューヨーク株式市場の大暴落でした。この日は後に「暗黒の木曜日」(ブラックサーズデー)と呼ばれ、わずか数日で株価が3割以上下落します。これをきっかけにアメリカ国内で銀行・企業の倒産が連鎖し、最盛期にはアメリカの労働者の4人に1人が失業するほどの大不況へと深刻化していきました。
そして、この不況はアメリカ国内にとどまらず、金融と貿易のネットワークを通じてヨーロッパ・アジア・日本へと広がっていきました。各国は、生き残りをかけてまったく違う方針で対策を打つことになります。アメリカはニューディール政策、英仏はブロック経済、ソ連は五カ年計画、ドイツ・日本は軍国主義——この「分かれ道」が、後の第二次世界大戦への布石になっていくのです。

世界恐慌って、アメリカだけの話じゃないの?なんで「世界」恐慌っていうの?テストで「世界恐慌とは」って聞かれたとき、どこまで書けばいいか分からなくて…。

いい質問!スタートはアメリカでも、不況は金融ネットワークを通じてヨーロッパや日本まで一気に広がったんだ。だから「世界」恐慌って呼ばれているよ。テストでは「1929年・アメリカの株価暴落・世界規模の大不況」の3点が押さえられればまず合格点だね!今でいう「リーマンショックの巨大版」ってイメージに近いよ!
世界恐慌の原因:なぜ株価が大暴落したのか

出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
世界恐慌の最大の原因は、1920年代のアメリカで膨らみすぎた「バブル経済」が破裂したことでした。第一次世界大戦の戦場にならなかったアメリカは、戦争で疲れたヨーロッパに代わって世界の工場・金融センターへとのし上がります。フォードのT型フォードに代表される自動車の大量生産、ラジオや家電の普及、ジャズが流れる華やかな都市文化——1920年代のアメリカは「狂騒の20年代」と呼ばれるほどの繁栄に沸いていました。
ところが、好景気が続くなかで2つの「ゆがみ」が大きくなっていきます。1つは過剰生産。工場はどんどん商品をつくり続ける一方、農民や労働者の収入はそれほど伸びず、生産された商品をすべて買いきれない状態になっていました。もう1つは株式投機バブルです。「株を買えばすぐ儲かる」と信じた人々が、銀行から借りたお金で株を買いまくり、株価が企業の実力を大きく超えて吊り上がっていきました。
そして1929年10月24日——のちに「暗黒の木曜日」と呼ばれることになる木曜日に、ニューヨーク株式市場でついに株価が大暴落します。「売りが売りを呼ぶ」連鎖が起き、株価はわずか数日で30%以上、最終的にはピーク時の10分の1ほどまで下落しました。これが世界恐慌の引き金になります。

不況は自然に治るものだ。政府が余計な手出しをすれば、市場の自浄作用が働かなくなる。経済はそっとしておけば必ず元に戻る——私はそう信じている。
当時のアメリカ大統領フーヴァーは、自由放任主義(レッセフェール)の立場をとっていました。「経済のことは経済に任せておけば自然と回復する」という考え方です。しかし、現実にはまったく不況は治らず、むしろ深刻化していきました。失業者は増え続け、アメリカ全土で4人に1人が職を失う異常事態に陥ります。後に登場するルーズベルト大統領がニューディール政策で「政府が動く」方向に大転換したのは、このフーヴァーへの強い反省があったからなのです。
フーヴァー大統領が「経済は自然に回復する」と静観を続けた1931〜1932年、ニューヨークのセントラルパークには驚くべき光景が広がっていました。マンハッタンの高級住宅街に隣接するあの公園の一角に、段ボールや廃材で組んだ掘っ立て小屋が200棟以上建ち並んだのです。職も家も失った失業者たちが集まって作ったこの貧民集落は、やがて「フーヴァービル(Hooverville)」と呼ばれるようになります——大統領への痛烈な皮肉を込めた名前でした。1932年までに、フーヴァービルはシアトル・シカゴ・ロサンゼルスなどアメリカ全土の大都市に出現し、何十万人もの人々が段ボールの中で冬を越す光景が日常になっていたのです。
株価暴落がなぜ不況になるのか——連鎖メカニズム
「株価が下がっただけで、どうしてアメリカ全体が不況になってしまうの?」——ここがいちばん分かりにくいポイントです。実は、株価暴落が大不況に変わるまでには、銀行・企業・労働者・消費者を巻き込んだ「悪循環」が存在します。順番に見ていきましょう。
連鎖ステップ①:株価暴落 → 銀行への取り付け騒ぎ
株価が暴落すると、株を担保にお金を貸していた銀行は、貸したお金が返ってこなくなる恐れが出てきます。さらに「あの銀行も危ないらしい」というウワサが広まると、預金者が一斉に「自分の預金を引き出させてくれ!」と銀行に殺到する取り付け騒ぎが起きます。銀行は預金者にすぐに全額を返せる現金を持っていないため、対応しきれずに次々と破綻していきました。
連鎖ステップ②:銀行破綻 → 企業倒産・失業増大
銀行が破綻すると、その銀行からお金を借りていた企業は、運転資金が一気にショートします。新たな融資も受けられなくなり、原材料の仕入れや給料の支払いができず、倒産する企業が続出しました。当然、そこで働いていた労働者は失業します。アメリカ全体での失業率は、1929年の3%台から1933年にはおよそ25%まで跳ね上がり、働き盛りの4人に1人が無職という状況になりました。
連鎖ステップ③:消費激減 → さらなる恐慌の深化
失業者が増えると、当然ながら消費は冷え込みます。ものが売れなくなれば、生き残っていた企業も売上が落ちて、リストラや倒産に追い込まれます。すると、また銀行が貸し倒れを起こし——という形で「銀行破綻 → 企業倒産 → 失業増大 → 消費激減 → さらなる企業倒産」の悪循環がぐるぐる回り始めました。これが「大恐慌(Great Depression)」と呼ばれるほど不況が深く長引いた最大の理由です。

株が下がるだけで、なんでそんなに大変なことになるの?2008年のリーマンショックも似た流れだった気がするけど、世界恐慌のときはもっとひどかったってこと?

まさにリーマンショックと同じ構造だよ!銀行は社会の「血液」みたいなもので、そこが詰まると経済全体の血流が止まってしまうんだ。ただ、リーマンショックのときは各国の政府がすぐに銀行を救済したんだけど、世界恐慌の時代は「政府が経済に介入する」という発想自体がほとんどなくて、不況がそのまま放置されちゃったんだよね。だから不況が10年近くも長引いた——その規模感の大きさが「グレート」って呼ばれる理由だよ。
なぜ世界に広がった?アメリカの不況がグローバルに波及した理由

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アメリカの不況が「世界恐慌」と呼ばれるほど世界中に広がったのには、3つの大きな理由があります。① 金本位制による国際連動・② ドーズ案の資金循環の崩壊・③ 各国の高関税合戦による貿易収縮の3つです。ひとつずつ見ていきましょう。
①金本位制(きんほんいせい)の連動。当時の主要国は通貨の価値を金(ゴールド)の量で保証する金本位制を採用していました。各国は自国の金が外国に流出するのを防ぐため、不況時には金利を上げざるをえません。アメリカが不況対策として金利を引き上げると、世界中の国もそれに合わせて金利を上げ、結果として「世界中で同じタイミングでお金の流れがしぼむ」という連鎖が起きました。
②ドーズ案の資金循環の崩壊。第一次世界大戦の戦後処理として、ドイツは英仏に対して莫大な賠償金を払うことを求められていました。しかし敗戦国ドイツには支払能力がなく、1924年に成立したドーズ案では「アメリカがドイツに資金を貸し付け、ドイツが英仏に賠償金を払い、英仏がアメリカに戦時債務を返す」という資金循環の仕組みが作られていました。ところが世界恐慌でアメリカ自身が資金不足に陥り、ドイツへの貸付がストップ。資金の循環ループが一気に崩壊し、ドイツも英仏も同時に苦境に陥ったのです。
③高関税合戦による貿易の縮小。アメリカは国内産業を守るため、1930年にスムート=ホーリー関税法を成立させ、輸入品に高い関税をかけました。これを見た他国も「うちも自国産業を守らねば」と次々に高関税を課し、世界中で「関税の引き上げ合戦」が始まります。その結果、世界の貿易量はわずか数年で半分以下にまで縮小しました。商品が売れない国では、さらに失業者が増え、街角には「パンの行列(スープキッチン)」と呼ばれる失業者の長い列ができたのです。
📌 ドーズ案とは:1924年に成立した、ドイツの賠償金支払いを助けるための国際取り決め。アメリカがドイツに融資し、ドイツがその資金で英仏に賠償金を払い、英仏がアメリカに第一次大戦中の借金(戦時債務)を返済する——という「お金の循環」を作る仕組み。世界恐慌でアメリカからドイツへの資金が止まると、この循環が一気に崩れ、ヨーロッパ全体が不況に巻き込まれた。

ドーズ案ってなに?テストに出る?ぼく、名前は聞いたことあるけど、内容は全然覚えてなくて…。

ドーズ案は高校世界史の頻出ポイントだよ!シンプルにいうと「アメリカがドイツにお金を貸して、みんなで賠償金をぐるぐる回す仕組み」のこと。これが世界恐慌で一気に崩れたことで、ドイツが特に大ダメージを受けたんだ。テストでは「ドーズ案=アメリカからドイツへの資金提供+賠償金の支払い循環」とセットで覚えればOK!
アメリカの対応:ニューディール政策

出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

市場が失敗したのなら、政府が動けばいい。道路を造り、ダムを建て、人を雇う——これが私の「新しい政策(ニューディール)」だ。我々が恐れるべきは、恐怖そのものだけである。
1933年、不況対策に失敗したフーヴァーに代わって大統領に就任したのが、フランクリン・ルーズベルトです。彼が打ち出したのが、世界恐慌の対策として歴史的に有名なニューディール政策でした。「ニューディール」とは「新しい取引・新しい仕切り直し」という意味で、それまでの自由放任主義から大きく舵を切り、「政府が積極的に経済に介入して、雇用と需要を作り出す」という考え方に転換したのが特徴です。
ニューディール政策の中身は多岐にわたりますが、テストで押さえておきたい柱は次の4つです。1つ目はTVA(テネシー川流域開発公社)に代表される大規模公共事業で、ダム建設や道路整備を通じて大量の雇用を生み出しました。2つ目は農業調整法(AAA)で、農産物の生産を減らすことで価格を下支えしました。3つ目は全国産業復興法(NIRA)で、企業の競争を制限して労働条件の改善を図りました。4つ目はガラス=スティーガル法で、商業銀行と投資銀行を分離して、再び投機バブルが起きないように銀行を規制しました。
ニューディール政策の革新性は、「政府がお金を出して仕事を作る」という発想にあります。それまでの経済学では「政府は経済に口を出すべきではない」というのが常識でした。しかしルーズベルトは、その常識をひっくり返したのです。この考え方は後にイギリスの経済学者ケインズによって理論化され、「修正資本主義」として戦後の世界経済の基本路線になっていきます。世界恐慌は、結果的に「政府と市場の関係」を根本から変える歴史的転換点になったといえます。

テストでは「ニューディール政策=ルーズベルト=TVA=政府による公共事業=1933年」のセット暗記がおすすめ!「3つの R」(Relief 救済/Recovery 回復/Reform 改革)も論述で書けると一段上の評価になるよ!
ドイツの対応:なぜヒトラー・ナチスが台頭したのか

出典:Wikimedia Commons(ドイツ連邦公文書館)
世界恐慌で最も激しい打撃を受けたのが、敗戦国のドイツでした。第一次世界大戦の敗北で巨額の賠償金を背負わされていたドイツは、ドーズ案によるアメリカからの資金援助で、ようやく経済が立ち直りかけていたところでした。ところが世界恐慌でアメリカからの資金がストップした瞬間、ドイツの経済はガラガラと崩れていきます。1932年には失業者がおよそ600万人——労働者の3人に1人が職を失うという、アメリカ以上に深刻な状況に陥りました。
政治の世界でも混乱が広がります。当時のドイツはワイマール共和国と呼ばれる民主共和国でしたが、不況対策で政党同士が対立を続けるばかりで、有効な手を打てません。生活に苦しむ国民の間では、「もう民主主義はダメだ」「強いリーダーに任せよう」という空気が一気に広がっていきました。
この空気に乗って急成長したのが、アドルフ・ヒトラー率いるナチス党(国民社会主義ドイツ労働者党)でした。ナチスは「ベルサイユ条約を破棄する」「失業者をなくす」「強いドイツを取り戻す」と訴え、不況で生活に行き詰まった人々の支持を爆発的に伸ばしていきます。1928年の選挙ではわずか12議席だったナチス党が、1932年には第一党にまで躍進。1933年1月、ついにヒトラーはドイツの首相に任命され、ワイマール共和国は終わりを迎えました。
📌 ワイマール共和国とは:第一次世界大戦後の1919年に成立したドイツの民主共和国(1919〜1933年)。当時としては世界でもトップクラスに進歩的な憲法(ワイマール憲法)を持っていたが、賠償金の負担と世界恐慌による経済混乱、政党間の対立が重なり、ナチス党に政権を奪われて崩壊した。「民主主義が経済危機に弱いとどうなるか」を示す歴史的事例として今も語られる。
ヒトラー政権は政府主導の大規模公共事業(アウトバーン建設)と再軍備によって失業者を一気に減らし、短期的にはドイツ経済を回復させました。しかしその裏で、ユダヤ人迫害・言論統制・周辺国への侵略という危険な方向へ突き進み、最終的には第二次世界大戦を引き起こすことになります。世界恐慌で「民主主義より独裁のほうが手っ取り早い」と国民が感じてしまったことが、ドイツを破滅へと導いた——世界恐慌が世界史の歩みを大きく変えた瞬間でした。
次の章では、ドイツとは対照的に「植民地」という武器を持っていたイギリス・フランスがどう対応したのかを見ていきます。同じ恐慌に対する、まったく違うアプローチの違いに注目してください。
イギリス・フランスの対応:ブロック経済とは何か
アメリカが「政府介入」で立ち向かい、ドイツが「独裁」へ転落していった一方で、イギリスとフランスは第三の道を選びました。それがブロック経済です。
ブロック経済とは、自国と植民地(または友好国)をひとまとめにした「経済ブロック」を作り、ブロック内では関税を低くして自由に貿易する一方で、ブロックの外には高い関税を課して締め出す政策です。世界恐慌で各国の輸出が激減したため、「他国を頼らず自分たちの仲間内だけで経済を回そう」という発想が広がりました。
イギリスは1932年のオタワ会議でカナダ・オーストラリア・インドなど自治領・植民地と特恵関税協定を結び、ポンドを中心とする巨大経済圏「スターリング圏(ポンド・ブロック)」を形成しました。一方、フランスも本国・植民地(北アフリカ・インドシナなど)でフランを中心とする「フラン圏」を作り、植民地との独占的な貿易ネットワークを強化します。
こうしてイギリスとフランスは、広大な植民地を「経済の救命ボート」として活用し、世界恐慌の打撃を緩和することに成功しました。しかし、この成功は同時に深刻な副作用も生みます。それが「持てる国」と「持たざる国」の決定的な格差です。

ブロック経済って、自分たちの仲間内だけで商売するってこと?今の貿易戦争みたいなイメージ?

📌 「持てる国」と「持たざる国」:広大な植民地・資源・市場を持つ国(イギリス・フランス・アメリカ)と、それを持たない国(ドイツ・日本・イタリア)の対比。ブロック経済で前者は自衛できたが、後者は資源や市場を求めて軍事侵略へ向かい、第二次世界大戦の対立軸となった。
このブロック経済の流れと対照的だったのが、実は世界恐慌の影響をほとんど受けなかった国——ソ連でした。次の章では、なぜソ連だけが恐慌の外側にいられたのかを見ていきます。
ソ連の対応:五カ年計画と孤立した経済

出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
世界中の資本主義国が大不況に苦しむなか、唯一「無風」だった大国があります。それがソ連です。なぜソ連だけが世界恐慌の影響を受けずに済んだのか——その理由は、ソ連の経済が資本主義経済から切り離された計画経済だったからです。
レーニンの死後、権力を握ったスターリンは、1928年から第一次五カ年計画を開始しました。国家が「鉄鋼を何トン生産する」「工場を何箇所建てる」と目標を決め、計画通りに上から指示して経済を動かす——これが計画経済の中身です。資本主義のように「企業が自由に投資し、市場の動きに任せる」やり方ではなく、国家が経済の全てを統制します。
世界恐慌で欧米が10〜30%もマイナス成長に陥った1929〜1932年、ソ連の工業生産は逆に大きく増加していました。鉄鋼業・機械工業を中心にした重工業化が急速に進み、農村では集団農場(コルホーズ)・国営農場(ソフホーズ)への農業集団化が強行されます。世界が不況のどん底にあるなかでの「ソ連だけ成長」という光景は、強烈なインパクトを世界に与えました。
ソ連政府はこの結果を「社会主義こそ資本主義より優れている」という宣伝に最大限活用します。実際、欧米の知識人や労働者の中には「社会主義に学ぶべきだ」と考える人が急増しました。ただし、その裏側では農業集団化に伴う飢饉や粛清で多数の犠牲者が出ていたことも忘れてはいけません。
📌 五カ年計画:スターリンが1928年から進めた国家主導の経済計画。5年単位で生産目標を設定し、鉄鋼・機械など重工業の急速な拡大を目指した。世界恐慌の混乱をよそにソ連経済が成長したため、「計画経済の優位性」の証拠として世界に宣伝された。
ここまで見てきた英仏のブロック経済・米のニューディール・ソ連の五カ年計画はいずれも「持てる国」「資源豊富な国」の選択肢でした。では「持たざる国」の代表格である日本はどう動いたのでしょうか。次の章で見ていきます。
日本の対応:昭和恐慌から軍国主義化へ
世界恐慌は、海を越えて日本にも襲いかかりました。1930年(昭和5年)には、世界恐慌に金解禁政策の失敗が重なって発生した昭和恐慌が日本経済を直撃します。輸出の柱だった生糸はアメリカ向けの需要が消滅して暴落し、農村は深刻な困窮に陥りました。
当時の日本の農家は、副業として養蚕(生糸の原料)に依存していました。その生糸が売れなくなると現金収入が激減し、東北地方では「娘の身売り」「欠食児童」が社会問題になります。「明日食べるものがない」という状況に追い込まれた農民は、政治家・財閥への怒りを募らせていきました。
当時の農村の苦境は、数字だけでは伝わりません。農林省の調査によると、1932〜33年(昭和7〜8年)にかけて、東北地方を中心とする農家では「口べらし」のために働き口を求めて都市や工場へ娘を送り出すケースが激増しました。岩手・青森・秋田の各県では、奉公先から仕送りをする代わりに前払い金(前借金)を受け取る形での「身売り」が横行し、内務省が急いで対策ビラを配布する事態になりました。「明日の米もない」という絶望が、家族を引き裂いていた時代でした。
当時の政党政治は財閥と結びついて腐敗していると見なされ、国民の不信感は頂点に達します。「政党政治では国を救えない」「軍部こそが頼りだ」という空気が広がり、軍部はその不満を吸収しながら発言力を強めていきます。そして1931年9月、満州事変が勃発しました。関東軍が独断で満州を占領し、翌1932年には満州国を樹立——日本は軍国主義化の道を本格的に歩みはじめます。これに抗議した国際連盟を、1933年に日本は脱退してしまいました。

日本はブロック経済の「外」に置かれた「持たざる国」の代表だったんだ。「英仏みたいな植民地は持ってない、でも国民は飢えている。じゃあ満州を取って自分たちのブロックを作ろう!」——この発想が軍国主義化を一気に加速させたんだよ。世界恐慌が日本の歴史の方向を大きく変えた、と言っても過言じゃないね。
こうしてアメリカ・ドイツ・英仏・ソ連・日本はそれぞれ違う道を選び、その違いがやがて第二次世界大戦の対立構造へとつながっていきます。次の章では、ここまでの内容をテスト向けに整理し直していきましょう。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:各国の対応を「アメリカ=ニューディール」「英仏=ブロック経済」「ソ連=五カ年計画」「ドイツ・日本・イタリア=ファシズム・軍国主義」と国ごとにセット暗記しよう。背景にある「持てる国 vs 持たざる国」という対立軸が、第二次世界大戦への道筋を作った——この一文を覚えておけば論述でも応用できる。

テストで一番大事なのはどこ?ニューディールとブロック経済って、結局どう違うの?

ニューディールは「政府がお金を使って雇用を作り出す」というアメリカ国内向けの対策。ブロック経済は「仲間の国だけで商売して外部をシャットアウトする」という国際向けの対策。同じ恐慌に対する全然違うアプローチだよ!論述問題では「なぜその国がその方法を選んだか(=植民地を持てるか持てないか)」まで書けると完璧だよ。
よくある質問(FAQ)
A. 1929年10月24日(「暗黒の木曜日」)にニューヨーク株式市場が大暴落したことをきっかけに始まりました。その後、連鎖的に銀行破綻・企業倒産が続き、1930年代前半には世界規模の大不況へと発展しました。
A. 主な原因は①1920年代アメリカの過剰生産・株式投機バブル、②金本位制による国際的な金融連動、③ドーズ案(資金循環)の崩壊の3つです。アメリカ国内のバブル崩壊が、国際金融ネットワークを通じて瞬く間にヨーロッパ・アジアへと波及しました。
A. 1933年にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が実施した恐慌対策の総称です。公共事業による雇用創出(TVA=テネシー川流域開発公社)・農業調整法(AAA)・銀行規制(ガラス=スティーガル法)が柱で、「政府による積極的な市場介入」という当時としては革新的なアプローチでした。
A. 自国と植民地・友好国をひとまとめにした「経済ブロック」を作り、ブロック内では関税を低くしながら、外部には高関税を課して自国産業を守る政策です。イギリスのスターリング圏・フランスのフラン圏が代表例で、植民地を持たないドイツ・日本などを追い詰め、第二次世界大戦の一因となりました。
A. 生糸など輸出品の価格が暴落し、農村が深刻な困窮に陥りました(昭和恐慌)。政党政治への不信が高まり、1931年の満州事変をきっかけに軍部が発言力を強め、日本は軍国主義化の道を進みました。1933年には国際連盟も脱退します。
まとめ:世界恐慌の流れと各国の対応
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1924年ドーズ案成立
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1929年暗黒の木曜日・ニューヨーク株価大暴落
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1930年スムート=ホーリー法(米・高関税)成立・昭和恐慌(日本)
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1931年満州事変(日本)
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1932年オタワ会議・スターリング圏成立(英)
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1933年ルーズベルト就任・ニューディール政策開始(米)
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1933年ヒトラー政権成立(独)
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1936年スペイン内戦・ファシズム台頭拡大
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1937年日中戦争勃発(日本・軍国主義化の進展)
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1939年第二次世界大戦勃発

以上、世界恐慌のまとめでした!「なぜ株価暴落が世界中を巻き込んだのか」「各国がどんな対応をとり、それが何につながったのか」の流れが押さえられれば完璧だよ。下の関連記事でニューディール政策や昭和恐慌、ヒトラーについても詳しく読んでみてください!
世界恐慌の理解を深めるおすすめ本

世界恐慌についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!
📅 最終確認:2026年5月
📖 本記事は山川出版社『詳説世界史』に基づいています。中学歴史・高校世界史(共通テスト)どちらにも対応しています。
Wikipedia日本語版「世界恐慌」(2026年5月確認)
コトバンク「世界恐慌」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説世界史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。






