今回は、1919年6月に調印されたヴェルサイユ条約について、わかりやすく丁寧に解説していきます。(日本に関するお話が中心です。)
ヴェルサイユ条約とは
ヴェルサイユ条約は、第一次世界大戦の戦後処理のために、ドイツと連合国との間で結ばれた講和条約のことを言います。
フランスのヴェルサイユ宮殿で調印されたので、「ヴェルサイユ条約」と呼ばれています。
※「連合国」とは三国協商を筆頭とした三国同盟と戦った国々のこと。ドイツに宣戦布告をしている日本も連合国に含まれています。
近代兵器が大量投入された第一次世界大戦は、ヨーロッパ各国に甚大な被害を与えました。
戦争の長期化によって民衆の不満も爆発寸前となり、多くの国は戦争による攻撃ではなく、内部から国が瓦解しようとしていました。
実際に、ロシアのロマノフ王朝がロシア革命によって滅び、ドイツは兵士の暴動によって戦争続行が不可能な状況に追い込まれ、これが終戦の1つのきっかけとなっています。
このような悲惨な経験から、ヴェルサイユ条約は単なる講和内容にとどまらず、今後の世界平和に向けた内容を盛り込まれた画期的な条約となりました。(ただし、後述するように内容は不完全なものに終わってしまいます・・・)
ヴェルサイユ条約が結ばれるまでの経過
1918年11月、ドイツが降伏したことで第一次世界大戦が終結。1919年1月になると、連合国27カ国の代表がパリに集まって会議を開きました。(パリ講和会議)
目的はもちろん「第一次世界大戦の戦後処理」です。
議題は多岐にわたりましたが、重要事項についてはイギリス・フランス・アメリカ・イタリア・日本の五大国によって議論することとなり、この5カ国は強い発言力を持ちました。
※日本は、アジアを代表する国として五大国に加えられることとなりました。
パリ講和会議の最重要議題は、「敗戦国のドイツへの制裁をどうするか?」でした。この議題について、五大国で議論が交わされますが、みんな意見がバラバラで話し合いは揉めに揉めました。
ドイツは普仏戦争以来の因縁の敵だ。負けたドイツには厳しい制裁を課すべき!
戦後の世界平和のためにも、ドイツを追い詰めてはいけない!
私は、昔のようにヨーロッパ最強の国に返り咲きたい。そのためにも、ドイツには弱体化して欲しいから、ひとまずフランスに賛成な。
俺は、これを機にオーストリアと揉めていた領地問題(未回収のイタリア問題)を解決できればそれで良い。
俺もイタリアと同じで、ドイツが東アジアに持っている山東半島の利権や南洋諸島の植民地を奪えればそれでOK。
ヨーロッパの話はみんなに任せるわ。
※南洋諸島とは、フィリピンとハワイの間にある島々(サイパンとかパラオとか)のこと。
日本からは、外交の全権を任された元老の西園寺公望や、外務大臣経験もある枢密院の牧野伸顕などが交渉に参加していました。
結局、フランス・イギリスの意見が反映されドイツに対して強い制裁を課すことがパリ講和会議で決められました。
そしてパリ講和会議での決定事項が、ヴェルサイユ条約に盛り込まれることになります。
日本の最重要課題「山東半島問題」
パリ講和会議は、多くの国の利害が絡み合い、いくつかの議題では議論が紛糾しました。
日本が強い関心を持っていた「山東半島問題」も、議論が紛糾した議題の一つとなります。
日本は1914年にドイツに宣戦布告し、ドイツの支配下にあった山東半島を奪いました。
さらに1915年、日本は中国に対して二十一か条の要求を行い、ドイツから奪った山東半島を中国に返還せず、そのまま日本の支配下に置き続けました。
日本は、ヴェルサイユ条約を通じて、列強国に対して日本の山東半島支配を認めさせ、その支配を確固たるものにしようと考えたのです。
日本は事前にフランス・イギリスに根回しをして、両国に日本がドイツの持つ山東半島の利権を手に入れることを認めさせましたが、アメリカがこれに猛反対しました。
アメリカは以前から、日本が中国支配を強めることに強い警戒心を抱いていました。
そんな中、日本が西原借款により独自に中国への資金援助を始めたり、シベリア出兵で日本が独断で大軍を派遣したことで、アメリカは日本に対して不信感を持つようになりました。
日本はアメリカに対して、「山東半島問題を認めないなら、日本は条約に調印しない」という強い態度で迫り、最終的には強引に日本の要求を認めさせました。
※アジア最強の国だった日本が調印しないとなれば、ヴェルサイユ条約では東アジアの平和を保てない恐れがあります。日本は自分の立場をうまく利用して、アメリカに揺さぶりを仕掛けたのです。アメリカ大統領のウィルソンは日本の要求を認めましたが、アメリカ国内ではこの譲歩に反対の声も根強く、アメリカの世論は大きく分かれました。
日本が提案した人種差別撤廃案
日本は山東半島・南洋諸島の問題とは別に、ヴェルサイユ条約に人種差別の撤廃を明記するよう提案しました。
古来より続く白人による有色人種(アジア人やアフリカ人)差別が、今後の日本の外交・政治にとって大きな障害になると日本政府は考えたのです。(この時すでに、アメリカでは、アジア人差別が始まりつつありました)
日本の人種差別撤廃案は、イギリスからの猛反対があり、多数決で過半数の賛成があったにもかかわらず、強引に廃案に追い込まれてしまいました。
日本が提案した人種差別撤廃案は、もともと自国のことを考えての提案でしたが、アメリカで人種差別を受けていた黒人たちは、ひそかに日本の提案に大きな期待を寄せていました。
しかし、ヴェルサイユ条約に人種差別撤廃が盛り込まれないことが決まりと、アメリカ各地で黒人による暴動が起こっています。
ヴェルサイユ条約の内容
1919年6月には講和条約の内容がまとまり、フランスのヴェルサイユ球団にて条約の調印式が行われました。
ヴェルサイユ条約の内容を簡単にまとめると次のような感じになります。
それぞれ詳しく紹介していきます。
世界平和を目指した「国際連盟」
世界各国が集まって話し合う公式な場として、国際連盟が設置されました。
国同士でトラブルが起こった際に国際連盟がトラブルの仲介を行うことで、未然に戦争を防ごうと考えたのです。
本部は、スイスのジュネーブに置かれました。
厳しすぎるドイツへの制裁
すでに紹介したように、ドイツに対する制裁は非常に苛烈なものでした。
ドイツは自国領地の一部と植民地の全てを失い、軍縮を命じられ、巨額の賠償金を課せられることとなりました。
ドイツは経済基盤(植民地)と軍事力を失い、国としての存亡の危機に陥ることになります。
追い詰められたドイツは少しずつ経済回復を目指しますが、1929年に起こった世界恐慌によって息の根を止められ、その後は生き残りのために侵略戦争を行うようになり、これが第二次世界大戦の引き金になってしまいました。
結果論ではありますが、「ドイツに強い制裁を課すべきではない」というアメリカの意見は、平和維持の観点からは正しかったのかもしれません。
このドイツへの制裁に合わせて、ドイツが持つ山東半島の利権が日本に与えられ、ドイツの植民地だった太平洋諸島も日本が委任統治することになりました。
国際労働機関(ILO)
第一次世界大戦では、「労働者」が戦いの戦局を大きく動かしました。
ロシアでは、労働者による革命(ロシア革命)が起こり社会主義国家が樹立し、ドイツでは労働者によるストライキやデモが多発し、ドイツが降伏を決断した遠因となりました。
第一次世界大戦を通じて、「労働者への待遇を改善しなければ、各地で反乱や社会主義運動が起こり続けるだろう」と考えた連合国は、労働者の待遇改善を目指す組織「国際労働機関」を設置することにしました。
国際労働機関は英語で「International Labour Organization」でそれぞれのイニシャルをとってILOと呼ばれています。
ヴェルサイユ条約の闇
ヴェルサイユ条約の内容を見ると、平和のためのとても良い条約に見えますが、実際にはいろんな問題が山積しており、平和には程遠い状態のまま条約が調印されることとなります。
言い出しっぺのアメリカが国際連盟に参加せず・・・
国際連盟の設置を主導したのはアメリカ大統領のウィルソンでした。
ところが、いざ国際連盟を設置する段階になると、アメリカ議会で国際連盟への参加に反対する声が強くなり、アメリカは国際連盟への参加を見送ってしまいました。
言い出しっぺのアメリカが不参加となったことで、国際連盟の役割は不完全なものとなってしまいます。
中国がヴェルサイユ条約の調印を拒否する
中国(中華民国)は、第一次世界大戦中にドイツに宣戦布告していたことから、連合国の一員としてパリ講和会議に参加していました。
パリ講和会議での中国の目的は、「長年奪われていた山東半島の利権を我が手に取り戻すこと」でした。
ところが、すでに紹介したように日本は、イギリス・フランス・アメリカに「山東半島の利権は日本が手に入れてOK」ということを認めさせ、これをヴェルサイユ条約に明記しました。
当事者(中国)を無視して決められた内容に中国は猛抗議しますが、決定が覆ることはありませんでした。
中国は抗議の意思表示としてヴェルサイユ条約への調印を拒否し、日本との対立を深めていきます。
国同士の紛争を平和に解決できる仕組みを作り上げることがヴェルサイユ条約の目的の1つだったのに、中国の調印拒否によってヴェルサイユ条約は出鼻をくじかれる結果となりました。
敗戦国は話し合いに参加できず
ヴェルサイユ条約の講話内容は、戦勝国が一方的に決めたものであり、ドイツや社会主義国家となったロシアの意向は完全に無視されました。
当時はまだシベリア出兵が続いていてロシアとは紛争中だったし、ドイツは、話し合いに参加できないまま一方的にめちゃくちゃ厳しい制裁を課されたため、ヴェルサイユ条約の内容に強い不満を持つようになりました。
平和とかなんとか言いながら、結局勝った国が好きなように物事を決めてるだけだけじゃねーか。そんなの偽りの平和だ。本当にお前らが平和を望んでいるなら、敗戦国の話もちゃんと聞きやがれ!!
絶対に許さねーから覚悟しとけよ!(ヒトラーのファシズム政権へ・・・)
さらに言えば、世界平和のため絶対に必要であるはずの人種差別撤廃案を拒否している時点で、ヴェルサイユ条約には限界があったと言えます。
五・四運動と三・一独立運動
ヴェルサイユ条約は、日本を含む東アジアにも大きな影響を与えました。
アメリカ大統領ウィルソンが「民族自決」のスローガンを掲げて講和に臨んだことで、日本の植民地となっていた朝鮮では、独立の機運が高まります。1919年3月1日、韓国の京城(今のソウル)で日本からの独立を目指す運動(三・一独立運動)が起こりました。
中国でも、パリ講和会議で山東半島が中国に返還されないことが決まると、1919年5月4日、北京で大規模なデモ・ストライキが起こっています。(五・四運動)
ヴェルサイユ体制
ヴェルサイユ条約調印後のヨーロッパの平和秩序のことをヴェルサイユ体制と言います。
勝者となったイギリス・フランスの2大国家が、敗者のドイツを過酷な条件で抑えつけることで、ヨーロッパの秩序が保たれるようになりました。
そしてヨーロッパ東部(東欧)では、朝鮮・中国が成し遂げることのできなかった民族自決の動きが活発となります。オーストリアやロシアに支配されていた人々が民族ごとに集まり、新しい国家を次々と樹立していきました。(ラトビア・エストニア・リトアニア・チェコスロヴァキア・ハンガリーなどなど・・・)
ドイツへの対応が良いか悪いかの議論は別として、ヴェルサイユ体制によってヨーロッパでは束の間の平和が訪れます。しかし、アジアでは山東半島をめぐる日本と中国の対立が続き、平和とは程遠い状況のままでした。
そこでアメリカは、(アメリカにとって有利な)太平洋の平和を目指してヴェルサイユ体制に続く新しい体制を築き上げようと動き始めることになります。(ワシントン体制)
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