

今回は王政復古の大号令について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!大政奉還との違い・誰が出したのか・内容・小御所会議まで全部まとめるね!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
大政奉還というと、徳川慶喜が「素直に政権を朝廷へ返した」美談のように思われがちです。
しかし実は——大政奉還は、岩倉具視・薩摩・長州が仕掛けた緻密なクーデターの前段でした。最初から「受けてもダメ・断ってもダメ」というシナリオが敷かれており、慶喜がどちらを選んでも倒幕側の計算通りに進む、巧妙な罠だったのです。
この記事では、王政復古の大号令の読み方・内容・背景から、大政奉還との違い・小御所会議まで、流れに沿ってわかりやすく解説します。
王政復古の大号令とは?(読み方・意味)
王政復古の大号令とは、1867年(慶応3年)12月9日に発せられた、天皇を中心とする新政府樹立を宣言した命令のことです。「王政復古」とは「天皇による政治を取り戻す」という意味で、200年以上続いた江戸幕府の支配に終止符を打つ歴史的な宣言でした。
なお、検索でよく見られる「大政復古の大号令」という表記は誤りです。正しくは「王政復古(おうせいふっこ)」です。「大政奉還(たいせいほうかん)」という言葉との混同が起きやすいため注意が必要です。

「王政復古」って読み方が難しいんだけど、テストで「大政復古」って書いても正解になるの?

それは間違い!「王政復古」が正解で、「大政復古」は誤りだよ。テストで間違えやすいポイントだから要注意ね。「大政奉還(大政を奉る=返す)」と混同しないように気をつけて!
幕末の時代背景——大政奉還までの道のり
1853年(嘉永6年)、アメリカのペリーが黒船4隻を率いて浦賀に来航したことで、250年以上続いた江戸幕府の「鎖国」体制は根底から揺らぎ始めました。
開国によって外国の安い商品が流入し、物価が急騰。庶民の生活は苦しくなり、「外国に屈した幕府」への不信感が全国に広がりました。尊王攘夷(天皇を敬い、外国人を追い払え)の声が高まり、幕府の権威は急速に失墜していきます。
📌 幕末の主なできごと(流れ)
1853年:ペリー来航→開国・鎖国終わる
1858年:安政の大獄→開国派が反対派を弾圧
1860年:桜田門外の変→大老・井伊直弼が暗殺される
1866年:薩長同盟の成立→倒幕への連携強化
1866年12月:孝明天皇崩御→15歳の明治天皇が即位(倒幕派にとって追い風)
1867年10月14日:大政奉還→幕府が政権を朝廷へ返上
1867年12月9日:王政復古の大号令→新政府樹立を宣言
こうした混乱の中で力をつけたのが、薩摩藩(現・鹿児島県)と長州藩(現・山口県)です。もともと犬猿の仲だった両藩は、坂本龍馬らの仲介により1866年に薩長同盟を結び、倒幕に向けて動き出します。

そもそもなんで幕府は倒されることになったの?ペリーが来てから何がそんなに変わったの?

一番大きいのは「幕府が弱い」とバレてしまったことだね!開国で物価が上がって庶民は苦しくなる一方、幕府は何もできない。「今でいう政府が信頼を失った状態」で、それにつけ込んで倒幕運動が加速したんだよ。
1866年12月、この情勢をさらに大きく動かす出来事が起きます。強硬な攘夷派として倒幕派にとって「天皇の名義」を利用しにくかった孝明天皇が急逝(享年36)。跡を継いだのはまだ15歳の明治天皇(睦仁親王)でした。岩倉具視ら倒幕派にとって、若い天皇の即位は絶好の機会となりました——政治経験の乏しい若い天皇の名義であれば、自分たちの政策を「天皇の御意思」として押し通すことが格段に容易になるからです。
1867年、将軍・徳川慶喜は「大政奉還」を行い、統治権を朝廷へ返上します。しかし——これで幕府側が有利になれるわけはありませんでした。岩倉具視らは次の手を用意していたのです。

大政奉還から王政復古の大号令までの流れ
1867年10月14日の大政奉還から、王政復古の大号令(12月9日)まで、わずか約2ヶ月のできごとです。この短期間に、倒幕派はどのような手を打ったのでしょうか。
大政奉還によって将軍職は名目上なくなりましたが、徳川慶喜の政治的な影響力は残ったままでした。慶喜は「新政府に参加して主導権を握ろう」と考えていたのです。慶喜は非常に聡明な人物として知られており、近代化に向けた構想も持っていました。倒幕派はこれを警戒していました。
問題①:大政奉還だけでは慶喜の影響力が残る
薩長・岩倉具視らにとって、これは問題でした。慶喜が新政府に入れば、事実上の幕府政治が続くことになりかねません。幕府打倒を目指して戦ってきた彼らにとって、それは受け入れられない未来でした。そこで彼らは、大政奉還からわずか2ヶ月も経たないうちに、さらなる一手を打ちます。
解決②:王政復古の大号令で慶喜を新政府から完全排除
1867年12月9日の早朝、薩摩・土佐・長州・安芸・越前・尾張の6藩の兵が御所の門を固め、岩倉具視らが明治天皇(当時15歳)の名のもとに宣言を発しました。それが「王政復古の大号令」です。
宣言の内容は衝撃的なものでした。江戸幕府の廃止はもちろん、摂政・関白という朝廷の最高職まで廃止し、慶喜の内大臣辞職まで求めたのです。これは事実上、徳川家を新政府から締め出す宣言でした。会議に反対する勢力が現れても、すでに御所の警備は6藩が握っている——逆らえない状況を先に作ってしまったのです。


徳川を排除するために、あえて過酷な条件を突きつける。大政奉還を受け入れてもダメ、断ってもダメ。どちらに転んでも倒幕できる——これが計画だ。
このクーデターの巧妙さは、「天皇の権威」を使った点にありました。天皇の名で出された命令に反対すれば「朝敵(天皇の敵)」になってしまう——慶喜はその論理に縛られ、すぐに軍事行動に出ることができませんでした。
王政復古の大号令の内容——三職の設置と幕府廃止
王政復古の大号令の内容は、大きく「廃止するもの」と「新設するもの」の2点に整理できます。
廃止①:江戸幕府(将軍職)の廃止
廃止②:摂政・関白の廃止
新設③:三職(総裁・議定・参与)の設置
将軍職の廃止は当然として、注目すべきは摂政・関白まで廃止した点です。摂政・関白とは、古くは藤原氏が1000年以上独占してきた朝廷の最高職。これらをすべて廃止し、すっきりした状態で新政府を作ろうとしたのです。「神武天皇の時代に戻る」という名目で、過去の既成権力を全部クリアしたともいえます。
【原文(抜粋)】「幕府廃絶、摂関廃止ノコト。諸事神武創業ノ始ニ原キ……三職ヲ置カレ……」
【現代語訳】「幕府と摂政・関白の制度を廃止する。すべての事柄は神武天皇が国を建てた頃のあり方にさかのぼって……(新政府に)三職を置く……」
📌 三職の構成(今でいう「内閣の前身」のようなもの)
総裁:有栖川宮熾仁親王(皇族・最高責任者)
議定:有力な大名・公家(政策立案グループ)
参与:薩摩・長州・土佐など倒幕藩の藩士たち(実務担当)
三職の「参与」に薩摩・長州など倒幕側の藩士が多数入ったことがポイントです。形の上では天皇が中心ですが、実際の権力は薩摩・長州が握る——これが新政府の実態でした。この三職を中心とする体制は、後に太政官制度へと発展していきます。
一方で、「慶喜の内大臣辞職」を求めた点は、単に役職を取り上げるだけでなく、慶喜を新政府から追い出すための布石でした。岩倉具視の計算は、ここまで周到に及んでいたのです。

テストに「三職」って出るの?「総裁・議定・参与」ってセットで覚えなきゃいけない?

三職の「設置」そのものは頻出だよ!名称を全部覚えるより「幕府廃止のかわりに置かれた新政府の役職が三職」という意味を理解するのが大事。入試で「三職を何という」と聞かれたら「総裁・議定・参与」とセットで書けると完璧!
大政奉還と王政復古の大号令の違いをわかりやすく解説
「大政奉還」と「王政復古の大号令」はどちらも1867年のできごとで、混同されやすいです。しかし、主体・内容・目的がまったく異なります。
| 比較項目 | 大政奉還 | 王政復古の大号令 |
|---|---|---|
| 実施日 | 1867年10月14日 | 1867年12月9日 |
| 主体 | 徳川慶喜(将軍側) | 岩倉具視・薩摩・長州(倒幕側) |
| 何をしたか | 統治権を朝廷へ返上 | 幕府廃止・三職設置を宣言 |
| 目的 | 慶喜が新政府に参加するため | 慶喜を政治から完全排除するため |
| 性格 | 幕府側の政治的判断 | 倒幕派によるクーデター |
ポイントは「大政奉還は徳川側が出した」のに対し、「王政復古の大号令は倒幕側が出した」という点です。慶喜は大政奉還で「政権を返した上で新政府に参加しよう」と考えていましたが、岩倉具視はその翌々月、「そもそも徳川を入れない新政府」を作る宣言を出したのです。
よく「大政奉還で幕府が終わった」と教わりますが、実際には大政奉還だけでは幕府は終わりませんでした。幕府に完全な終止符を打ったのは、この王政復古の大号令なのです。「大政奉還→王政復古の大号令→小御所会議」という3ステップの流れを押さえることが、幕末理解の鍵です。

これって実質クーデターだったってこと?天皇の名前を使って無理やり幕府を廃止したってイメージなんだけど。

まさに実質クーデターだね!天皇の権威を使って「議論なしに幕府廃止を既成事実化した」のが王政復古の大号令の本質だよ。慶喜が「これはおかしい!」と気づいたときにはもう遅かった——反論すると「朝敵(天皇の敵)」のレッテルを貼られてしまうからね。
慶喜は大政奉還によって「誠意を見せた」つもりでしたが、岩倉具視にとってそれは「徳川排除の最終段階の前置き」でしかなかったのです。
王政復古の大号令と小御所会議——慶喜の運命が決まった夜
王政復古の大号令が発せられた1867年12月9日の夜、京都御所の小御所(天皇の居室に近い御所の一室)で、重大な会議が開かれました。これが小御所会議です。
会議では、新政府への参加をめぐって激しい議論が起きました。山内容堂(土佐藩主)や松平春嶽(越前藩主)らは「慶喜公を会議に呼ぶべきだ」と主張。しかし岩倉具視らはこれを断固として拒否します。
「勅命(天皇の命令)にすでに基づいている。今さら慶喜を呼ぶ必要はない」——岩倉はそう言い切りました。天皇の名義を使って先に既成事実を作ってしまった倒幕派の戦略が、ここでも発揮されたのです。
容堂にはこんな逸話が伝わっています。「鯨海酔侯」とあだ名されたほどの大酒飲みだった容堂は、この夜も会議前に深酒をして乗り込んできたとされています。「一橋(慶喜)は英雄豪傑。岩倉のような廷臣に武家の事情の何がわかるか!」と怒鳴りつけた容堂に対し、岩倉具視は冷静に一言切り返しました。「これはすべて天皇の御意思にございます」——それ以上、誰も反論できませんでした。天皇の名義を事前に確保した岩倉の計算が、ここでも完璧に機能したのです。
📌 辞官納地とは?
小御所会議で倒幕派が慶喜に突きつけた要求のこと。
「辞官」=内大臣の官職を返上すること
「納地」=徳川家の領地(約700万石)を朝廷に差し出すこと
→ 慶喜の政治的・経済的基盤を根こそぎ奪う要求
この辞官納地の要求は、実際には受け入れがたいものでした。徳川家の約700万石という領地は、全国の約4分の1に相当する大きさ。これを差し出すことは、徳川家の経済的基盤を完全に失うことを意味したからです。
山内容堂はこの要求について「横暴だ」と激しく抗議しましたが、岩倉具視は意に介しませんでした。岩倉は「今夜ここで決める。異論は認めない」という強硬姿勢を貫いたのです。
結局、小御所会議では辞官納地が決定されます。しかし慶喜はこれをすぐには受け入れず、大坂城へと退去。この後の展開が、日本を戦争(戊辰戦争)へと向かわせることになります。
慶喜はこの辞官納地の要求を受け入れず、一時は大坂城(現・大阪城)へと退去します。この後、薩摩藩が江戸で挑発行為を繰り返したことが引き金となり、1868年1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発。これが戊辰戦争へとつながっていきます。

王政復古の大号令と小御所会議——この一連の流れは、岩倉具視が周到に計画した「天皇の権威を使った合法的なクーデター」でした。翌朝には「慶喜が退場した新政府」という既成事実が作られ、日本は急速に明治維新へと向かっていくのです。
王政復古の大号令のその後——戊辰戦争へ
小御所会議で辞官納地を突きつけられた徳川慶喜は、これを受け入れることができず、京都から大坂城(現・大阪城)へと退去します。しかし、これが倒幕派の「次の罠」に飛び込むことになりました。
1868年(慶応4年)1月、薩摩藩が江戸城下で放火・略奪などの挑発行為を繰り返します。激怒した旧幕府軍は「薩摩藩を討伐する」として大坂を発ちますが——その途中、鳥羽・伏見(京都南部)で薩長軍と衝突します。これが鳥羽・伏見の戦い(1868年1月3日〜6日)です。
📌 戊辰戦争(1868〜1869年)の流れ
① 鳥羽・伏見の戦い(1868年1月)→旧幕府軍が薩長軍に敗北
② 慶喜が大坂から江戸へ脱出→幕府の軍事的抵抗力が急落
③ 勝海舟と西郷隆盛の交渉→江戸城無血開城(旧暦1868年4月11日・新暦5月3日)
④ 東北・北越の抵抗続く(奥羽越列藩同盟)
⑤ 函館戦争(1869年5月)終結→戊辰戦争終わる

鳥羽・伏見の戦いで薩長軍が勝つと、朝廷は旧幕府軍に「錦旗」(天皇軍の旗印)を授けます。この瞬間から旧幕府軍は「朝敵」となり、各地の大名たちが続々と新政府側に寝返りました。王政復古の大号令で種を蒔いた「天皇の権威による合法化」という戦略が、戦場でも効果を発揮したのです。
慶喜は江戸に戻り、恭順(従うこと)の姿勢を示します。勝海舟と西郷隆盛の交渉により、江戸城は旧暦1868年4月11日(新暦5月3日)に無血で開城されました。その後、東北・北越での抵抗が続きましたが、1869年5月の函館戦争終結をもって、戊辰戦争は終わります。
こうして、王政復古の大号令から始まった「新政府樹立」という既成事実が、戦争による実力行使で確定していったのです。約1年半にわたる戦いの末、日本は明治政府による統一国家への道を歩み始めました。

王政復古の大号令→小御所会議→鳥羽・伏見→江戸城無血開城→函館戦争終結という「近代国家誕生のシナリオ」がここで完成したんだ。岩倉具視が仕掛けたクーデターは、結果的に日本を明治維新へと導く核心的なターニングポイントだったんだよ!
王政復古を動かした中心人物たち
王政復古の大号令を実現させた背後には、3人の中心人物がいました。公家側の司令塔・岩倉具視、薩摩藩の実力者・大久保利通、そして薩摩の軍事的象徴・西郷隆盛の3人です。
■ 岩倉具視(1825〜1883)——クーデターの頭脳
岩倉具視は、朝廷の公家出身の政治家です。もともとは和宮降嫁(皇族の婚姻で幕府との融和を図る政策)を推進したことで「幕府寄りの人物」とみなされ、一時は京都から追放されていました。しかし幕末の政局が激変する中で倒幕派に転じ、薩長と手を結んで王政復古の大号令を主導しました。
この「追放」期間は、実に約3年半におよびます。1863年の政変から1867年の赦免まで、岩倉は京都北郊の岩倉村(現・京都市左京区)の農家に身を潜め、表舞台から完全に姿を消していました。身分を奪われ農家に蟄居しながらも、岩倉は「天皇の権威を使って倒幕を実現する」という構想を練り続けたのです。やがて政局が変わり赦免されると、岩倉は蟄居中に磨き上げた戦略を一気に実行に移します——それが王政復古の大号令でした。雌伏3年半が、岩倉をより緻密な戦略家へと育てたといえるでしょう。
岩倉の最大の強みは「朝廷の権威を使いこなす能力」でした。武力を持たない公家でありながら、薩長という軍事力を背景に、天皇の名義で政治的事実を次々と作り出す——この戦略が王政復古の大号令を成功させた最大の要因です。

岩倉具視ってどんな人なの?公家なのに政治的にそんなに強かったの?

岩倉具視は朝廷内のパワープレーが得意な政治家だよ!自分では軍隊を持てない公家だからこそ、「天皇の名義」という最大の武器を使いこなした。薩長という軍事力と組み合わせることで、誰も表立って反論できない状況を作り出したんだ。
■ 大久保利通(1830〜1878)——倒幕の実務担当

大久保利通は、薩摩藩出身の政治家で、岩倉具視の最大の協力者です。王政復古の大号令では、薩摩藩の軍を御所の警備に配置するという実務を担いました。クーデター当日、「誰も物理的に逆らえない状況」を作り出したのは大久保の仕切りによるものです。
大久保は西郷隆盛の旧友でもありましたが、後に政治路線で対立。西郷が西南戦争で敗れると、大久保は内務卿(今でいう内相)として明治政府の基礎を築きますが、1878年に暗殺されます。「維新の三傑」の一人として、岩倉・西郷とともに明治維新の顔となりました。
■ 西郷隆盛(1828〜1877)——薩摩の象徴

西郷隆盛は、薩摩藩の軍人・政治家です。王政復古の大号令の計画段階では岩倉・大久保と密接に連携し、実行時には薩摩藩兵を率いて御所の警備を担いました。鳥羽・伏見の戦いでも活躍し、戊辰戦争の勝利に貢献します。
その後、西郷は征韓論をめぐって大久保らと対立し政府を去ります。1877年、鹿児島の士族たちを率いて起こした西南戦争に敗れ、城山で自刃。「維新の英雄」として現代でも多くの人々に親しまれています。

岩倉具視・大久保利通・西郷隆盛の3人の役割ってテストで出る?どう覚えればいい?

3人は「維新の三傑(さんけつ)」として頻出だよ!ざっくりいうと——岩倉=頭脳(策略)、大久保=行政・実務、西郷=軍事・行動力——という役割分担で覚えると整理しやすいよ。共通テストでは「〇〇が行ったことはどれか」という選択問題でよく出るから、3人の違いをおさえておこう!
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:「大政奉還→王政復古→小御所会議→鳥羽・伏見」の4ステップを流れで覚えると確実!王政復古の大号令は大政奉還(10月)の2ヶ月後(12月)という点もよく問われる。「大政奉還で幕府が終わった」は不正確で、正式な終止符は王政復古の大号令であることに注意。
| 比較問題でよく出るポイント | 大政奉還 | 王政復古の大号令 |
|---|---|---|
| 時期 | 1867年10月14日 | 1867年12月9日 |
| 主体・誰が? | 徳川慶喜(幕府側) | 岩倉具視・薩長(倒幕側) |
| 行為の種類 | 政権返上(自分から) | 新政府樹立宣言(クーデター) |
| 廃止されたもの | 将軍の統治権 | 幕府・摂政・関白の制度 |
| 設置されたもの | なし | 三職(総裁・議定・参与) |
| 慶喜の立場 | 自ら手放した | 強制的に排除された |

「三職」って全部の名前を書けないといけないの?共通テストでどう出る?

共通テストは基本的に選択問題だから「総裁・議定・参与」の名前を全部書く必要はないよ!「三職とは何か」「誰が参与になったか」という理解問題が多い。記述式の大学では「三職の名称と各役職の担当者」を書けると完璧。まず「三職=新政府の3つの役職」という意味をしっかり押さえよう!
もっと深く知りたい人へ——おすすめの本

王政復古の大号令についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!
よくある質問
「王政復古」とは「天皇による政治(王政)を取り戻す(復古)」という意味で、「大号令」は「天皇の名で出された大きな命令」のことです。つまり「天皇中心の政治に戻すという大きな宣言」を意味します。1867年12月9日に岩倉具視ら倒幕派が明治天皇の名のもとに発し、江戸幕府・摂政・関白の廃止と三職(総裁・議定・参与)の設置を宣言しました。
大政奉還(1867年10月14日)は、徳川慶喜が将軍として「政権を朝廷へ返上した行為」で、幕府側が自らの意思で行ったものです。王政復古の大号令(1867年12月9日)は、岩倉具視・薩摩・長州ら倒幕派が「天皇の名で幕府廃止と新政府設立を宣言した命令」で、倒幕側が仕掛けたクーデターです。大政奉還が「返す」という行為なのに対し、王政復古の大号令は「新しく作る」宣言という違いがあります。
1867年(慶応3年)12月9日に出されました。大政奉還(10月14日)の約2ヶ月後にあたります。早朝、薩摩・土佐・長州・安芸・越前・尾張の6藩の兵が御所の門を固め、岩倉具視らが明治天皇(当時15歳)の名のもとで発しました。同日夜に小御所会議が開かれ、徳川慶喜への辞官納地要求も決定されました。
小御所会議とは、王政復古の大号令が発せられた1867年12月9日の夜に、京都御所の小御所(天皇の居室に近い御所の一室)で開かれた新政府の協議会です。岩倉具視らの主導のもと、徳川慶喜に内大臣辞職と領地返上(辞官納地)を求めることが決定されました。山内容堂(土佐)・松平春嶽(越前)らが慶喜の参加を求めて激しく抗議しましたが、岩倉具視はこれを拒否。慶喜の政治的排除が確定した会議として知られています。
年号の語呂合わせは「一夜(いちや)な(なな)くこ(こ)と(と)だ王政復古(1867=一夜な告と)」などが知られていますが、定番語呂合わせとしては確立していません。それよりも「大政奉還(10月)→王政復古の大号令(12月)→小御所会議(同日夜)→鳥羽・伏見(翌1月)」という4ステップの流れをストーリーで理解すると年号も自然に定着します。「大政奉還の2ヶ月後=王政復古」と関連付けて覚えるのが最も確実です。
「おうせいふっこのだいごうれい」と読みます。検索でよく見られる「大政復古の大号令(たいせいふっこのだいごうれい)」は誤りです。「大政奉還(たいせいほうかん)」という言葉と混同しやすいですが、「王政(おうせい)=天皇の政治」であり「大政(たいせい)=幕府の政権」とは異なる言葉なので注意が必要です。
まとめ——王政復古の大号令で日本はどう変わったか

以上、王政復古の大号令のまとめでした!大政奉還・小御所会議・戊辰戦争とセットで流れを覚えると、幕末のドラマがグッとリアルに感じられるようになるよ。下の記事もぜひあわせて読んでみてね!
- 1853年ペリー来航・鎖国終わり幕府の権威失墜始まる
- 1858年安政の大獄・開国派が反対派を弾圧
- 1860年桜田門外の変・大老・井伊直弼が暗殺される
- 1866年薩長同盟の成立・倒幕への連携強化
- 1867年10月14日大政奉還・徳川慶喜が政権を朝廷へ返上
- 1867年12月9日王政復古の大号令・幕府廃止・三職設置
- 1867年12月9日夜小御所会議・辞官納地要求・慶喜の政治的排除確定
- 1868年1月鳥羽・伏見の戦い・戊辰戦争始まる
- 1868年4月(旧暦)江戸城無血開城・新政府が江戸を制圧(新暦5月3日)
- 1869年5月函館戦争終結・明治政府の全国統一完成
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「王政復古 (日本)」(2026年5月確認)
コトバンク「王政復古の大号令」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「小御所会議」(ブリタニカ国際大百科事典)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
📚 幕末の記事をもっと読む → 幕末の記事一覧を見る






