

今回は薩英戦争について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「引き分けって本当?」「なぜ薩摩は善戦できたの?」という疑問にもしっかり答えていくね!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版社『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
実は、薩英戦争は「日本の惨敗」ではありませんでした。当時「世界最強」と称えられたイギリス海軍の艦隊を相手に、薩摩藩は互角に渡り合い、引き分けに持ち込んでいます。近代的な蒸気軍艦もなく、海軍力では圧倒的に劣るはずの薩摩が、なぜここまで善戦できたのか?その秘密は、鹿児島湾の「地の利」と「神風」、そして薩摩の硬骨な抵抗意志にありました。
しかも、この戦争が引き金となって、薩摩藩は「攘夷」から「開国・倒幕」へと180度の路線転換を果たします。薩英戦争は、単なる砲撃戦にとどまらず、明治維新への道を切り開いた歴史的転換点でもあったのです。
薩英戦争とは?
- 1863年(文久3年)8月、イギリス艦隊と薩摩藩が鹿児島湾で激突した戦争
- 勝敗は「引き分け」——双方が損害を受け、イギリス艦隊は撤退した
- この戦争を経て薩摩は攘夷から転換し、のちの倒幕・明治維新の礎となった
薩英戦争とは、1863年(文久3年)8月、イギリスと薩摩藩のあいだで起きた武力衝突のことです。場所は現在の鹿児島市にあたる鹿児島湾。前年(1862年)に発生した生麦事件での損害賠償をめぐってイギリスが交渉を迫ったことが直接のきっかけとなりました。
イギリスは薩摩に謝罪と賠償金の支払いを要求しましたが、薩摩藩はこれを断固として拒否。業を煮やしたイギリスは7隻の艦隊を率いて鹿児島湾に乗り込み、砲撃戦が始まります。
戦闘は2日間にわたって続きましたが、強風(台風の影響)・地の利・薩摩砲台の反撃によってイギリス艦隊は大きな損害を受けました。旗艦の艦長が戦死し、艦艇も損傷したイギリスは撤退。薩摩側も市街地が砲撃で焼失するなど甚大な被害を受けましたが、最終的には「引き分け」という結果に終わったのです。

「薩英戦争」って名前はよく聞くけど、薩摩とイギリスが戦ったってこと?どんな戦いだったのかしら?

そうだよ!「薩英」の「薩」は薩摩藩、「英」はイギリス(英国)のことだね。幕府じゃなくて薩摩藩という一地方の藩が、世界最強クラスのイギリス海軍と単独でぶつかった、超異例な戦争なんだ。しかも「引き分け」という結果が、当時の世界を驚かせたんだよ!
きっかけは生麦事件——薩英戦争の原因

薩英戦争が起きた直接のきっかけは、1862年(文久2年)9月に発生した生麦事件です。この事件を理解しなければ、薩英戦争の「なぜ?」が見えてきません。
1862年9月14日、島津久光の大名行列が神奈川・生麦村(現在の横浜市鶴見区)を通過していました。島津久光は薩摩藩の実力者で、当時の藩主の父にあたる人物です。
そこへ、馬に乗ったイギリス人4名(チャールズ・リチャードソンら)が行列を横切ろうとしました。当時の日本では、大名行列に対して土下座して道を譲るのが慣例でした。ところがリチャードソンらはその慣習を知らず(あるいは無視して)、馬を止めずにそのまま進んだのです。リチャードソンは上海で貿易商として長年活動しており、アジアの慣習を軽視しがちな言動があったとも伝えられています。
これに怒った薩摩藩士はリチャードソンを斬り殺し、他の2名(クラーク・マーシャル)にも重傷を負わせました。この事件が「生麦事件」です。
■ 生麦事件:どっちが悪い?
生麦事件について「どちらが悪いのか?」という議論は、現代でも続いています。
当時の日本の慣習から見れば、薩摩藩士の行動は「正当な作法の執行」でした。大名行列を妨害することは、江戸時代の法律(武家諸法度の精神)に照らして重大な無礼にあたったのです。一方で、イギリス側の視点からすれば、外国人を問答無用で斬り捨てる行為は、国際的にみて許しがたい暴力でした。
つまり、事件は「異なる文化・法制度の衝突」が引き起こしたものです。一方的にどちらかを悪と断じるのは難しいのですが、その結果として大きな代償を払うことになります。

生麦事件って、薩摩側が一方的に悪いの?それとも外国人側にも問題があったのかしら?

これ、どっちが悪いかはすごく難しい問題なんだ。日本の法律から見れば薩摩藩士は正しいことをしてたし、国際的な視点からはリチャードソンを殺傷した薩摩側が問題なんだよね。「価値観や文化の壁がぶつかった悲劇」っていうのが正直なところかな。テストでは「生麦事件がきっかけ」だけ覚えておけばOK!
■ イギリスの要求と薩摩藩の拒否
生麦事件を受けて、イギリスは強硬な態度に出ます。1863年(文久3年)2月、イギリス代理公使のニールは幕府・薩摩の両方に要求を突きつけました。
幕府への要求は「謝罪と賠償金10万ポンド」。幕府はやむなくこれに応じ、同年6月に10万ポンドを支払いました。一方、薩摩藩への要求は「リチャードソン殺傷犯の処罰と、遺族への賠償金2万5千ポンド」でした。
しかし、薩摩藩は断固として拒否します。「我が藩の藩士は薩摩の法律に従って行動した。イギリスの言いなりになる必要はない」という立場を崩しませんでした。
この薩摩の強硬姿勢の背景には、当時の「攘夷運動」の高まりがありました。攘夷とは「外国人を打ち払え」という考え方。幕末の志士たちの間でこの思想が広がっており、薩摩もその空気に乗った形で強硬路線を取ったのです。

われら薩摩藩士は、薩摩の法に従って行動した。何ゆえイギリスの要求に屈する必要があるというのか。賠償金など、払えぬ。
交渉は完全に決裂。イギリスは「力で解決するしかない」と判断し、艦隊を薩摩に向けることになります。こうして薩英戦争の幕が切って落とされたのです。
薩英戦争、始まる(1863年8月)

1863年(文久3年)8月11日、イギリスの艦隊7隻が鹿児島湾に入港しました。艦隊の旗艦は「ユーライアラス号」。ニール代理公使が乗り込み、最後通牒を突きつけます。「賠償金を払え。さもなくば実力行使に出る」というものでした。
■ イギリス艦隊、鹿児島湾へ
イギリス艦隊7隻は、当時の東アジアでは圧倒的な海軍力を誇る存在でした。蒸気で動く軍艦は薩摩の帆船とは比べ物にならない速さと砲撃力を持ち、薩摩が正面から戦って勝てる相手ではないはずでした。
しかし薩摩はひるみませんでした。鹿児島湾の沿岸には複数の砲台が設置されており、薩摩藩士たちはいつでも戦える体制を整えていたのです。
ニール代理公使は8月15日(旧暦7月2日)、交渉が決裂すると判断し、鹿児島湾内に停泊していた薩摩の蒸気船3隻(天佑丸・白鳳丸・青鷹丸)を拿捕しました。これが実質的な戦闘の引き金となります。
📌 薩摩の蒸気船拿捕:イギリス艦隊が薩摩の「天佑丸」「白鳳丸」「青鷹丸」の3隻を拿捕。これを見た薩摩の砲台が一斉射撃を開始した
■ 薩摩の砲台、反撃開始
1863年(文久3年)8月15日(旧暦7月2日)、薩摩沿岸の砲台から一斉に砲撃が開始されました。鹿児島湾を囲む複数地点に配置された薩摩の大砲が、湾内のイギリス艦隊に向けて火を噴いたのです。
この砲撃は、イギリス艦隊に予想外の損害を与えました。なんと、イギリス艦隊の旗艦「ユーライアラス号」に砲弾が命中。艦長のジョスリングと副長ウィルモットが戦死し、艦隊司令官のキューパー提督も負傷。「世界最強のイギリス海軍がアジアの一藩に旗艦の艦長を討たれた」——この事実は後にイギリス本国でも衝撃をもって報じられました。指揮系統が一時混乱したのです。
イギリス艦隊も反撃します。艦砲射撃によって鹿児島の市街地が次々と砲撃され、建物や工場が炎上しました。特に、薩摩が誇る洋式の工場群(集成館)が焼失したのは大きな損失でした。
📌 集成館とは?:薩摩藩が建設した日本最初クラスの洋式工場群。大砲・船・紡績などを製造していた。幕末の薩摩の「近代化」の象徴だったが、薩英戦争で焼失した


薩摩側からイギリスの旗艦に命中させたって、すごくない?近代兵器がない時代にどうやってそんなことができたの?

それには3つの理由があるんだ!実はこれが「なぜ薩摩が善戦できたのか」という話に直結するんだけど、順番に説明していくね。ひとことで言うと「地の利」「台風」「砲台の改良」という薩摩有利の条件が重なったんだよ!
薩英戦争の勝敗・どっちが勝った?
「薩英戦争は日本が負けた」と思っている人は多いですが、それは正確ではありません。正確に言えば、薩英戦争の勝敗は「引き分け」です。では、なぜ「引き分け」と言えるのでしょうか?両軍の損害を見ていきましょう。
■ イギリス側の損害
イギリス艦隊は、想定外の損害を受けました。旗艦「ユーライアラス号」に薩摩の砲弾が命中し、艦長ジョスリングと副長ウィルモットが戦死。イギリス側全体で死者13名・負傷者50名(計63名)の損害を受けました。
さらに追い打ちをかけたのが天候でした。戦闘中、鹿児島湾に台風の強風が吹き込み、イギリスの蒸気艦は操舵が困難になりました。弾薬の消耗も激しく、艦隊はこれ以上の戦闘継続は難しいと判断。8月17日、イギリス艦隊は鹿児島湾から撤退しました。
■ 薩摩側の損害
一方、薩摩側の損害も決して軽いものではありませんでした。イギリス艦隊の艦砲射撃によって鹿児島の市街地が激しく砲撃され、約500棟の建物が焼失。藩の近代化の象徴だった集成館も炎に包まれました。
薩摩藩の戦死者は5名(砲台要員1名・市街地の守衛兵4名)、負傷者も十数名にのぼりました。砲台自体も一部が破壊されており、「完全勝利」とは言えません。
■ 賠償金交渉とその結末
戦闘後、薩摩とイギリスのあいだで交渉が続きます。1864年(元治元年)、薩摩藩はイギリスに2万5千ポンドを支払うことで和解が成立しました。
ただし、この賠償金には興味深い事情があります。薩摩はイギリスに「幕府からの借金として」支払いをしており、事実上、幕府から借りた形を作ったのです。しかも、薩摩はこの賠償金を後に返済しなかったともいわれています。
また、生麦事件の「犯人処罰」についても、薩摩は「特定できない」として最後まで拒否し続けました。イギリスが最も重視した条件のひとつを、薩摩はかわし続けたのです。
📌 薩英戦争の勝敗まとめ
① イギリス:艦長・副長が戦死・弾薬消耗・強風で撤退 → 軍事的には引き分け
② 薩摩:市街地焼失・集成館消失 → 大きな損害あり
③ 賠償金:薩摩が2万5千ポンドを支払って和解(ただし犯人処罰は拒否)
④ 「引き分け」——どちらも完全勝利とは言えない結果

引き分けというのは、正直どちらが得をしたの?薩摩にとってもイギリスにとっても、どちらが有利だったのかしら?

おもしろい問いだね!軍事的には「引き分け」だけど、長い目で見ると薩摩が有利だったと言えるよ。だって薩摩は「世界最強のイギリス海軍に互角に渡り合えた」っていう実績を残したわけだから。これがイギリスに「薩摩はすごい」と思わせ、のちに薩英同盟につながっていくんだ。戦って負けなかった薩摩の「底力」が証明された戦いとも言えるよ!
次の章では、薩摩がなぜ世界最強のイギリス艦隊に対してここまで善戦できたのか、その秘密に迫ります。
なぜ薩摩は善戦できたのか?「頭おかしい」と言われるほどの善戦の理由
薩英戦争は、ネット上で「頭おかしい」「強すぎ」と話題になることがあります。それほど、薩摩の善戦は歴史的に見ても異例中の異例でした。
19世紀のイギリス海軍は、世界最強の海軍力を誇っていました。産業革命で生まれた蒸気軍艦、高精度の大砲、豊富な弾薬——あらゆる点で薩摩は劣勢のはずでした。にもかかわらず、なぜ薩摩はイギリスと互角に戦えたのでしょうか。主な理由は3つあります。
■ 理由①:鹿児島湾の地形(浅瀬・射程の有利)
最大の理由は、鹿児島湾の地形です。鹿児島湾(別名:錦江湾)は、薩摩半島と大隅半島に囲まれた湾で、湾の奥に向かうほど水深が浅くなります。
イギリスの大型蒸気軍艦は船底が深く、浅瀬には近づけません。イギリス艦隊は浅瀬を警戒して、砲台に十分接近できず、逆に薩摩側はイギリス艦が接近できない地点から砲撃できる有利な位置を確保していました。
これはまさに「ホームのアドバンテージ」です。薩摩は自分たちのフィールドで戦ったため、地の利を最大限に活かせました。
■ 理由②:台風(暴風雨・神風)
戦闘中、鹿児島湾に台風による強風が吹き込みました。これが「神風」とも言われる自然の力です。
蒸気船とはいえ、台風の強風の中では操舵が著しく困難になります。イギリス艦隊は風に翻弄され、砲撃の精度が落ちました。また、弾薬も多く消費してしまったため、戦闘を継続する余裕がなくなっていきました。
一方、陸上の砲台はどれだけ風が強くても位置が変わりません。「動かない砲台」vs「風で揺れる船」という構図で、薩摩側が圧倒的に有利な状況が生まれたのです。
■ 理由③:薩摩砲台の改良と集中射撃
薩摩藩は、実は幕末以前から西洋式の軍備近代化を積極的に進めていました。集成館での鉄の製造、洋式大砲の製造研究——薩摩は当時の日本の藩の中でも、特に「軍事の近代化」に力を入れた藩でした。
鹿児島湾の複数箇所に配置された砲台は、単独でバラバラに撃つのではなく、集中して一点に砲弾を浴びせる「集中射撃」の訓練を受けていました。この戦術が功を奏し、イギリスの旗艦への命中という成果につながったのです。
📌 「頭おかしい」は誉め言葉?:ネット上でよく言われる「薩英戦争 頭おかしい」というのは、「常識的に考えてあり得ない善戦をした」という意味。世界最強クラスの海軍に、一地方の藩が旗艦の艦長・副長を戦死させるほどの損害を与えた事実は、歴史的に見ても異例中の異例。これが幕末の薩摩の「軍事力の高さ」を示す証拠でもある

薩摩ってすごすぎない?テストだと「どっちが勝ったか」って聞かれるけど、「引き分け」って答えていいの?

テストでは「引き分け」と答えてOKだよ!より正確には「双方に損害が出てイギリス艦隊が撤退した」という結果。薩摩が一方的に負けたわけでも、完勝したわけでもない。3つの理由(地の利・台風・砲台の改良)がセットで覚えられると完璧だね!下関砲撃事件(1864年)と混同しやすいので注意しよう。

イギリスは強かったが、われら薩摩も互角に戦えた。これほど強くては攘夷など無理に決まっておる。まずはイギリスの技術を学ぶところから始めよう。
薩英戦争を経験した薩摩は、こうして大きな「気づき」を得ます。「攘夷(外国人を打ち払え)は無理だ。むしろイギリスの技術を取り入れて富国強兵を目指すべきだ」——この方針転換が、次の章で解説する「薩英同盟」と「倒幕」への道を切り開いていくことになります。やがて西郷隆盛らが主導した薩長同盟(1866年)を経て、大政奉還(1867年)・明治維新へとつながっていく歴史の大転換は、この薩英戦争の「敗北ではない経験」から始まったと言えるのです。
薩英戦争の影響・その後
薩英戦争は、砲声が止んだ後も歴史を大きく動かし続けました。戦争の結果は「引き分け」でしたが、それが薩摩にとっては「世界最強の軍隊に互角に渡り合えた」という強烈な自信と、同時に「このまま攘夷を続けても未来はない」という冷静な認識をもたらしたのです。
■ 「攘夷は無理ゲー」——薩摩の路線転換
薩英戦争以前、薩摩藩は「攘夷」——外国人を打ち払え——という思想を掲げていました。しかし戦争を実際に経験してみると、その考えは根本から揺らぎます。
いくら薩摩が善戦したとはいえ、イギリス艦隊の火力・技術力は圧倒的でした。艦砲射撃で鹿児島の市街地が焼け、集成館が炎上した光景は、薩摩の指導者たちに強烈な現実を突きつけました。「刀や旧式の大砲で、産業革命後の欧米列強と対抗するのは不可能だ」——そう悟った薩摩は、方針を180度転換します。
攘夷から「開国・富国強兵」へ。西洋の技術を学び、それを取り込んで国力を強化する。この現実路線への転換が、以後の薩摩の行動を決定づけていきます。
■ 薩英同盟の萌芽と留学生派遣
驚くべきことに、戦争からわずか2年後——1865年(慶応元年)、薩摩はイギリスに留学生を密かに送り込みます。「薩摩スチューデント」と呼ばれる19名の若者たちがロンドンへ渡り、造船・化学・機械・語学などを学んだのです。
さらに、薩摩はイギリスから武器・艦船を積極的に購入するようになります。戦争で戦った相手が、今度は最大の貿易相手・技術の師となる——この逆転劇を可能にしたのは、両者が戦争を通じて互いの「強さ」を認め合ったからでした。留学生の中には、のちに「大阪経済の父」と呼ばれる五代友厚もいました。彼はロンドンで近代的な商工業の仕組みを学び、帰国後は日本初の証券取引所(大阪株式取引所)や大阪商工会議所の設立に尽力するなど、近代日本の経済基盤づくりを担いました。
薩英同盟とは、薩英戦争後に薩摩藩とイギリスの間で形成された事実上の協力関係のこと。正式な条約ではなく、武器・艦船の売買・留学生受け入れ・情報交換などを通じた実質的な同盟関係です。イギリスは薩摩を通じて日本への影響力を確保しようとし、薩摩はイギリスの軍事技術を取り込んで倒幕の実力をつけようとしました。
■ タイムズ紙の反応・海外からの評価
薩英戦争のニュースはヨーロッパにも伝わり、大きな反響を呼びました。イギリスの有力紙「タイムズ」は、この戦争を報じ「日本の一藩にここまでの損害を与えられるとは、想定外だった」という趣旨の論評を掲載しました。
欧米列強にとって、アジアの藩(薩摩)が世界最強クラスの海軍に互角に渡り合ったという事実は衝撃的でした。「日本を侮ってはいけない」という認識が、欧米の外交官・軍関係者の間に広がっていきます。
📌 薩英戦争→薩長同盟→大政奉還の流れ:薩英戦争(1863年)で攘夷の限界を知った薩摩は、西洋技術を取り込む路線に転換。長州藩も下関砲撃事件(1864年)で同じ経験をし、両者は共通の目標「倒幕」に向けて接近。1866年の薩長同盟→1867年の大政奉還へと歴史が動いていく
■ 「歴史のif」——もし薩摩が完敗していたら?
もし薩英戦争で薩摩が完膚なきまでに敗北していたら——おそらく薩英同盟は生まれず、薩摩留学生のイギリス派遣もなかったでしょう。薩長同盟の形成も遅れ、倒幕のタイミングが大きくずれ込んだ可能性があります。最悪の場合、幕府が延命して明治維新の時期が10年・20年遅れていたかもしれません。
「引き分け」という結果が、実は近代日本の歴史を動かす大きなエンジンになっていたのです。
■ 現代とのつながり
📌 薩英戦争が日本の近代化に与えた影響:薩英戦争は「日本が西洋技術を本格的に取り込むきっかけ」になった戦争のひとつです。薩摩留学生たちは帰国後、明治政府の要職に就き(五代友厚ら)、鉄道・紡績・外交の近代化を牽引しました。鹿児島の「旧集成館」は現在もユネスコ世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産として登録されており、薩英戦争で焼失後に再建された工場群の歴史を今に伝えています

薩英戦争で戦った相手と仲良くなって留学生まで送ったって、なんか不思議ね。どうして急に関係が改善したのかしら?

これ、歴史あるあるの逆説なんだよね!「戦って実力を認め合った者同士が組む」パターン。イギリスは「薩摩はすごい、組む価値がある」と思い、薩摩は「イギリスの技術は本物、学ばなきゃ」と悟った。お互いが相手を尊重するようになったから急接近できたんだ。ライバルが最高の同盟相手になる——歴史ってドラマチックだよね!
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テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:「生麦(1862)→薩英(1863)→薩英和解・賠償(1864)→薩長同盟(1866)→大政奉還(1867)」と年号をセットで覚えよう。テストで「薩英戦争の勝者は?」と聞かれたら「引き分け(双方に損害・イギリスが撤退)」が正解。下関砲撃事件(1864年・長州vs英仏蘭米)と年号・相手国を混同しやすいので要注意!
📌 比較:薩英戦争 vs 下関砲撃事件
【薩英戦争】1863年8月 / 薩摩藩 vs イギリス / 鹿児島湾 / 引き分け → 薩英同盟へ
【下関砲撃事件】1864年 / 長州藩 vs 英・仏・蘭・米(4か国)/ 下関海峡 / 長州の惨敗 → 幕府への賠償要求へ

テストで一番大事なのはどこ?1863年の年号って絶対覚えなきゃダメ?

最優先は「①生麦事件がきっかけ ②1863年 ③引き分け ④その後に薩英同盟」の4点セット!年号は「1863年=薩英戦争」とゴロで「ひとむかし(1863)前の薩英戦争」と覚えてもOK。下関砲撃事件(1864年)と1年しか違わないから、相手が「イギリス1国」か「4か国」かで区別しよう。
よくある質問(FAQ)
1863年(文久3年)8月、イギリス艦隊と薩摩藩が鹿児島湾で起こした武力衝突のことです。1862年の生麦事件(薩摩藩士がイギリス人リチャードソンを殺傷した事件)をめぐる賠償交渉が決裂し、イギリスが艦隊7隻を派遣して砲撃戦に発展しました。両軍に損害が出てイギリスが撤退した「引き分け」の戦争で、のちに薩英同盟・明治維新への転換点となりました。
「引き分け」が正解です。イギリス側はキューパー提督が負傷・艦長ジョスリングと副長ウィルモットが戦死し、台風の強風と弾薬消耗で撤退しました。薩摩側も鹿児島市街地約500棟が焼失・集成館が炎上するなど大きな損害を受けました。どちらも完勝とは言えない結果で、テストでは「引き分け(双方に損害・イギリスが撤退)」と答えましょう。
生麦事件(1862年)が薩英戦争(1863年)の直接のきっかけです。生麦事件でイギリス人リチャードソンが殺傷されたことを受け、イギリスは薩摩に謝罪・犯人処罰・賠償金2万5千ポンドを要求しました。しかし薩摩は拒否。業を煮やしたイギリスが翌年に艦隊を派遣し、武力衝突(薩英戦争)に発展しました。「生麦事件→賠償交渉決裂→薩英戦争」という流れで覚えましょう。
主な理由は3つです。①地の利(鹿児島湾の地形):イギリスの大型艦は浅瀬に近づけず、薩摩の砲台が有利な射程を確保できた。②台風(暴風雨・神風):戦闘中に台風の強風が吹き込み、イギリス艦の操舵が困難になって弾薬を消耗した。③薩摩砲台の改良と集中射撃:薩摩は幕末以前から砲台の西洋式改良を進めており、集中射撃の訓練を受けていた。この3条件が重なったことで、薩摩は世界最強の艦隊に対して互角に渡り合えたのです。
戦争後、両者は急速に接近しました。1864年(元治元年)に薩摩がイギリスに賠償金2万5千ポンドを支払って和解し、その後は事実上の「薩英同盟」関係に発展します。薩摩はイギリスから武器・艦船を購入し、1865年(慶応元年)には「薩摩スチューデント」と呼ばれる19名の留学生をイギリスに送り込みました。この留学生たちは帰国後に明治政府の要職に就き、日本の近代化を牽引します。戦争相手が最大の協力者になるという、歴史的な逆転劇が起きたのです。
4点セットで覚えるのがコツです。①きっかけ:生麦事件(1862年)②年号:1863年8月 ③結果:引き分け(イギリス艦隊が撤退)④その後:薩英同盟→倒幕へ。年号は「ひとむかし(1863)前の薩英戦争」と語呂で。下関砲撃事件(1864年・長州vs4か国)と混同しやすいので、「薩英=1863・イギリス1国のみ」と区別しましょう。
まとめ
- 1862年9月生麦事件島津久光の行列を横切ったイギリス人リチャードソンが薩摩藩士に殺傷される
- 1863年2月イギリスが幕府・薩摩に要求謝罪・犯人処罰・賠償金の要求。幕府は応じたが薩摩は断固拒否
- 1863年8月11日イギリス艦隊7隻が鹿児島湾に入港最後通牒を突きつけるも薩摩が拒否。薩摩の船3隻を拿捕する
- 1863年8月15〜17日薩英戦争(砲撃戦)薩摩砲台が砲撃開始。イギリス旗艦に命中・艦長ジョスリングと副長ウィルモットが戦死。台風の強風と弾薬消耗でイギリス撤退。引き分けで終結
- 1864年薩英和解・賠償金決着薩摩が2万5千ポンドをイギリスに支払って和解。犯人処罰要求は拒否し続けた
- 1865年薩摩スチューデント19名をイギリスへ派遣五代友厚らを含む留学生がロンドンへ。造船・化学・外交を学ぶ。薩英同盟が事実上成立
- 1866年薩長同盟薩摩・長州が倒幕で連携。薩英戦争で攘夷を転換した薩摩が主導
- 1867〜1868年大政奉還・明治維新幕府が政権を返上。明治新政府が成立。薩英戦争の「経験」が倒幕の礎となった

以上、薩英戦争のまとめでした!「引き分け」という結果が、日本の近代化を一気に加速させた——歴史の面白さって、こういうところにあるよね。幕末の流れをさらに深掘りしたい人は、下の記事もあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「薩英戦争」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「生麦事件」(2026年5月確認)
コトバンク「薩英戦争」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「生麦事件」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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