今回は、1863年に薩摩藩とイギリスとの間で起こった薩英戦争(さつえいせんそう)について解説します。
さっそく本題に入ります。
薩英戦争までの流れ
最初に、薩英戦争までの時代の流れを簡単に確認しておきます。
- 1862年8月
薩摩藩士が、大名行列が通るのに馬から降りない無礼なイギリス人にブチギレて襲いかかる。
- 1863年2月イギリス、幕府と薩摩藩に賠償を求める。
- 1863年5月幕府、イギリスの圧力に屈して賠償金払う。薩摩藩は要求を無視。
イギリスは幕府を脅すために横浜に停泊させていた軍艦を鹿児島へ移動。次は薩摩藩を脅して、要求を飲ませようとする。
- 1862年7月薩英戦争へ←この記事はココ!
薩摩藩は最後までイギリスの要求を拒否。世界最強と言われていたイギリス艦隊と薩摩藩の間で戦争が始まる。
まとめると、
です。生麦事件とセットのお話なので、事前に生麦事件の記事に目を通しておくとスムーズに読めると思います。
薩英戦争始まる
1863年6月、7隻のイギリス軍艦が鹿児島湾に入り、今でいう鹿児島市付近までやってきます。薩摩藩との交渉を任されたのはニールという人物。ニールは7隻の軍艦を背景に迫ってきます。
薩摩藩よ、早く犯人を処罰し25,000ポンドの賠償金を渡すのだ。これは最後の交渉である。ここで薩摩藩がイギリスの要求に応じないのならもはや交渉は不要。軍艦の砲門が火を吹くことだろう。
大名行列の横で無礼な行為をしていたら斬られるのは当然である。生麦事件では薩摩藩はしかるべき処置をしただけで、なんら悪いことはしていない。悪いことをしていないのだから、イギリスの要求を飲む必要もない。
あれ?軍艦で脅してるのに薩摩藩は幕府みたいに全然ビビってくれないぞ・・・。
こうして両者の最後の交渉が終わり、薩摩藩とイギリスは一足触発状態へ。ここでニールはこんなことを考えます。
薩摩藩の最新鋭軍艦を盗んで、『返して欲しかったら賠償金払え』って脅したろ。
1863年7月2日の夜明け前、イギリス軍艦は密かに三隻の薩摩藩の軍艦に接近。イギリス兵が薩摩藩の船に乗り込んできます。薩摩藩側は応戦するも敵わず。三隻の船をイギリスに奪われてしまいます。船の中にいた者は捕虜として拘束され、その中には明治維新で有名になる五代友厚(ごだいともあつ)の姿もありました。
もちろん、薩摩藩は大激怒。この強奪事件を受けて、薩摩藩も遂にイギリス艦隊への砲撃を命じ、薩英戦争が始まることになります。
薩摩藩、強い
天気は大荒れ。場所は今でいう鹿児島市と桜島の間の海峡。
7月2日の正午ごろ、鹿児島の街の方から海の軍艦をめがけて一発目の砲弾が放たれました。
両者の砲撃の最大射程距離は・・・
・・・最新兵器を持っているイギリスが圧倒的に有利です。
薩摩藩の射程距離外から砲撃すれば、敵を蹂躙できます。イギリス軍艦の中には「敵の兵器ショボすぎ。余裕すぎワロタww」と考えていた者もいたことでしょう。
しかし、予想に反してイギリスは大苦戦を強いられることになります・・・。
イギリス軍は油断をしていました。市街からの砲撃はあっても、対岸の桜島には薩摩軍はいないと思い込んでいたんです。桜島の部隊は市街からの砲撃を合図に、目の前にいるイギリス艦隊に大砲を打ちまくります。
奇襲を受けたイギリス艦隊は慌てて出港し、体制を立て直します。こうして、ようやくイギリス側も反撃に出ますが、大荒れの狭い海峡では船をうまくコントロールしきれず、薩摩藩の有利に展開が進んでいきます。
交戦から約3時間の経過した15時ごろ、イギリス艦隊の旗艦(きかん。司令官の乗る艦)が被弾。これによって艦長が死亡し、総司令官だったキューパーという人物も負傷。
両者の交戦は次の日も続き、二日後の7月4日、遂にイギリス艦隊は撤退することになります。
薩摩藩には全く降参する様子がなく、これ以上の戦いは無意味である。艦隊は損傷し、負傷者も多数。物資にも不安があるから、一度横浜に撤退する・・・。
薩英戦争の結果
薩摩藩は当時最強ともいわれることのあったイギリス艦隊の撃退に成功。
両軍の被害は以下のような感じでした。
薩摩藩は犠牲者こそ少なかったものの、鹿児島の街は大被害を被りました。とはいえ、薩摩藩は善戦しました。世界最強と言われていたイギリス艦隊と戦争をしてこれだけの被害で済んだのは、むしろメチャクチャすごいことだと思います。
様子を見ていた他の列強国も、この結果には衝撃を受けたと言われています。
薩摩藩とイギリスの和睦
さて、ここから先、展開は意外な方向へ進むことになります。
薩英戦争の後、薩摩藩とイギリスとで何度か和睦交渉が行われました。しかし、ここでも両者は一切譲りません。
薩摩藩は生麦事件の賠償金払え。
イギリスこそ、薩英戦争で盗んだ三隻の船を弁償しろ。
和睦交渉は難航。数回の交渉の末、最後は江戸幕府の仲介により薩摩藩は、「イギリスへの賠償金」としてではなく「生麦事件の遺族たちへの慰謝料」として2万5000ポンドを払うことで和睦交渉は決着します。こうすることで、被害者には謝罪するが、イギリスという国に対しては決して非を認めない姿勢を貫きました。
ちなみに、この時支払ったお金は薩摩藩が幕府から借金したお金でした。そして、この大金は薩摩藩に踏み倒され、幕府の手元に戻ることはありませんでした・・・笑
一方、イギリス側は薩摩藩が新しい軍艦を調達するための支援をするということで和睦の交渉は成立しました。
薩摩藩「イギリス強すぎ。攘夷とか無理ゲーだわ」
薩摩藩は薩英戦争を通じて、イギリス艦隊の強さを目の当たりにし、「異国をぶっ倒す!」という攘夷の考え方が不可能であることを実感することになります。
イギリスの近代兵器が想像以上に強すぎて、今のままで攘夷なんて無理だわ。
攘夷を実行するには、まず諸外国と関係を結び、技術や知識を学ぶことから始めなければならない。今回の和睦をきっかけに、イギリスとの関係を深めるべきである。
こうして、「イギリス憎し!」だった薩摩藩の態度は一転して、「イギリスさん、仲良くしましょうや!」という友好スタイルへと変わっていきました。
一方のイギリスも、薩英戦争を通じて薩摩藩を高く評価するようになり、両者の関係は長い間、良好な状態が続くことになります。
イギリスとしても薩摩藩と友好関係を築いておいて損はありません。幕府みたいにイヤイヤ開国している相手よりも、一度腹を割って戦争し、自ら積極的に交友を求めてくる薩摩藩の方が信頼できるし、薩摩藩を通じて日本の情報を収集することもできますからね。
薩英戦争まとめ
薩英戦争についてまとめておきます。
諸藩の1つにすぎない薩摩藩が、最強艦隊と互角に渡り合い、その後、お互いに認め合う関係になった・・・
とか、なんだか漫画みたいな展開でカッコいいですね。
薩摩藩は薩英戦争をきっかけに、「とにかく異国をぶっ潰す攘夷」から「諸外国と関係を結び、富国強兵を目指して、国力を増した後に異国と対等に渡り合う攘夷」へと考え方を変更。これを実現するため、薩摩藩は次第に「倒幕」へと動き始めることになります。
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