薩長同盟とは?わかりやすく解説【読み方・内容・なぜ結んだのか】

この記事の目次 19項目はじめに
  1. 薩長同盟とは?読み方・意味をわかりやすく解説
  2. 薩長同盟が結ばれた背景——仲の悪かった2藩が手を組んだ理由
    1. 薩長対立の歴史——池田屋事件と蛤御門の変
    2. 第2次長州征伐と「もう負けたくない」共通の危機感
  3. なぜ手を組んだ?薩摩と長州それぞれのメリット
    1. 薩摩藩のメリット——長州の戦闘力と「倒幕後の主導権」
    2. 長州藩のメリット——武器の調達と「単独で戦わなくていい」安心感
  4. 坂本龍馬の役割——仲介説 vs 証人説・最新研究
    1. 従来の通説「龍馬仲介説」
    2. 近年の新説「龍馬は証人(立会人)に過ぎなかった」
  5. 薩長同盟の内容(6カ条)をわかりやすく解説
  6. 薩長同盟が締結された場所と日時——江戸ではなく京都
  7. 薩長同盟のその後——明治維新への影響
    1. 第2次長州征伐——幕府の大敗と薩長同盟の効果
    2. 大政奉還から戊辰戦争・明治維新へ
  8. テストに出るポイント
    1. 薩長同盟・幕末をもっと詳しく学びたい方へ
  9. 薩長同盟についてのよくある質問
  10. まとめ:薩長同盟のポイント
もぐたろう
もぐたろう

今回は薩長同盟について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「坂本龍馬が仲介した」という有名な話が、実は近年見直されていることも紹介していくね。

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この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
山川出版『詳説日本史』準拠
定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応

この記事を読んでわかること
  • 薩長同盟の読み方と基本定義(さっちょうどうめい・1866年締結の軍事同盟)
  • なぜ仲の悪い2藩が手を組んだのか(薩摩・長州それぞれのメリット)
  • 坂本龍馬の役割(仲介説 vs 証人説・最新研究)
  • 薩長同盟の内容6カ条(何が取り決められたか)
  • 薩長同盟のその後(明治維新・倒幕への影響)

「薩長同盟といえば坂本龍馬さかもとりょうま!」——歴史の教科書でもドラマでも、そう描かれてきました。

でも実は、近年の研究では「龍馬は仲介者ではなく、立会人(証人)に過ぎなかった」という説が有力になっています。本当に薩摩と長州を結びつけたのは、西郷隆盛さいごうたかもり・木戸孝允きどたかよし・そしてイギリス人商人グラバーだった——。この記事では、教科書の「龍馬主役説」を超えて、薩長同盟の本当の姿をわかりやすく解説していきます。

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薩長同盟とは?読み方・意味をわかりやすく解説

薩長同盟さっちょうどうめいとは、1866年(慶応2年)1月21日、薩摩藩(今の鹿児島県)と長州藩(今の山口県)の間で結ばれた軍事同盟のことです。

場所は江戸ではなく、京都の小松清廉こまつきよかど(小松帯刀)邸。当時の薩摩と長州は、それまでお互いに戦いまで起こしていた「犬猿の仲」でした。その2藩が、共通の敵である幕府を倒すために手を握ったのが、この同盟です。

3行でわかる薩長同盟

① 1866年1月21日、京都・小松清廉邸で薩摩藩と長州藩が結んだ軍事同盟。
② 坂本龍馬・中岡慎太郎が立会人。実際の交渉は西郷隆盛と木戸孝允。
③ 幕府打倒(倒幕)の出発点となり、明治維新につながった。

ゆうき
ゆうき

「薩長同盟」ってなんて読むの?薩摩と長州ってどこの藩のこと?

もぐたろう
もぐたろう

「さっちょうどうめい」って読むよ!薩摩=今の鹿児島県、長州=今の山口県の藩同士の同盟なんだ。日本の南の西端どうしが手を組んだ、というイメージだね!

📌 「薩長同盟」と「薩長連合」の違い:実は同じ出来事を指す呼び方です。「薩長連合」は木戸孝允の日記などの当時の史料に出てくる表現で、「薩長同盟」は現代の歴史書・教科書で一般的に使われる呼び方。意味の違いはありません。

坂本龍馬の肖像写真
坂本龍馬。薩長同盟の「仲立ち」として有名だが、近年の研究では役割の見直しが進んでいる。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

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薩長同盟が結ばれた背景——仲の悪かった2藩が手を組んだ理由

薩摩と長州は、もともと「犬猿の仲」と言われるほど対立していました。ではなぜ、その2藩がわざわざ同盟を結ぶことになったのか——。その背景には、2藩それぞれが抱えていた「もう幕府には逆らえない」というギリギリの状況がありました。

薩長対立の歴史——池田屋事件と蛤御門の変

薩摩と長州の対立がもっとも激しくなったのは、1864年(元治元年)です。この年、2つの大きな事件が立て続けに起きました。

1つ目は6月の池田屋事件。京都・池田屋に集まっていた長州藩士らを、幕府側の新選組が急襲し、多くの志士が命を落としました。

2つ目は7月の蛤御門の変はまぐりごもんのへん(禁門の変)。京都での池田屋事件に怒った長州藩は兵を率いて京都に攻め入りますが、御所の蛤御門付近で、薩摩藩・会津藩を中心とする幕府側の軍勢に撃退されてしまいます。

つまり、薩摩は「長州を撃退した側」。長州にとって薩摩は、まさに「目の前で兄弟分を斬った仇敵」でした。「薩賊会奸(さつぞくかいかん)」——薩摩の賊・会津の奸(わるもの)と書いた木札を長州藩士が下駄の裏に貼って踏みつけた、という逸話まで残るほどの憎しみだったのです。

第2次長州征伐と「もう負けたくない」共通の危機感

そこに追い打ちをかけたのが、幕府による「長州征伐ちょうしゅうせいばつ」でした。

蛤御門の変で「天皇に弓を引いた逆賊」とされた長州藩に対し、幕府は第1次長州征伐(1864年)を実行。長州はいったん降伏しますが、その後高杉晋作らがクーデターで藩政を奪い返し、幕府への反抗の姿勢を強めます。すると幕府は、第2次長州征伐(1866年)の準備を進めはじめました。

一方の薩摩藩も、1863年の薩英戦争さつえいせんそうでイギリスと戦って大きな被害を受け、「幕府にこのまま付き合っていて本当に大丈夫なのか?」という不信感が広がっていました。幕府の独裁体制では、もう外国の脅威に対応できない——そう考える藩士が増えていたのです。

あゆみ
あゆみ

つい数年前まで殺し合っていた相手と、いきなり「組もう!」なんてなれるものなの?

もぐたろう
もぐたろう

普通ならありえないよね。でも「このまま単独でいたら、幕府か外国に潰される」という危機感が両藩にあったんだ。「昨日の敵は今日の友」——共通の敵が現れたから、過去のうらみを呑み込んででも手を組むしかなかった、ってこと!

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なぜ手を組んだ?薩摩と長州それぞれのメリット

「共通の敵があった」だけでは、人は動きません。実際には、薩摩・長州それぞれにとって「この同盟は得だ」と思える具体的なメリットがあったから、犬猿の仲を呑み込んで握手することになったのです。それぞれの立場から見ていきましょう。

薩摩藩のメリット——長州の戦闘力と「倒幕後の主導権」

薩摩藩にとって最大のメリットは、長州藩の戦闘力でした。

当時の長州藩は、奇兵隊きへいたい(高杉晋作が組織した、武士以外の身分の人々も含む混成軍)を抱え、藩士の戦意も極めて高い状態にありました。幕府との戦いを覚悟するなら、この戦力と組むのは大きな力になります。

もう1つは、倒幕後の新政権における主導権です。すでに薩摩内部では、幕府を倒した上で新しい政権を作るべきだという大久保利通・西郷隆盛らの路線が固まりつつありました。倒幕の主役になるためには、長州を「敵」のままにしておくよりも、「味方」として取り込んだほうが圧倒的に有利だったのです。

西郷隆盛
西郷隆盛

長州と手を組むのは、正直、抵抗がある。蛤御門で斬り合った相手じゃ。じゃっどん、幕府に勝つためなら……過去は呑み込もう。

長州藩のメリット——武器の調達と「単独で戦わなくていい」安心感

長州藩にとってのメリットは、もっと切実でした。

長州は「朝敵(朝廷の敵)」とされていたため、外国から武器を直接買えない状況にありました。幕府の第2次征伐が迫っているのに、肝心の武器が手に入らない——これでは戦えません。

そこに登場したのが、イギリス人商人トーマス・グラバーと、龍馬が結成した亀山社中かめやましゃちゅう(後の海援隊)でした。手順はこうです。

武器密輸のしくみ:① グラバー商会が長崎で最新式銃を販売 → ② 薩摩藩が「自分たちが使う」名義で購入 → ③ 亀山社中の船で薩摩名義の武器を下関の長州に輸送

つまり「薩摩のフリをして武器を買う」仕組みです。長州はこの方法で、最新式のミニエー銃みにえーじゅうなどを大量に調達できました。

さらにもう1つ。幕府が長州を攻めても、薩摩が出兵を拒否してくれる——これも長州にとって決定的でした。第1次長州征伐では、薩摩は幕府軍に加わって長州を圧倒しました。その薩摩が今度は中立を守ってくれるなら、幕府軍の戦力は大きく削がれます。

もぐたろう
もぐたろう

つまり長州にとっては「武器も入る」「敵が1つ減る」のダブルメリット!薩摩にとっては「長州の戦闘力が手に入る」「倒幕の主導権を握れる」ってこと。お互いに「組めば得する」と思えたからこそ、同盟が成立したんだよ。

坂本龍馬の役割——仲介説 vs 証人説・最新研究

薩長同盟といえば、教科書でもドラマでも「坂本龍馬が仲介した」と語られてきました。しかし近年、この通説は大きく見直されつつあります。

従来の通説「龍馬仲介説」

従来の通説は、こんなストーリーでした。土佐藩を脱藩した龍馬が、長州の木戸孝允と薩摩の西郷隆盛のあいだを往復し、両者の意地と恨みを解きほぐして、ついに京都・小松邸での会談を実現させた——。

坂本龍馬
坂本龍馬

いやー、薩摩と長州を結びつけるのは本当に大変だったぜよ……。犬猿の仲のあやつらを同じ部屋に座らせるのに、どれだけ苦労したことか。

このイメージは、明治以降の伝記や、戦後の司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』によって決定的になりました。「龍馬がいなければ薩長同盟はなかった」——そう信じられてきたのです。

近年の新説「龍馬は証人(立会人)に過ぎなかった」

ところが近年の研究で、この通説には「龍馬を過大評価しているのではないか」という指摘が強まっています。

根拠の1つは、同盟締結の場に龍馬が「最初からいたわけではない」こと。会談は1月21日に始まりますが、龍馬が京都に到着したのはその翌日ともされ、しかも会談の本筋(薩摩と長州の交渉)はすでに進んでいたといいます。

実際の交渉を主導したのは、薩摩側は西郷隆盛・小松清廉こまつきよかど(小松帯刀)・大久保利通。長州側は木戸孝允(当時は桂小五郎)。そして両藩の間を実際に往復していたのは、龍馬と並んで中岡慎太郎なかおかしんたろう(土佐脱藩・後に近江屋で龍馬と共に暗殺される)だった、というのが現在の有力な見方です。

では龍馬は何をしたのか——。同盟締結の数日後、不安になった木戸孝允が「本当にこの約束は守られるのか?」と龍馬に手紙で問い合わせます。龍馬はその手紙の裏に「この通り間違いなし」と朱筆で署名しました。これが有名な「裏書き」で、龍馬は同盟の「保証人(証人)」になったのです。仲介の主役というより、両藩の信頼をつなぎとめる「立会人」の役割だった——というのが、新説の骨子です。

📌 坂本龍馬の役割:2つの説
【仲介説(従来の通説)】龍馬が薩摩と長州の間を往復して同盟をまとめあげた主役。
【証人説(近年の研究)】交渉は西郷・木戸・小松らが主導。龍馬は中岡慎太郎とともに連絡役を務め、締結後に同盟内容を「保証」する裏書きを書いた立会人。
※ ただし龍馬が両藩のパイプ役として機能したのは事実。「全てを龍馬がやった」と「龍馬は無関係」のどちらも極端で、「主役級の脇役」が実像に近いと評価されている。

薩長同盟の内容(6カ条)をわかりやすく解説

薩長同盟は、木戸孝允が締結直後に書き残した手紙(いわゆる「桂・小五郎書簡かつら・こごろうしょかん」)によって、その内容がわかっています。全部で6カ条。ざっくり言うと「第1〜3条=長州征伐への対応」と「第4〜6条=倒幕(天下回復)への誓約」の2パートに分かれます。

第1〜3条:長州征伐が起きた場合の対応

第1条:もし幕府と長州との戦争(長州征伐)が始まったら、薩摩は2000人以上の兵を京都・大阪に派遣して長州を助ける。

第2条:戦況が長州にとって有利になった場合、薩摩はすぐに朝廷に働きかけて、長州の名誉回復(天下回復)をめざす。

第3条:万一、戦争が2〜3ヶ月以内に収まり長州が苦戦するような事態になっても、薩摩は朝廷に働きかけ、長州藩主(毛利家)の赦免しゃめん(許してもらうこと)を必ず実現させる。

第4〜6条:倒幕・天下回復への誓約

第4条:戦争中に万一、薩摩側に何か不首尾(うまく動けない事情)があって長州を助けられない場合、その時の処理は龍馬が証人として責任を持って引き受ける。

第5条:薩摩の運動によって長州の名誉回復が実現できれば、長州が朝廷に復帰できるように薩摩がさらに助力する。

第6条:もし薩摩が何らかの事情でこの運動を続けられない状況になっても、龍馬が薩摩に代わって天下回復(=倒幕)の運動を続ける。

あゆみ
あゆみ

条文だけ見ると難しいけど、要するに「困ったら助け合おうね」って約束ってこと?

もぐたろう
もぐたろう

そう、ざっくり言うと2つだけ!
①「幕府が長州を攻めたら、薩摩は兵を出すか、最低でも長州を助ける」
②「倒幕が成功したら、長州の名誉も一緒に回復する」
これを6つの条文に分けて、龍馬を保証人にして書き残した——これが薩長同盟の中身だよ!

6カ条はどこで残された?——「龍馬の裏書き」の話

薩長同盟は、当時は「秘密の口約束」でした。条文を書いた紙に正式な署名・印を押した「条約書」は存在しません。

では、なぜ6カ条の内容が今に伝わっているのか——。それは、締結の数日後、木戸孝允が「本当にこの約束は守られるのか?」と不安になり、合意内容を6カ条にまとめた手紙を坂本龍馬に送ったから。龍馬はその手紙の裏に「表に御記成被候六条は…毛も相違これ無き候(表に書かれた6カ条の内容は、出席者全員で協議したものであり、少しも相違ない)」と朱筆で書き、署名して長州に送り返しました。これが有名な「龍馬の裏書き」で、現在では国の重要文化財に指定されています。


薩長同盟が締結された場所と日時——江戸ではなく京都

薩長同盟がいつ・どこで結ばれたのか——。じつはここに、テストでよく出る「定番の引っかけ」が隠れています。

締結日:1866年3月7日(慶応2年1月21日)
締結場所:京都・小松清廉こまつきよかど邸
※江戸ではありません。京都(現在の京都市上京区)です。

薩長同盟が結ばれたのは、慶応2年1月21日(西暦1866年3月7日)。場所は、京都・薩摩藩さつまはんの家老小松清廉こまつきよかど(通称:小松帯刀たてわき)の屋敷でした。現在の京都市上京区、京都御所の西側にあたる近衛このえ邸の北側です。

テストでよく出されるのが、「薩長同盟が締結された場所は江戸である」という選択肢。これは明確に誤りです。江戸(東京)はあくまで幕府の本拠地であり、倒幕の密談を江戸で行うことは不可能でした。「薩長同盟は京都で結ばれた」——これが正解です。

ゆうき
ゆうき

場所は「江戸じゃなくて京都」なんだね!テストで聞かれそう、絶対覚えとかなきゃ……。でもなんで京都の、しかも「小松さん」の家だったの?

もぐたろう
もぐたろう

京都は当時の朝廷(天皇)のお膝元。倒幕を目指す薩摩・長州にとって「朝廷を味方につける」ことが最大の目標だったから、密談も京都でやる必要があったんだ。そして小松邸は、薩摩藩が京都に置いていた藩邸の一つ。家老クラスの邸宅なら、長州側の木戸孝允を堂々と招き入れても怪しまれにくい——という戦略的な選び方だったんだよ!

小松清廉(帯刀)ってどんな人?

小松清廉(1835-1870)は、薩摩藩の家老。通称「小松帯刀たてわき」の名で知られます。西郷隆盛・大久保利通より身分が高く、薩摩藩の側役そばやく(久光の側近補佐役)として島津久光しまづひさみつに重く用いられ、後に家老・城代家老へと出世した人物です。薩長同盟の場では、薩摩側の交渉責任者として木戸孝允と会談し、自邸を会場として提供しました。歴史の表舞台では西郷・大久保ほど知られていませんが、薩長同盟の実質的な「ホスト役」を務めた重要人物です。

📌 日付の覚え方:教科書では「1866年」と覚えればOK。旧暦の「慶応2年1月21日」と新暦の「1866年3月7日」は同じ日を指しています。論述では「1866年1月21日(旧暦・慶応2年)」と書くとより正確です。

薩長同盟のその後——明治維新への影響

薩長同盟の効果は、結ばれてからわずか半年で目に見える形で現れます。そしてそこから2年あまりで、260年続いた江戸幕府は崩壊し、明治維新へと突き進んでいきます。

第2次長州征伐——幕府の大敗と薩長同盟の効果

同盟締結から約5ヶ月後の1866年6月、幕府はいよいよ第2次長州征伐(四境戦争しきょうせんそうとも呼ばれる)に踏み切ります。幕府軍は四方から長州藩を攻め込みましたが、結果は幕府軍の惨敗でした。

勝敗を分けた要因はいくつもありますが、薩長同盟の効果が決定的でした。

薩長同盟がもたらした効果(第2次長州征伐)
① 薩摩藩が幕府の出兵命令を拒否 → 幕府軍の戦力が大幅に減少
② 長州藩が薩摩名義で輸入した最新銃を装備 → 装備で幕府軍を圧倒
③ 高杉晋作の奇兵隊を主力とした近代的戦法 → 旧式の幕府軍を撃破

第2次長州征伐の最中、将軍徳川家茂とくがわいえもちが大坂城で病死(1866年7月)。後継の徳川慶喜とくがわよしのぶは休戦を決定します。「長州を倒せない幕府」という事実は、全国の藩・民衆に「もう幕府の時代は終わった」という強烈な印象を与えました。

あゆみ
あゆみ

たった1つの「同盟」で、ここまで形勢が逆転するんですね……。同盟って書類1枚なのに、こんなに歴史を動かすものなんだ。

もぐたろう
もぐたろう

そう、まさに「歴史を動かす同盟」だったんだ。それまで「幕府は無敵」と思っていた人たちが、「あれ?幕府って意外と弱いんじゃ……」と気づいた瞬間。長州征伐の失敗が、倒幕への流れを決定づけたとよく言われるよ!

大政奉還から戊辰戦争・明治維新へ

第2次長州征伐後、薩摩・長州は完全に倒幕路線を固めます。1867年(慶応3年)には、土佐藩の後藤象二郎ごとうしょうじろう・坂本龍馬らが「大政奉還」(将軍が政治の権限を朝廷に返す)を建白。10月、徳川慶喜はこれを受け入れ、政権を朝廷に返上します。これにより、形式的には260年続いた江戸幕府は終わりを迎えました。

しかし薩長は、徳川家を完全に倒すまで戦いをやめません。1867年12月の王政復古の大号令に続き、翌1868年1月、京都郊外で鳥羽・伏見の戦いが勃発。ここから始まる一連の内戦が戊辰戦争ぼしんせんそうです。新政府軍(薩長中心)は、徳川家を東北・函館まで追い詰め、1869年5月に完全勝利しました。

そして1868年(明治元年)、新政府は五箇条の御誓文を発布し、ここに明治維新が成立します。薩長同盟は、260年続いた江戸時代を終わらせ、近代日本の出発点となる「明治維新」を可能にした、決定的な転換点だったのです。

もぐたろう
もぐたろう

もし薩長同盟がなかったら、明治維新はなかったかもしれない。「昨日の敵と手を組む勇気」が、日本の近代化を切り拓いたんだ。覚えておきたい大事な一歩だよ!

テストに出るポイント

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 締結年:1866年(慶応2年1月21日/新暦3月7日)
  • 締結場所:京都・小松清廉(帯刀)邸(江戸ではない!定番の引っかけ)
  • 仲立ち:坂本龍馬・中岡慎太郎(教科書通り。論述では「両藩指導者を仲介」と書く)
  • 薩摩側代表:西郷隆盛・小松清廉/長州側代表:木戸孝允(桂小五郎)
  • 目的:幕府打倒(倒幕)のための軍事同盟。第2次長州征伐への備えが直接の動機

📌 暗記のコツ:「1866年・京都・坂本龍馬仲立ち」の3点セットで覚える。「場所は江戸である」は誤りの選択肢として頻出。論述では「薩摩・長州が幕府打倒を目的に結んだ軍事同盟。坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介で、京都の小松邸において西郷隆盛・木戸孝允らが締結した」とまとめると満点。

ゆうき
ゆうき

これ全部覚えるの大変……。テストで一番出やすいのはどれ?優先順位ある?

もぐたろう
もぐたろう

優先順位は①1866年(年号)②坂本龍馬の仲立ち③京都で締結(江戸じゃない!)の順!この3つを押さえれば、選択問題の8割は取れるよ。余裕があれば「西郷隆盛・木戸孝允・小松帯刀」の名前も覚えておこう!

薩長同盟・幕末をもっと詳しく学びたい方へ

もぐたろう
もぐたろう

薩長同盟・幕末の流れをもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!

①【小説・読み物向け】龍馬の生涯をドラマで読みたいなら

薩長同盟の立役者・坂本龍馬の生涯を描いた歴史小説の金字塔。幕末の複雑な政治状況を「龍馬目線」で読み解くことができ、教科書では伝わりにくい人間ドラマが楽しめます。全8巻の長編ですが、第1巻だけでも幕末の空気感が十分に伝わります。


②【新書・入門向け】幕末の歴史を体系的に学びたいなら

幕末史(新潮新書)

半藤一利 著|新潮社

昭和史研究で著名な半藤一利が、幕末の流れをコンパクトかつ読みやすくまとめた入門書。ペリー来航から明治維新まで、薩長同盟が起きた時代背景が俯瞰できます。教科書の補助教材として最適。

薩長同盟についてのよくある質問

薩長同盟について、検索でよく聞かれる疑問をまとめました。気になる項目をクリック・タップして開いてください。

薩長同盟さっちょうどうめいとは、1866年に薩摩藩(現在の鹿児島県)と長州藩(現在の山口県)が結んだ軍事同盟です。それまで対立していた2藩が、幕府打倒という共通の目標のために協力関係を結びました。明治維新の出発点となった歴史的同盟です。「薩長連合」とも呼ばれます。

従来の通説では龍馬が単独で薩長を結びつけたとされてきましたが、近年の研究では、実際の交渉は薩摩の西郷隆盛・小松清廉、長州の木戸孝允らが主導し、龍馬は中岡慎太郎とともに「連絡役」「立会人(証人)」を務めたという見方が有力です。締結後、木戸の不安を解消するために龍馬が同盟内容に裏書きしたことから、「同盟の保証人」という重要な役割を果たしました。教科書(山川『詳説日本史』)でも「坂本龍馬らの仲介」と記載されており、テストでは「龍馬・中岡慎太郎の仲介」と覚えてOKです。

薩長同盟は江戸ではなく、京都の小松清廉(小松帯刀)邸で締結されました。締結日は1866年(慶応2年)1月21日(新暦では1866年3月7日)です。テストでは「薩長同盟が結ばれた場所は江戸である」という選択肢が誤りの選択肢として頻出します。正解は「京都」と覚えてください。

同じ出来事を指す別の呼び方であり、意味の違いはありません。「薩長連合」は木戸孝允の当時の手紙・日記に見られる表現で、当事者たちはこちらの呼び方を使っていました。「薩長同盟」は明治以降〜現代の歴史書・教科書で一般的に用いられる呼称です。山川『詳説日本史』も「薩長同盟(連合)」と併記しており、テストではどちらでも正解になります。

「薩英同盟」とは正式な条約ではなく、薩英戦争(1863年)後に薩摩藩とイギリスの間に生まれた友好・協力関係を指す通称です。薩英戦争でイギリスの軍事力を目の当たりにした薩摩藩は、攘夷(外国排斥)から開国・倒幕路線へ転換し、イギリスと武器・技術の取引を進めました。一方の薩長同盟は、薩摩と長州という日本国内の藩同士が結んだ軍事同盟で、結ばれた相手も目的も全く異なります。混同しないように注意しましょう。

直接の原因は、1864年の蛤御門の変(禁門の変)です。長州藩が朝廷で勢力を回復しようと京都に進軍した際、薩摩藩は会津藩とともに幕府側として参戦し、長州を撃退しました。さらに第1次長州征伐でも、薩摩は幕府軍の主力として長州を追い詰めました。長州側にとって薩摩は「自分たちを朝敵に追い込んだ憎い相手」だったのです。それでも幕府という共通の敵を前にして、両藩は手を組まざるをえなくなりました。

まとめ:薩長同盟のポイント

最後に、薩長同盟の重要ポイントをまとめておきましょう。

薩長同盟のポイントまとめ
  • 1866年1月21日、京都・小松清廉邸で締結(場所は江戸ではなく京都)
  • 坂本龍馬・中岡慎太郎が仲立ち。近年は「証人説(立会人)」も有力
  • 6カ条の内容=第1〜3条が長州征伐への対応、第4〜6条が倒幕誓約
  • 長州は武器調達と安心感、薩摩は戦力と主導権——双方のメリットが一致
  • 第2次長州征伐の幕府軍敗北・大政奉還・明治維新の起点となった

もぐたろう
もぐたろう

以上、薩長同盟のまとめでした!「敵と組む勇気」が歴史を変えた瞬間だったんだ。下の関連記事で坂本龍馬・西郷隆盛・幕末の流れもあわせて読んでみてね!

薩長同盟 関連年表
  • 1863年
    薩英戦争・下関戦争
  • 1864年
    池田屋事件・蛤御門の変(禁門の変)
  • 1864年
    第1次長州征伐(長州藩降伏)
  • 1866年1月21日
    薩長同盟締結(京都・小松清廉邸)
  • 1866年6月〜
    第2次長州征伐(幕府軍大敗・将軍家茂死去)
  • 1867年10月
    大政奉還(徳川慶喜が政権を朝廷に返上)
  • 1868年1月
    戊辰戦争開始(鳥羽・伏見の戦い)
  • 1868年
    明治維新・新政府樹立(五箇条の御誓文)

📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「薩長同盟」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「小松清廉」「坂本龍馬」「西郷隆盛」「木戸孝允」(2026年5月確認)
コトバンク「薩長同盟」(デジタル大辞泉・日本大百科全書・世界大百科事典)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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