今回は、1864年8月に起こった四国艦隊下関砲撃事件についてわかりやすく解説していきます。
簡単にまとめるとこれだけで終わってしまうんですが、この記事では四国艦隊下関砲撃事件について以下の点について、もっと詳しく、そしてわかりやすく見ていきます。
四国艦隊下関砲撃事件までの流れ
まずは、四国艦隊下関砲撃事件が起こるまでの流れをチェックしておきましょう!
- 1862年
- 1863年5月長州藩、下関を通る外国船に砲撃
朝廷が望む「攘夷」に幕府がためらっていることに長州藩ブチギレ。単独で攘夷を実行する。
報復攻撃を受けて、外国がメチャクチャ強いことを知る
- 1863年8月八月一八日の政変、起こる
過激な攘夷を望まない孝明天皇の気持ちを汲んだ人々が、過激派を京都から追放するクーデターを決行。
クーデターは成功し、過激派の長州藩は京から追放される。
- 1864年7月禁門の変、起こる
攘夷を認めるよう武力を背景に朝廷に迫るも、失敗。
長州藩は朝敵に認定されてしまい、幕府は長州征討を計画する。
- 1864年8月四国艦隊下関砲撃事件、起こる←この記事はココ!
禁門の変に失敗によって朝廷・幕府から完全に孤立した長州藩に、諸外国の艦隊が襲いかかる。
長州藩「攘夷!攘夷!」
1862年、公武合体により朝廷が望む攘夷を実行するべく動き始めた江戸幕府。
しかし、異国の恐ろしさを知っている幕府は攘夷にめちゃくちゃ後ろ向きでした。
幕府の攘夷の方針はこうです。
異国は強いから無闇に戦うべきではない。
したがって、異国が攻撃してきた時のみ、攘夷を実行するものとする。勝手に攻撃することは断じて許さん。
過激な攘夷を考えていた久坂ら長州藩士たちは、この軟弱な幕府の姿勢を強く非難します。
敵が攻撃してきたらやり返すとか当たり前すぎて、そんなのは攘夷とは言わないぞ。長州藩が本物の攘夷を見せてやる・・・!
こうして1863年5月、長州藩は下関を通る外国船を次々と砲撃します。
- 5月10日アメリカ商船を砲撃
- 5月23日フランス軍艦を砲撃
- 5月26日オランダ軍艦を砲撃
もちろん、砲撃を受けた国々はブチギレ。6月、アメリカとフランスは報復攻撃を開始します。
- 6月1日アメリカ軍艦ワイオミング号、襲来
数隻の船が撃沈され、陸上砲台も多数破壊される。
- 6月5日フランス軍艦セミラミス号、タンクレード号、襲来
下関に上陸までして、砲台を壊滅させる。
たった三隻の船で壊滅的被害を受け、長州藩士の高杉晋作は武士の無力さを痛感します。
船から大砲撃ち込まれたら、武士の刀とか意味ねーわ
こうして、長州藩では「武士」という身分にとらわれない、意欲のある者ならどんな身分のものでは参加できる奇兵隊という組織を作ることになります。
奇兵隊は身分格差の激しかった当時としては革新的なものでした。しかし、諸外国はそれすら簡単に蹂躙できるような恐ろしい計画を立てていました。
オールコック「調子に乗っている長州藩にはお仕置きが必要だ」
長州藩は報復攻撃を受けた後も、外国船への攻撃を続けます。下関は実質的に封鎖されました。
これに1864年1月に赴任したイギリス公使オールコックがブチギレ。
話が通じないようなら、こちらも最新鋭の兵器を持って対抗しよう。
長州藩は、自らの行為の愚かさと自分の無力を知ることだろう。
オールコックは、アメリカ・フランス・オランダにも声をかけ、四国連合で長州藩に攻撃する計画を立て始めます。
1864年6月、オールコックは幕府に対して宣戦布告します。
二十日以内に長州藩の攘夷をやめさせろ。できなければ長州藩を攻撃する
しかし、幕府は何もしませんでした。幕府は「長州藩は幕府の命令を無視してばかりだから、少しぐらい痛い目にあった方が良い」ぐらいにしか思っていなかったからです。
「長州藩がイギリス・アメリカ・フランス・オランダと戦争をするかもしれない・・・」という話は、イギリスにいた長州藩士の伊藤博文・井上馨の耳にも入ります。彼らは、密航してイギリスに渡り、欧米諸国について学んでいるところでした。
イギリスを生で見てわかったが、欧米諸国と戦っても勝てるわけがない。
今すぐ長州藩に戻って、イギリスと長州藩を説得しなければ・・・!!
1864年6月、伊藤博文らは大急ぎで帰国。オールコックと会見をし、「長州藩を説得するから、少しだけ待ってくれ!」と交渉。そして長州藩の説得に全力を注ぎますが、これに失敗。
四国艦隊下関砲撃事件、起こる
こうして1864年8月5日、いよいよ四国艦隊が下関へ攻撃を開始します。
長州藩はこんな緊急事態にもかかわらず、1864年7月に兵力を京に送って禁門の変を起こしていたため、防衛の兵も少なく、あっという間に諸外国の攻撃に蹂躙されてしまいます。
8月5日〜6日の艦隊の砲撃により、下関の砲台は壊滅状態。7日には敵の上陸を許し、長州藩の火薬や大砲を次々と破壊していきました。
四国艦隊の攻撃はわずか四日で終了。長州藩は壊滅的な被害を受けることになります。
この後、すぐに講和が行われ、諸外国と長州藩の間で次の条件で手が打たれました。
1〜4は良いとして、問題は5番です。この金額は1つの藩が払う額にしてはあまりにも巨額すぎます。
2年前に起こっていた薩英戦争では、薩摩藩と幕府に要求された賠償金は合わせて約10万ドル弱。薩英戦争のザッと20倍以上の賠償金です。
こんな金額を長州藩が払えるわけがなく、「江戸幕府が長州藩を抑えきれなかったのが悪い」という超理不尽な理由により、この300万ドルは全て幕府が請け負うことになります。
押しつけられる改税約書
諸外国がこのような巨額の賠償金を求めたのは、単にお金が欲しいだけではありません。
わざと巨額の賠償金を要求した上で、「賠償金が払えないなら私たちの要求に従え!」と賠償金を交渉カードに、日本にさらなる要求を突きつけるためでした。
1865年、イギリス、アメリカ、フランス、オランダは賠償金の2/3を免除することを条件に以下の3点を要求を日本に突きつけてきます。
日本は諸外国の策略に屈し、これら全てを受け入れました。3番目の関税の話では、安政の五カ国条約の税に関する部分を改訂する改税約書が調印されました。
長州藩、生まれ変わる
四国艦隊下関砲撃事件によって、長州藩は今のままでは攘夷が不可能であることを確信します。
外国と互角に戦うには、まずは欧米諸国と親密な関係を結び、最新の技術や知識を吸収しなければならぬ。
国家一丸となり富国強兵を目指し、国力をつけることが重要である。
この事件の後、一転して長州藩は諸外国と良好な関係を結ぶようになります。実は、2年前の1862年に薩英戦争で負けた薩摩藩も同じ考え方を持つようになり、イギリスと親密な関係を持つようになりました。
そして1866年、同じ志を持つ長州藩と薩摩藩は薩長同盟を結び、国家を1つにするために江戸幕府を倒そうとする倒幕運動が本格化することになります。
四国艦隊下関砲撃事件は、長州藩の考えを変えさせ、薩摩藩と長州藩が同盟を結ぶ遠因ともなった大きな転換期と言えるかもしれません。
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