面白いほどわかる四国艦隊下関砲撃事件!簡単にわかりやすく解説【原因から経過までバッチリ抑える】

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イギリス兵が長州藩に上陸する様子

今回は、1864年8月に起こった四国艦隊下関砲撃事件しこくかんたいしものせきほうげきじけんについてわかりやすく解説していきます。

四国艦隊下関砲撃事件とは?

下関で外国船への攻撃を続ける長州藩に対して、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの艦隊が攻撃をした事件

簡単にまとめるとこれだけで終わってしまうんですが、この記事では四国艦隊下関砲撃事件について以下の点について、もっと詳しく、そしてわかりやすく見ていきます。

  • なぜ長州藩は外国船を攻撃した?
  • 四国艦隊下関砲撃事件の経過は?
  • 四国艦隊下関砲撃事件の後、長州藩はどうなった?
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四国艦隊下関砲撃事件までの流れ

まずは、四国艦隊下関砲撃事件が起こるまでの流れをチェックしておきましょう!

四国艦隊下関砲撃事件が起こるまで
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長州藩「攘夷!攘夷!」

1862年、公武合体により朝廷が望む攘夷を実行するべく動き始めた江戸幕府。

しかし、異国の恐ろしさを知っている幕府は攘夷にめちゃくちゃ後ろ向きでした。

幕府の攘夷の方針はこうです。

徳川家茂
徳川家茂

異国は強いから無闇に戦うべきではない。

したがって、異国が攻撃してきた時のみ、攘夷を実行するものとする。勝手に攻撃することは断じて許さん。

過激な攘夷を考えていた久坂ら長州藩士たちは、この軟弱な幕府の姿勢を強く非難します。

久坂玄瑞
久坂玄瑞

敵が攻撃してきたらやり返すとか当たり前すぎて、そんなのは攘夷とは言わないぞ。長州藩が本物の攘夷を見せてやる・・・!

こうして1863年5月、長州藩は下関を通る外国船を次々と砲撃します。

  • 5月10日
    アメリカ商船を砲撃
  • 5月23日
    フランス軍艦を砲撃
  • 5月26日
    オランダ軍艦を砲撃
直撃を受けたフランス軍艦

もちろん、砲撃を受けた国々はブチギレ。6月、アメリカとフランスは報復攻撃を開始します。

  • 6月1日
    アメリカ軍艦ワイオミング号、襲来

    数隻の船が撃沈され、陸上砲台も多数破壊される。

  • 6月5日
    フランス軍艦セミラミス号、タンクレード号、襲来

    下関に上陸までして、砲台を壊滅させる。

ワイオミング号による報復攻撃の様子

たった三隻の船で壊滅的被害を受け、長州藩士の高杉晋作たかすぎしんさくは武士の無力さを痛感します。

高杉晋作
高杉晋作

船から大砲撃ち込まれたら、武士の刀とか意味ねーわ

こうして、長州藩では「武士」という身分にとらわれない、意欲のある者ならどんな身分のものでは参加できる奇兵隊きへいたいという組織を作ることになります。

奇兵隊

奇兵隊は身分格差の激しかった当時としては革新的なものでした。しかし、諸外国はそれすら簡単に蹂躙できるような恐ろしい計画を立てていました。

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オールコック「調子に乗っている長州藩にはお仕置きが必要だ」

長州藩は報復攻撃を受けた後も、外国船への攻撃を続けます。下関は実質的に封鎖されました。

これに1864年1月に赴任したイギリス公使オールコックがブチギレ。

オールコック
オールコック

話が通じないようなら、こちらも最新鋭の兵器を持って対抗しよう。

長州藩は、自らの行為の愚かさと自分の無力を知ることだろう。

オールコックは、アメリカ・フランス・オランダにも声をかけ、四国連合で長州藩に攻撃する計画を立て始めます。

1864年6月、オールコックは幕府に対して宣戦布告します。

オールコック
オールコック

二十日以内に長州藩の攘夷をやめさせろ。できなければ長州藩を攻撃する

しかし、幕府は何もしませんでした。幕府は「長州藩は幕府の命令を無視してばかりだから、少しぐらい痛い目にあった方が良い」ぐらいにしか思っていなかったからです。

「長州藩がイギリス・アメリカ・フランス・オランダと戦争をするかもしれない・・・」という話は、イギリスにいた長州藩士の伊藤博文いとうひろぶみ井上馨いのうえかおるの耳にも入ります。彼らは、密航してイギリスに渡り、欧米諸国について学んでいるところでした。

伊藤博文
伊藤博文

イギリスを生で見てわかったが、欧米諸国と戦っても勝てるわけがない。

今すぐ長州藩に戻って、イギリスと長州藩を説得しなければ・・・!!

1864年6月、伊藤博文らは大急ぎで帰国。オールコックと会見をし、「長州藩を説得するから、少しだけ待ってくれ!」と交渉。そして長州藩の説得に全力を注ぎますが、これに失敗。

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四国艦隊下関砲撃事件、起こる

こうして1864年8月5日、いよいよ四国艦隊が下関へ攻撃を開始します。

長州藩はこんな緊急事態にもかかわらず、1864年7月に兵力を京に送って禁門の変を起こしていたため、防衛の兵も少なく、あっという間に諸外国の攻撃に蹂躙されてしまいます。

艦隊が下関を攻撃している様子

8月5日〜6日の艦隊の砲撃により、下関の砲台は壊滅状態。7日には敵の上陸を許し、長州藩の火薬や大砲を次々と破壊していきました。

イギリス兵が砲台を占領している様子

四国艦隊の攻撃はわずか四日で終了。長州藩は壊滅的な被害を受けることになります。

この後、すぐに講和が行われ、諸外国と長州藩の間で次の条件で手が打たれました。

講和の条件
  • 1 下関の外国船通航を認めること
  • 2 外国船の要求があったら水とか食料をちゃんと売ること
  • 3 船が遭難した時に下関に着港することを許可すること
  • 4 下関の砲台を全て撤去すること
  • 5 300万ドルの賠償金を払うこと

1〜4は良いとして、問題は5番です。この金額は1つの藩が払う額にしてはあまりにも巨額すぎます。

2年前に起こっていた薩英戦争では、薩摩藩と幕府に要求された賠償金は合わせて約10万ドル弱。薩英戦争のザッと20倍以上の賠償金です。

こんな金額を長州藩が払えるわけがなく、「江戸幕府が長州藩を抑えきれなかったのが悪い」という超理不尽な理由により、この300万ドルは全て幕府が請け負うことになります。

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押しつけられる改税約書

諸外国がこのような巨額の賠償金を求めたのは、単にお金が欲しいだけではありません。

わざと巨額の賠償金を要求した上で、「賠償金が払えないなら私たちの要求に従え!」と賠償金を交渉カードに、日本にさらなる要求を突きつけるためでした。

1865年、イギリス、アメリカ、フランス、オランダは賠償金の2/3を免除することを条件に以下の3点を要求を日本に突きつけてきます。

賠償金免除の条件
  • 条件1: 延期していた兵庫港を開港せよ
  • 条件2: 外国との条約締結を天皇にもちゃんと認めさせよ
  • 条件3: 日本への輸入品にかかる関税を下げろ

日本は諸外国の策略に屈し、これら全てを受け入れました。3番目の関税の話では、安政の五カ国条約の税に関する部分を改訂する改税約書かいぜいやくしょが調印されました。

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長州藩、生まれ変わる

四国艦隊下関砲撃事件によって、長州藩は今のままでは攘夷が不可能であることを確信します。

高杉晋作
高杉晋作

外国と互角に戦うには、まずは欧米諸国と親密な関係を結び、最新の技術や知識を吸収しなければならぬ。

国家一丸となり富国強兵を目指し、国力をつけることが重要である。

この事件の後、一転して長州藩は諸外国と良好な関係を結ぶようになります。実は、2年前の1862年に薩英戦争で負けた薩摩藩も同じ考え方を持つようになり、イギリスと親密な関係を持つようになりました。

そして1866年、同じ志を持つ長州藩と薩摩藩は薩長同盟さっちょうどうめいを結び、国家を1つにするために江戸幕府を倒そうとする倒幕運動が本格化することになります。

四国艦隊下関砲撃事件は、長州藩の考えを変えさせ、薩摩藩と長州藩が同盟を結ぶ遠因ともなった大きな転換期と言えるかもしれません。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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