山城国一揆をわかりやすく解説!室町時代に生まれた「地方自治」の奇跡

特集 | 詳しく見る 2026年 NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」 登場人物まとめ

山城国一揆

もぐたろう
もぐたろう

今回は山城国一揆について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!一揆って聞くと農民の暴動を想像しがちだけど、実はこの一揆はぜんぜん違う——会議と選挙で守護を追い出した”室町時代の民主主義”だったんだよ!

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応

この記事を読んでわかること
  • 山城国一揆とは何か(1485年・南山城で起きた国人・農民による自治支配)
  • 一揆が起きた背景(応仁の乱後の畠山義就・政長の泥沼抗争)
  • 三十六人衆と8年間の自治(惣国の仕組み・国中掟法の内容)
  • 山城国一揆の意義(下克上の先駆け・戦国時代の幕開けとの関係)
  • 加賀一向一揆との違い(受験頻出の比較ポイント)

一揆と聞くと、農民が竹槍を手に暴れているイメージがありますよね?でも実は、山城国一揆はまったく違いました。会議を開き、選挙で代表を選び、法律まで作ったんです。

約600年前の京都で、まるで現代の地方議会のような仕組みが誕生していたのです。「農民が自分たちで国を治めた」——これが室町時代の奇跡と言われる理由です。

スポンサーリンク

山城国一揆とは?

山城国一揆 3行でわかるまとめ

① 1485年、京都南部(山城国)の国人・農民が守護大名・畠山両軍を追い出した自治運動
三十六人衆さんじゅうろくにんしゅうが選ばれ、8年間にわたる「惣国」自治が行われた
③ 農民が「国中掟法くにじゅうおきてほう」という法律まで制定した——室町時代の民主主義と呼ばれる所以

山城国一揆やましろのくにいっきとは、1485年(文明17年)に山城国やましろのくに——現在の京都府南部——で起きた自治運動のことです。

国人こくじん(地元の武士・地侍)や農民が団結し、長年戦乱を引き起こしていた守護大名しゅごだいみょう畠山はたけやま氏を南山城から追い出しました。

その後、三十六人衆と呼ばれる代表者を選出し、「惣国(そうこく)」という自治体制を8年間にわたって維持しました。この間、「国中掟法」という独自の法律まで制定したのです。

あゆみ
あゆみ

農民が守護を追い出すって、下克上のはしりってこと?どうやってそんなことができたの?

もぐたろう
もぐたろう

まさにそうだよ!ただ、山城国一揆が特別なのは「暴力で追い出したわけじゃない」ってとこ。会議を開いて、選挙で代表を選んで、議会みたいな仕組みで守護を追い出したんだ。血を流さずに勝利した”奇跡のクーデター”って言われてるんだよ!

「一揆」という言葉は現代では「暴動・反乱」のイメージがありますが、本来の意味は「一致団結すること」です。山城国一揆は、この本来の意味を最もよく表した事件のひとつといえるでしょう。

スポンサーリンク

応仁の乱後の南山城——畠山氏の泥沼抗争

山城国一揆がなぜ起きたのか、理解するには応仁の乱(1467〜1477年)後の状況を知る必要があります。

応仁の乱は11年もの長きにわたって京都を戦場にした大乱でした。この乱は表向き「終結」しましたが、乱の火種のひとつだった畠山氏の内紛はまったく解消されませんでした。

畠山氏は、畠山義就はたけやまよしなり畠山政長はたけやままさながのふたりが「正統な当主はどちらか」をめぐって激しく対立していました。

畠山義就vs畠山政長——何をめぐる争いだったのか?

畠山氏は室町幕府の三管領のひとつで、河内・越中・能登・山城国(南部)を支配する有力守護大名でした。義就と政長はともに畠山家の血筋を引き、どちらが正統な当主かをめぐって争いを続けました。応仁の乱でも義就(西軍)・政長(東軍)に分かれて戦い、乱後も南山城の支配権をめぐって抗争を継続したのです。

畠山氏の家督争い 図解

応仁の乱が終わった後も、両者は山城国南部(南山城)を主な戦場として戦いを続けました。この地域は現在の京都府木津川市・相楽郡あたり、奈良に近い農村地帯です。

10年以上にわたって続く戦乱のなか、南山城の農民や国人たちは甚大な被害を受け続けました。田畑は荒らされ、年貢の取り立ては苛酷になり、兵士による略奪も日常化していたのです。

もぐたろう
もぐたろう

今でいうと、市内で2つのヤクザ組織が縄張り争いをしていて、そのせいで地元住民がずっと迷惑をこうむってる状態かな。しかも10年以上ね。そりゃ住民も「いい加減にしてくれ!」ってなるよね。

特に深刻だったのが、1485年(文明17年)頃の状況です。応仁の乱が終わってすでに8年が経とうとしていたのに、畠山両軍はいまだ南山城に駐留し、略奪を繰り返していました。

細川勝元ら東軍・山名宗全ら西軍が争った大乱の後遺症は、南山城においても深刻でした。戦乱で荒廃した農地を復興する余力もないまま、再び武士の争いに巻き込まれ続ける——人々の怒りが沸点に達するのは、時間の問題でした。

畠山政長はこう考えていたといいます——「幕府のお墨付きをもらった正統な守護だ。なぜ出ていかなくてはならないのか」と。しかし、南山城の人々の怒りはすでに限界に達していたのです。

📌 南山城の地理:山城国の南部、現在の京都府相楽郡・木津川市・城陽市あたり。木津川沿いに農村が広がる地帯で、奈良の北側にあたります。石清水八幡宮(現・京都府八幡市)がこの地域の代表的な神社です。

スポンサーリンク

国人・農民が立ち上がった!一揆はどう起きたのか

1485年12月、南山城の国人・農民たちは歴史的な行動に出ます。石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう(現・京都府八幡市)に集まり、大規模な武装集会を開いたのです。

📌 「国人」とは?:国人(こくじん)とは、地方に根を張った在地の武士・地侍のこと。守護大名には仕えているものの、地域で独自に農地や村を管理していた中間的な存在です。今でいうと「地元の有力者・地主」に近いイメージです。

この集会には、南山城各地から国人・地侍・農民が参集しました。その数は相当規模のものだったといわれています。彼らは会議で以下の要求を決議しました。

要求①:畠山両軍(義就軍・政長軍)はただちに南山城から撤退せよ

要求②:幕府は荘園に関する旧来のルールを守れ(年貢収取の秩序回復)

この要求は一方的な暴力行為ではありませんでした。国人たちは「傘連判(かされんぱん)」という署名方式を使い、全員が対等な立場で合意したことを示す文書を作成しました。

📌 「傘連判(かされんぱん)」とは?:署名者が傘の骨のように放射状に名前を書く署名方式。誰が主導者かを特定させないための知恵です。国人一揆でよく用いられた方法で、「全員が対等だ」という意思表示でもありました。

傘連判状」の例。円の中心に向けて放射状に署名する
傘連判状の例。誰が主導者かわからないよう、円の中心に向けて放射状に署名する(Wikipedia)

ゆうき
ゆうき

農民って武器持ってないんじゃないの?どうやって大名の軍隊を追い出せたの?

もぐたろう
もぐたろう

実は農民も国人(地侍)も武装してたんだよ。室町時代の農民は、惣村(そうそん)っていう自治組織を持っていて、普段から「村を守るための武器」を持っていたんだ。一揆って「暴動」じゃなくて本来「一致団結すること」だからね。みんなで会議を開いて組織的に要求した——血を流さずに勝利した奇跡のクーデターって言われてるよ!

集会での決議を受け、翌1486年(文明18年)、畠山義就・政長の両軍はついに南山城から撤退しました。数的な劣勢や後方補給の問題、幕府の調停などが重なり、強行突破よりも撤退を選んだのです。

こうして、一滴の血も流さずに守護大名を追い出すという、日本史上きわめて異例の事態が実現しました。当時の人々もこれを驚きをもって受け止めたといいます。

三十六人衆が作った「惣国」——8年間の自治はどんな仕組みだったか

畠山両軍を追い出した後、南山城の国人・農民たちはすぐに重要な問題に直面しました。「守護がいなくなった今、誰が地域を治めるのか」という問題です。

彼らが出した答えが、三十六人衆さんじゅうろくにんしゅうによる自治体制でした。南山城各郡から代表者を選出し、合計36人の議会を作ったのです。

もぐたろう
もぐたろう

三十六人衆って今でいう市議会議員みたいなものだよ。しかも各郡から選ばれるんだから、地域代表制になってる。かなり民主的だよね!そして月行事つきぎょうじっていうのは今でいう輪番制の議長みたいなイメージかな。毎月交代するんだ。

この自治体制の特徴は、以下の3点にあります。

特徴①:三十六人衆(代表議会)
南山城(相楽・綴喜・久世の各郡)から代表者36人を選出。国人・地侍層が中心

特徴②:月行事制(輪番議長制)
毎月ひとりが「月行事」(議長役)を担当。権力の独占を防ぐ仕組み

特徴③:惣国(自治国家)
複数の惣村(農村自治組織)が連合して「惣国(そうこく)」を形成。南山城全域を一体で自治管理

そう」とは、室町時代に農民たちが作った自治組織のことです。もともとは村単位(惣村)で機能していましたが、山城国一揆ではこれが国単位(惣国)に拡大しました。

三十六人衆は毎年集まり、幕府や荘園領主への年貢・課役の問題、村人同士の争い、他国からの侵入に対する防衛などを議会で決定しました。守護なし・幕府の直接介入なしで、8年間にわたって地域を運営したのです。

あゆみ
あゆみ

惣国って、今でいう地方自治体みたいなものなの?当時の農民たちって、ちゃんとした「政府」を作れたの?

もぐたろう
もぐたろう

そう!今でいう「地方政府」を作ったんだよ。年貢の徴収も、治安維持も、他国との交渉も全部自分たちでやった。現代の地方議会と比べてもびっくりするくらいしっかりしてるんだよね。しかも600年前に!

この惣国体制は、単なる「守護がいない状態」ではありませんでした。自治の基盤となる法律まで制定したのです。それが「国中掟法くにじゅうおきてほう」でした。

国中掟法——中世の「憲法」を農民が制定した

山城国一揆が特に注目される理由のひとつが、国中掟法くにじゅうおきてほうの制定です。これは三十六人衆が制定した自治法規で、「中世の憲法」とも呼ばれます。

📌 「惣」(そう)とは?:室町時代に農民が作った自治組織のこと。惣村(村単位)が基本で、村の運営ルールを惣掟(そうおきて)として制定し、違反者には罰則を科しました。山城国一揆では複数の惣村が連合して「惣国(くに全体の自治組織)」を形成した点が画期的でした。

国中掟法の主な内容は次のようなものでした。

条文①:他国の武士が南山城に侵入することを禁じる(他国者入国の禁止

条文②:戦乱で荒廃した荘園(本所領ほんじょりょう)をもとの状態に戻し、他国からの介入を認めない(本所領回復規定

条文③:国中の法令に背いた者には合議で制裁を加える(集団的制裁)

特に重要なのが条文①と②です。「他国の軍勢は入ってくるな」「戦乱で荒らされた荘園をもとに戻せ」——これらは農民・国人が最も苦しんでいた問題への直接の回答でした。

あゆみ
あゆみ

農民が「法律を作る」って、現代でいえば憲法制定みたいなこと?かなりすごくない?

もぐたろう
もぐたろう

そう!国中掟法は中世の”憲法”みたいなものだよ。武士や貴族が決めるんじゃなくて、農民たち自身が議会で決めたってところが超すごい。しかも「違反したら合議で制裁を加える」って、ちゃんと罰則まであるんだ!単なる願望じゃなくて、実効性のある法律だったんだよ。

国中掟法の制定は、中世法制史の観点からも画期的な出来事です。これまで法律を作るのは将軍しょうぐん守護しゅご幕府ばくふなど上位の権力者に限られていました。

それが、国人と農民という「支配される側」が法律を制定するという逆転が起きたのです。これは単なる反乱ではなく、新しい政治秩序の創造でした。

日本史研究者のなかには、国中掟法を「中世日本における自治立法の最高傑作」と評価する声もあります。わずか8年で終わった自治体制でしたが、その法的・政治的意義は後世まで語り継がれることになります。

なぜ山城国一揆は終わったのか?1493年・明応の政変との関係

8年間にわたった自治体制は、1493年(明応2年)に終わりを迎えます。その直接のきっかけとなったのが、明応の政変めいおうのせいへんでした。

明応の政変(1493年)とは?

管領・細川政元ほそかわまさもとが将軍・足利義材(義稙)を廃位し、別の人物を将軍に擁立したクーデター。室町幕府の権威が大きく低下したことで、各地での下克上が一気に加速するきっかけとなりました。

明応の政変で実権を握った細川政元は、南山城に新たな守護を派遣し、自治体制を解体しました。農民・国人だけでは、中央の大権力に対抗する術がなかったのです。

なお、明応の政変のきっかけとなった将軍権力の弱体化は、足利義教の暗殺(嘉吉の変・1441年)以降じわじわと進行していたものです。山城国一揆はその流れのなかで起きた事件でもありました。

ゆうき
ゆうき

8年間も続いたのに、なんで終わったの?誰かが壊したってこと?

もぐたろう
もぐたろう

そう、外から壊されたんだよ。明応の政変で幕府の権力が細川政元に集中して、「地方の自治なんて認めない」って態度をとってきたんだ。農民・国人だけでは中央の大軍には勝てない。自治体制を守り続けることができなかったんだよ。

ただ、一揆が終わったのは単に外部から壊されたからだけではありません。内部にも問題が生じていました。

8年間の自治のなかで、三十六人衆の間での利害対立が少しずつ表面化していました。国人層と農民層の間の利益の違い、各郡の権益をめぐる対立——これらが自治体制の結束力を弱めていったとも指摘されています。

細川政元による介入は、そのような内部の亀裂を突くかたちで行われました。一部の国人が幕府・細川氏側に取り込まれることで、自治体制は内側から崩れていったのです。

もぐたろう
もぐたろう

外圧+内部分裂のダブルパンチだったんだね。でも8年間も自治が続いたことは、それ自体がものすごいことだよ。現代の民主主義から見ても、600年前にここまでの仕組みを作ったのは本当にすごいと思う。

1493年、南山城に新たな守護が置かれ、三十六人衆による惣国自治体制は解体されました。こうして、日本史上最も注目される自治運動のひとつが幕を閉じたのです。

しかし、山城国一揆が残した遺産は小さくありませんでした。次の章では、この一揆がその後の日本史にどのような影響を与えたのかを見ていきます。

山城国一揆の歴史的意義——下克上の先駆け・戦国時代の幕開け

山城国一揆が終わってから500年以上が経ちますが、この出来事は日本史のなかで特別な位置を占めています。なぜこれほど注目されるのか——その理由は「意義」の大きさにあります。

まず第一に、下克上の先駆けとして評価されます。下克上げこくじょうとは、身分の低い者が身分の高い者を実力でしのいで取って代わることです。山城国一揆では、国人・農民という「支配される側」が守護大名という「支配する側」を追い出しました。これは室町時代後期の政治秩序の変化を象徴する出来事でした。

📌 下克上とは?:「下(した)の者が上(かみ)の者を克(お)かす(負かす)」という意味。室町時代後期から戦国時代にかけて急速に広まった社会現象です。山城国一揆の1485年前後は、まさに「下克上の時代」が始まりつつあった時期でした。

第二に、地域自治の先例として評価されます。三十六人衆による8年間の自治は、中央権力なしに地域社会が自立的に運営できることを実証しました。幕府や守護が機能しなくなっていく戦国時代において、この経験は各地の自治運動に影響を与えたと考えられています。

第三に、戦国時代への道筋という意義があります。山城国一揆が起きた1485年は、応仁の乱(1467〜77年)の終結からわずか8年後です。室町幕府の権威が大きく揺らぐなか、地方の国人・農民が自律的に動き始めたことは、その後の戦国時代——各地の大名が独立して覇を争う時代——への橋渡しとなりました。

もぐたろう
もぐたろう

山城国一揆は日本史上はじめて「農民が守護を追い出して自治を確立した」ケースなんだよ。しかも暴力じゃなくて、会議と選挙と法律という”平和的手段”でね。これが戦国時代の下克上を象徴するはじまりだった!

また、現代的な視点から見ると、山城国一揆は「近代的民主主義の萌芽」という観点でも論じられます。代表制(三十六人衆)・輪番制(月行事)・立法(国中掟法)という三つの民主的要素が、600年前の日本にすでに存在していたのです。

あゆみ
あゆみ

なんで8年で終わったのに「歴史的意義がある」って言えるの?結局は失敗したんじゃないの?

もぐたろう
もぐたろう

良い質問!「起きた」という事実自体が歴史を変えたんだよ。「農民でも守護を追い出せる」「自分たちで法律を作れる」——この実績が記録に残って、後の時代の人たちに「自分たちもできるはずだ」という気持ちを与えたんだ。種は8年で刈り取られても、実は広がっていったんだね。

研究者のなかには「山城国一揆のような運動が各地に広がっていれば、日本の近代化はもっと早かったかもしれない」と論じる声もあります。それほどまでに、この一揆は時代を先取りした出来事だったのです。

加賀一向一揆との違い(比較)

山城国一揆と並んで、試験によく出る一揆が加賀一向一揆かがいっこういっき(1488年〜)です。どちらも「民衆が守護を追い出した」という点では共通していますが、その性質はまったく異なります。ここでしっかり整理しておきましょう。

加賀一向一揆は、浄土真宗じょうどしんしゅう(一向宗)の門徒(信者)が中心となって起こした一揆です。1488年(長享2年)、加賀国(現在の石川県)の守護・富樫政親とがしまさちかを滅ぼし、以後約100年にわたって加賀国を支配しました。「百姓の持ちたる国」とも呼ばれ、一向宗の寺院(道場)を中心とした宗教的自治が続きました。

山城国一揆(1485年):国人・農民 / 地域的結合(惣国) / 宗教色なし / 8年間 / 幕府介入で解体

加賀一向一揆(1488年〜):一向宗門徒(農民・国人) / 宗教的結合(浄土真宗) / 約100年 / 天下一統(1580年・信長の平定)で解体

最大の違いは結合原理です。山城国一揆は「南山城に住む者」という地域的・世俗的な連帯が基盤でした。それに対して加賀一向一揆は「一向宗の信者」という宗教的な連帯が基盤でした。地域の縦の連帯か、宗教の横の連帯か——この違いが期間の長さにも影響しました。

ゆうき
ゆうき

テスト前なんだけど、国一揆と一向一揆の違いって何が一番大事なの?混乱するんだよね…

もぐたろう
もぐたろう

ズバリ「結合の原理」と「期間」が鍵だよ!山城=地域・世俗・8年間、加賀=宗教(一向宗)・約100年——この2点をセットで覚えると試験バッチリ。「国一揆」は「国(地域)単位でまとまった」、「一向一揆」は「一向宗(浄土真宗)信者がまとまった」って名前の通りなんだよ!

テストに出るポイント

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 1485年(文明17年):山城国一揆が始まった年号。語呂合わせ「一夜越して(1485)山城一揆」など各種定番あり
  • 三十六人衆:南山城の各郡から選ばれた36人の代表者。月行事制(輪番議長)で運営された民主的な議会
  • 国中掟法:三十六人衆が制定した自治法規。他国者入国禁止・荘園(本所領)の回復・新関の設置禁止などを規定した「中世の憲法」
  • 8年間の自治:1485〜1493年。守護・幕府なしで南山城が自治を行った期間
  • 1493年(明応2年)・明応の政変:細川政元による将軍廃位。幕府の介入により山城国一揆の自治体制が解体された

📌 比較問題でよく出るポイント:山城国一揆は「地域的結合・世俗・8年間」、加賀一向一揆は「宗教的結合(浄土真宗)・約100年」。論述では「なぜ加賀は100年続いたのか→宗教という精神的支柱があったため」と説明できると高得点。年号は山城=1485年・加賀=1488年でセット暗記が効果的。

比較項目山城国一揆加賀一向一揆
時期1485年〜1488年〜
参加者国人・農民一向宗門徒(農民・国人)
結合原理地域的結合(惣国)宗教的結合(浄土真宗)
期間約8年間約100年
終焉の原因幕府・細川政元の介入織田信長による天下一統

ゆうき
ゆうき

テストで一番出やすいのはどれ?時間ないから一番大事なとこだけ教えて!

もぐたろう
もぐたろう

「1485年・三十六人衆・8年間の自治」の3点セットが最頻出だよ!加賀一向一揆と比較する問題も多いから、年号(山城1485・加賀1488)と宗教の有無で区別できるようにしておこう。論述には「結合原理の違い」を使うと高得点だよ!

山城国一揆の理解を深めるおすすめ本

もぐたろう
もぐたろう

山城国一揆や室町時代の惣村・一揆の仕組みをもっと深く知りたい人に、おすすめの一冊を紹介するよ!

①室町時代の地方社会・惣村・一揆の仕組みを体系的につかみたいなら

よくある質問(FAQ)

1485年(文明17年)、京都南部の山城国(現在の京都府南部)で起きた、国人・農民による自治運動です。守護大名・畠山氏の両軍を追い出し、三十六人衆が中心となって8年間(〜1493年)にわたる「惣国自治」を実現しました。武力ではなく会議・選挙・立法という手段を使ったことから「室町時代の民主主義」とも呼ばれます。

主な原因は、応仁の乱(1467〜1477年)後も続いた畠山義就・政長の武力衝突です。南山城の農民・国人は10年以上にわたり戦乱に巻き込まれ、作物の収奪や人的被害を受け続けました。「守護がいなくなれば平和になる」という切実な動機のもと、1485年12月、石清水八幡宮に武装した国人・農民が集結し、畠山両軍への退去要求を決議したことが直接のきっかけです。

三十六人衆は、山城国一揆で南山城各郡(相楽・綴喜・久世など)から選出された36人の代表者で構成される自治議会です。今でいう「地域代表制の市議会」に近い組織です。月行事制(毎月ひとりが輪番で議長を担当)を採用し、権力の集中を防ぐ工夫がされていました。年貢の管理・治安維持・他国との交渉など、守護が行っていた業務を一切引き受け、8年間にわたって南山城を運営しました。

最大の違いは「結合原理」と「期間」です。山城国一揆(1485年)は国人・農民が「南山城という地域への帰属意識(地域的結合)」でまとまり、8年間自治を行いました。加賀一向一揆(1488年〜)は浄土真宗(一向宗)の信仰という「宗教的結合」でまとまり、約100年間も続きました。また、山城は幕府・細川政元の介入で解体されましたが、加賀は織田信長による天下一統(1580年)まで存続した点も異なります。

1493年(明応2年)の明応の政変が直接の原因です。管領・細川政元が将軍・足利義材を廃位してクーデターを起こし、幕府権力を掌握しました。細川政元は南山城に新たな守護を派遣し、自治体制を解体しました。外圧だけでなく、8年間の自治のなかで三十六人衆内部の利害対立(国人層と農民層の利益の違い、各郡間の権益争い)が生じており、内部結束が弱まっていたことも一因です。一部の国人が幕府・細川氏側に取り込まれたことで、内外両面から自治体制が崩壊しました。

まとめ

山城国一揆のポイントまとめ
  • 1485年・南山城:国人・農民が守護大名(畠山両軍)を追い出した自治運動。武力でなく会議・選挙・法律という「平和的手段」が最大の特徴
  • 三十六人衆と8年間の自治:各郡から選ばれた36人の代表が月行事制(輪番議長)で南山城全域を統治。惣国という自治体制を形成
  • 国中掟法:農民・国人が自ら制定した自治法規。他国者入国禁止・荘園(本所領)の回復・新関の設置禁止などを規定した「中世の憲法」
  • 歴史的意義:下克上の先駆け・地域自治の先例・戦国時代への道筋。代表制・輪番制・立法という民主的要素が600年前に存在していた
  • 加賀一向一揆との違い:山城=地域的結合・8年間、加賀=宗教的結合・約100年。結合原理と期間の違いが試験頻出

もぐたろう
もぐたろう

以上、山城国一揆のまとめでした!一揆=暴動というイメージが少し変わったかな?「会議・選挙・法律で守護を追い出した」って、今の地方議会と比べても遜色ない仕組みだよね。下の記事で応仁の乱や関連する一揆もあわせて読んでみてください!

山城国一揆の年表
  • 1467年
    応仁の乱が勃発
  • 1477年
    応仁の乱が終結。畠山義就・政長の南山城での抗争は継続
  • 1485年
    山城国一揆が始まる(12月・石清水八幡宮での武装集会)
  • 1486年
    畠山両軍が南山城から退去。三十六人衆による惣国自治が開始
  • 1488年
    加賀一向一揆が起こる(加賀守護・富樫政親を滅ぼす)
  • 1493年
    明応の政変。細川政元が幕府権力掌握。幕府介入により山城国一揆の自治体制が解体
  • 以降
    戦国時代へ。各地で下克上が頻発し、群雄割拠の時代が始まる

📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「山城国一揆」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「明応の政変」(2026年5月確認)
コトバンク「山城国一揆」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「加賀一向一揆」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

スポンサーリンク
【大事なお知らせ】YouTube始めました!!

2024年2月、YouTubeチャンネル「まなれきドットコムちゃんねる」を開設しました。

まだ動画は少ないですが、学生や大人の学び直しに役立つ動画をたくさん増やしていくので、ぜひ下のアイコンからチャンネル登録、よろしくお願いいたします。

チャンネル登録する

この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

もぐたろうをフォローする
未分類