

今回は長島一向一揆について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!戦国最強と呼ばれた織田信長が、3度も跳ね返された伝説の戦い。戦国の宗教と政治を理解するのにピッタリだよ。
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
「信長は2万人もの人を無慈悲に虐殺した残虐な武将だ」—そんな評価を聞いたことがある人も多いと思います。
でも実は、信長がそこまでの選択をした背景には、3度にわたって跳ね返された屈辱と絶望がありました。長島は、戦国最強とも言われた信長でさえ「攻め落とせない」と思い知らされた、最強の牙城だったのです。
この記事では、長島一向一揆の全体像を「なぜ起きたか」「なぜ手こずったか」「どんな結末を迎えたか」の順でじっくり解き明かしていきます。
長島一向一揆とは?
長島一向一揆とは、1570年(元亀元年)から1574年(天正2年)にかけて、伊勢国長島(現在の三重県桑名市長島町)を拠点に起きた一向宗門徒たちの武装蜂起のことです。

戦いの相手は、天下統一を目指していた織田信長。蜂起の中心となったのは、長島にあった願証寺という浄土真宗(一向宗)の寺院と、その周辺に集まった門徒・国人衆でした。
信長は3度にわたって長島を攻めましたが、第一次・第二次は撤退を強いられ、3度目の第三次侵攻でようやく制圧に成功します。ただしその制圧の過程で、降伏した門徒を含む約2万人を殺害したと伝えられており、信長の宗教政策のなかでも特に苛烈なエピソードとして知られているのです。
① 1570〜1574年、伊勢長島で一向宗門徒が織田信長に対して蜂起した武装一揆
② 川に囲まれた「輪中」の地形を活かし、信長軍を3度にわたって撃退した戦国屈指の宗教武装集団
③ 第三次侵攻(1574年)で信長が約2万人を殺害して鎮圧。比叡山焼き討ちと並ぶ信長の宗教政策の転換点となった

そもそも「一向宗」って何なの?普通のお寺と何が違うんだろう?

一向宗っていうのは、鎌倉時代に親鸞が開いた浄土真宗のこと。「南無阿弥陀仏と唱えれば誰でも救われる」っていう教えで、農民や商人にすごく人気があったんだ。今でいうと、SNSで爆発的に広まった超巨大コミュニティみたいなもの。戦国時代になると、この門徒たちが武器を持って大名と戦うようになっていったんだよ!
つまり長島一向一揆は、単なる農民反乱ではなく、宗教ネットワークで結束した武装集団と、天下統一を目指す戦国大名との「思想と地政学のぶつかり合い」だったということです。まずは長島がどんな場所だったのかを地図で見ていきましょう。
長島はどこ? 輪中という地形の秘密
長島は、現在の三重県桑名市長島町にあたるエリアです。位置を一言で言うと、木曽川・揖斐川・長良川の三大河川が合流して伊勢湾に注ぐ、まさに「川の交差点」です。
地図で見るとよくわかりますが、長島は陸地というより川と海に囲まれた小さな島々の集合体。船がなければ近づくことすら難しく、攻め込もうとすれば必ず川を渡らなければなりません。これが、信長を3度も苦しめることになる地形的な秘密でした。

輪中とは、川に囲まれた低湿地で、洪水から集落や田畑を守るために周囲をぐるりと堤防で囲んだエリアのことを言います。木曽三川の下流域である濃尾平野の南部に多く見られ、長島もその代表的な輪中地帯のひとつでした。
普段は治水のための仕組みですが、戦国時代にはこれが「水上防壁」として機能。攻め手は川を渡らないと入れず、守り手は堤防の内側から弓・鉄砲で迎え撃てるため、少人数でも大軍に対抗できる難攻不落の地形になりました。

なんで3回も攻めてうまくいかなかったの?信長って戦の天才なのに……。

それはね、長島が”水に浮かぶ要塞”みたいな地形だったからなんだよ!攻める側は船を準備して川を渡らなきゃいけないし、渡ってる最中は弓矢の的。やっと上陸しても、堤防の上から鉄砲で撃たれる。さらに退路も水だから、いざとなったら逃げにくい。「橋のない島に大軍を送り込む」ようなもので、地形だけでハンデが大きすぎたんだ。
さらに長島には、一向宗門徒のなかでも武力で名を馳せた願証寺がありました。願証寺は1501年(文亀元年)に蓮如の六男・蓮淳によって創建されたとされ、伊勢・尾張・美濃にまたがる門徒組織の中核を担う有力寺院だったのです。
「水に守られた地形」と「組織化された武装門徒」。この2つが組み合わさったとき、長島は戦国の織田軍をも跳ね返す要塞へと姿を変えました。次は、なぜこの長島で蜂起が起きたのか、その歴史的背景を見ていきます。
なぜ長島一向一揆は起きたのか? 背景と石山合戦との関係
長島一向一揆を理解するうえで欠かせないのが、石山合戦との連動です。石山合戦とは、信長と石山本願寺(現在の大阪城の場所にあった一向宗の総本山)との間で1570年から10年にわたって続いた、戦国最大級の宗教戦争のことを言います。
石山本願寺の顕如(けんにょ)は、信長と対立するや全国の一向宗門徒に「決起せよ」と号令をかけました。これに呼応して各地で一斉に一揆が起こり、長島の願証寺もそのひとつとして1570年(元亀元年)に蜂起したのです。

背景①:石山本願寺との連動 — 顕如の檄文を受けて全国の一向宗が一斉蜂起。長島はその最前線になった。
背景②:信長の宗教勢力排除政策 — 武装した寺社勢力は天下統一の障害。比叡山焼き討ちと一連の流れで叩く必要があった。
もうひとつの大きな背景が、信長自身の宗教勢力排除の方針です。当時の有力寺社は、広大な荘園と武装した僧兵を持ち、自前の経済圏と軍隊を抱える「独立勢力」でした。これは、中央集権的な天下統一を目指す信長にとって絶対に放置できない存在だったのです。
1571年の比叡山焼き討ちは、この方針の象徴。長島一向一揆もまた、この「武装した宗教勢力をどう叩くか」という大テーマのなかに位置づけられる戦いでした。

石山合戦って、聞いたことはあるけど中身はちょっとあいまい……。要するにどういう戦いなのかしら?

石山合戦は、信長 vs 一向宗総本山(石山本願寺)の10年戦争!本願寺は今でいう”全国チェーン本部”みたいな存在で、各地の一向宗ネットワークに号令を出せる立場だったんだ。だから本願寺と対立した瞬間、信長は全国の一向宗を一斉に敵に回したことになる。長島はその最前線基地のひとつだったってことだよ!
蜂起の現場で指揮を執ったのは、本願寺から派遣された下間頼旦という人物だったとされています。下間氏は本願寺の家臣団のなかで武家事を取り仕切る家柄で、頼旦は長島での軍事指揮を担う「現地司令官」のような役割を果たしました。
こうして1570年、長島で蜂起の火の手が上がります。信長にとっての本格的な対決は、翌1571年の第一次侵攻から始まることになるのです。
第一次長島侵攻(1571年)— 信長、初の敗退

1571年(元亀2年)5月、信長はついに長島攻めに踏み切ります。動員した兵力は5万とも言われる大軍で、佐久間信盛・柴田勝家・氏家卜全といった織田軍団の主力をずらりと並べる本気の布陣でした。
しかし、結果は織田軍の惨敗。長島の輪中地形に阻まれて部隊は分断され、さらに退却の途中で一揆勢の追撃を受けて多くの将兵を失うことになります。なかでも美濃三人衆のひとり氏家卜全が討死したことは、織田家にとって大きな打撃でした。
さらにその前年、1570年11月には信長の弟・織田信興が長島勢の攻撃を受けて尾張・小木江城で自害に追い込まれていました。長島一向一揆は、まだ大規模な反攻を始める前から信長の身内を奪っていたのです。

……なぜ撤退せねばならんのか。弟まで失い、卜全までも討たれた。たかが一揆勢に、この信長が……(くぅ)。
戦国大名同士の合戦であれば、信長クラスの軍が動員されれば勝負はほぼ見えています。それが「ただの一揆」と侮っていた相手に弟と重臣を奪われ、撤退を余儀なくされた。第一次長島侵攻は、信長にとって屈辱と恐怖が混じり合った”想定外の敗戦”だったのです。
しかし信長は諦めませんでした。長島を放置すれば伊勢・美濃・尾張の輸送路が脅かされ、天下統一構想そのものが揺らぐためです。次に襲ってくる第二次侵攻は、それから2年後の1573年に再び始まります。
第二次長島侵攻(1573年)— 再び跳ね返される
1573年(天正元年)9月、信長は再び長島へと兵を向けます。このときの織田軍は、佐久間信盛・蜂屋頼隆・羽柴秀吉らを動員する大規模な編成でした。
ところがこの年、信長は同時に複数の戦線を抱えていました。北近江では浅井長政、越前では朝倉義景、そして同年4月までは甲斐の武田信玄も圧力をかけ続けていました。さらに大坂では石山本願寺。まさに四方を敵に囲まれた「信長包囲網」のただなかで、長島を後回しにできない急所として攻めざるを得なかったのです。

この時期の信長は、四方八方に敵がいた。浅井・朝倉、信玄が死ぬ直前まで武田も圧力をかけていて、本願寺……長島は後回しにしたくても後回しにできない急所だったんだよ!1573年の前半まで武田が西上作戦で動いていて、西から本願寺も動いて、その間にある長島を放置したら織田領を分断されちゃう。だから無理してでも兵を割いて攻めた、っていう苦しい事情があったんだ。
結果としてこの第二次侵攻も、決定打を欠いたまま撤退に終わります。一揆勢の頑強な抵抗に加え、退却中に多芸山付近で殿軍を務めた林新次郎(通政)らが討死し、織田軍は再び大きな損害を出してしまうのです。
これで信長は2度連続で長島攻略に失敗したことになります。しかし1573年のうちに、武田信玄が4月に病没し、8〜9月には浅井・朝倉も滅亡。包囲網がほどけ始めたことで、信長はようやく長島だけに集中できる状況を得つつありました。
そして1574年、信長はついに最後の手段に打って出ます。第三次長島侵攻、そしてその先に待っていたのは「2万人虐殺」と呼ばれる戦国でも類を見ない決着でした。
第三次長島侵攻(1574年)— 壊滅と2万人の虐殺
1574年(天正2年)7月、信長は3度目にして最後の長島侵攻に乗り出します。これまでの2度の苦戦を踏まえ、今度は戦い方そのものを根本から変えてきたのが特徴でした。

今度こそ根絶やしにしてやる。情けは無用だ。
信長がまず動かしたのは水軍です。九鬼嘉隆率いる伊勢志摩の水軍を中心に、織田・徳川連合の大船団で長島の周囲を完全に封鎖しました。これまで一揆勢の補給路となっていた水運を断つ作戦です。
陸からは佐久間信盛・柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀ら織田家の総力を挙げた大軍が長島の砦群を包囲。長島・篠橋・大鳥居・屋長島・中江といった主要拠点をひとつずつ潰していきました。
第三次の特徴①:水軍による完全封鎖 — 九鬼水軍を投入。海上補給路を断ち、長島を孤立させた。
第三次の特徴②:徹底した兵糧攻め — 力攻めではなく長期包囲。輪中の中で食料を尽きさせる戦術へ転換。
水陸を完全に断たれた長島では、輪中の内側で食料が底をつき始めます。包囲は数か月に及び、餓えと病で多くの門徒が命を落としていきました。ついに同年9月、一揆勢は降伏を申し出ますが、信長はこれを受け入れませんでした。

えっ、降伏したのに受け入れないって……。それってかなりキツくない?

そう、ものすごく厳しいんだ。信長の頭の中では「ここで生かして帰したら、また絶対に蜂起する」という判断があったんだよ。一向宗の門徒は信仰で結ばれていて、武装解除しても寺に戻ればまた組織化される。だから根絶やしにする以外の選択肢はない、という結論に達したんだろうね。今の感覚だと残虐に見えるけど、戦国の宗教戦争の論理では「降伏=次の蜂起の準備」と見られていたんだ。
降伏申し出を退けた信長は、長島・中江の砦に立て籠もる門徒たちを柵で囲い、火を放って焼き殺したと伝えられています。さらに脱出を試みた門徒は鉄砲と槍で討ち取られ、織田軍の記録(『信長公記』)によれば、その死者数は約2万人に及んだとされます。

「2万人虐殺」の数字はどこまで信頼できる?
「2万人」という具体的な数字は、信長の家臣・太田牛一が記した『信長公記』に基づくとされます。一次史料に近い記録ですが、戦国期の戦死者数は誇張されやすい傾向があり、研究者のなかには「実数はもう少し少なかったのでは」とする見解もあります。ただし、降伏者を含めて大量に殺害された事実そのものは複数の史料で裏付けられており、「戦国でも類を見ない大量殺戮」だったことは広く認められています。
こうして3度目の侵攻でついに長島は壊滅。願証寺は炎上し、伊勢長島の一向宗勢力は事実上、根絶やしにされました。一向宗の現地司令官だった下間頼旦もこの戦いで命を落としています。
この3次にわたる戦いが、信長の宗教政策に与えた影響は計り知れないものがありました。次の章では、長島制圧後の信長がどう動き、日本史にどんな転換点をもたらしたのかを見ていきます。
長島一向一揆の意義と信長の宗教政策への影響
長島の制圧は、信長の宗教政策における決定的な転換点でした。長島・比叡山・石山本願寺という3つの拠点を順に叩いた信長の動きは、戦国の宗教武装勢力に対する一連の作戦として理解できます。
信長の反宗教三部作 1571年:比叡山焼き討ち / 1574年:長島制圧 / 1580年:石山本願寺降伏

長島での殲滅は、織田信長が「降伏した宗教勢力をも容赦なく殺戮する」という覚悟を世に示した瞬間でもありました。これにより、信長と敵対していた石山本願寺は「全滅か降伏か」の二択を迫られ、戦況を一気に冷静に見直すことになります。
実際、長島の壊滅から6年後の1580年、石山本願寺は朝廷の仲介を受け入れて信長に降伏。10年戦争の幕が下ろされました。長島で示された「妥協なき殲滅」が、本願寺側に「これ以上戦えば長島と同じ運命をたどる」と認識させた効果は大きかったのです。

長島を制圧したことで、信長は何が変わったのかしら?

大きく変わったのは2つ!1つ目は、信長の反宗教政策が「決意の表明」から「実行段階」に入ったこと。長島で本気で殲滅したことで、本願寺含む全国の一向宗が「妥協しないと本気で全員殺される」と認識した。2つ目は、石山本願寺を孤立させたこと。長島・越前・加賀の門徒拠点が次々潰されたことで、本願寺は地方からの援軍が期待できなくなり、降伏に向かう流れができたんだ。長島はゴールじゃなくて、宗教勢力排除の本格スタートだったってことだね!
歴史的に見ると、長島一向一揆の鎮圧は武家による宗教勢力支配の確立を象徴する出来事でした。中世日本では寺社が独自の武力と経済圏を持ち、ときに大名と肩を並べる存在でしたが、長島と石山本願寺の制圧をもって、宗教勢力が「武家に従属する」時代へと移っていきます。
これは後の豊臣秀吉の刀狩、徳川家康の寺請制度・寺院法度といった「宗教を統治の枠組みに組み込む政策」へとつながる流れの起点でもあります。長島一向一揆は、戦国の一エピソードを超えて、近世日本の国家と宗教の関係を方向づける結節点だったのです。
もし第三次でも長島が陥落しなかったら、信長の天下統一はかなり遅れていたかもしれません。長島が抵抗を続けるかぎり伊勢・尾張・美濃の輸送路は不安定なままで、織田家は東西に兵を割けません。さらに石山本願寺は「長島が頑張っているから自分たちも戦える」と士気を維持できたはずで、降伏交渉は10年では終わらなかったかもしれません。長島の制圧は、信長が東への進出(武田攻め)と西への進出(毛利・本願寺)に踏み切る前提条件だった、と言えそうです。
よくある質問(FAQ)
長島一向一揆について、読者からよく寄せられる疑問をまとめました。
A. 1570年(元亀元年)に蜂起し、1574年(天正2年)の第三次侵攻で終結しました。約4年間にわたる戦いで、信長は3度の侵攻を経てようやく制圧に成功しています。
A. 現在の三重県桑名市長島町にあたる地域です。木曽川・長良川・揖斐川が合流する木曽三川の下流域で、戦国時代は輪中(わじゅう)と呼ばれる堤防で囲まれた水郷地帯でした。今も「ナガシマスパーランド」がある場所として知られています。
A. 大きく3つの理由があります。①輪中という水に囲まれた地形で大軍を展開できなかったこと、②一向宗門徒が「死ねば極楽浄土」という信仰で結束し、士気が異常に高かったこと、③信長が信長包囲網(浅井・朝倉・武田・本願寺)のなかで長島だけに集中できなかったことです。第三次でようやく水軍と兵糧攻めを使って制圧できました。
A. 「約2万人」は信長の家臣・太田牛一が記した『信長公記』の数字です。一次史料に近い記録ではあるものの、戦国期の戦死者数は誇張される傾向があり、研究者のなかには実数はやや少なかったとする見解もあります。ただし、降伏者を含む大量殺戮が行われた事実そのものは複数の史料で確認されており、戦国でも類を見ない規模であったことは間違いありません。
A. 場所が違います。長島一向一揆は伊勢長島(三重県)、石山合戦は大坂(大阪府)が舞台です。期間も長島が4年、石山が10年と異なります。結末も対照的で、長島は信長による殲滅で終わったのに対し、石山合戦は朝廷の仲介で本願寺が降伏する形で決着しました。両者は同時期に進行した姉妹のような戦いで、長島の壊滅が石山本願寺を降伏に追い込む大きな要因になりました。
まとめ:長島一向一揆から見えてくる信長の素顔
長島一向一揆は、教科書では「信長による2万人虐殺」とだけ語られがちです。しかし実際の姿はもっと複雑で、信長が3度も跳ね返された戦国最強の宗教武装勢力との生存競争でした。
「水に守られた要塞」と「信仰で結ばれた門徒」という2つの強みを持つ長島は、戦国の常識では落とせない場所だった。だからこそ信長は最終的に「殲滅」という極端な選択肢を取らざるを得ませんでした。それは残虐性の発露というより、宗教戦争という特殊なゲームのルール上、それ以外の終わらせ方が見つからなかったことの帰結でもあるのです。
- 1501年願証寺が長島に創建される(文亀元年)
- 1570年長島の一向宗門徒が蜂起。信長の弟・織田信興が小木江城で自害(元亀元年)
- 1571年第一次長島侵攻。信長軍が撃退され撤退。氏家卜全が討死(元亀2年)
- 1573年第二次長島侵攻。再び苦戦し撤退(天正元年)
- 1574年第三次長島侵攻。包囲・兵糧攻めで制圧。約2万人を虐殺し終結(天正2年)

以上、長島一向一揆のまとめでした!信長の宗教政策をもっと深掘りしたい人は、下の記事で石山合戦や比叡山焼き討ちについてもあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年4月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「長島一向一揆」(2026年4月確認)
コトバンク「長島一揆」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
太田牛一『信長公記』
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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