

今回は、田沼意次が政治の実権を握った田沼時代について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
田沼意次の政治(田沼時代)とは、安永元年(1772年)から天明6年(1786年)にかけて、老中・田沼意次が主導した幕政改革のことです。それまでの重農主義(年貢=米に頼る政策)から重商主義(商業の力を活用する政策)へと方針を大転換し、株仲間の奨励・蝦夷地開拓・南鐐二朱銀の発行などの先進的な政策を打ち出しました。
「賄賂政治家」として悪名高い田沼意次ですが、実は非常に先進的な政策を実行した改革者でもありました。今一度、その実像に迫ってみます!
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📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
田沼意次とは?〜足軽から老中への異例の大出世〜
■異例の大出世 〜足軽から老中へ〜

田沼意次は1719年(享保4年)、江戸の町で生まれました。
父の意行はもともと紀州藩の足軽でしたが、紀州藩主であった徳川吉宗が8代将軍になると、そのまま将軍に仕える旗本(※)となった人物です。
※旗本:将軍直属の家臣で石高1万石未満の者のこと。今でいう国家公務員のようなイメージだよ。
1734年(享保19年)には徳川家重の西丸小姓(※)に取り立てられました。家重の西丸小姓になった後、意次はここから驚くべき出世街道を歩み始めることになります。
※西丸小姓:西丸とは将軍の後継者が住む江戸城の建物のこと。小姓は偉い人の身の回りの世話をする役目で、今でいう社長秘書のようなものだね。
翌1735年(享保20年)に父の意行が亡くなると、旗本600石の家督を受け継ぎます。さらに1748年(寛延元年)には1400石を加増され、1755年(宝暦5年)にはさらに3000石を加増されるなど、着実に出世の階段を上っていきました。
出世の大きな転機となったのは宝暦8年(1758年)のこと。美濃国の郡上藩で起きた百姓一揆に関する裁判を任されたことで、5000石が加増され1万石の大名に取り立てられました。これは意次の政治手腕が評価された証でした。

1761年(宝暦11年)に家重が死去した後も、意次は第10代将軍徳川家治からも厚い信任を得て、明和4年(1767年)には側用人(※)に就任。
※側用人:今でいう将軍の秘書。将軍と老中などの連絡役を担っていた重要なポストだよ。
安永元年(1772年)には老中(※)となって政治の実権を握れる立場に立ち、相良藩5万7000石の大名にまで登り詰めました。
※老中:幕府の事実上の最高役職。(老中の上には「大老」もあるが、特別な時にしか置かれなかった)


わずか600石の旗本から5万7000石の大名にまで上り詰めるなんて、まさに大出世だね!
■人を惹きつける田沼意次の魅力 〜実はイケメンだった!?〜
この異例の出世には、意次の政治手腕はもちろん、人を惹きつける意次の人柄も大きく関係していた・・・と言われています。
意次は、特に大奥の女性たちにとても人気がありました。意次は、大奥に出入りしている女性を妾(今でいう愛人のような存在)にして、その妾を通じて、大奥に頻繁に贈り物を送っていたと言われています。大奥は男性厳禁なので、妾を通じて大奥と良好な関係を築こうとしたのです。

意次が大奥に人気があった理由の1つに、シンプルに意次がイケメンだったから・・・なんて話もあるんだよ。
もし意次が女性に気遣いのできるイケメンだったなら、大奥で大人気になるのも納得だよね。

さらに意次は、大名のみならず、諸藩から江戸に派遣されていた江戸留守居役と呼ばれる人々を積極的に自分の屋敷に招き、交流を続けました。
老中というのは、幕府の最高役職です。そんな実力者が、大名ではなく江戸留守居役と積極的な交流を持つことは、とても珍しいことでした。
家柄が決して良いとは言えない意次が異例の大出世を遂げた背景には、優れた政治手腕はもちろんですが、権力者のみならず権力者に近い人たちとも良好な関係を築いた意次の人間力も大きかったのだろうと言われています。
「田沼時代」の到来〜重農主義から重商主義への大転換〜
老中となった意次は、その優れた政治手腕を振るい、数々の幕政改革に着手します。
意次が老中として幕政改革を行った時期(1772年〜1786年)のことを、日本史では「田沼時代」と呼んでいます。

10代将軍徳川家治は意次を厚く信頼していたから、改革にはあまり口出ししなかったんだ。
なので意次も、思う存分その政治手腕を振るうことができたんだよ。
当時の幕政がどんな状況だったかというと、8代徳川吉宗による享保の改革を継続しているところでした。
享保の改革を簡単に説明すると、幕府の財政難を立て直すため、質素倹約、そして増税(税率UPや新田開発)を推進した改革でした。
享保の改革は効果バツグンで、確かに幕府の財政を立て直すことに成功しました・・・が、改革の副作用で、次は別の問題が浮上することになりました。
問題は大きく2つありました。
問題①:増税の結果、農民の生活が苦しくなり百姓一揆が増えた。

財政難だからと言って、民に重い負担を強いたままではいずれ幕府は崩壊するだろう。
私は、郡上藩の百姓一揆で裁判を担当して、重税に苦しむ様子を目の当たりにしてきたのだ。
問題②:新田開発や増税により米の供給量が増えて、米価格が下がってしまった。

米価格が下がると、何が問題なのかしら?
問題だったのは、幕府で働く武士たちのお給料を俸禄としてお米で支払っていたことでした。
米の価格が下がれば、武士たちが「お給料でもらった米」で買えるものが減ります。今でいうと、給料の額面は変わらないのに物価だけ上がっている状態に近いイメージです。

少し難しい経済用語でいうと、インフレーションが起きたってことだね。税収が増えてもその分米の価値が下がれば、実質的に幕府の収入は増えないから根本的な解決にはならなかったんだ。
徳川吉宗もこの問題を自覚していて、大阪にある堂島米市場の取引に介入して米価格を無理やり調整しようとしましたが、うまくいきませんでした。

田沼意次の改革内容一覧【5つの政策をわかりやすく解説】

年貢(米)にこだわっていては、幕政を立て直すことはできない・・・!
こう考えた意次は、米以外の収入源を確保するため、様々な政策を打ち出しました。これが「重農主義から重商主義への転換」と呼ばれるゆえんです。
田沼意次の改革(田沼の政治)とは、享保の改革が推し進めた重農主義(年貢・農業への依存)を転換し、重商主義(商業の力を活用した新たな税収確保)へと幕政を大きく切り替えた改革です。他の江戸三大改革がいずれも重農主義であったのに対し、田沼時代だけが唯一の重商主義という点が最大の特徴です。

教科書に載っている重要な政策は次の5つです。

それぞれ詳しく解説していくね!
■政策①:株仲間の奨励

株仲間というのは、同じ商売をしている同業者たちが集まって結成した組織のことを言います。今でいう業界団体のようなイメージです。
集まって何をしていたかと言うと、商品の販売数や価格をみんなで話し合って決めていたのです。今でいう談合ですね。

価格競争をすると儲けが少なくなって大変だから、争いなんてやめて話し合い(談合)で全て決めてしまおうぜww

株仲間は現代で言うと、カルテル(企業連合)に相当するよ。

株仲間は、実は徳川吉宗の時代にすでに幕府公認となっていました。米の価格に苦心していた徳川吉宗は、株仲間を公認して幕府の監視下に置くことで、世間に流通している商品価格をコントロールしようと考えたのです。
意次は、この株仲間から冥加・運上という2つの税金を徴収することにしました。
冥加:株仲間の許可料として幕府に支払う税金(今でいう営業許可の手数料)
運上:株仲間の売上の一部を幕府に払う税金(今でいう法人税のようなもの)
商人にとって株仲間の公認は、幕府の干渉を受けるデメリットがありましたが、商売を独占できる上に、グルになって販売量や価格を決めることができるなど、デメリット以上に大きなメリットがありました。その見返りとして、幕府は冥加・運上を株仲間に要求したというわけです。
株仲間が増えれば冥加・運上の税収も増えるので、田沼意次は株仲間のことを積極的に世に広め、新たな株仲間の結成を奨励しました。
■政策②:大規模な新田開発(印旛沼・手賀沼の干拓)
田沼意次は、徳川吉宗が行っていた金持ち町人をスポンサーにした新田開発を引き継ぎ、大規模な新田開発にも着手しました。
特に有名なのが、印旛沼・手賀沼の干拓工事です。
印旛沼・手賀沼は、関東最大の河川である利根川の流域に位置する巨大な沼地。川の近くに沼地があるということは、その場所の標高が低いことを意味しています。

・・・つまり、利根川が洪水を起こすと真っ先に水没してしまう水害多発地帯が印旛沼・手賀沼でした。
田沼意次は、印旛沼・手賀沼を干拓(※)して水害を防ぐと同時に、沼地を新しく田んぼにしてしまおう・・・という巨大プロジェクトにチャレンジしたのです。
※干拓:湿地帯の水を抜いて、新たに田畑にすること。今でいうインフラ整備の大型公共事業だね。

なぜそんな危険な場所にわざわざ田んぼを作ろうと思ったのかしら?

それは、日本は国土のほとんどが山地で、田んぼにできる平地が限られていたからだよ。
良い土地はすでに田んぼになっていたから、新しく田んぼを作ろうと思うと問題がある土地しか残っていなかったんだ。
・・・しかしながら、度重なる洪水が工事現場を襲い、この巨大プロジェクトは失敗に終わりました。
■政策③:蝦夷地開拓とロシア交易

田沼意次は、貿易によって得られる利益を財政難対策に充てようとも考えました。意次が特に目をつけていたのが、蝦夷地開拓とロシアとの交易です。

ロシアは寒冷の地であり、人々は食料を欲していると聞く。
蝦夷地を開拓して、そこで得られた農産物・海産物をロシアに売り捌けば大儲けできるのでは?
田沼意次は、仙台藩の藩医工藤平助がロシアによる日本侵略の危険性を訴えた「赤蝦夷風説考」の意見を取り入れ、蝦夷地の調査を行うことを決断。
1785年(天明5年)、最上徳内らの調査団を派遣して、蝦夷地の情勢やロシアの動向を調査しました。

・・・が、翌年の1786年に田沼意次が失脚してしまい、蝦夷地開拓・ロシア交易の話は自然消滅することになります。
田沼意次が失脚した6年後の1792年、実際に日本との交易を求めてロシアからラクスマンがやってきました。意次の先見の明が正しかったことが、後に証明されたのです。
■政策④:銅・俵物の輸出で外国から銀をゲットする
田沼意次は、長崎での貿易にも力を入れました。
これまで日本は、生糸などの輸入品を大量に仕入れて、その対価として金銀をオランダや中国(清)に支払っていました。

逆に日本から諸外国へ商品を売り込めば、銀貨・金貨を諸外国からゲットできて幕府の収益源になるのでは?
田沼意次は、外国に需要があった日本の銅や俵物(※)の輸出量を増やすことで、逆に外国から金銀を獲得して幕府の財源としました。
※俵物:中国(清)で人気のあった干し鮑・いりこ・フカヒレなどの海産物のこと。今でいう高級食材の輸出ビジネスだね。
■政策⑤:金貨・銀貨の両替制度改革(南鐐二朱銀)
当時、日本では西日本では銀貨が、東日本では金貨が使われていました。今でいうと、関東と関西で別々の通貨を使っているようなものです。
そのため、西日本・東日本を行き来すると銀貨⇆金貨の両替が必要となる上に、両替手続きはとても複雑なものでした。
なぜかと言うと、銀貨は重さで取引する通貨「秤量貨幣」なのに対して、金貨は貨幣の枚数で取引する通貨(計数貨幣)だったからです。
両替は銀貨○グラム=金貨○枚という形で行われますが、銀貨は一枚一枚重さが違ったため、両替するたびに銀貨の重さを計らなければならず、両替屋(両替商)に手数料を支払う必要がありました。

この両替のハードルの高さが、日本の経済活動を邪魔している。
もっと両替がスムーズになれば、商業取引が活性化して運上の税収ももっと増えるはず!
そこで田沼意次は、8枚で小判1枚と同等の価値で両替できる計数貨幣の銀貨「南鐐二朱銀」を発行しました。これなら両替の際にいちいち銀貨の重さを計る手間もありません。

南鐐二朱銀は銀の純度が非常に高い高品質な貨幣でした。これまでに例がないほど高品質だった南鐐二朱銀は、西日本の商人たちにも抵抗なく受け入れられ、少しずつ世に普及していくことになりました。

南鐐二朱銀の登場は、日本の通貨統一に向けた大きな一歩となったんだ。ちなみに、日本の貨幣制度が完全に統一されるのは、明治4年(1871年)の新貨条例を待たなければならないよ。
田沼時代の光と闇〜メリットとデメリット〜
5つの政策を見るとわかるように、田沼意次の政策は商業と深く結びついていました。田沼意次の改革にはメリットとデメリットの両面がありました。
【メリット】田沼時代の政策がもたらした良い影響
幕府と商人の結びつきが強まると、民間の経済活動が活発になり、その結果、田沼時代には学問・文化・芸術面で多様な発展が見られました。
文化面では、浮世絵や小説(洒落本・黄表紙)など、江戸の娯楽文化が大きく発展しました。
※洒落本は今でいうちょっとエッチな小説、黄表紙は今でいうマンガのようなものだよ。
田沼時代に名を馳せた人物には、浮世絵では喜多川歌麿、洒落本・黄表紙では山東京伝がいます。


学問面では、平賀源内によるエレキテルの発明や、杉田玄白らによる『解体新書』の出版など、蘭学を中心に大きな発展が見られました。田沼時代の積極的な海外交易が、こうした西洋知識の流入を後押ししたのです。


【デメリット】田沼時代の政策がもたらした悪い影響
一方、幕府と商人の結びつきが強くなったことで、役人と商人との間で賄賂が横行するようになり、政治の腐敗が進んだ・・・とも言われています。
田沼意次=賄賂政治家というイメージも、この幕府と商人との深い結びつきに由来しているものです。
📅 最終確認:2026年3月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
田沼意次=賄賂政治家は本当なのか? 実は今でもその評価ははっきりと定まっていません。
確かに商人たちと深い関係を持つからには、金品のやり取りはあったことでしょう。しかし、当時は田沼以外にも多くの役人が賄賂を受け取っていたことから、「田沼だけが悪人とされるのは言い過ぎではないか」という意見もあります。
田沼時代の革新的な政策には幕府内で反対意見も多かったため、田沼意次=賄賂というイメージは、反対勢力が悪評を広めるために流したものだ・・・とも言われています。
ただ、役人の賄賂を揶揄する次のような言葉が残されていることからも、民衆からのイメージは確かに「田沼=賄賂」だったようです。
・「役人の子はにぎにぎをよくおぼへ」(役人たちが手を握って賄賂をねだる様子を、子どもが真似しているという風刺)
田沼時代の終わり〜天明の大飢饉と失脚〜
1782年(天明2年)、田沼時代の終焉をもたらすことになる大きな事件が起こります。
・・・それが、天明の大飢饉です。
1782年から日本は冷害に見舞われ、さらに翌1783年(天明3年)には浅間山が大噴火したことも重なって、天明の大飢饉は1780年代後半まで続く大飢饉となりました。

さすがの田沼意次も、この大飢饉に対しては無力でした。東北地方を中心に農村では餓死者が続出し、江戸などの都会では米価格が大高騰したため、米を買えない人々が米問屋を次々と襲いました(打ちこわし)。
そして、対策を打ち出せない幕府に対して、民衆の不満は日に日に増すようになります。

田沼は、金持ち商人のことばかり気にして、俺たちのことなんか気にもかけていない。
きっと今も商人たちから賄賂をもらって、私腹を肥やしているに違いない!
1784年(天明4年)、さらなる事件が起こります。田沼意次の子である田沼意知が、江戸城内で佐野政言という旗本に刺殺される事件が起こったのです。
犯行動機は私怨によるもの(意知が貸した物を返してくれない・賄賂を贈ったのに役職をくれない)だったようです。
それでも、飢饉に苦しみ田沼意次に不満を持っていた民衆たちは、佐野政言のことを「世直し大明神」と、まるで正義のヒーローかのようにもてはやしました。
批判の声が高まり、苦しい立場に立たされた意次は、その後もなんとか政権を握り続けたものの、後ろ盾になってくれていた10代将軍の徳川家治が1786年(天明6年)に亡くなると、田沼意次も失脚。
田沼時代に行われた政策もその多くが中止となり、田沼時代は終わりを迎えました。
11代将軍の徳川家斉の時代になると、田沼意次に代わって新たに老中に抜擢された松平定信が政策を担うようになり、田沼時代の弊害を克服しようと寛政の改革を断行することになります。


失脚後も田沼意次は、2万石の所領と大阪・江戸にある屋敷の没収、さらには相良藩の城の破壊など過酷な処分を受け、失脚から2年後の1788年(天明8年)、失意の中、70歳でその生涯に幕を閉じました。

新しく政治の実権を握った松平定信が、低い身分から成り上がった田沼意次を政敵と見なしていたため、失脚後の処分が過酷になった・・・と言われているよ。
テストに出る!田沼意次の政治の重要ポイント

ここでは、中学・高校のテストでよく出るポイントをまとめておくよ!
【テストでよく出る比較問題】享保の改革(徳川吉宗)・田沼時代(田沼意次)・寛政の改革(松平定信)・天保の改革(水野忠邦)は、それぞれの違いを比較する問題が頻出です。特に「田沼時代だけが重商主義」という点は必ず押さえておこう!
■江戸の4大改革を比べよう【重農主義vs重商主義】
「これまでの政策と比べて、田沼時代の政策にはどのような特徴があるか?」という問いは、テストで頻出の比較問題です。ポイントは田沼時代だけが「重商主義」であること!
| 改革名 | 担当者 | 時期 | 経済政策の重点 | 主な政策 |
|---|---|---|---|---|
| 享保の改革 | 徳川吉宗 | 1716年〜 | 重農主義 | 新田開発・倹約令・上米制・公事方御定書 |
| 田沼時代 | 田沼意次 | 1772〜1786年 | 重商主義★唯一 | 株仲間奨励・冥加・運上・南鐐二朱銀 |
| 寛政の改革 | 松平定信 | 1787〜1793年 | 重農主義 | 倹約令・囲米・棄捐令・寛政異学の禁 |
| 天保の改革 | 水野忠邦 | 1841〜1843年 | 重農主義 | 倹約令・株仲間解散・人返しの法 |

4つの改革を並べてみると、田沼時代だけが異色の重商主義だってよくわかるね。吉宗・定信・忠邦はみんな「質素倹約・農業重視」なのに、意次だけが「商業・貿易で稼ごう!」という発想だったんだ。
田沼意次をもっと知りたい人へ【おすすめ本】

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田沼意次の政治(田沼時代)まとめ
田沼意次は、その実力で低い身分から老中にまで成り上がり、「年貢にこだわっていては幕府は立て直せない」と見るや、これまでにない斬新な改革を次々と打ち出しました。
その改革は「国内経済を活性化させて外貨も稼げば、幕府財政も立て直せる」という、どちらかといえば現代の資本主義に近い考え方であり、田沼意次の改革は時代を先取りしていた・・・という指摘もあります。
しかし、田沼時代に天明の大飢饉が起こったことや賄賂政治への批判から、意次は失脚に追い込まれました。田沼時代の幕府財政が好転しなかった背景には、天明の大飢饉をはじめとする天災が集中した不運もあったと言われています。

以上、田沼意次の政治(田沼時代)のまとめでした!下の記事で享保の改革・寛政の改革・天保の改革もあわせて読んでみてね!
最後に、田沼意次の生涯を年表でまとめておきます。
- 1719年意次、江戸で生まれる
- 1734年徳川家重の西丸小姓となる
- 1735年父が亡くなり、600石の家督を受け継ぐ
- 1758年郡上一揆裁判を担当、1万石の大名に
- 1767年側用人に就任
- 1772年老中に就任、幕政の実権を握る【田沼時代のスタート】
南鐐二朱銀の発行、株仲間の奨励
- 1782年天明の大飢饉が起こる(〜1780年代後半)
冷害・浅間山噴火が重なり大飢饉へ
- 1785年最上徳内を蝦夷地へ派遣。印旛沼・手賀沼の干拓工事開始
- 1784年息子の田沼意知が佐野政言に殺される
- 1786年10代将軍徳川家治が亡くなる。田沼意次が失脚
- 1788年田沼意次、70歳で死去
よくある質問(FAQ)
田沼意次は、江戸時代中期の老中です。足軽の子として生まれながら老中にまで出世し、1772年〜1786年の「田沼時代」に重農主義から重商主義への転換を主導しました。株仲間の奨励、蝦夷地調査、南鐐二朱銀の発行など、先進的な改革を行った人物です。
田沼意次が老中に就任した安永元年(1772年)から、失脚した天明6年(1786年)までの約14年間です。この期間を「田沼時代」と呼びます。
主な原因は3つです。①天明の大飢饉(1782年〜)への対応不足で民衆の不満が爆発、②息子の田沼意知が1784年に江戸城内で殺害される事件、③後ろ盾だった10代将軍徳川家治が1786年に死去したことで政治基盤を失いました。
実は評価が分かれています。当時は賄賂が一般的で田沼だけが特別だったわけではありません。「賄賂政治家」のイメージは、田沼の改革に反対する勢力が広めたものだという説もあります。近年の研究では、先進的な改革者としての再評価が進んでいます。
【メリット】商業が活発になり、浮世絵・洒落本・蘭学など学問・文化が大発展しました。通貨制度の改革も進みました。【デメリット】幕府と商人の癒着が進み賄賂が横行したこと、結果的に幕府財政の改善には至らなかったことです。
株仲間とは、同じ商売をしている同業者たちが結成した組織で、今でいうカルテル(企業連合)や業界団体に近い存在です。田沼意次はこの株仲間を積極的に奨励し、冥加(許可料)・運上(売上税)という税金を徴収して幕府の新たな収入源としました。
田沼時代の最大の特徴は、江戸の三大改革(享保・寛政・天保)がすべて重農主義であったのに対し、田沼時代だけが唯一の重商主義であることです。享保の改革(徳川吉宗)・寛政の改革(松平定信)・天保の改革(水野忠邦)は「質素倹約+農業・年貢の強化」という路線をとりましたが、田沼意次は「商業・貿易を活用して新たな税収を確保する」という発想で幕政改革に臨みました。株仲間への冥加・運上徴収、長崎貿易の強化、南鐐二朱銀による通貨改革など、商業経済を積極的に政策に活かした点が特徴です。
Wikipedia日本語版「田沼意次」「南鐐二朱銀」「天明の大飢饉」「新貨条例」
コトバンク「田沼意次」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「株仲間」「冥加」「運上」(デジタル大辞泉)
山川出版社『詳説日本史B』
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